新しいページについて 

これまで育児日記を主体としてきましたので、自分自身の状態についてはお茶を濁してきました。
今回、子離れの時期も迎え、自身の新しいステージに入ったこともあり、これまでは書けなかったことを書いてみようと思います。

もしかしたらご不快になる方がいらっしゃるかと不安になる反面、何かのヒントを読み取って下さる方もおられるのではないかという期待から、なるべく素直に正直に、自分の感じてきたことを書いてみたいと思います。

基本的には日記に書いたことの中から関連のある記載をまとめてあるだけですので、特に興味を持って追って読んでみたい、という方のために特集記事めいた格好にしてありますtが、内容はすでに書かれたものと同じです。
まとめて読めるところだけが取り柄だと思ってください。

これまで同様、どうぞよろしくお願いいたします。

年頭のご挨拶

あけましておめでとうございます。

平成が終わりナニヤラが始まるこの年、還暦を迎えるめでたい年女でございます。
生まれて初めて同学年の天皇を戴くことになり、これまでの天皇は全員おじいさんとかおじさんだったわけで、さていったいどうやって崇敬して行こうかと悩む今日この頃。
親にコツを聞いておくべきだった?墓に布団は着せられぬ。ちがうか。

何度も言うけど年女なわけで、これまでの60年に思いを馳せ、来し方行く末をあれこれ考え、半ばはとうに越えた人生の残量の過ごし方を思案せよと赤いちゃんちゃんこを贈られる年齢。
90過ぎたら次の計画を考えると豪語する上の世代の方々から、
「今の若い人たちは私たちと違って子供の頃からの栄養もいいし、医学も進歩しているから、きっともっと長生きできるわよ」と激励されたりする、悩める世代。

すみません、長生きしたくないんです。(私だけかもしれないけど)
「孫を育てる生き物は人間だけ」とやや乱暴にくくって先輩が言ってた。もっともだ。
それだって充分長生きなのに、ひ孫やその先まで見たくない。
「年金からひ孫の結婚式のご祝儀出してあげようかしらん」とか考えたくない。

早熟な子供の常で夭折に憧れていて、30を迎えた時には愕然としたものだった。(皆さんも覚えのある境地なのでは?)
それに80の声を聴く者が超レアな早死にの家系なので、70過ぎの人生を考えたことがなかった。
実際、両親は70代で病没し、短命一族の伝説を盛り上げている。
心臓と血管をメンテしてサイボーグになったこともあり、もしかして私は80代まで生きるかも?とぼんやりと考えるようになってきた。
年金崩壊。貯金しなくっちゃ。
重度障害者の娘とハーフニートの息子は全然あてにしたこともない。

ああ、なんて縁起の悪い年頭の辞。
年末に遊びすぎて持病の鬱をこじらせ、断薬したはずの睡眠薬に再び頼り、「やっぱりこのぼんやりは心地いい〜、また抗不安薬ももらおうかしらん〜」とか考えながらうとうとしてる。
自殺した友人が真面目な顔で手招きする年明け。

1週間お休みをいただいて、新年からの日記は来週更新します。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

19年1月1日

謹賀新年。
今年は年始の挨拶も初詣もすっ飛ばしたので、平和裏に9時頃に1日が始まった。

前の晩は「紅白歌合戦」が終わると同時に禁断の「日清ラ王」を半分こした年越しハーフラーメンを作り、名刹の除夜の鐘中継を聞きながら新年を迎えるとそのまま「生さだ」に移行、という年またぎだった。

いやあ、DA PUMPの「USA」、いいなぁ!
30日のレコ大から、何回片足上げて踊り狂ったかわからない。
大内くんが大掃除でワックスかけてピカピカにしてくれたフローリングが滑るもんだから、もうちょっとで、「USA踊っててすっ転び、年末の救急車に乗った全国13人の急患(想像)」の1人になるところだった。

サザンとユーミンが巻き起こす歌の渦の中で終わった紅白のラストも良かった!
北島三郎はノリが悪いなぁ、桑田圭祐が「いま何時?」ってマイク突きつけてんだから、「そうね、だ〜いた〜いね〜!」って返さなきゃダメじゃん。
「胸騒ぎの〜腰つき〜」ってにじり寄られて腰をスゥイングさせるユーミンはさすがだ。
桑田が小さくつぶやいた「恋人がサンタクロース」は聞き取れたかな、1986年と87年にやってた「Merry X'mas Show」を観る幸運に恵まれた、全国800万人(推定←ウソ)の音楽ファンの皆さん。

昼に年始に来るはずの息子から10時ごろ電話が入った。
「おばちゃんとこにはもう行った?オレも今から行こうと思うんだけど」
我々が毎年お年始に行っているおうちに、子供の頃から世話になっている彼も行く気になったらしい。
いいことだ。

「母さんたちは年末にもう行ったから、あなただけでも行っとくといいよ。カノジョも一緒?」
「うん」
あいかわらず能天気なヤツだ。
彼女ができるとすぐにあちこちに紹介したがる、ある意味フランクっつーか、大らかな人だ。
私も中学の頃からそうだったなぁ。
けっこう親からはひんしゅくを買ったのに、認めてもらいたい願望から意固地に紹介し続けていた。
息子とはずいぶん動機が違う気がする。

そんなわけで約束通り13時に2人がやって来たので、今年はなんだか幸先がいい。
お雑煮を食べ、タンドリーチキンやローストビーフ、おでんなどの無国籍料理でもてなした。
もっとも、息子はおばちゃんちでたっぷりご馳走をいただいてきたらしくてあまり食べず、カノジョの方もご馳走攻めにあったのだろうに、果敢にお雑煮のお餅を「2つお願いします」とリクエストしていた。
その意気や良し。

おばちゃんが持たせてくれた黒豆も食卓に並べて、楽しく過ごした。
息子は、1週間後にはアパートを引き払うそうで、てっきり彼女のアパートに転がり込むんだと思っていたら、向こうのお母さんから「待った」がかかったらしい。
そりゃそうだよねぇ、近々バイトすらやめる予定でふらついてるカレシが転がり込んできての同棲なんて、まともな母親だったら反対するだろう。
感心するのは、つきあうこと自体には何の口出しもないのだそうだ。
理性的なお母さんだなぁ。

息子はあいかわらず妙に威張っていて、
「オレはちゃんと論理的に話したんだけど、理解されないんだよねぇ」とうそぶく。
なまじ言葉遣いとかていねいで慇懃無礼なだけに、私が聞いてても腹が立つわ。
「ご心配でしょうけれども、きっときちんと生活を立て、協力して誠実な暮らしをします」と一生懸命に頭を下げる場面だろうに、まだ何も形にしてないコント論をぶってもねぇ・・・

まあ、並んでお雑煮を食べている2人は互いを大事に思っているカワイイカップルだったよ。
我々には態度の良くない息子も、彼女に何かを説明する時には優しい声で穏やかに話す。
「この人(息子)はけっこう高飛車で横暴でしょう」とカノジョに聞いたら、少しきょとんとして、
「えー、高飛車ですかぁ・・・?全然そんなことはないですよ・・・」と困惑していた。
うん、カノジョに優しくしてあげてればいいよ。

アパートを引き払ってしまうので、当面住むところがないらしい。
「家に戻って来るとか、言うなよ!!?」と身構えていたら、先輩が仕事場に使っているアトリエの隅に間借りするらしい。
それもまた青春だ。
もう1週間もすれば引っ越しなのに、「住所はどこになるの?」との問いに帰ってきた答えは、「さあ。知らない」。
若者は、面白いなぁ。

今、息子は「インプロ」と呼ばれる即興的なコントに夢中になっている。
サンフランシスコとニューヨークの両方で学校に通ったのだそうで、もともと目指していた「演劇性の強いコント」に通じるものがあるのだそうだ。
日本にもすでにワークショップがあったり吉本が手掛けたりはしているが、まだまだ新しいジャンルなので、面白いことができるかもしれない。
仲間を集めて練習会を開いたりして啓蒙活動をしているところだって。

カノジョを指差して、
「この人にもちょっとエチュードをやってみない?って勧めるんだけど、恥ずかしがっちゃって。簡単にできるゲーム的なものもあるんだけどね」と言うので、
「はいはいはいっ、母さん、それやりたい!教えて!」と手を上げたら、息子は苦笑いしてカノジョに、
「ほらね、オレの母さんって、ホントにオレに似てるんだよ。好奇心が旺盛でね」と言いながら、やり方を教えてくれた。

2人で交互に「1、2.3」とカウントして行くだけなんだが、「3」は言っちゃいけない。
私が「1」と言ったら息子が「2」と返し、そしたら私は「3」と言わずに無言。
そのまま次は息子が「1」と言って・・・の繰り返し。

これはまあそれほど難しくないけど、次に、「1」の時は数字を言う代わりに指を鳴らす。「パチン」
「2」はこれまでどおり数字を言って、「3」では無言。少し難しくなってきた。
「赤上げて、白下げて、赤上げないで、白上げて」みたいな感じだね。

「もっとみんなでやる面白いのもあるんだけど」と言われて、もちろん私は大乗り気。
大内くんも「面白そうだね、やろうやろう」と喜ぶので、息子はますますおかしそうに笑って、
「ホントにオレの両親だよねー」と言っていた。
それって、親としては勲章だよ。
「親にだけは似たくない」って言われないで済むのは、ここまでの人生の勝者だからね。

リレーストーリーを作るゲームで、英語だとワンワードでつなぐらしいけど、日本語だから一文でいいって。

大内くんが話をぶちこわす傾向があるのを指して、息子が「オヤジは、ヘタ。人と協力して話を作るって作業ができない。異常な方へ持ってけばいいと思ってるでしょ!」と喝破する一幕もあり、まことに人格も性格も出る恐るべきゲームだと思った。
合コンで、王様ゲームなんかやるよりもこれやった方が、どの人をお持ち帰りすべきかが一目瞭然になると感じ入ったよ。

とても楽しい話をたくさんして、息子はアメリカに行く前とは人変わったようにほがらかで愛想が良く、私にもとても優しかった。
帰りがけに玄関先で「今日はハグはないの?」と両手を広げたら、カノジョがいるから恥ずかしかったのか、
「また今度ね」といったんはドアの向こうに消えたのに、次の瞬間ドアをバタンと開いて、「ウソだよ〜ん!」とビッグハグをしてくれた。
「握手でいいよ」と腰が引けてた大内くんにも、ついでに「はぐはぐ」。

口々にお礼を言って2人が帰ったあとは寂しかった。
この寂しさこそが、手元に置いて育ててきた子供を手放す儀式にもれなくついてくる感傷なんだろう。
健康に育て、人の愛を教え、他人に心が震えることを知る日まで面倒みた。
ここらで終わろう。
あとは、ある時期に深くかかわった者として、彼らの幸福を祈ろう。

19年1月2日

友人女性2人を招いて、毎年恒例「小さな新年会」。
KちゃんとMちゃんは同じ高校出身で、中学時代から成績優秀だったのにマンガの方向へひゅーっと飛んでいった変わり種だ。
1人はマンガ家になり、もう1人はデザイン関係の仕事をしたり翻訳をしたり工業デザインの仕事をしたり、まあそれぞれ。
ほぼ毎年我が家のリビングで「小さな新年会」を楽しんでくれる。
大内くんが料理を作ってホスト役に徹するので、やや落ち着かないかな。

いつも、親しい方のKちゃんを時間差で先に呼ぶ。
2、3時間おしゃべりをしていると、Mちゃんもやってきて、10時ぐらいまで飲んで食べて憂さを忘れるという正統派の忘年会。
大内くんもいるので完全女子会とは行かないが、私があまり女子会に向いたウェットな性格でないところに、大内くんは実は女子力の高いニュータイプなので、当面うまく行ってる。

しかし、元々遅刻魔のKちゃんは、いかん。
私としては早くからおしゃべりを楽しみたかったので「1時に来てよ。Mちゃんには4時に来るようお願いしておいたから」と頼むと、
「えー、1時はちょっと早すぎるわ―」との答え。
じゃあってんで、2時ならどう?と聞いたら、2時ならなんとかだそうで。

例年の如く、彼女が来たのは2時半をまわった頃だった。
2時に「今、駅に着いた。これから歩いて行きます」とメッセージが来て、うちまでは徒歩30分以上かかるので、こういう場合はバスか、人によってはタクシーに飛び乗るんじゃあるまいか。
現れた本人にも聞いてみたよ、「なんでタクシーとか乗らなかったの?」と。答えは、
「ここに来る時は、ゆっくり散歩するって決めてるから。気持ちいい道なんだもん」。
だったら、もう30分早く出てくれ〜!

彼女の遅刻を厳しくとがめたのは何年ぶりかで、今思うとすでにこっち側の不調がにじみ出ていたのかもしれん。
彼女は「決まったとおりのことをすると思うだけで気が重くなり、出来ればアドリブで楽しく切り抜けたいタイプ」、そして私は、決まった時間に決まったことが起こることが心の平安の大元なのだ。
運命の女神の呪いを受けた、不幸な出会いと言えよう。

そのあともう1人のゲストMちゃんが来ての新年会はとても楽しかった。
酔っ払った男どもが下ネタ炸裂させてるのもキライじゃないが、やはり楽しげに笑いさざめく同性ほど心和む眺めはない。
「私たち、もう40年ぐらい知り合いなのよね〜」「ほんとだ〜」と盛り上がっていた。

おひらきになり、酒を飲まずにいた私が車を出して2人を家まで送ろうと申し出たら、喜んでくれたが、遅刻友人Kちゃんの方は、
「え?送ってもらっていいの?てっきり居残りでお説教かと・・・」と笑み崩れていた。
カワイイじゃないか!
大内くんも手伝って慰留し始めたので、めでたくその夜は彼女が泊まって行って、ひと晩みっちりお説教したのでした。(ウソ。さらにワインを1本あけてらちもない話をしただけ。いやー、でも、楽しかったなー)

自分が、他の人とは距離感が大いに違う、と一番感じるのはこの友人と話している時だ。
お互い、「友達」とくくってもどこからも文句は出ないようなつきあいをよくも何十年も続けているなぁと時々不思議にはなるが、私から見ればこれほど変わった人が社会生活を営み、あまつさえフリーとは言え仕事もしていることを思うと、人間の潜在能力の果てしなさにひざまずきたいほどの畏敬を感じる。
きっと向こうも私のことを、「あれでよく生きてるなぁ」と首を振り振り眺めているに違いない。
人間って、千差万別ですね。みんなちがって、みんないい。

19年1月3日

お正月休みの最終日は、友人宅を訪問。
お子さんが4人も駆け回ってる関係で、にぎやかで勢いあふれた新年を味わうことができた。
糖質制限中の我々のために牛・豚・鶏すべてを調理して「肉にくパーティー」をひらいてくれて、ありがたい。
我々も、1人女王様のSちゃんには、おみやげに持って行ったクッキーのうち、宝石のようなジャムで飾られた美しくも美味しいクッキーの別箱を特別に献上する。

楽しい楽しいパーティーになるはずだったのに、大内くんったら、
「車を停めてきたところが心配だから、見てくる」と言って途中でで行ったきり、適宜連絡は寄こすものの、「結局、満足の行く場所に停めて戻ってきた」のは1時間以上たってから。

