17年3月1日
今日は息子の大学の取得単位がわかる日。
前日に、「で、何時にわかるの?」と聞いたら、いつものように「知らねーよ」とは言わず、「9時」と答えた。
「起こしてあげようか?」「お願いします」
泊まりに来ていたカノジョにも、
「明日は9時に起こすから、よろしくね」とお願いして、寝た。
あれこれ考えていたら眠れなくて、大内くんが4時半に起きるのを待って、「心配だねぇ」と言い交す。
ベッドに戻ってうつらうつらしていたら9時に目覚ましが鳴ったので、勇んで息子の部屋をノックする。
「今、見てる」という返事は、彼もまた結果を気にして、少なくとも発表時間には起きていた、ということだね。
と、部屋から出てきた。
「やべえ、これ落としてる。絶対大丈夫だと思ったのに」と歩きまわりながらつぶやいているので、「どうしたの?」と聞いたところ、追試の対象にならない他学部の授業の単位を落としてしまったらしい。
「まずいな。これだと、1年留年になる」
ええっ、単位が足りなくても6月とか9月に卒業できる場合もあると聞いていたが、それにすら該当しないの?
「会社の人は、6月とかだったら卒業できてなくても入社してから単位を取ればいい、って言ってくれたんでしょ?」
「うん、でもやっぱ、わかんないよ。まずいなぁ」
「とにかく、父さんに相談しよう」と大内くんに電話を入れたが、あいにく会議中か何かで出られないようだ。
「とりあえず、学校行くわ。教務課で聞いてみる」と息子が背広に着替えている最中に、大内くんから電話がかかってきた。
彼も、今日の9時、というのは深く気にしている時間だったわけで。
「どうなってる?」「電話替わるね」と息子に受話器を渡すと、いろいろ相談しているようだけど、どうも形勢が悪いらしい。
再び替わって、「彼の言う通りみたいだね。難しいかも」と言われて私がおろおろしている間に、電話を切った大内くんは、教務課に電話をしてみたのだろう、しばらくしてまたかかってきた電話によると、どうやら教務課の人からいい話が聞けたらしい。
息子が去年落とした自学部の再試を受けることで、受けられない他学部の穴を埋めることができるようなのだ。
ああ、さすがは留年のプロフェッショナル。よくぞそこまで聞き出してくれた。息子と私だけだったらとっくにアウトになってるとこだった。
大内くんはその旨息子に伝え、学校に行って手続きをするよう指示し、息子はおろおろしている私や、
「今日、バイト休んでついて行きます!」とけなげなカノジョが右往左往する中を、
「うん、これならいけるかも!」と言ってカノジョと出かけて行った。
私は、誰もいなくなった家で、腰が抜けた状態だった。
昼休みにもう1度電話をもらってゆっくり話したところでは、教務課の人が親切で、起死回生の手立てを考えてくれたらしい。
「あなたの留年の時も、そういう人、いたねぇ。本当なら放校になるところをなんとか手続きをうまくやってくれた人」と言うと、
「そうなんだよ。そういう親切な人がいるもんなんだよ。息子なんかすぐあきらめちゃうからダメなんだけど、じっくり相談に乗ってもらえば、留年には徳俵がいくつもあるものなんだよ」と、大内くんも明らかにホッとした様子だった。
夜、息子が帰って来てから聞いたら(もっとも、主な相談はメッセンジャーでほぼ終わっていたのだが)、かつてレポートを出さなかったため落とした単位を、今回もレポートで取ることができるらしい。
これもありがたい。試験より、レポートの方が「出せば済む」感が強いからだ。
そのかわり、「何の授業かもよく覚えていない」という、とっくにノートも資料もなくなってる課目をイチからやらないといけないが。
「一緒に受けた友達とか後輩とか、いないの?探し出して、聞いたら?」と大内くんが言うと、
「シラバスが残ってるから何とかなる」という答え。
まあ、1週間の猶予があって書くレポートだ、なんとかしてくれ。
締切が7日で結果が14日にわかるらしいが、その間に息子はカノジョの紹介でICUのサークルで演劇を6日ぐらいやってるし、私は検査入院しちゃう。
なんてバタバタした卒業計画なんだ!
しみじみ思うことだが、私は、気が小さい。
弱い強いの問題ではなく、小さいのだ。
だから、今回のような大事故が起こると、もうひっくり返ってぴくぴく動いてるだけ。瀕死のハムスターみたい。
大内くんがいてくれるから何とかなったけど、大変なピンチだった。
いまだにひざがガクガクする。
カテーテル検査が終わった翌日、病院のベッドの上で無事全科目終了、卒業OK!の報せを聞くことができるだろうか。
ああ、まだ心配してる!