ホストたちは大内くんが戻るまでメインの料理も作れず、でも子供たちには先に食べさせたいしで、ちょっと困惑しながら大奮闘してた。

やっと戻ってきたので開口一番「どれだけ時間がかかったと思ってるの?!1時間だよ!」と叱りつけると、驚いた顔で、
「?もう1時間もたってた?30分ぐらいじゃない?」」とのたもうた。
「1時間だよ!みんな、心配するじゃない。もっと臨機応変にやらなきゃダメだよ。鼎の軽重をわきまえてよ。今日の主眼は楽しく訪問することで、車を停めることじゃないでしょう!TPOがなってない。自分は一生懸命やってるつもりでさわやかかもしれないけど、周りが胸を傷めるから、1人苦労ほどほどに!もうちょっと行くと、それは『スタンドプレー』ってやつだよ」と説教してしまった。

大内くんは、自分の犠牲で皆が楽しくやれるなら、と考える滅私奉公の美しい心を持っている。それは確か。
ただ、「オレがやらなきゃ、誰がやる!」とにわかに殉教者の衣をまとってうっとりする傾向も否めない。

大学時代、伊豆の民宿にみんなで泊まりに行った。
夜も更けて、酒も入り、男女入り乱れてなんだかとっても楽しくなってたところへ、隣の部屋の酔っ払いのおっさんが乱入してきた。
かなり酔っていて呂律も回らず、何が言いたいのかがすでに判別不可能。しきりに一升瓶を勧めながらわけのわからない議論を吹っかけてくる様子。目は坐っているし、暴力をふるいそうな気配もある。

宿の人に知らせに行ったが、あいにく留守だった。
女性たちもいたことだし、ここはひとつ、避難も兼ねて皆で海辺に散歩しに行くことにして、酔っ払いおじさんを宿に残して行こう、とひそかに話がまとまった。
みんなでサンダルを履いて民宿の外へ出たら、1人足りない。
「どうせ、あの野郎だ〜!」と怒りに燃えて補足に走ったら、果せるかな大内くんだけは、おじさんの部屋で酒を酌み交わし始めている。

怒りを抑えて、「大内くんも、海を見に行こうよ。綺麗だよ」と声をかけたが、彼は酒に酔っているのと、誰も相手をしてあげない気の毒なおじさんと酒を酌み交わして魂の会話をする、というロマンに完全にダブルで酔っているようだった。

「何かあぶないことがあったら宿の人の責任にもなるし、あなたに万が一のことがあったら、あなたを残して逃げ出してしまった他の人たちにも辛い思いをさせるでしょう。こうしている間にも、あなたのことを心配して、遊ぶに遊べない状態なんだよ。一緒に、みんなのところに戻ろう」と手を取って連れ出そうとしたが、
「いや、僕は僕のしてることはわかってる。話を聞いてあげさえしたら暴れたりしないでおだやかに話せる人だよ。落ち着いたらみんなのとこに戻るから」と聞かない。

結局誰もけがやいやな思いをこうむったわけではないが、自分1人が犠牲になって他の人を助ける、という英雄的行為に酔ってる大内くんが、その時の私にはとても嫌だった。
誰かが残らなければならない状況なら別だろうが、全員で海辺へ出て花火もして、おじさんが酔いつぶれるなり宿の人が何とかしてくれるのを待てば、それで良かったはず。
なんでわざわざ人身御供になるのかねぇ。

とまあ、長くなったけど今回のこともそれに似ている。
「こんなに頑張ったオレに逆ギレするなんて、ひどくない?」とさらに逆ギレするのもいや。
心配したあげくに逆ギレされるのって、不幸だよ〜

いつものように帰りの車の中は修羅場になった。
いろんな解決案が出た(もちろんほとんどは私からである)中で、「息子に相談してみよう」が大内くん的にもヒットしたらしい。

大「もしもし、父さんだけど、また母さんとケンカしちゃったんだよ。かくかくしかじかでね」
息子「あー、それはオヤジが悪いわ。誠心誠意、謝るしかないんじゃない?」
大「もう謝ってるんだけど、許してもらえないんだ」
息子「そうは言っても、謝り続けるしかないでしょう。どう考えてもオヤジが悪いんだから」
大「なんか、手伝ってもらえない?」
息子「んー、じゃあ、あとで母さんあてに何か書いて送っとくわ」
大「お願い。いつもいつもすまないねぇ」

息子にも大内くんが悪い!と喝破されたことで少し溜飲が下がって家へ帰ったら(そうです、それまで、帰り道の路肩に車を停めて車内痴話ゲンカしてたのです)、息子からメッセージが。長文だ。

「お父さんは僕と似て自分勝手なところが多々あると思います。自分の世界というか、閉鎖空間に生きてきた時間が長いので、他人を慮るという機能が半ば抜け落ちた、ロボット以上、人間未満、のような愛すべき人です。(中略)人間はどこまでいっても人間同士で支え合う必要があり、その上で「相手の気持ちを想定する」というのは必須の機能のようです。僕はそう感じています。(中略)まあ、お父さんは現在、今日の自分の非道なレスポンスを反省しているようですので、許してくれると嬉しいです。ただ、この文章はあくまで助力ですので、お父さんの口からこの件に関しての総括をしっかりと聞いたうえで、「許す」「許さない」はお母さんがジャッジを下してください。それではまたお会いしましょう」

あまりの名文に感動したので、つい、「父さんは逆ギレするからイヤだ」と愚痴をこぼしたところ、

「どんなに自立できてなくても、逆ギレはしなくなったかもなぁ、僕は」という返事が来た。
「自立していないこと」を巧みに既成事実化した腕前を読んで2人して大笑いしてしまい、ケンカはなしくずしに仲直りした状態になった。
そこまでを見越しての捨て身の作戦なら、大したものだ。

しかし、大笑いしたからと言って、長年積もり積もった「何度言ってもわかってもらえない」ストレスは消えなかった。
この晩から、1年半薬なしで元気に過ごしてきた反動が一気に吹き出し、ある意味、前以上に重いうつの症状が出てしまい、正月明けでもやっている病院を探して急遽薬をもらいに行く羽目になった。

そしてもらった薬は強く、眠気と多幸感にうとうとしながら新年を過ごしている。

19年1月4日

遊びすぎたか何かのストレスが決壊したか、この1年半抑え込んできた持病のうつが再発した。
夜中に突然、「もう生きていられない」と号泣し始めたのに驚いた大内くんは、三が日が明けたばかりだというのにやっているクリニックを探し出して来てくれた。
その結果、今、抗不安薬をのんでじっと丸まっている。

派手な断薬をして袂を分かった元の医者は敷居が高く、そうでなくても5分だけ話をして毎回増えていく一方の薬に疑問を持っていたので、今回は別のクリニックを選んだ。
20年前とはずいぶん様変わりし、気軽に訪ねられそうな洒落た医院が増えていた。
心療内科のドアを出てくると駅前の雑踏、というのはなんとなくいただけない。
恥じるわけではないが、何かと心がナイーヴになってる時なんだから。

マンションの1室のような、しかしまったく閉鎖的でない明るい雰囲気の部屋で会ったドクターは、私の訴えを聞いて、
「死んじゃったら、大変だからね、人間、生きてなくっちゃしょうがない」と親切に言ってくれた。
滂沱と泣きながら
「いや、死ぬのは全然かまわないんですけど、やっぱり自殺は少し怖くて。主人や子供も驚くでしょうし、なるべく回避したいところです」と説明する患者は、いったいどう見えただろうか。

幻覚や妄想、深刻な肉体的不調を伴う離脱症状に悩まされながらやっとの思いで断薬したのに、結局戻ってしまった。
この1年半、つらくてももうあの生活には戻るまいと歯をくいしばって耐えてきたのは何のためだったのか。
かなりの挫折感に襲われている。

でも、ゾンビの群れに襲われて、人間最後の砦を死守してきたつもりが、ついに襲撃に屈してゾンビ化してみたら、
「な〜んだ、ゾンビってあんがい楽じゃん。あんなに抵抗しないでもっと早くゾンビ化すればよかったかなぁ」とあっけにとられているような感覚もアリ。

10年ほど前に主治医の引退に伴って転院した時に、20年の歩みを記録した紹介状を書いてくれた。
ところが、古風な精神科医である主治医の書いたそれは、手書きの字が読みにくくて、ずっと話し合ってきて内容を十分承知している私ですら「え?なんて書いてあるの?」と首をかしげるような書類であった。

果せるかな、紹介状を受け取った次の先生は「えー・・・うーん・・・」と絶句し、
「大内さんは、この内容をご承知なんですか?」と聞いてくるので、
「はい、だいたい把握しています」と答えたところ、
「すみませんが、ワープロで起こしてもらえませんか?」と依頼された・・・自分の半生が綴られた診断書を読むのみならず書き起こす女・・・
はい、自分についての理解がいっそう進みました。

今回、8年ぶりぐらいにその書類を読んでみて、なんだか吹き出してしまった。

「現夫(前夫も大学時代の「マンガ研」の仲間。入院中、毎日のように見舞っていた)のプロポーズにためらいながら応じて再婚。夫に著しい愛着欲求。長年、育児全面的に依存。ブログにミステリ評を書き込む、仲間とのパーティーを主催する顕示。批判されたり、親しい仲間が当日不参加となると、見捨てられ抑うつで怒り、顕示の企てのすべてを断念し、抑うつ状態で好褥」

明らかに先生が勘違いしてるのは「ブログにミステリ評」のくだりね。
ホームページとブログの違いを言い立ててもさすがに意味はないけど、私が描いてるのは単なる日記で、ミステリ評書くほど読んでませんってば。(ミステリの好きな先生だったので、勘違いされたのだろう)
あと、「好褥」ってのは布団にもぐってぐずぐずしてることを指す精神医学用語ですかね、初めて聞いた時は、「いい言葉があるなぁ!」って心強く思いました。人間、レッテルを貼られると安心するもんです。

いずれにせよ、家事育児を大内くんに丸投げして、日記を発表したり宴会を開いては「私ってスゴイでしょ?」と自己顕示していたわけ。
それで参加者に遅刻やドタキャンをされると、
「嫌われている。私との約束はあの人にとって何の意味もない」と「見捨てられたとの思いから落ち込む『見捨てられ抑うつ』」に陥り、1人で怒りまくってふて寝してた。

オソロシイことに、たった今起こってることもほぼ同じ。
「なぜあの人は約束した時間に来てくれないのか。なぜ大内くんは私が何度も言ってることをわかってくれないのだろうか。彼らにとっての私は、取るに足りない、踏みつけにしても気づきもしない存在なのか?!」との絶望的な怒りに身も世もない。
何十年経っても人は変わらないもんだなぁ。
身体をこわすほどの大量の投薬療法や苦しい認知療法はいったい何の役に立ったというのか、とうちひしがれて、何もかもイヤになってる←今ココ。

いろんなことが積もったこの1年半だったけど、ラストストロー(最後の一撃)は、友人の遅刻。
私「ゆっくり話したいから、1時に来てほしいなぁ」
友「私にとって1時は早すぎる。ギリギリ、2時」
私「わかった。じゃあ2時に待ってる」
というやり取りがあったにもかかわらず、当日の朝に「段取りが順に押してまして・・・2時はまわりそうです。ごめんなさい。3時までにはうかがいます」と言ってきた。

午前11時の時点で2時に遅れる予告をしてくるってのは、仕事人としては有能かもしれないが、「あなたの順番は繰り下がりました。重要な順に片づけて、終わり次第伺いますので、待っててね」ってことだよね。
早起きして2時にはお迎えできるように掃除してお料理作って、会えたら何を話そうかと段取りする、そのすべてがノックアウトされた気分。

それでも泣き顔のスタンプを送ったら、「ごめんなさい!がんばります!」と返ってきたので、
「ああ、やっぱり私を悲しませないように急いでくれるんだなぁ」と胸を熱くしていたら、2時(本来、我が家の玄関についてるはずの時間)にメッセンジャーで、「ただいま吉祥寺から歩いてます。今しばらくお待ちください」との連絡。

なんでそこで歩くの?!!うちまで、たっぷり30分かかるんだよ!?
オトナならタクシーですっ飛んでくるし、せめてバス。
そして、2時40分にやってきた彼女にそう文句を言ったら、驚きのひと言。
「で、待ち合わせは何時だったんだっけ?」
足も腰も力が抜けてへなへなと崩れ落ちそうだった。

「2時と言った記憶がないなぁ。そもそも、時間決めてたっけ?」
「何にせよ、こっちは待ってるって泣き顔スタンプまで送ってるんだから、バスに乗ればいいじゃん!」
「いやぁ、ここに来る時は、ちょうどいい散歩道なんでのんびり歩いてくるのがデフォルトなんだよね〜」
では、2時に着けるように早く出て、いくらでものんびり歩いてきたらよいではないか、との答えを飲みこんで、1年半ぶりの重いうつ状態に返り咲いた、というわけ。

彼女には私の要求が過剰に想えたのだろう、苦慮したあげくに放ったのは、
「あんまり私のテリトリーに入ってこられると、静かに遠ざかるしかないね」というセリフで、何でも話し合いで解決しようとする私にとっては最後通牒の脅迫だ。
「人間が違うんだから、キミが期待してるような結論には決してならないよ。僕はこれ以上キミが傷つくのは見たくない」との大内くんの意見ももっともだが、わかり合えない同士にとっての最後のよりどころが「合意できた約束」だと信じてきたので、「約束?そんな昔のことは覚えてない」という洒脱な生き方について行けない無粋な人間なんですすみません、と倒れている。

すべての人に好かれることはできない。
すべての人を好きになることもできない。
目の届く小さな庵を建てて、何も期待しないで過ごそう。
裏に林があって、理不尽な目に合わせやがって、との想い断ち難い相手には夜な夜な五寸釘を打つのも、ひとつの生き方かもしれない。

友人の遅刻も決してほめられたものではないが、私にはいささかコトを大きくしてしまうトラウマがある。
小さい頃からわりとパンクチュアルだったため、母と姉が「デパートに行くわよ〜」とか言い始めると、
「何時に、どこにいればいい?」と必死で聞いていた。
「午後3時に玄関に集合ね」と言われれば、3時5分前からお出かけの格好に身を包んで完全にスタンバイし、あとは靴を履くだけ、って状態で待ってた。

その時、母と姉が何をしているかと言うと、口紅をつけたりあーでもないこーでもないと服をとっかえひっかえしたりの「お出かけの支度」をしている。
もちろん玄関に集合したりはしない。
「もう3時だよう」と地団太を踏むと、2人は大仰に吹き出し、
「本気で玄関で待ってるなんて、バカじゃないの?!出かける用意ができたら出かけるわよ。そのぐらい、わかるでしょう!」と朗らかに笑い物にしてくれた。
「予定は未定で、確定じゃないんだから!」という迷セリフもこのころ覚えたんだろうなぁ。
なにしろ、実際のお出かけの時間は4時をまわるんだから。

そんなわけで、私は時間を守れない人、守らない人を見ると、私の人生に大きく影を落としたこの2人の女性を思い出さずにはいられない。
反動で異常に時間厳守の人となり、中・高時代のあだ名は「定刻5分前の大内さん(旧姓)」だった。
人間だからもちろん遅刻もするが、そんな時の罪悪感と冷や汗の流れ方は尋常じゃない。

家族の行動を把握しておくのが好きな母は、出かけようとしているとよく車で送ってあげる、と申し出た。
バス便の多い名古屋では、自家用車の方が確かに便利だ。
しかし、私は可能な限りその申し出を断り続けた。
遅刻しないで目的地に着くために1時間から30分のゆとりをみる私からすると、時間ぎりぎりになっても「まだ大丈夫大丈夫」と言い続けてなかなか出発せず、いざ遅刻しそうになると、
「しょうがないじゃない、道路が混んでるんだから!あんたは細かくてうるさい!」と不機嫌になって怒鳴る母の車に乗るなんて、竜の咢に飛び込むようなものだ。

遅刻魔Kちゃんに「怒りすぎて、ごめんね」と言いたい気持ちはやまやまあれど、それぞれのトラウマってのは越えがたいんだよ。

彼女は、異常に拘束を嫌う。
「何時に、どこかへ行って何かをしなければならない」と考えただけで、なんとかしてそのくびきを出し抜き、回避し、はるか彼方へ逃げ去りたくなるのだろうと想像する。
一方の私は、約束を守ることに生きがいを感じ、期待されるその時その場所に存在する、そのために生きているといっても過言ではない。
誰かに必要とされ、そのニーズを満たすために自らの身を捧げて5分かそこら「誰かを待つ」行為が大好きなのだ。
こんな2人が待ち合わせをする・・・大概の場合立会人兼傍観者である大内くんの胃がキリキリと痛むのも無理からぬ話だ。

それでも、この世で一番好きな女性の1人に間違いなくカウントされる相手なのだから、人間っつーのは思い通りにはいかないものだ・・・

ドクターとは、軽い薬をのんで日常生活を落ち着かせてからいろいろ考えましょう、という合意に達した。
「カウンセリング、なんてのも人によっては有効ですけどね。あなたももういい年だし、いろんな経験をしてきているから、自分より経験豊かな人の言うことでないと聞く気にならないでしょうから、むずかしいですよね。話し相手がいるだけでもいい、って方もいらっしゃいますが、あなたの場合、ご主人がよく話し相手になってくれるようだし、夫婦で話し合って行かれてはどうですか?どんな人間でも、2人いれば小さな社会ですからね。夫婦が依存し合うことは全然いけなくないですよ。よくね、共依存だなんて悪口を言う人もいますけど、夫婦が助け合うのはこれはもう当然のことですから。もちろんうまく行ってる夫婦の話ではあるんですが」

というわけで、過度の宴会を開くことを禁じられ、休息中心のおだやかな生活を送ることを大内くんに約束させられ、しばらくはぼんやりと過ごすことになりそうだ。
でも、この1年半、自分の人生を自分の手に取り戻したような気分になって過ごしたのは悪くなかった。
「それが、もっと無理なくできる日が来るんだよ。誰を見返す必要もない、自分が心からしたいことだけをおだやかにして行ける日が来るんだから、その日のために、もっと身体を大事にして楽しい生活にそなえようね」と言ってくれる大内くんは、いったい前世にどんな徳を積んでいるんだろう?ちょっと、そこらのおっさんが言えるような内容じゃない気がする。本気で布教とか托鉢とか始めたら、ついていっちゃいそうだ。

19年1月6日

息子が遊びにきた。
先日ケンカの仲裁に入ってもらったので立場が弱く、彼の大好きなかぶの味噌汁と、新作の「ミルフィーユ鍋」でもてなした。

「オヤジはさぁ、そこそこ経済的にも豊かだし、幸せに生きてると思うのに、どうしてああいう時に意地を張るって言うか、素直に流せないのかねぇ。やっぱり、何かのヘンなトラウマがあるのかねぇ。ま、母さんにも苦労をかけるし、あらためた方がいいよ」と正月から息子にエラそうに説教をされ、しかも一言も返せない大内くんであった。

「誰も、お年玉くれないんだよなぁ」とのつぶやきを聞いてないふりしたのだけが、家長としての最後のプライドかもしれない。

バイトも替わり、引っ越しもするつもりらしい。
そのすべてのディテールをまったく教えてもらえないのが、今の彼と我々の関係だ。
まあ、新しい女ができるとすぐに紹介しに来る程度の距離感なので、新しい仕事や家も遠からず知らせてくると思う。

ちなみに今度の彼女はもう1年半もつきあっている上、売れないコント師の彼を仰ぎ見て支えていく気満々の得難い賢女である。
私としても、かなうかぎり大切に遇したいと思う。
いい子なんだよ〜。
息子の女の子の趣味がいいのは、まったくもって七不思議としか言いようがない。
結局、家庭環境がいいのよね♪

「母さん、また具合悪くなっちゃった」とぽつりと言ったら、
「しんどいの?無理しないでね。いろんな時期があるよ。きっとまたよくなるから、ゆっくり休んで」とだけ言って、温かいハグをして帰って行った。
いろいろ難しい道を歩んでる彼だが、人間としての道は大きくは踏み外していない気がする。
そこが一番大事なとこだ。

19年1月8日

今まで、自分の病気のことはあまりはっきり書かないで来た。
大内くんの仕事に障るかとも思ったし、子供が小さいうちは正直言ってママ友達の目も怖かった。
なにより、主治医によれば小学校高学年で既に発症していたとされる「人格障害」は、当時まだまわりの理解も少なく、「異常性格」「反社会的人格」と取られかねない時代だったと思う。

私自身、「アダルト・チルドレン」という言葉は聞いたことがなかった。
23歳での自殺未遂をきっかけに主治医になってくれた大きな病院の部長先生は、当時には珍しく保険診療の中で可能な限りのカウンセリング的な時間を取ってくれる人だった。
「大内さんは、まず本を読むところから入った方がいいかもしれません」と渡されたマスターソンの「境界例」は心理学用語に満ちていて難しかったが、逸話よりも理論から物事を読み取る傾向が強かったので、先生の見立ては正しかったのだと思う。

幼少期に適切な愛情の補給を受けられなかったため、世界が自分にとって安心できる場所でないこと、他人は取引をするべき相手であり、条件付きでない愛情は存在しないのだ、といった世界観が身についていた。

とは言え、私の家庭はごく平凡な中流家庭で、父親は相応の学歴と職歴を持ち、姉は優等生で、変わった子だと眉を顰められていた私でさえ、素行が多少怪しいことを除けば「頭のいい児童」の一群だった。
早熟で本ばかり読んでいたことと死について考えることが多すぎる点をのぞけば、ごく普通の家庭の子女だったろう。

ただ、私の子供時代に決定的に足りなかったのは、「自分は、どんな人間であろうとも価値のある人間だ」いう人生の基本的な指針だった。
良いことをすればほめられ、悪いことをすれば叱られる、そんな簡単なルールすら存在せず、私のすることはいつも「どうしてそんなことをするかわからない。何が面白くて」とため息をつかれ、しまいには、「あなたはこんなこと、好きじゃないでしょう?こういうことが好きでしょう?」と好みを既定された。

「お姉ちゃんはいい子なのに」としじゅうため息をつかれ、その「よい子」の姉からは年の近い姉妹というよりは「第二の母」のようにふるまわれた。
実際、私は思春期に至るまで、彼女のことを内心では「チイママ」と呼んでいた。
めずらしく同年輩の気安さから打ち明け話をすると、翌日にはその「秘密」は母にご注進されていた。

もっと悪いことに、私は姉を好きでも嫌いでもなかった。
趣味も考え方も何もかも違っていて、ひとつも共感できるところがなかった。
もしもなにかの拍子に同じクラスになったとしたら、1年間、最低限の挨拶はしても彼女の内面には全く興味を持たず、何のつきあいも生じないまま別れて行って一生思い出さないような、そんな人だった。

そんな相手が、ことあるごとに、
「誰よりもあなたのためを思っているの」「あなたは私の大切な妹だから、何をおいても守ってあげたい」「あなたの気持ちは、本当によくわかるの」と話しかけてくる。
同じ本を読んで語り合うこともなく、同じ冗談に笑うことすらない(何しろ彼女は冗談が一切通じない人なのだ)、思春期の嵐の中でそんな相手と何を共有すればいいのか。

長じるにしたがって、こういうことが起こってきた原因がわかってきた。
母は、肉親の縁に薄い人で、両親をそれぞれ病気で若い頃に亡くし、特に愛してやまなかった母親とは自分自身若い身空で重い病に倒れて入院していた時、同じ病院に入院していたにもかかわらず死に目に会えなかったという悲劇に見舞われている。
その後も姉妹たちと引き離されて、親切ではあっても気兼ねの多い親戚の家を転々とする思春期を過ごし、奇跡のように父と出会い恋に落ちた時には、彼は白馬の王子様に見えたことだろう。
病気がちで、成績は良かったのに学校を断念せざるを得ず、両親もなく財産もない母に、帝大出の地方の名家の長男が熱烈な恋をしたのだ。
帰省の列車で隣り合って坐ったというだけで手紙攻勢を通じてプロポーズしてきた父が、どれほど素晴らしく見えたかは想像に難くない。私だって、くらっときただろう。

ただ、カケオチ同然で結婚してみると、父はやはりただの昭和の男だった。
誰も知った人のいない名古屋に連れてこられて最初に言われたのは、
「じゃあ、アパートを決めておいて。オレは友達のところに行って来るから」のひと言。
新天地での生活では、父は会社に行って給料を運んでくるだけで、それ以外のすべては、母の双肩にのしかかってきたのだ。

熱烈に請われて結婚したはずなのに、この扱いはどうだろう。
「サラリーマンの妻」の役割に押し込められて、気がつけば夫とは日常会話もない。
肉親の縁に薄かった母が最初の子供を産んだ時も、夫は産院にすら来なかった。(一説によれば雀荘でマージャンをしていたらしい)
母にとって、この小さな赤ん坊は、彼女が失くした家族のすべて、有り余る幸せを受けるべくこの世に降り立った「自分自身」だったのだろう。

以来、よくある話のように、母の生活は長女を中心に回って行った。
熱を出したからと言って心配そうな顔すらしない夫はもはや当てにせず、おんぶひもで背中にしょって病院に走る。
離乳食も、当時出始めていた「科学的な育児法」にしたがって大匙いっぱいの味噌汁の上澄みを飲ませるところから始めた。
ちなみに、私が自分の子供を産んだ頃に「離乳食って、どうしてた?」と聞いたところ、母の答えは、
「さあ、あなたの時は、気がついたらちゃぶ台に坐ってオトナとおんなじものを食べてたわねぇ」であった。
これほど、第一子とそれ以降は差がつくのである。

一度は愛した夫よりも、何度もおなかを痛めて産んだ子供よりも、自分の生まれ変わりとも言うべき最初の子ほど可愛く崇高なものはこの世に存在しないのだ。
それほどに、母親たちは顧みられていない。
自らをを投影してこの世のすべてと思いこんだ存在を、誰もが羨む素晴らしい存在に育て上げることこそが、多くの子供をただ死なせないように目を配る代わりに、現代の母親という崇高な職業婦人に課せられた神聖なる使命なのである。

話は少しずれるが、最後に、私が姉を完全に見限ったエピソードを記そう。
驚くべきは、それがまだ小学校に上がる前の記憶だという点だ。

当時、近所に我々姉妹を可愛がってくれている老婦人が住んでいた。
私は誕生日が近づいていたので、自分の大事にしているお人形さんに新しい服をたくさん作ってもらう約束をしていた。
当日の午後、人形を持っていさんで老婦人を訪ねた私が言われた言葉は今も忘れられない。

「あら、午前中に、お姉ちゃんが人形を持ってきてこれはあこちゃんの人形だから、洋服を作ってあげてって言ってきたのよ。たくさん作ったから、もう余ってる布はないの。作ってあげられないわ」
青ざめて家に取って返して姉を詰問すると、彼女はまったく悪びれないしれっとした顔で言ってのけた。
「2人の人形だから、どっちの服でもいいじゃない?あなたの人形は服もないことだし、召使いってことにしたらどうかしら」
5歳にして、人間なんてやつはもう誰も信じないぞ、と心に固く誓った瞬間であった。

以来、私は家の鬼っ子であり続け、成績が良かったことを盾に東京の大学へ行くことを主張した。
母も、深夜徘徊や自殺企図を繰り返す娘にはほとほと手を焼いていたのだろう、「世間体の悪くない合法的な家出」としての上京は歓迎された。
「家から通える国立大学しか許さない」と言われて律儀に守った姉としては、「なんであこちゃんだけ」と茫然としていたが、ずっと家に置きたい良い子の娘と早く出て行ってもらいたい不良娘の違いはいかんともしがたかったわけで。

大学を出て、郷里に帰ろうなどとは微塵も思わずに早い結婚をした私は、いろんなことに気づいた。
私の中にはいつも母がいて、あれをしてはいけない、これをしなければいけない、と耳を聾さんばかりの声で指図をする。

その頃主治医となった先生の処方箋は、とても変わっていた。
「母と連絡を取らないこと。荷物も受け取らないで、出来ればご主人に頼んで送り返してもらうこと」ぐらいは、「ああ、母の影響を脱するために荒療治をするんだな」と納得がいったが(納得できることと従えることはまた別であった)、奇妙すぎてバカバカしく、従う気にならなかったのは、「タオルを、乱雑に畳むこと」であった。

先生によれば、母は異常なほどタオルをきちんとたたむ。
私もその影響下にあり、タオルをきちんとたたまないと仏罰が下るとかそんな類の恐怖を抱いている。
タオルはタオルに過ぎず、ほったらかしてたたまないでおいても何も恐ろしいことは起こらないから、それを体験してほしい、とのことだった。

子供が生まれたばかりの私には、畳むべきタオルは山ほどあった。
母がしていたように、ホテル仕様のようにきちんと方向をそろえてたたみ、同じ向きに整然と並んだタオルの山は見るからに美しい眺めだった。
「綺麗に畳んだ方が気持ちいいじゃない?ちょっとの手間なのに、先生はつまんないことを言うなぁ」と整然としたタオルの山を量産していたら、思わぬ伏兵が現れた。
大内くんである。

「タオルに目がある?畳むべき方向がある?そんなことしてるヒマがあったら、畳んでない山をこさえて、洗ってあるタオルをそこから掴んでタオルの用を成すんだ!子供のいる家に、悠長にタオル畳んでるヒマなんかない!」

以来、我が家では床に積んである洗濯物の山から必要なものを拾い出すことを「栗拾い」、部屋の中の物干し紐にかかっている乾いた服を取ってきて着せることを「梨もぎ」と呼んだ。
なるほど、必要は発明の母で、生活ははるかに円滑に回るようになった。

母を本格的に「出禁」にしたのは、息子が2歳ぐらいの時である。
盛大にこぼしながら離乳食を食べる息子の横に陣取った母は、一口食べるごと「ほらほら、こぼしてる」と手に持った布巾で息子の口を拭うのだ。
次のひと口を食べればまた口のまわりはべたべたになるのに、である。
そんな母の過干渉にさらされた息子が、母が滞在した日に限って激しい夜泣きをし、あげくに止まりかけていたおねしょが復活するのを見て、夫婦して、「これは、来てもらわない方がいいね」と決めた。

ちなみに、大内くんも母親の過干渉が激しくて小学校いっぱいおねしょが治らず、いまだに母親から嬉しそうにその当時の苦労を語られるという不幸に見舞われている人生なので、息子の受難は他人事ではなかったのだろう。

今の世の中には、「殴られた」「親が給食費を持ち逃げしてパチンコしていた」といったわかりやすい虐待よりも、「大事に育てられて、何不自由があるわけではない。なので、『自分は幸せであり、親に文句を言うなんて、親不孝だ』と自分を責める子供たち」がじわじわと増えているような気がする。

より悲惨な子供時代を送った人々から「甘すぎる」「しょせん幸せな子供の不平不満」と言われるのも承知で、だんだんとこういう話を書いていきたいと思う。
まあいいじゃん、とどのつまりはみんな「自分語り」なんだから。