17年3月3日
またおひなさまの日がやってきた。
私はこの日があまり好きではない。
唯生が生まれた時に実家の母から贈られた親王雛をずっと飾ってきたが、去年、もう処分してしまったのだ。
唯生の健やかな成長を願うなら、チューブだらけになって家に帰って来られなくなっても飾るだけは飾って彼女の無事を願うのが本当だろうが、私にとっては、唯生の幸せがどこにあるのか全然わからないのだ。
腸に開けた穴から栄養液を入れる「腸ろう」と「人工肛門」で生きている彼女には、口で味わうこともなければ胃の腑があたたかいもので満たされることもなく、多少便秘がちだったからこそ味わえた排泄の快感すら、もう縁のないものなのだ。
「この状態で、いつまで生きられますか?」とドクターに聞いてみたことはない。
唯生の病棟は重度の成人の障害者が多いが、中には白髪交じりの人もいる。
唯生も、生まれた時に現代医学に救われて以来、いくつもの危機を乗り越えてきている。
急な腸閉塞を何度も起こし、最後の手術では腸ろうと人工肛門を建設せざるを得なかった。
その手法が開発されていなかったら、唯生は今、生きてはいないだろう。
そんなにまでして助けてもらい、日々のケアで生きている彼女の寿命はどのくらいだろう。
腸閉塞を起こした頃は20キロまで落ちていた体重が、最近では30キロ近いと言う。
彼女なりに健康だ、ということだろう。
それでも、唯生には長くは会っていられない。
いつでも新たな涙が噴き出すからだ。
「唯生ちゃん、体調も良くて楽しそうですよ」と様子を教えてくれる介護士さんにお礼を言いながら、私の心は血の涙を流し続けている。
いつになったら慣れるんだろう。
大内くんに聞いてみたら、
「僕だって慣れないよ。悲しいよ。でも、僕の方が少し、現実を見つめるのに慣れてるんだろうね。キミのように、いつまでも血が噴き出していたら、生きていけないから、そのへん、鈍感にできてるんだと思うよ」という答えだった。
ひざに心臓に、いくつも爆弾を抱えた私も、いつかはライトな「障害者」になるかもしれない。
その時、私は唯生をどう見ることができるのだろうか。
17年3月4日
久しぶりに吉祥寺でごはん。
まず、左ひざの関節炎を診てもらってる整形外科医に、診察券を出しに行く。
これで、ごはん食べに行っちゃって、戻って来たらすぐに呼ばれる状態にしておこうという腹だ。
ところが。
今朝は異常に患者さんがすくない。2人しかいないじゃないか。
「これなら、お店が開く前に終われるかも。待ってようか」と座っていたら、1人は会計を待っているだけで、もう1人はリハビリの方の患者さんだとすぐに判明。
診察室から1人、患者さんが出てきたと思ったら、たちまち「大内さーん」と呼ばれた。
先生はあいかわらず面白い顔をしてるが親切で、
「ここは痛くない?ここは?水は溜まってないようだねぇ。いつもの注射して、湿布薬持ってく?」
「はい」
「どうしてもね、関節が傷んで来ちゃうんだよね。筋トレして、筋肉つけるのが一番だよ。じゃあ、ちくっとするからね。いいかい?」
で、1本注射打って、「どうも〜」って診察室出て、すぐにお会計で、同じフロアにある薬局で痛み止めのシップもらってビルを出る。
「終わっちゃったね」
「うん、今から行くとちょうど良さそうだね」と言いながら、目標の天丼屋さんに行く。
開店10分前だ。普段なら、3、4人の行列ができ始めてる頃。
しかし行ってみて驚いた。
20人近い人が並んでいる。
「これは、知らないうちに雑誌の『吉祥寺グルメ情報』かなんかに載ったに違いない!」と思った。
時々、そういう現象が起こるもの。
井之頭五郎がナポリタン食べに行った店でも起こった現象だよ。
たいていひと月ぐらいで収束する騒動なのだが。
大内くんは、ケータイでぐるナビか何かを見て、
「席数18か…ギリギリ入れそうだね。ひと回り目に坐れないと、かなり待つことになるからね」とそわそわしてた。
でも、お店が開いてみたら、何とか大きなテーブルの一角に坐れたよ。よかったね。
今日の大内くんは、もう先週あたりから「天丼の気持ち」になってしまっていて、とても他のものでは代用が効かない状態だったのだ。
さっそく、大内くんは「梅」(舞茸)、私は「竹」(鱚)を頼む。
「松」の穴子乗せも食べたことはあるが、値段がかなり違う上、我々的には舞茸と鱚を半分こするだけでちょうどいい、とわかっているもんだから。
さすがに1巡目はみんなが天丼を待ってる状態で、出てくるのにいささか時間がかかる。
それでも15分ぐらいで、目の前に天丼が。私のは「つゆだく」だよ。
ああっ、しまった、表の行列の写真は撮ったのに、肝心の天丼の写真を撮るのを忘れた!