19年1月12日

我が家で、恒例のまんがくらぶの新年会をやった。
ここ数年でいつもの顔ぶれが2人も彼岸へ渡り、寂しい気持ちだ。
しかし新しい顔も加わり、中でも現役の学外部員である娘さんを連れてきてくれた男性に拍手が集まった。
彼女は嬉しそうに紙とペンを取り出し、あっという間にリレーマンガを2作、おじさんたちに描かせてしまう凄腕女子。
現役部員の間では、リレーマンガが流行中らしい。

食べ物は各人に持ち寄りをお願いしたが、大内家としては低温調理器ANOVAを活用して豚の角煮風と鶏ハムを作り、凝り性の大内くんはおでんとハヤシライスも作った。
野菜も食べようね〜ということで、ブロッコリ入りのグリーンサラダと大根と明太子のサラダも。
あとは定番のタンドリーチキンで、お客さんたちももういいかげん飽きたんじゃないかと思うんだが、1人暮らしで料理の苦手な長老から毎度毎度リクエストされる、ありがたいメニューである。
お客さんの持ち寄りもあって、新年会にふさわしい豪華なつまみが並んだよ。

私は直前までずいぶん具合が悪く、薬で精神の不調を抑え込んで接客していたところ、鋭い洞察力とそれに輪をかけて鋭い舌鋒の持ち主Gくんから、
「ここんとこ調子が良くて昔のマシンガントークが戻ってきたと思ってたが、薬のんでると口調が全然違うな」と喝破された。
少量しか飲んでないんだし、気付かれずにすむかも、と気を張っていただけに、がっくりと落ち込まざるを得なかった。

しかし、同様の精神の不調で服薬しているメンバーがいたので、しばし「薬あるある」で盛り上がった。
「まっすぐ歩いているつもりなのに横にずれて行き、ドアにぶつかる」
「同じ要領で、道の端の溝に落ちる」
「会話がワンテンポずれて、次の瞬間、自分の言ったことが思い出せない」

笑ってしまうが、これはけっこう深刻な話。
私の場合は涙があふれて止まらなくなり、けっこうホラーな眺めになることも含まれる。
「うちの包丁は切れないから」とつぶやきながら、ロープをかける場所を探して夜中に部屋の中をさまよっている光景は、寝起きの悪い大内くんにはあまり心地良いものではあるまい。

それも含めて健康談議として笑って聞く皆さんの精神の強靭さに救われながら、たいへん楽しい新年会だった。
しかしなんだね、昔は不健康自慢つっても、飲み過ぎだとかマンガの読み過ぎで3日間寝てないとかまともな食事を1週間してないとか、そういう「男おいどん」的な話ばかりだったのに、今や50をまわった人々は、高血圧だのガンマグロブリンだの尿酸値だの坐骨神経痛だの痔だの緑内障だのについて、語る語る。
唯一一番健康そうな男性は、このほど生まれて初めての人間ドックを受け、深刻な病気が見つかったらどうしようと恐々としていたところ、「肥満以外には問題ありません!」と太鼓判を押され、それすらも病気自慢の話に紛れ込ませている巧みな話術であった。

めずらしく正体をなくして泊まる人も出ずに終バスの10時半には解散した健全な飲み会だったが、終われば終わったで寂しいもので、私はまた片づけ物もせずに部屋の真ん中に座り込んで号泣するのだった。
大内くんも大変だ、こりゃ。

そうそう、本日のハイライトは、長老がややためらいながら言ったこと。
「最近、言おうかどうしようか迷ってたんだが、おまえの髪型はけっこう可愛くなってきたなぁ」
もちろん速攻で、「では、大内くんが死んだら私と結婚しますか?!」と問い詰めたところ、
「絶対、ことわる!」のだそうだ。
「こんなに細かくてうるさい人間が2人で暮らしたら大変なことになるのは目に見えている。おまえは大内くんで満足しておけ。そもそも彼は丈夫で長持ちしそうだ。大事にしろ」とのことであった。
淡き老いらくの恋の夢消えぬ。

19年1月13日

1年ちょっと住んでたアパートの家賃が高くて払いきれないから引っ越したいとは聞いていた。
カノジョのアパートに転がり込む予定なんだろうと思っていたら、意外と強力な伏兵は先方のお母さんの反対。
ただ、物わかりのいいお母さんらしく、
「つきあうのは反対しない。彼がまたアメリカに修行に行くなら,それを終えて帰ってきてからでもいいんじゃないの?」と理路整然と若い恋人たちを論破したらしい。
実に立派だ。
私が向こうの立場でもそう言うかもしれない。

というわけで、手回しよくアパートの解約だけしてしまった息子は住むところがなくなってしまった。
かろうじて見つけてきた先は、先輩が仕事で使っているアトリエの片隅とのこと。
床の上に寝袋で寝て居場所を確保するという現代残酷物語。
まあ、いい修行だろう。

車を借りに来て、家具つきのアパートだったためわずかな身の回りのモノを運ぶだけの引っ越しをカノジョと2人で行うらしい。
それにしてもカノジョ連れて来るなら前もって言ってくれよ。
息子に車のカギを渡すだけでいいと思ってた休日の私たちは、パジャマ姿でカノジョに対面しちゃったよ。

軽くごはんを食べさせたら、なんだか文句のオンパレードだった。
息子「あんまりおなかすいてないって言ってるのに、どうしてそんなに盛るのかね?」
大内くん「親は、子供に物をたくさん食べさせたいっていう謎の本能があるんだよ」
息子「もう別の世帯に住んでいて、独立してるのに、そういうとこだけ昔の名残りが残ってるってのはどうなんだろうねぇ」

独立したやつが車借りに来て、飯食って、文句だけは一人前以上に言うなよ。
別世帯の礼儀があるなら、食べ物ぐらい「いやあ、食べ切れなかったよ、ごめん」って残せばいいだけじゃん。
こっちもいちいち怒ったりしないけどね。
大内くんとこっそり、
「今日の彼の目は細くて三白眼になってる。甚だしく機嫌が悪い兆候。たぶん、風邪ひいてるのに引っ越ししなきゃならないストレスに直撃されてるんだよ」と、「ほれ、これ飲んどきな」と漢方の風邪薬を渡すのみ。

私が買って大喜びしてたiPad Proを、「いいでしょ!これでマンガが大きな画面で読めるんだよ!」とはしゃいで見せたら、「ふーん、いくら?」ときた。
「15万ぐらいかな」
「使いたいだけ使えるね。いい身分だ」

おいおい、そりゃあ私はキミよりはゆとりがあるかもしれないよ。
でも、電子化したマンガを綺麗で大きな画面で読みたいと思って何年も研究し、ついにこれだと思うものが出たから買ったんだよ。
有り余ってるカネで手当たり次第買ってるわけじゃない。
それを言うなら、キミがパチンコに使ってるカネの方がよっぽどいい御身分だと思うよ。

そんなことで議論しても仕方ないので、Kindleで買ったバンドデシネの「MATSUMOTO」って作品を見せてやった。
芸術性には定評のあるバンドデシネで、日本のオウム真理教事件がどのように描かれているか、オールカラーで見て少しは度肝を抜かれるがいい。
実際、読んだら「綺麗だなぁ。このぐらいの画面だったらiPad Proで読む価値もあるよなぁ」とつぶやいていた。
私はこれから吉田秋生の「海街Diary」読むんだ。ほっといてくれ。

しかし、夜に1人で車を返しに来た彼の顔はますます赤い。
とっつかまえて熱を測ったら、37・5度。
「インフルかもしれない。明日休日診療所に連れて行くから、今日はとにかくこの家に泊まりなさい。アパートにはもう布団も何もないんでしょ?」
「うん。いいなら、泊めて」

こうして、久々に息子の部屋は正当な持ち主の寝息を聴く幸福に見舞われた。
しっかり風呂にも入り、大内くんの新しいパンツとパジャマを着こんで、なかなかラグジュアリーな生活である。
おまけに「ちょっと腹が空いた」と言ったとたんに、「日清ラ王」に宴会料理の残りの「煮豚、味つけ卵、ほうれん草」の「全部のせラーメン」が出現するという・・・実家って、いいとこだよなぁ。

「たまには泊まれて、嬉しい?」と聞いてしまうのが私の悪いところだが、ラーメンが効いているせいか、
「うん、嬉しいね」と素直な答えが帰ってきた。
いつもこうなら、月に1度ぐらいは帰ってきてもいいのになぁ、と胸が熱くなったよ。
ただ、インフルでない時にお願いしたいね。

19年1月14日

朝カらトヨタレンタカーにバン借りに行って本棚を運ぶはずの息子の予定は、まず、前日までに押さえておかなかったので借りたい車種がなく、翌朝一番に電話して聞いてみる、と言っていた本人がレンタカー開店時間に起きないうえ、どこからどう見ても立派なインフルエンザ患者で、引っ越しどころのさわぎじゃない。

渋る本人を休日診療所に連行して行ったら、見事なインフル患者であったらしい。
恐ろしいのは、その診療所には朝一番から65人もの(息子の番号札が65番であった)病人が押し寄せ、ほとんどの人がインフルエンザの診断を受けて特効薬をもらって帰ったという現象であった。
車で息子を待っていた大内くんは、頼みの綱の特効薬が途中でなくなってしまい、「オレの息子は3才なんだ、ワクチンをくれ!」と銃が持ち出されるような「11人いる!」的なパニックが起こる妄想を起こして、1人で苦しんでいたらしい。

何時間も待たされた息子は大変不機嫌そうであったが、さすがはインフルの特効薬、「リレンザ」だっか「タミフル」だったか「イナビル」だったか、毎年変わるのでついぞ覚えていられないんだが、実によく効く。
あっという間に食欲が出てきて、「父さんの作ったお粥が食べたい」と言って2杯も平らげ、昏々と眠り、夜にはコンビニに出かけて「鍋焼きうどん」を買ってきて食べていたくらいだ。

翌朝にはすっかり良くなり、トヨタレンタカーに行ってバンを借り、本棚を運ぶんだと言って揚々と出かけて行った。
このまま家に居着いたらどうしよう、と少し心配していたのだが、若者というものはそれほどきゃしゃにはできてないらしい。
「世話になったね。ありがとう」と両親をかわるがわるハグし、自分の生活に帰って行った。
人間、若くて健康ならたいがいの可能性が開けている。頭も性格も、人並みには育てた。
後は自分のやる気だけだ。
縁あって親子に生まれたんだから、これぐらいのサポートはするよ。
困ったら、少し休みにおいで。

19年1月16日

その日は朝から具合が悪かった。
病院で余分にもらった薬をほどんど飲みつくしてしまって、追加をもらわなければどうしようもない。
そもそも私は予約とかに律義で、「お約束の時間」があると、急な発熱でもしないかぎり出かけてしまう。
薬が必要だから行く、というより、そこに予約があるから何としても出かけて行くのだ、という勢いで、予約は3時半からなのに、12時にはもう街に着いていた。

お店を冷やかすというような特技があればいいんだが、あいにく不調法なもので、とりあえず食事をしに行く。
具合が悪くなってから大内くんからも「無理なガマンはやめなさい。糖質制限はある程度ゆるめて、楽しいと思える食事をすること」とのお墨付きをもらっているので、昔、井之頭五郎さんが行ったことで大人気になった喫茶店兼呑み屋みたいな謎の店に行く。
ここの「ナポリタン」は、私が自分で作るよりも大量のケチャップを投入した大盛りで、喫茶店のナポリタン好きにはたまらないんだ。
サイドメニューのポークジンジャーとアイスコーヒーを飲んだら妙に元気になって、とんでもない計画を立て始めた。

私はもう20年近くauを使っているのだが、こないだ新スマホを買った時に、何だかよくわからない契約を結ばされた。
日曜には女性週刊誌が2誌タダで読めるとか、水曜に王将の餃子を食べに行くとサービスでもうひと皿もらえるとか、嬉しいような嬉しくないような特典がいろいろついてくる。
女性週刊誌だけは日曜のうちにむさぼり読んで最近の皇室事情や将来もらえる年金、NISAやiDECOについて「お勉強」しているが、他の特典はおよそ利用したことがない。
ところが、火曜の今日、あちこちのカラオケ屋が1200円までタダというキャンペーンをやっているのだ!

勿論ドリンク代は払わないといけないが、1200円以内のカラオケ使用料はタダ。
念のためカウンターでケータイ見せて聞いてみたら、2時間歌ってもタダで、ドリンク代が400円ぐらいかかるだけなのだそうだ。
病院の予約まであと2時間あるし、休んで行くにもちょうどいい。

こうして、生まれて初めて「ひとカラ=1人カラオケ」をやってしまいましたよ。
普段、観客がいる時には絶対受けない、誰も知らないアルフィーの「白い夏バレンシア」とか、超地味な曲「祈り」とか歌って、少しハジけようと「OッDORANAI!!」を歌い、もうどうでもよくなってきたので紅白を思い出して「Lemon」と「U.S.A.」を歌い、そろそろ終わろうと十八番の戸川純「恋のコリーダ」を2回続けて熱唱。そして大好きな「メリッサ」で〆る。
うーん、確かにこれでアイスコーヒー代420円だけだったわ―。
病院は毎週火曜だから、また来ようかな。

で、30分前には病院へ行く律義さ。
待合室には、けだるい雰囲気の人とさめざめと泣いている人がいる。
さっきまで「恋のコリーダ」を熱唱していた私は後者だ。
なぜこんなに落ち込むのか、なぜ死んでしまいたくなるのか、ナポリタン食べてカラオケ歌うぐらい恵まれた身分なのに、何がそんなに悲しいのか。

先生には薬をほとんど飲んでしまったことを告白し、「あなたね、そんなに飲んでたら死にますよ」と忠告された。
次回はそれほどは出せないし、観察が必要だからまた来週来てくれとのこと。
話は割とよく聞いてくれるし、なにより、もうこの年だから性格だと思ってあきらめて、うまくつきあっていくしかないという発想が好きかも。
私の人生のほとんどは、異常性格としか思えないこの人格との戦いに費やされて来たから。
結局、「フツーの人」なんてほとんどいなくて、みんな何かの方法で折り合いをつけてる気がする。
私の一番の問題は、「適当」に済ませることができない点なんだろうな。
ただねえ、あいにくなことに、自分ではその性格が結構気に入ってるんだよね。

先生に、「夜中に首を吊る場所を探して家の中をうろうろしてます。10年前に友人がドアの上部のストッパーに紐を掛けて首を吊ったので、主人は家じゅうのドアのストッパーを外して隠してしまいした」と語ったら。
「あなた、そんなに大事にしてくれているご主人が先に死んだら、いったいどうやって生きていくつもりですか?」と聞かれたので、いともあっさりと、
「もちろんすぐに後を追います。主人のいない人生は考えたことがありません」と即答した。
先生は、相当毒気を抜かれた顔をしていた。

まあ、合う薬が見つかるまでいろいろ試しながらやってみるから、気長に通ってくれ、とのこと。
また泣きながら会計を待っている間に、インフルをおして引っ越しを敢行した息子が心配になってきた。
「具合どう?引っ越し終った?」とメッセージを送ると、すぐに、「元気。今、車返した」と返事が。
「じゃあ、吉祥寺?母さん、今吉祥寺なんだけど、会えない?」
「どこ?すぐ行くよ」
「じゃあ、駅前のサンマルク」
思いもかけず、息子とのデートが成立してしまった。少し気分が上がったぞ。

サンマルクに行って3階まで上がってみたが、彼はまだ来ていない。
「テレビを売ってから行くので、少し待ってって」と言ってきた。
「君はタバコを吸うから、喫煙できる3階に席をとっておくよ」と返すと、「さんきゅー」と軽い返事が。
おばさんはね、こんなとこにも気を使うのよ。

やがてやって来た彼は、カウンターの並びの席にいた私に、
「こっちの方が話しやすいでしょ」と2人掛け体面テーブルの席が空いたのを見つけてすばやく飲み物を移動させてくれる。
私のカバンやコートまで持ってくれた。
こういうとこ、紳士だよなぁ。女の子にちょっとモテる秘訣かもしれない。

それから30分ほど、楽しくおしゃべりをした。
家でインフルエンザの看病をしてもらったのが、よほど嬉しかったようだ。
「家に帰りたくなった?」と聞いたら、
「いいや、全然。でも、ああいう時は本当にありがたいと思ったよ。これからもいい距離でいたいね」だそうである。

「しかしさぁ、オヤジって、かなり心配な人じゃない?」と突然聞かれてビックリ。
息子「いや、ほら、人の気持ちがわからないって言うか、自分の気持ちだけで突っ走っちゃうじゃない?」
私「食べたくないのに、皿に盛りすぎるとかいう点?」
息子「まあそれもあるけど、なんだか人の話を聞いてないんだよな。あれで、仕事はできてんのかね?」
私「それはまあ、30年も勤めてそれなりの地位でそれなりの給料もらってるんだから、それなりの評価をするべきじゃないの?会社ってとこは、無能な人に給料払うほどヒマじゃないよ」
息子「そこはわかってるつもりなんだけど」
私「多少突っ走る傾向があるとしても、仕事の上でみんなが『うーん、どうしましょうねぇ』って膠着した時に、『これでいきましょう!』って勢いで押す人も必要なんだよ。そういうとこに存在意義があって飼われてるんじゃないの?何十倍も給料もらってアンタを養ってきた人の仕事にあれこれ言うのは、何十年も早いよ」
息子「立派なとこのある人だってことはわかってるよ。ただ、あの人、オレのこと可愛がり過ぎてないかなぁ」
私「母親があんまり母親らしくないから、父親がその分頑張ってるんだよ。両親がバランスとれてるんだから、それでいいの。そう言えば、父さんは初恋の人と結婚した口だから、あなたの女性関係が多彩なのは理解できなくて心配してるようだよ」
息子「オレはクリエイターだからなぁ。いろんなことを知る必要があるんだよ。オヤジは、女一人で、世間が狭いよね」
私「ところがね、母さんは実はものすごく面白い人間なんだよ。1人で10人分ぐらい面白い。だから、父さんは充分経験を積んでるよ。あなたが心配してやるようなことじゃないよ」
息子「ま、そうなんだろうな。それは、見てればわかるよ。いい組み合わせだよな」

家族観とか我々がどういうつもりで彼を育てたかとか、実にいろんな話をした。
ずいぶんわかってもらったと思うし、彼は、基本的に「母さんを愛してる」んだそうだ。
母への渇望はあってもまっすぐに愛せなかった自分に、こんな素直な言葉をぶつけてくれる子供ができるとは考えたこともなかった。
本当に嬉しかった。

「吉祥寺を離れるから会いにくくなるけど、また会って飯でも食おう」という彼に店の前でハグしてもらって別れたあと、バスに乗って帰ったが、どうにも寂しくなってしまった。
薬をのんでも涙があとからあとからあふれてくる。
あいにく、会社の大内くんはつかまらない。

気がついたら、台所の床に座り込んで、家で一番切れる刺身包丁を取り出して、自分の腹部や腕を切りつけていた。
自傷である。
13歳の頃、私はリストカットの常習者で(当時、そんな言葉はなかったんだが)、切って開いた傷口の中をもう一度切った時は、自分がどこか別の世界の生き物のような気がしたものだ。

日頃砥いでないなまくらな包丁で脂肪の多い人体はそうすぱすぱと切れるものではなく、血の玉が浮かぶ筋が何本もできるだけ。
それでも20本以上の筋が体中を走る頃には上半身がぬるぬると血まみれになってきた。

なにかがもどかしくて、誰かに助けを求めたくて、息子にメッセージを打っていた。
「包丁が切れない。誰か助けて」
すぐに返事が来た。
息子「どゆことかな?大丈夫?」
私「死にたいのに、血が出るほど切れる刃物がないの」
息子「家行くよー」
私「来たら、泣いてる母さんの一代記を聞かされるだけだよ」
息子「でも死んじゃダメよー」
私「死にたいのと死ぬのはちがうから、心配しなくていいよ。あなたはあなたの生活をしなさい」
息子「わかったー。なんか欲しい言葉とかあったら、いつでも送るからね」
私「母さんがどうしても逃れられない深い悲しみが、あなたにはない事を祈るよ。それだけを考えて育ててきたつもりだよ。母さんとは関係なく、幸せになってね。母さんは母さんで、父さんと幸せにやるから」
息子「うい〜、お父さん早く帰ってくるといいね」
私「生きててもいいと思えない子供を育てるなんて、人間のやることじゃないよ。本当にひどい目に合ったもんだ。たぶん父さんがすっ飛んで帰ってきて慰めてくれるから。迷惑かけてごめんね。今日はちょっと限界を越えていた。薬をのんで寝るから、心配しないで。また今度ね」
息子「うん、また元気になるようなことを一緒にしよう。また家へごはん食べに行くよ」

こうして見るとずいぶん心配して優しくしてくれてるようなんだが、彼は自分のできる領域から一歩でも外れるとかなりの無関心になる。
写メ時代であるので、血まみれの腹と腕と首の写真を送ったら、
「母親が浅い傷を作って血だらけになってるだけだなぁ」と、あまりに的確な講評が返ってきた。

もちろん大内くんが帰ってきた時の方が大騒ぎで、こういう修羅場には慣れているはずの彼も動転し、「どうしたの、どうしたの」と繰り返すのみだった。
やがて傷を洗ってワセリンを塗って、薬を少し多めに飲ませて添い寝してくれた時は、ああ、結婚しててよかったなぁ、と心から思った。
大内くんがどう思ったかは、あんまり考えたくない。

私は、今日、幸せになりすぎたのだろう。
昔から、幸せを感じている時にはいつも母に冷たく水をぶっかけられた。(もちろん架空の水だが)
「何をいい気になってるの。あんたが1人で幸せになるなんて、許さない。私抜きで幸せになる人には、ばちが当たるんだ」
「私の思い通りにならないあんたは、幸せになんかなれないのよ。みんなに好かれてほめられるおねえちゃんとちがうあんたは、ダメなの」

次第に私は空想の世界で遊ぶようになったが、そこにも母の言葉は追いかけてきた。
幸せを感じた後に自傷をしたり、自己嫌悪に陥ってすべてを台無しにしたりしてきたのは、母の呪いだ。
今でも、私がちょっとした幸福のあとに落ち込んでいると、大内くんが諭してくれる。
「お母さんが、『なに幸せにひたってんのよ。あんたなんか幸せになれるわけないじゃない』って言ってるんだね。もう、そんな声はしないよ。お母さんは、死んじゃったんだよ」

いずれにせよ、これほどの激しい自傷は35年ぶりぐらいなわけで、傷はすぐに治るだろうが、自分で自分の心のケアをしないといけない。
「私は悪くない。少なくとも、自分を罰するほどには悪くない」
「私は今、幸せだ。それは、自分で苦労して勝ち取った、私の勲章だ」

かつて、私の主治医は私を「サバイバー」と呼んだ。
「過酷な運命から、立ち直り、生き残った者」という意味らしい。
「正直言って、あなたほど早くから発症してずっと症状に苦しんでいた人が、一流の大学に進学してきちんと就職できたのが信じられないほどです。あなたは、そのあなたの能力と意志の強さを誇るべきです」
先生、あいにくなことに、私はまだ過去にとらわれています。
私の「誇り」は、まだ母の呪いに負けています。
夫の庇護さえ、母の攻撃から私を充分に守り切ることはできていません。

19年1月17日

なんと間がいいことがあるものだと言うべきか、はたまた息子は隠れた孝行息子であったのか、大内くんが見事なA型インフルエンザを発症して、早退してきた。
会社では、インフル患者は業務の進捗状況に関わらず、6日間の出勤停止を命じられるそうだ。

たとえ39度の熱があっても、大内くんが家にいてくれれば今の私にはとても心強い。
ひそかにインフルウィルスを置き土産にして行った息子に、感謝しかない。

肉体を病んだ大内くんと、心を病んだ私とで、この週末は閉じこもって美味しいものを作って食べ、萩尾望都の「残酷な神が支配する」のように2人で漂流しよう。
手に手を取って生還する週明けを目指して。

19年1月22日

大内くんのインフル休暇最後の日だったので、通院につきあってもらえた。
私1人では医者にびびってしまってなかなか思うことが言えないため、横から家族としての意見を言ってもらえて、大変参考になったと思う。

新しい先生もたいそう熱心な人で、保険診療内の短い質疑応答の中でありながら、私と母との関係、母自身の親子関係、母と父の関係、「お姉さんがいらっしゃるとのことですが、それだとお姉さんも鬱症状を発症していませんでしたか?」などと鋭い質問が飛んだ。
親子関係不全に端を発する問題をよく理解しているという印象を受けた。

概ね、母との関係からネガティブなフラッシュバックを起こし、自分の行動に自信を無くし、自傷的な行為に走ったり、人間関係をだいなしにしたりするのだという症状のようであった。
「まあ、60年も生きてるんですしね、いまさら性格は変えられませんよ。病気ととらえて全部治すというよりは、今のままで何とか自分の行動様式に慣れて、うまい対処法を見つけるのが一番です。そのために多少はお薬の力を借りて、辛い状態を乗り切っていきましょう」という中庸な提案になんとなく信頼がおける気がする。

睡眠薬をもらって夜眠れるようになったせいか、生活は安定した。
ただし、日中に強い薬を使っているため、ふらつきがひどく、もう何度丸太のように倒れたかわからない。
血液サラサラのワーファリンをのんでいるせいもあり、身体中アザだらけである。
大内くんは、「今、人にキミの身体を見られたら、僕はDV夫の汚名を免れない」と不安そうにしている。
診断書書いといてもらったほうがいいかしらん。


それでも今日はとても嬉しいことがあった。
昼に病院に行くと言ったら、息子がその時間に吉祥寺にいるそうで、一緒に食事をしようと言ってくれたのだ。

全員にとって思い出深いカレー喫茶で、一緒に懐かしいカレーを食べた。

大盛りのポークカレーを頼んだ息子が、運ばれてきたカレーが大盛りでなかったことを不審に思ったらしく伝票をめくって確認した上で、店員に穏やかに声をかけ、「大盛りを頼んだんですけど、伝票にもそのようには書いていないようです」と注意を促して、問題なく盛り付けの追加を出してもらうことができた。

こういうところは、特にしつけた覚えはないが、最近話題になっているコンビニや飲食店の店員さんに横柄な若者や老人に比べて、とても安心できる材料だ。
外で食事する際にも、いただきますもごちそうさまも、誰にともなくお箸を両手に挟んで唱えてから食事に手をつけるし、残すこともなく気持ちよく平らげる。
もしかしたら食育だけは成功してるかも。

アニメやマンガの話などを中心にとても楽しく話が弾んだ。

幼い頃からこういうサブカルを与え続けたことに関して、彼は他のどんなことよりも親に感謝しているようなのだ。

柔道を途切れることなく続けさせたことや、大学教育まで受けさせたことよりもよっぽど感謝しているらしいのを目の当たりにするのは、親としていささか忸怩たるものがあるが、嬉しいのもまた事実。
オタクの血はこうして伝承される。

島本和彦の「アオイホノオ」の愛読者だという彼に、昔は呼び出し電話で人と話をしたこととか、ビデオがなかったので、見たい番組の時間にはまさにテレビの前に正座して待つしかなかったし、セル画の1枚1枚を目に焼き付ける勢いで見るしかなかったことをどう思うか、と聞いてみたら、「いやー、そういう熱意が今のアニメを作っているんだと思うよ。心は今も同じだよ」と語っていた。

つい息子の同意を求めて私の親の愚痴などを言っていたら、
「しかしアンタらは愚痴が多いね。僕とカノジョなんかは全然愚痴は言わないよ。もっと楽しい会話をする」と冷笑されてしまった。
そりゃ仲の良いカノジョと愚痴なんかこぼし合わないだろうよ。
私と大内くんだって、互いの仲については楽しい話をする。
愚痴、それは困った親戚がいる時などについ口に出る家族の話題である。
まだ君らには早すぎる。


この後もまだ1、2時間なら時間があるから、もう少し一緒にどうと言われ、思わず私の目は輝いた。
今日も、1200円までカラオケがタダになるクーポンを持っているのであった。

息子にそう告げると、「母さんはカラオケが好きだね」と笑いながら付き合ってくれるようだった。

狭いカラオケルームでタバコを吸うことだけは閉口したが、あまりカラオケは好きじゃないんだよねと言いながらも我々に合わせたのか、サザンの「C調言葉にご用心」とか小林明子の「恋におちて」などを歌う。(これはめぞん一刻の挿入歌だったのだそうだ)
私が歌う「メリッサ」や「アゲハ蝶」には「お、ポルノグラフィティーだ」とうれしそうに唱和してくれた。


保育園の卒園式で会場にあったマイクを囲んで、園児たちが大きな声のものすごい早口で歌っていたのが「アゲハ蝶」であった。
昔の子供はなんと難しい歌を歌ったのであろうか。

大内くんにはいつもの「Lemon」をお願いし、私は戸川純の「恋のコリーダ」を歌ったのだが風邪で声がガラガラだったので大失敗。

意外なのは息子がものすごく歌がうまいこと。音程がしっかりしていてリズム感も良く、声がよく伸びる。
恥ずかしげもなくノリよく歌うところは芸人風か。
こんなところも私に似ているんだなぁと胸が熱くなった。


1時間半ばかりのカラオケではあったが、とても楽しかった。
今度喉の調子が良い時にもっと一緒に歌おうねと息子も言ってくれた。
家を離れて1年余り、間に3ヶ月アメリカに行ったこともあり、今の彼はとても落ち着いて穏やかな優しい息子になってくれている。
これで生活力さえつけば何の文句もない。

カノジョと2人で食べてくれと、トマト煮込みハンバーグと豚の煮込みと煮卵をタッパーに入れて渡したら、「助かるよ、ありがとう。一緒に食べるね」とニコニコしていた。
「じゃっ!」と手を振って雑踏で別れた息子。
こういう距離でなら、また付き合いがいもあると言うものだ。

その日は病院での診療がうまくいったこともあり、夫婦2人でなんだかニコニコとずっと過ごせた良い1日だった。
明日からはまた会社だ。
私も、不調ながらも少しずつペー
スを戻していこう。

19年1月28日

ちょっとつまびらかにできない事情で、ひと晩大学病院のICUに泊まってしまった。
昨今の状態から簡単にわかるような、いかにも「お察しください」な事情。
救急隊員の方々や病院スタッフの方々に大変なご迷惑をかけ、猛反省しております。

意識はほぼはっきりしていたので、本来ひと晩中つきそってもかまわないICUなのだが、さすがに大内くんに徹夜させるのは気の毒で、いったん帰って明日の朝また来てもらうことにした。

ICUというところは、私が知ってる大学のあっちとは全然違って、静かで、緊張感に満ちていて、しかし何も起こらず、退屈で、時間をつぶす方策としては自分の指の数を数えてみるぐらいしかないところである。
睡眠薬をもらって10時に寝て、次に目を覚ましたのが12時。
(あんなに電子機器だらけなのに見える範囲に時計がない!眼鏡なしで搬送されてしまったのがいけないのかもしれないが)

4人ほどで忙しそうに黙々と働いてる夜勤スタッフにいちいち「今、何時ですか?」と聞くのが申し訳なくてずいぶん我慢したり目を凝らしたりどこかのモニタに時刻は出てないか探したり自助努力したんだが、結局朝までに4回ほど聞いてしまった。
それにしても、次に起きたら1時でその次は2時で、あとは全然眠れなくなって電子音がピコンピコン言うのを数えてみたり、ベッドは狭いしいろいろ管やらコードやらがついてるからほとんど身動き不可能な状態で自分の体の痛いとこをあちこち数えてみたり、ありとあらゆる努力をしましたとも。

あまりに眠れないでいるのを気の毒がってくれたスタッフさんが、大内くんが置いて行ってくれた本を読む許可をくれた。
驚くなかれ、完全電子機器禁止で、スマホもiPadもすべてダメ、読めるのは紙の本だけ。
しかも、私物の預かりは禁止なので、本を勝手に手元に置いていたことをひとしきり叱られてからの、やっとの許可だった。

でもね、暗いんだよ。
あちこちの機器が放つホタルのような明かりでは読めないの。
蛍雪時代だったら私は大学落ちてる。

薄暗い中で必死に目を近づけて文字を追いながら、ふと気づくと私の指先が赤く発光している。
脈拍だか血圧だかを測るために指先に貼ってあるコードをおさえるシールに、なぜか赤色ダイオードのようなほのかな光源がついているのだ。
おそらくは、暗い中でも指先のどこで計測しているか一目でわかるように発光してるんだろうなぁ。
「E.T.」で人差し指を寄せるように、ページに指先をくっつけてそのかそけき光源を少しずつ動かしてなんとかしばらくは読んでみた。
でも、圧倒的に疲れたので、この試みは放棄せざるを得なかった。

あと、静かすぎる。なにかの運命がひたひたと迫っているような静かなすり足の気配以外は、意味するところを覚えるだけで1週間は修業しなきゃならなそうな電子音のみ。
話をできるほどヒマな看護師も話せるほど状態のいい患者さんもあまりいないのであろう、40床ほどのベッドは10床ほど埋まっていたと思うが、声やナースコールで何かを要求できるほどの元気な人はほとんどいなかった。
(少なくとも私は自分の声しか聴かなかったなぁ。貴重な例外か)

「6時になれば消灯時間が終わって大内くんも来てくれるって言ってたし、とにかくあと3時間、2時間、1時間!」とカウントダウンして待ってたんだが、いったいどういう行き違いがあったのか、大内くん側では「8時」に来るつもりになってた。
私はもう「6時」に来るもんだと思って待ち受けてた。

6時半にはスタッフさんに、
「主人が来ないんです。何かあったのかと思うと心配で、電話をかけさせていただけませんか?」と泣きつき、冷徹に、「緊急以外の連絡は不可です」と却下を食らう。
ああ、もういくつの却下を食らっただろう。
人間の命を守る最前線、そこには、守らなきゃいけないルールがたくさんあって、そのすべてに意味があって、みんなの命を守ったりスタッフさんのお仕事をやりやすくしているんだよ。

いずれにせよ、会社を休んで駆けつけてくれた大内くんとは無事に会え(お互い「何時って言ったはずだよ!」って水掛け論はしばらくしたけどね)大好きな人と離れていたひと晩の寂しさをかみしめる。

でも、衛生第一のICUだから、大内くんは、薄いグリーンの不織布のガウンを着て、頭には給食当番みたいな不織布の帽子かぶって、もちろん盛装の仕上げは半面を覆うマスク。
大丈夫、大内くんの優しい目が心配そうにきらめいているのはよくわかるよ。
いちいちマスクとらないとちゅーできないのと、そもそもICUでちゅーしていいもんかどうかがとっても不安なんですけど。

その後、医師と面談し、身体の状態は許容範囲内なこと、すぐにかかりつけの信頼できるクリニックを受診してくださいね、という条件で、恐れていた経過観察入院を免れることができた。
「救急隊も動いてますしね、僕ら医師としても、2週間ぐらいは加療と観察を兼ねた入院をしていただきたいんです。おうちで安静が十分に保てますか?ご主人はそばにいてサポートすることができますか?今回のことも、もうちょっとタイミングが悪ければ最悪の事態になっていたわけで、そう簡単に安心しておうちにお返しするわけにいかないんですよ」
「はい、必要なら休みも取りますし、連絡は密にしますし、本人の気分の安定を何より心がけて安静な生活をさせますので」と大内くんがほとんど一筆書く勢いで保証して、やっと放免してもらえました。

すぐに予約を取り、退院したその足でかかりつけのクリニックに行ったが、当然ながらど叱られた。

「こういうことする患者さんを受けたがる医師はいないんですよ。うちでの治療は難しいんじゃないですか?万が一死んじゃってもコトだし、もう、入院できるとこを探した方がいいかもしれないですよ」
「それは、もう診ていただけないということでしょうか?」
「治療を続けるなら、ルールが必要です。まず、『自殺企図』は絶対禁止。これ破ったら、僕は即座に手を引きますからね。そしたらねぇ、あなた、もう、『H病院』しか行くとこないですよ」との不気味な注意。

ちなみに、担ぎ込まれてひと晩ICUでお世話になった大学病院でも、
「なにしろ死のうとしたわけですから、2週間ほどは観察と加療を目的とした入院をしてもらいたいんです。H病院が適当だと思います」となぜか推薦を受ける、自殺企図者の吹きだまりらしい謎の「H病院」であった。

吾妻ひでおがアル中でひょうひょうと入院していたことであまりに有名になってしまったこの病院、どんな場面でも、「いい病院ですから」とか「おすすめできる病院です」という言い方は聞いたことがなく、ある医師に言わせると、「どんな患者でも受け入れるのは、もうあそこぐらいしかない」のだそうだ。
これはもう、「怖いもの見たさ」のレベル。
なんだか入ったら人生半ば終わりな雰囲気が漂っている、と言ったら、そこから生還している吾妻ひでおに失礼か。
(今、先々に備えて「失踪日記2 アル中病棟」を精読しているが、何度考えたって、私はアル中の方の人ではないんだってば。むしろ、彼らに嫌がられる「精神の人たち」の側)

死にたくならないような生活を心がけなければいけないわけだが、さて、積極的に死にたいほどではなくともあまり生きていたいと思わない人間は、どう生活すべきなんだろうか。

私の中に渦巻いている得体の知れない悲しみと怒りのエネルギーはあまりに大きく、私本体を簡単に飲み込んでしまう。

大内くんと過ごす時間の楽しさだけがかろうじて私を現世につなぎ止めているわけだが、彼だって仕事もしなきゃ食っていけないもんで、毎日私と遊んでいられるはずがない。
しょうがないので、本と漫画さえ読んでいれば無限に暇が潰せると思っていた特技に賭けてみてるんだが、何かが心の琴線に触れるたびに悲しくなったり落ち込んだり死にたくなったりするのね、読書体験って。意外だわぁ。

「美味しんぼ」「あぶさん」「ゴルゴ13」あたりはまずあたりの来ない「いよっ、大根役者!」と声をかけたくなるようなある意味無害な作品だが、同じような短編連鎖式人生訓編群でも「浮浪雲」「黄昏流星群」はちとやばい。注意喚起作品である。

19年1月30日

「このままだと何かのはずみで死んでしまうかもしれないから、もう少し気を付けた方がいい」と主治医に注意されたので、とりあえず、なぜ死んでしまいたいかを考えよう。

生きているのはつらい。
楽しいこともたまにはあるが、基本的に面倒くさいことが多いし、悲しいことや腹の立つことの方が総合的には多い気がする。
おまけに何と言ってもあと40年しないうちにほぼ確実に死んでしまう。
多少の努力をしたところで寿命は飛躍的に伸びたりしないし、もし伸びてもたいてい認知症になったり動けなくなったり、あまり満足な状態とは言いがたいらしいし、そもそも私はあらゆる意味での努力がきらいだ。

世の中の役に立つこともあまりないし、子供たちはもう私を必要としていないし、唯一大内くんの相手をすることでこの世でのみすぎよすぎをしている身の上。
いなくたって、大内くん以外の誰も本格的には困らないだろう。

というようなことを大内くんに言ってみた。
答えはこうだった。
「キミは、自分が好きじゃなさすぎる」
なにをおっしゃるうさぎさん、この世に私ぐらい自己愛が強くて自分を偏愛している人間がいるだろうか?

大内くん曰く、
「キミのそれは、自分を好きなわけじゃなくって、自分を認めてもらいたいだけ。存在を、価値を、この世に生きる権利を認めてもらわなかったから躍起になって本来自分のものであったはずのそれらを取り戻そうと格闘してるだけで、本当の意味では、キミはまったく自分を好きになってあげていない」

「人は、自分が大好きだから、自分を喜ばせようとするものだよ。僕なんかは根が怠け者だから、すぐに『今日はやる気が出ないからいいや』とか思って用事をサボってつかの間の快楽を得ようとする。けど,キミはそんな風に気分だけではサボれない。『ほかにやらなきゃいけないことが見つかったから』とか『今日はこっちが急ぎだから』とか、やらなくてもすむきちんとした理由が出てくるまではやらなきゃいけない用事から逃げ出せない。人間はね、そういうところで自分を甘やかしてゆとりを生み、バランスをとっているんだよ。やりたくないことはとりあえずやらないで、その時の気分を大事にしてごらん、いつも、どうしたら一番自分を楽しくさせてやれるかを考えて」

そこまで言われると、反論したくなるじゃないか。
「言っとくけど、私はすごい怠け者の甘えん坊だよ。やらなくていい理屈があったらいくらでもやらないですごすよ。じゃあ、家のことも何にもしないで寝て暮らしていいんだね?」

「それが、まさに今のキミにしてほしいこと。あれだけのことがあって心も身体も疲れ果てて、それなのにキミはまだゆっくり眠ることさえできない。1か月ぐらいは休暇のつもりで、何にもしないでやりたいことだけをやってごらん。幸い、うちにはもうご飯を作ってあげなきゃいけない子供はいないし、大人2人の話し合いで何でも進められる状態なんだよ。2人の人間が一番幸福なように、そこにこそ気を使っていこうじゃないか」

と、珍しく言いくるめられまして、当面休暇中。
と言ったって、もともと我が家で私がやってたぶんの家事の割合は非常に低く、1日寝てマンガ読んで過ごしてたわけだから、結局何にも変わらないんだけど、そこに「治療中だという気概を持て。精神の健康のため、あえてだらだらと過ごしているんだということを忘れるな!」との注釈付きの生活がしばらく続く予定。
なんだか久しぶりに昔の主治医の「タオルをきちんとたたんではいけない療法」を思い出したよ。
結局、おんなじことを言ってるんだろうね。そして私にはあんまり進歩がないんだ、きっと。

19年1月31日

私はすぐ怒る。
しかし、相手が悪くてすぐに謝ってくれればたいていたちまち許す気風のいいおねーさんだ。
もし何かの手違いでこっちが悪ければ、さらにマッハの速度で最大限の謝罪を惜しまないのはいうまでもない。

文句は言うが、愚痴は「今から言います」宣言とともにしか言わないようにしている。
愚痴を言って多少なりともましになるのは私自身の気分でしかないからだ。
せめて、相手の了解を取り付けてから始めたい。

一方、文句ってのは「今のこの事態をどう解決するか、どう打破するか」という建設的な気分から来ているがちょっと短めの波長を伴っているだけで、十分に問題を打破する議論に発展していくものだと思っている。
だから、修復不能な亀裂が入らない限り文句の応酬は嫌いじゃないし、たまに「次の機会には使ってみよう」と思えるようなイカシた罵倒に遭遇できることもあるのが嬉しい。

こんなふうにいくつか自分を分析するところから始めてみると、どうも自分の一番の特徴であり欠点であり他人と大きく異なっているところは、「白黒はっきりしすぎていて、グレーゾーンが異様に少ない」ことではないかと思われる。
好きな言葉は「とにかく」「要するに」、大嫌いな言葉の代表は大内くんが日常に多用する「なんとなく」であるところも、この説を裏付ける。

私の母親は気分の不安定な人だった。
そして、同時にそれを正当化する名人でもあった。
母のはた迷惑な行為には必ず「だってしょうがないじゃない、そうなっちゃったんだから」という自己弁護が付き、悪いのは大方自分以外の誰かほかの人間であった。
おまけに暴力的でもあり、気に入らないことがあると鍋敷きとか台拭きとか投げつけてくるうえ、当たらないと腹立ちまぎれに拾ってくるよう命じてもう一度投げつける念の入れよう。

投げるのがそんな柔らかもんならそう怖くないじゃないか、と思う人も多かろうが、怒り猛った母が全力投球した「ヘアブラシ」(主観的にはとても堅い)がマンションの廊下を一直線に飛翔し、行き止まりの鉄のドアに当たって「かぁぁぁぁん」と跳ね返ったあの時の音は、もういまだにトラウマになってるぐらいで。

私が破天荒な性格の割には安定を好み、パンクチュアルで事態の予想を立てたがるのは、絶対にこの母のおかげで不安定極まりなかった幼少期の世界のせいだ。
昨日なんでもなかったことが今日は文句の種、もめごとの原因になる。
今日「いい」と許可の出たことが、明日も同様に許されるかどうかはわからない。
すべては母の「その時の気分」だった。
必然的に私の世界も不安定となり日々姿を変え、いまだにアブストラクトに私を恐慌させるようだ。
決まったルールにど外れて固執するのはどうもその辺が原因なんだろう、できるだけしっかりした浮き輪につかまっていたい的な。

なので皆さん、私が些細なことにこだわって頑迷になっているような時は、
「ああ、大内夫人がまた小さな浮き輪に必死でしがみついているなぁ」とのご理解を賜ると非常にありがたいです。

19年2月5日

クリニックに行くついでに、近くの図書館で予約の本をピックアップできるよう調整しておいた。
大内くんにはこれがものすごい驚きなんだそうだ。
毎週のように近所に行ってる今、受け取り館を変えるぐらい当たり前じゃん、と言ったら、
「合理的すぎる。僕には絶対思いつかない!」
ほめられるのはすごく嬉しいけど、私にはあなたの職場の仕事がどう回ってるのか、思いつかないよ。
「僕が出来ない人だから、周りに優秀な人が育って助けてくれるんだ」って得々としてる場合だろうか。

今日も1200円まで無料のカラオケを一人で楽しんでいこうか、それとも一人メシで先日も食べた「パッ・タイ」を楽しもうかと考えたけど、どうも体調が悪い。

先週は息子と大内くんがインフルくんで、大内くんに至っては別口のただのおなかの風邪を再びひき込んできてる。
私も早く帰って休もう。

ところがその夕方から、強烈な下痢と嘔吐と高熱に襲われた。
結局、ほぼひと晩39度台でしたよ。ああ、びっくりした。

そこで気づいたこと。
「夢のママ」を期待してしまう。
こんなに「おねつ」なんだから、お布団にふくふくと寝かせてくれて、氷嚢でおでこを冷やしてくれて、いつもは貴重品なヨーグルトやプリンを食べさせてくれて、「苦しい?熱いねぇ。かわいそうだねぇ。早く良くなるようにママがぎゅっとしてあげようね」と言ってくれる理想のママ。

私の母は、私が病気になるのを嫌っていた。
大病をして体が弱いのが自慢なので、自分より具合が悪い人がいるのが許せないようだったし、心の弱い人で、「子供が病気。面倒みて治してあげなければいけない」って現実がいちいち重かったんだろう。
「具合が悪い」と言うと、まず体温計が出てきて、微熱や平熱では「ない!」と却下される。

中学で異常が発見された心臓も「ああ、あれは違う。うそうそ」と言われた。
私自身、7年ほど前に異常がはっきりしてもなかなか本気にできず、ついには手術を受けても、なんだか自分の身体のことではないみたい。

「おねえちゃんは本当に心臓が悪いんだけどね。心配だわ」となぜか心配されていた姉は、私が手術を受けると聞いて、
「あなたも心臓が悪いの?でも、私の方が悪いわよ。忙しすぎて、時々薬もらいに行くの忘れちゃうんだけど」。
なんかもう、いろんな思いがぐるぐる渦巻くなぁ。

そんな私にとって、リアルに39度もの熱が出るなんて、人生の大チャンス。大当たりのジャックポット。
優しい大内くんがきっと徹夜でありとあらゆる世話をしてくれるに違いない、って期待してしまい、現実には仕事もありそんなわけに行かないってとこで、ずいぶん泣いて責めてしまいましたよ。
思い出すと非道だった。

ただねぇ、その前の晩におなかが痛くて丸まってた大内くんは、「そういう時はほっといてほしいタイプ」らしい。
「おなかに手を当てて『お手当』しようか?あんがい効くよ?」
「お白湯飲む?あったかくしたポカリもいいらしいよ」
「はらまきでもしてみる?
気の毒なことに、最後には「ごめん、今、苦しくて返事できないから、話しかけないで…」って言われた。

私は辛い時苦しい時具合が悪い時、かまってかまってかまい倒してもらいたいタイプ。
「ほうっといてほしいのか…」って驚きながらそのまま寝たけど、次の晩に私が具合悪くなったら、
「僕とは違うタイプなんだよね。看病して親切にしてあげよう」って張り切ってもらって一向にかまわない。
「つらそうだなぁ…ほうっとくのが、一番だろうなぁ」となぜナチュラルに思うのか。
話し合おうよ、すりあわせようよ!

30年結婚してて、今後も20年ぐらいはよろしくお願いしたいと思っているのに、人って本当にみんな違う。
そして、大内くんも私も、自分の考えから離れるのが少し苦手な方。
よっぽど工夫しなきゃなぁ。
課題がいっぱいで楽しい人生、ってことにしておきましょう。

19年2月7日

親子関係の本を読んでいたら、こんなことが書いてあった。

「ものごとを悪い方にばかり考えたり、出した成果に対して素直に喜べないことに居心地の悪さを感じる人がいます。このように、何に対してもマイナスに考え、『自分が悪いのでは?』と疑ってしまうのは、子供の頃から重ねてきた究極の合理的思考(否定的自己認知)がひとつの原因となっています。

幼い子供は、年齢相応の合理性を持っています。『どうして?』としょっちゅう問いかけるのは、その表れなのです。ところが、突然叱られたり理由なく冷たくされ続けてきた子供は、その理由を考えても訳がわからないのです。意味不明なできごとばかりでは、子供の世界は合理性を失ってしまうので、『全部自分が悪い』と考えるようになります。そうすれば、すべての現象が合理的に受け止められるからです。母が怒るのは自分が悪い子だから、母が束縛するのも自分が悪い子だから、と考えると説明がつくのです」

うーん、私は感情的なところも多いにせよ全体としては合理的なタイプだと思っていたけど、どうやら自分が考えていたよりはるかに小さな浮き輪に必死でしがみついているだけかもしれないなぁ。
自由な発想で問題の解決を図るのと合理性はかならずしも同じじゃなく、むしろ前者の柔軟さが私の持ち味かもしれない。
合理主義者を標榜するのはやめよう、とちょっと思った。

自分の浮き輪の話を考える時、友人から聞いた話をいつも思い出す。
彼女は小さい頃、1人でお風呂に入るのが怖かったんだって。溺れてしまうんじゃないかって。
するとお母さんは彼女の首に細長くたたんだタオルをかけ、「この両端にしっかりつかまってれば大丈夫!」と教えてくれて、彼女は安心して入浴したのだそうだ。
浮き輪やタオルは、人生に必要なものなんだよ。
特に、いずれは溺れないで1人でお風呂に入れるようになるのが確実なんだとしたらね。

ちなみに上記の話は「いい話」だからね。いいね。
ついでに、息子と先日話した時に「子供だって説明してくれればわかるのに」と言われたことについて。

「虐待になるか否かを分けるのは、その後のフォロー、つまり言葉による説明と感情面のケアにかかっています。『合理的思考』のところでも述べましたが、子供は大人が想像する以上にいろいろなことを考えることができます。フォローをされれば、ダメなものはダメだと心に刻むと同時に、親が叱ったのは理由があってのことだと理解できるでしょう」

彼が自己申告通りに「言われればわかる」ことと、15年ぐらい遅かったのかもしれないが、今でも我々のフォローは有効だということ、をしみじみ思う。
それもこれもそこそこ良好な親子関係あっての物種だ。
私の脳裏には、理由のわからない台風が吹き荒れてるような心象風景が広がりっぱなしだ。

「いつかは完全なお母さんが、完璧に自分を受け入れて愛してくれる」という幻想がいまだに私を苦しめる。
ええ、還暦なんですけどね。
大人になりきれない人に、年齢は関係ないんだろう、きっと。
まずは「世の中に『完全』なんてものはない」というところから始めようか。
欠乏が大きいから、「得られるはずのもの」が赤色巨星並みに膨張・巨大化してるのかなぁ。
「お母さん、あなたは私の何がそんなに気に入らなかったの?どう直したら、お姉ちゃんより愛してくれたの?」という悲鳴のような悲しみで、涙と鼻水だらけになって泣くのはもうやめよう。

19年2月18日

「二月の勝者」というマンガがある。中学受験のマンガか。
1巻の最初で塾講師が言う。
「君達が合格できたのは、父親の『経済力』、そして母親の『狂気』」。
子供の頃から受験して難関を目指すにはその2つが欠かせないのかもしれない。
大内くんも、
「ある時期、狂気になるしかないと思うよ。特に母親はね。ただ、その狂気の中にずっととどまってるってのが問題で…」と複雑な顔してた。

まあ、我が家では「今の息子」を観察してて「ここで受験だ!」ってタイミングを見てたら、都立高校を受けるって選択になった。
大内くんが男子校アレルギーだったとか、私が地方出身者なので「東京のいい学校」を全然知らないとか、そういう事情もあったけど、中学受験は「向いてる子」と「向いてない子」がいると思う。
そもそも「勉強に向いてない子」もいるという事実が認められにくい世の中になってきた。学歴偏重の時代が続いたからだろうか。
だからこそ、「ここで頑張らせなければ!」って狂気も欠かせない条件なのかも。
そもそも、子供を育ててる時ってあんまり正気ではいられないよね。

息子がうんと小さい頃、「自分は今、この子に溺れ始めている。しかしある程度は溺れなければ育てられない」と思ったので、親しい女友達に頼み事をした。
「いつか、私がこいつのために正気をなくしていると思ったら、そう言ってね」と。

そして、息子が10歳の頃、「バレンタインデーにチョコがもらえない男子はぼくだけだった。学校で、ちょっと泣いちゃった」との報告を受け、私は思わずその友人に電話をかけてしまった。
「今からでも、あなたの名を借りてでも息子にチョコをあげたい!」
彼女は、冷静に真摯に、言ってくれた。
「前に頼まれていたから言うけど、今、あなたは正気をなくしているよ」
持つべきものは良き友と未来予想能力、って話だけど、ちょっとぐらい狂気に陥らずに、なんで親をやっていられようか。

私の母親は、私のためには狂気にはなってくれなかった。
小学校の帰り道に近所のいたずらな同級生男子に石をぶつけられ、帰宅した母が、頭から流血して「いたいよう」と部屋にうずくまって泣いている私を発見した時も、母の怒りはなぜか自分の子供に向いた。
「ぶつけられて黙ってることないでしょう。文句言ってきなさい」

しおしおと当該男子の家に行き、お母さんに事の次第を告げると驚いていて、夜に当人を連れてカステラ持って謝りに来た。
母親は満足そうだったが、翌日、学校で「あいつ、文句言いに来たんだぜ。カステラ泥棒だ」と男子たちに罵られたことを母に告げると、再び、
「言われっぱなしになってないで、文句言いに行きなさい」

たぶん、カステラは食べちゃってたんだろうなぁ、手ぶらでまた相手の家に行き、お母さんに、
「カステラが欲しくて言いに来たんじゃありません。謝ってもらいたかっただけです。もういいですから」と話した。
普段は活発なのに、本当に足取りもとぼとぼと住宅街を歩いた、その不思議な気分をずっと覚えている。

大人になってからも何度も考えていた。
母親は「怒り狂ってねじ込む」ような人ではなかった。
彼女の「世間体」はそういう方向に働いていた。
内弁慶で、よその人に言いに行くのはめんどくさく、恥ずかしく、「子供のケンカに親が出るのは大人げない」と、子供本人に言ってしまうような人だった。
まだ小学校5年生ぐらいの子供に。
ケンカじゃなかったのに。日頃の私がおとなしすぎて自主性を育てる必要があったわけでもなかったのに。

3歳ぐらいの頃、デパートのエスカレーターでふざけていて転げ落ちて頭に怪我をしたら、母親は、駆け寄るデパートガールさんに「いいです、大丈夫です」と繰り返しながら急いで家に帰り、泣いている私を抱きしめて言った。
「小さい子が怪我をすると、親がちゃんと見てないからだって、ママが叱られるの。だから、ママ、『病院に行きましょう』って言われても、ささっと逃げてきたでしょ?でも、あなたの泣き声を聞いて、もう今にもおまわりさんがママを捕まえに来るかもしれない!」

ママがつかまっちゃう!と必死で涙を飲み込んで痛みと戦って、ガマンしようと思った。
ガマンしないと、ママが連れて行かれちゃうから。
痛くても、泣いたらダメだから。
大げさなことになったら、ママが嫌がるから。

「子供は自分自身より大事」と言葉では言われて育ち、子供にはその言葉を超える「自分の言葉」がまだないから、母の言葉と「大事にされない現実」は常に乖離していた。
初めてのお産が緊急の帝王切開になり、呼吸せずに産まれた赤ん坊は呼吸器に直行で抱くことも顔を見ることもできなくて、産後の入院中、私はずっと泣いていた。
母は飛んできてくれたが、親戚の優しいおばさんが慰めようとしてくれたら、「あこちゃん」と低く叱った。
もう泣くな、と。人を、ひいては自分を、困らせるなと。

彼女は、自分が困ることが一番嫌いだったんだと思う。
自分が人に迷惑をかけても、自分のことだから気がつかないでいられる。後ろ姿は自分には見えないようなもの。
でも、子供のことでは親、特に母親が責められるから、「子供自身の責任で行動させる」「自主性のある子供を育てる」体裁で、みっともないことはしなかったんだと、今はわかる。
勉強しないことやマンガを読むことにほとんどうるさくなかったのは、「母自身は別に困らないことだから」だったんだろう。

母が「私のために」狂気に陥ってるところをみたことがないから、健やかに「狂気」を持ち、不要になったらさっと「正気」に返る、そんなお母さんたちに憧れる。
さてさて、私は今、正気でしょうか?

19年2月19日

通院日。
1人で外に出ると、ふらふらしてかなり不安。今日も1人カラオケは無理か。

前回、先生に「ご主人は引いてますよね」と言われたのが納得いかなかった。
大内くんに話したら、
「キミが大変でかわいそうで、僕に何ができるかどうすればいいかと悩んではいるが、全然引いてはいない。それだけは違う。何十年もカウンセリングにずっとつきそってきたのは伊達じゃない」と断言されたので、そこだけはちゃんと伝えねば。

あと、大内くんと結婚してから初めて「もしかしてこの人は最近流行りのモラハラ夫か共依存で、奥さん
をダメ人間にして面倒みて、自分の存在意義を確かめてる?」と考えてみた。いちおう、何でも考えてはみる。

その話だけでなく、自分の考えや大内くんとの話をまとめたものをタブレットの画面で1スクロール半ぐらいにまとめて持って行き、「見てもらえますか?」と聞いたら、先生は「はいはい」と読んでくれた。

「母親に破壊し尽くされたことに初めて気づき、今、瓦礫の中に立ち尽くしている」というのが大内くんの説。
「悲しいのが当たり前だよ。絶望するよ。だって、瓦礫なんだもの」って。

そう聞いて、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「『病気』が良くなったら、お母さんから完全に離れられたら、元気で完璧な自分が出現するんだと思ってた。元気な自分は、お母さんに隠れて見えないだけだと思ってた。だから、お母さんは死んだし安定剤も睡眠薬ものまなくなったから、もう自分は大丈夫なんだと思ってた。それなのにダメでダメでどうしようもないから、絶望してどうしていいかわからなくなってた。まさか、お母さんが私を完全に破壊し尽くしたなんて思ってなかった。そこまでひどいことができるなんて思わなかった。だって、どんなにひどくったって、『親は子供を愛してるものだ。あなたを大事にしてる』って言ってたんだもの。全部本当に嘘だなんて、思ってなかった。きれいなお城が出現するとばかり思ってたのに、瓦礫しかないなんて!」

大内くんの手を握ってしばらく泣きながら、よく考えてみた。一生懸命考えて言った。
「でももう、幸せになっても怒られないんだよね。思ってたお城はないけど、瓦礫を片づけるのを邪魔する人はいないんだよね。ひとつひとつでも石ころや破片を拾って片づけるから、きれいになった空き地に新しい建物を建設するのを手伝ってくれる?この年からじゃたいしたものは作れなくて、せいぜい2,3階建てかもしれないけど」
予想通り、彼の答えは、
「もちろん手伝うよ。キミがキミとして幸せになってくれれば、それが僕の幸せだよ」だった。
またぽろぽろぽろ。

てな話をタブレットで読んでくれた先生、
「考え方として間違ってないと思いますよ。そうか、ご主人は僕が考えてたのと違うみたいだなぁ」
私「ここに一緒に来る男性はモラハラのタイプか、引いてるかですか?」
先生「うん、いろいろ見てるとね、正直言って、どっちかになっちゃうね。『あ、これはアレだな』ってね。ご主人は違うのかもなぁ。あんまり会ったことないタイプだなぁ。彼は、僕の世界に新しい窓を開いてくれましたよ」
私「『共依存だとしたって、30年やってきたことなんだし、人に迷惑かけなきゃいいよ』って言ってます」
先生「カギと鍵穴がぴったり合っちゃったんだなぁ。それはもう、しょうがないよね。合ってればね、いいんだよ。ご主人も、あなたという重荷があったからこそ生きる張り合いがあったのかもだし。オレもね、結婚してなかったらもっとふらふらしててさ…今頃はさ、もっとダメダメでさ…」

なんかツボに入ったのかな、自分語りが始まったぞ。まあ、同意はしてもらえた。

当たり前だけど、向こうにとって私(と大内くん)はまだ何回かしか会ったことない赤の他人、多くの患者の中のごく一部だ。
まずは「社会的に外に出ている夫の陰に隠れて自分の世界がなくなってる専業主婦が、子供が出てって『空の巣症候群』で煮詰まってうつになってる」ってケースかな?ってとこから始まるんだろう。
いやまあ、煎じ詰めればそういうことかもしれないけど、この専業主婦は、こじらせ方が半端じゃないんですよ。
(というふうに、自分を特別な存在だとずっと思ってるのが一番顕著な症状の、やっかいな患者)

「泣くのは、いいよ。どんどん泣きなさい」と言ってもらえたので、しばらくは思うさま泣いていよう。
驚くほど涙があふれてくる。
「涙は心の汗だ!」と往年の青春ドラマは言ったが、中高年もあんがい汗が出る。精神的にも肉体的にも。
「涙が心の汗ならば、汗は肉体の涙なのか」と「筋肉番付」で古舘伊知郎が言ってたのを思い出すなぁ、今、私は心も肉体もやたらに汗をかく、だらだらと汁っぽい生き物だ。
どこか失調してるのは確かなんだろう。

19年2月26日

クリニックに早めに行ったら待ってる人が全然いなかったので、先生独占状態。30分も話しただろうか。
部屋が暖かくて少し袖をたくしあげた時、腕のあちこちに赤い筋を作る自傷が目に入った。
「自分でもなんであんなことしたか、わかりません」
「そりゃよかったよ。そう思ってくれてさ。今でもそういう気持ちです、って言われたら、困っちゃうもん」
先生、気さくな人だね。

先「なんでつらくなっちゃうのかなぁ。お母さんとの関係が問題なのは確かなんだけど、あなたは、虐待を受けたのかなぁ」
私「普通に生活してごはん食べさせてもらって、衣食住に困ったことなくて、東京の私立大学まで行かせてもらって、普通に良くしてもらってることはわかるんです。毎日殴られたり怒鳴られたりしてたわけじゃないし」
先「殴らなくても、虐待はあるんだけどね」

先週日記に書いたようなことを話した。
コントロールされ、母の思い通りでないと怒られたこと、責任を持ちたくない母のため「子供の判断で」「母の気に入るように」行動しなければならなかったこと。
すでに20年以上カウンセリングを受けているため、話す内容がこなれすぎてるのは感じるが、仕方ない。

先「話を聞いてると虐待っぽいね」
私「そう思いきれないのがしんどいです。『育ててもらったのに』『何不自由ないのに親に文句言って』って、母の声のみならず世間の声も一緒になって責めてきます。ここはひとつ、『虐待だった』ってことで、いきませんか?」
先「うーん、もっと話聞いてからだな。あなた、大学時代とか、楽しいことはなかったの?」
私「自由にやってましたから、楽しいと言えば楽しかったですけど、いつも何かに追い立てられてる気分でした。切羽詰まってるというか」

先「お母さんは、あのダンナさんのことはどう思ってたのかな」
私「『いい人よね』とは言ってましたけど、上から見てましたね。私なんかを好きだって言う人は、みんな変わり者の宇宙人だって思ってたみたいで。前の結婚の時は、早くきちんと結婚したら母が安心して、ほめてくれるって思ってたところがあったんです。でも、母と姉が『やっぱり変わった人よね。あの子に似合いの宇宙人よ。宇宙人は宇宙人同士結婚するのよ』って言ってるのを聞いてサーっと血が引いて…それで離婚したわけじゃないですけど、精神的には追い詰められてました。母は、私サイドに立つ人をみんな、巧みにけなすんです。元の主治医のことも、『立派な先生よね』って言う反面、『面白い顔してる』とか『頑固で極端』とか、さりげなく執拗に悪口を挟んでくる」
先「ダンナさんのことも悪口言ってた?」
私「悪口までは言いませんが、夫の下の名前で『〇〇ちゃん』って呼んでて、私より年下ってのもあったんでしょうけど、軽く見てるのが夫にも伝わってはいました。怒るような人じゃないので波風は立ちませんが、病気の娘を支えてくれてる人に対する態度じゃなかったと思います。口では『ありがたいわねぇ』って言ってても、母自身が感謝してるんじゃないんですよね。『あなた、〇〇ちゃんに感謝しなきゃね』って感じで。姉も同じでしたが、もっと態度があからさまで、腹が立ちました」

言ってて、頭の芯がキーンと冷えるような感じがする。
そうか、こんな人たちに育てられたのか。
大内くんとの今の暮らしを、厄介者が大人しく去ったとほっとしこそすれ、全然認める気なんかない人たちだった。
人たち、は主に母と姉だが、問題を見て見ぬふりしてた父にも一端は被ってもらうよ。

お父さん、「母親と姉がくっついちゃって、あの子がはじき出されてる。かわいそうだ」って親しいおばさんに言ったでしょう、なんで私に直接言ってくれなかったの。
そしたら私、嬉しかったのに。亡くなってから聞いても、遅いよ。
私の悲鳴が聞こえてたのに気づかないふりを決め込んでいたなんて、知らなかった。びっくりだ。
お互い変わり者で家族からはみ出してたけど、お母さんとお姉ちゃんていうカタマリをはさんで反対側にいたから直接話はしなくて、たまに目と目が合うと連合軍をそっと指して「ありゃ、かなわんな」って言い合ってるつもりになってた、それが思い込みじゃなくて本当だって、生きてるうちに話してくれたらよかったのに。
お父さんの遺品のPCデータもらって、誰か知り合い宛の昔のメールに「下の子が東京の大学に入りました」って書いてあるだけで、あなたの視界にちゃんと入っていたんだ、って嬉しくなるぐらいだったのに。

このクリニックではカウンセリングも受け付けている。
今は先生に時間を割いてもらってるけど、一度ちゃんと自費で受けるのもいいかもしれない。
これまで公費に助けられてしか受けてなくて、1時間5千円とか払ったらもうちょっと真面目に考える気になるかも。
美容院にそれぐらい出すことはあっても、精神の健康にはなかなか支払えない。
「日本人は見えないものに金を払う習慣がない」せいだろうか。

考え始めると、信田さよ子の「カウンセラーは何を見ているか」なんて本を図書館で借りて読んでしまう。
だからさぁ、その、下調べして理論武装して臨むの、やめようよ>自分。

19年3月5日

大内くんはけっこう私の嫌がることをする。
ちょっとのすき間時間に何か始めて、終わるべき時間が来ても「やりかけてるから」「始めちゃったから」と言って作業を止めないことが多い。
そのたびこっちは「そういうの、やめようよ」と何度も提案している。
たぶん、結婚生活30年間、ずっと。
「始めちゃうものはしょうがない」と踏ん張るならまだしも、「そうだね、僕はせっかちでいけない。これから気をつけるよ。やめるね」って謝るから、次回また同じことが起こると頭にくる。

しかも、私もいい加減辛抱強いというか、あきらめが悪いというか、「この人はこういう人なんだ」と見切れない。
それを「愛の深さ」と自画自賛自己陶酔だけはしなくなる程度の成長はあったものの、さてもさても、業の深いことよ。

先日も同じような問題が起こった。
しかも、第一次問題勃発時に床に突っ伏して泣いている私を大内くんは真摯に慰め、
「僕はどうしてこうなんだろう。キミをこんなに悲しませて。もう絶対にしないから。これから気をつけるから」と泣かんばかりなので、「わかったよ。頼むね」と涙を拭いた。
その2時間後、「もう寝ようね」と言って2人とも「歯を磨くためだけに」書斎に行ったら、机の前に座った大内くんはいきなり書類仕事を始めた。
10分後、「これ、いつ終わるのかなぁ。もう、私は歯磨き終わったけどなぁ」と思ってる私が話しかけていたら、
「ちょっとややこしい記入をしてるから、返事ができないかもしれない」と。
第二次問題勃発。しかも、より大々的に。

私、静かに蒼く怒り狂う。
「『もう寝よう』って言ってたのに、なんで何の断りもなく作業が始まるの?ついさっきだよ。あんなに謝って、もう絶対しないって反省してたの。私が涙を拭いたら終わりなの?あなたに約束を守ってもらうためには永遠に泣き続けていなきゃいけないの?言っとくけど、そのアピールのために泣いてるんじゃないからね、私は!」
自分で書いてみてもメンヘラだとは思うが、大内くんもいちいち謝るし。
また謝罪の嵐。

今日は、大内くんと話し合った結果の新説をクリニックでちょっと唱えてみた。
「こうこうこう言うわけで、夫はある種のモラハラって言うか、精神的なDV加害者じゃないかと思うんですよね。『もうしない』と言ったことを繰り返し、謝ってはまたやる。それが私のストレスになってるんじゃないかと。本人は『そうかもしれない。でも離婚はしたくないから、もし僕が原因なら僕自身カウンセリングを受けるとかしてもいいから、先生に相談してきて』とのことです」

だって、克服できたはずの「母親との問題」が今頃になってこんなに激しく再燃するなんて、おかしいもん。
大内くんが「お母さんの最後の抵抗。キミが本当に幸せになろうとしてるから、離すまいとキミの心の中で暴れてるんだ。負けちゃいけない」って言うのは、母親にすべてをかぶせて自分自身の加害をごまかしてるんじゃないの?

確かに私が過反応している部分もあるだろう。
育つ過程で受けた「誰も私を見てくれない」トラウマがぱっくりと開き、「ああ、また同じ状況が起こっている。何度も何度も起こる。もういやだ」と必要以上の流血を見るのかもしれない。
それでも、現在起こっていることは大内くんとの問題であって、私の中で母親がめちゃくちゃに暴れて手がつけられないのとは違うような気がする。

なんだかんだ言って、息子が家を出て陥った「空の巣症候群」をこじらせ、大内くんと夫婦として顔を突き合わせ、これまで向き合いきってきたつもりでもまだまだ向き合う余地があったってこと?

そんなような話を聞いて、先生は腕を組んで、しばらく「うーん」と考えていた。
「あなたの夫はさぁ、ちょっとADHD気味だね。書斎だか寝室だか知らないけど、寝るって言ったんなら寝ればいいじゃない。気が変わりすぎだよ。あなたがまた敏感だもんだから、夫の気が変わったのが目についちゃうんだねぇ。夫の言葉にとらわれすぎなんじゃない?」

私「それは確かに私の問題点なんですが、母親から愛情を感じられない『現実』を、あなたを愛してる、大好きだ、可愛がってる、っていう『言葉』にすがって補ってきた悪癖のせいだと思います。言葉にこだわらずにはいられないんです」

先生「それも、直せって言って直るもんじゃないからなぁ。あのね、あなたの夫は、治療するほどのことはないけど、気が変わりやす過ぎ。安定を求めるあなたには、合わないと言えば合わない。でも、出会っちゃって好きなんだったら、お互いそれで行くしかないでしょう。言ったことぐらい、覚えてて守れ、って僕が言ってたって夫に言っといて」
おお、私はお咎めなしかい!
てっきり、極端で過激、って叱られるんだと思っていたぞ。

治療者というのは、クライアント(患者)の利益を守り、明らかに病気であったり社会に迷惑をかけ秩序を乱すんでない限り、「そういうところがいけません。直しなさい」とは言わないんだね。
もし、このドクターが大内くんを治療してるんだったら、私に「あなたは夫を追い詰め過ぎ」と言っていたことだろう。
たとえ内心はどうあれクライアントの利益第一に動いてくれる有能な弁護士が、相手側についていなくてよかった、と胸をなでおろすような気持ち。

大内くんに「離婚しなくてもいいようだよ」と言って先生の言葉を伝えたら、こちらはこちらで胸をなでおろしたらしい。
「そうかー、ADHD気味か。確かに、集中するのが難しいんだよね、気が散りやすくて」と言ってネットで簡単なテストを受け、「うーん、スコアが高い」とかつぶやいていたよ。
私は、回転が速いのと激しやすいのとで一見集中力なさそうなんだが、実はわりとすぐ集中状態に入れるんだ。
ただ、精神的に体力がないので、すぐくたびれて倒れちゃうけどね。
2人とも、「超能力が短時間しか使えず、しかもそのあと一定期間使い物にならない」主人公みたいなタイプなのかも。
なんだ、結局似たもの夫婦か。

印象的だったのは、自分たちのことをよく理解してもらおうと「夫も私も、マンガが大好きなんです。マンガのサークルで知り合いましたし。まあ、オタクですね」と言ったら、しばらくのちの会話で、
「まあしょうがないよね、マンガ読むようなオタクなんだから」と言われたこと。
良いとも悪いとも思わないが、日頃オタク同士だけでつるんでいるので、何やら新鮮な見解であったことですよ。

19年3月12日

クリニックの先生が言っていた。
「人間は、1人でぼーっとしていられるのが理想なんだよね。でも、実際にはいろんな制約や事情があるから、一人暮らしのご老人ぐらいかねぇ、実現できるのは」

1人か。私が最も苦手なことだ。
1人でいると人格が保てない。
ポルノグラフィティだって「Mugen」の中で歌っているじゃないか。

「僕が暗闇を恐れてるのは いつか そのまま溶けていきそうだから
 ほんの小さな灯りでもいいさ 僕は輪郭を取り戻す」

私にとっては、他人の存在や発してくれる言葉が「灯り」で、それに向き合って初めて自分の輪郭がわかる。
自分の内側からは、「自分」の感覚はやってこない。
もちろん「感情」は内側から沸き起こってくるんだが、今度はそれを止める「外と内の境目」、自分と外の世界を仕切っている壁がないと感情がそのまま外にあふれ出してしまう。
その「仕切り」「壁」も、内側から作るというよりは、外側にいる人の気配が作ってくれる。
あくまで、人と自分の仕切り。

コウモリが超音波を発しながらその反射で自分の位置を知るように、私は言葉を発して、相手から返ってくる言葉で自分の位置と存在の意味を確かめる。
透明人間にペンキをかけたように、その時初めて自分の姿が浮かび上がる。

こんな「ほぼポエム」を語っても仕方ないので、先生に言う。
「1人って、苦手なんですよね。どうしても、少なくとも配偶者には頼ってしまいますね。幸いと言うかなんと言うか、向こうも寂しがり屋なので、私が極端で過剰すぎるとは思うようですが、基本的にイヤではないようです」
「いいんじゃないの、向こうもそれでいいなら。組み合わせだからね」

今回のお話で一番重要なのはこちら。

「落ち着いてるようだから、そのままで。不安になっても、それは春のせいだから、深く考えてはいけない。春は誰でも調子が悪くなる」

念のため、「考え事が湧き上がってきても、今は気にしないで、5月の終わり頃にゆっくり考えた方がいい、ってことですか」と聞いてみたら、
「そうそう!」と確信を持って答えてくれた。

なるほど。では、しばらく考えないでおいて、気絶して過ごそう。
精神的に不安定な者の、これは冬眠ならぬ「春眠」と呼ぶのか。
春眠暁を覚えず。
いかん、起きられなくなりそうだ。

実は、いつの季節でも使える処方箋があるんだよね。
「今、考えるな」
春に限らず、考え始める時(もちろん「今夜のごはんは何にしよう」的なことは別よ)には必ず唱えてみた方がいい。
本当に必要なことなら、またあとから必ずわいてくるし、その時にはさくっと解決できるかもしれない。
「今」は、考え込んでしまうようなことのあらゆるすべてにとって、考えるのに最も都合の悪い時であると心得て、とりあえず深呼吸してから寝よう。

最新「年中休業うつらうつら日記
足弱妻と胃弱夫のイタリア旅行記
「年中休業うつらうつら日記」目次
「510号寄り道倶楽部