どうして私はいつもこうなんでしょ。
目の前に座っていた4人家族連れの妹ちゃんは、魚のひれとかが喉にひっかかったらしく、けほけほっとなってしまい、お母さんが広げたビニール袋に咳き込んだり、お父さんがトイレに連れてったりしてもそのけほけほ状態は改善されなかったようで、他の3人は食べ終わったので、お店の人に彼女の分だけ持ち帰りのお弁当にしてもらい、涙を一杯にためた状態で出て行くのが、とても可哀想だった。
(と、観察しながら自分の分はしっかり平らげたわけですが)
ロフトに行って、ハサミを買う。
前に息子がコントの準備のために持って出たきり、返さない、というか紛失してきたようなので、刃がカッコいい金で、グリップが黒のシブいハサミを1200円ぐらいで買ったのに、1ヶ月を待たずして、再び姿を消した。
息子に、「持ってったものは、ちゃんと返して!」と断固たる申し入れをしたが、
「オレ、知らねーよ」と言うばかり。
キミのそのセリフで、家中からどれほどのものが消えて行ったか!
今度買ったのは、地金にピンクコーティングがしてあってかすかに赤っぽく光り、グリップも淡いピンクでデザイン的にもかなりのもの。
当然、値段もお高くて、1800円というのはハサミにしては大盤振舞だ。
満足してロフトを出て、ブックオフに寄る。(しかし、同じコースしか廻らないもんだな、毎週毎週)
息子が最近「森博嗣」を読んでいる。好きなんだそうだ。
「『有限と微小のパン』読む?これと『四季』を読むと、もう真賀田博士についてそれ以上読む必要がないんだけど」とラインしたら、
「あれば読む」という答え。
今、目の前に108円の分厚いノベルズがあるんだが。
「『四季』はデータになっちゃうな。読める?」
「うん、読める」というやり取りを交わし、人を撲殺できそうな「有限と微小のパン」を買った。
さすがにくたびれた、というか、今日は3月に入ってるだけあって、気温が底上げされてる感があり、ひそやかにあったかい。
バスで帰ろう。
息子は出かけてしまっていたので、本は机の上に置いといてやり、
「まったく、彼はいくつハサミを失くしたら気がすむんだろう!こないだのは、高かったのに!」とぷんぷんしながらペン立てにハサミを入れたら、あら、パソコンの真裏になってて見えなかったけど、こんなところに問題のハサミが落ちてる!
息子に濡れ衣を着せてしまった。
この件については大内くんに一任し、どうやら謝ったらしいが、全然気にしていない様子だったとのこと。
濡れ衣を着せられた時ぐらい怒れよ。
普段、もっとどうでもいいことで怒ってるくせに。(←逆切れ)
とはいえ、その時の息子はそれどころじゃなかったのだ。
何が起こっていたのか?とひっぱりながら、翌日へ。
17年3月5日
卒業に2単位足りない息子、昨日から「ヤバい、ヤバい」と繰り返しながら部屋の中をウロウロしていたが、さすがに困ってるだけではどうしようもないことに気づいたようだ。
担当の教授に連絡し、何についてのレポートで、何が求められるか、の情報はゲットしてきた。
90本ほどの文献から2本を選び、比較検討する、という難しい課題のようだ。
「さすが、卒業がかかってるだけのことはある。そう一筋縄ではいかない。息子も、1年前に授業に出てたんだから、ちゃちゃっとレポート出してれば、今頃、その2単位をひろいに行かなくてもすんだのに」と過去に未練モード。
それきり息子は、今、とりかかってるICUの劇団の芝居に出演するため、練習に出かけてしまった。
大内くんは、
「まあ、しょうがない。文献を漁らないといけないんだけど、早稲田の図書室は今日、休みだ。週が明けなければなにもできない」と腕組みをして苦い顔。
ところが、息子からラインが。
「文献の9番と45番を入手した。コピーも取った。これで行く」
ちょ、ちょっと、どうやったの?
「ICUの図書館で手に入れた」
そうか!芝居の稽古に行くついでに、ICUの仲間(カノジョ、ではない人らしい)に頼んで図書室を利用させてもらったのか!
「なかなかやるねぇ。思いつかなかったよ。手に入る文献は英語ばっかりだから、もう英語でやってもらおうかと思ってた」と大内くん。
で、8時頃帰ってきた息子は、朝の4時頃まで、声をかけるのもはばかられるような様子で食卓のノートパソコンに向かってパリパリパリパリとキーボードをたたき、ついに8千字の、参考文献リストつきのレポートを書き上げた!
とりあえずそれを教授のところに送って、あとは爆睡。
とは言え、まだ稽古があるそうで、夕方前には出かけて行ったけどね。
大内くんと、感心することしきり。
「まさか、ICUの図書室を利用するとは思わなかった。カノジョがICU生なせいもあるけど、いつの間にかそこで演劇をやるようになって、仲間がいっぱいできたんだね」、
「今日中に文献入手したい!」「じゃあ、図書室へ」となったものだろう。
人間、何が幸いするかわからんもんだなぁ。
私が通った図書室(と言えば聞こえはいいが、最低限のレポートや卒論のためにしか来てない)で文献を探し、私が踏んだ舞台で稽古する息子。
しかも、ICUに入学させたわけでもないのに。
そもそもどうして私は母校から自転車で20分の距離に住んでるんだろう?何の意味も因果関係もないのに。
しかし、とにかく書くべきものを書き、送るべきところに送った。
最後の奮闘だ。
これで卒業できたら・・・少なくとも私は感無量だな。
自分の青春と息子の青春が、ぴったり、重なっている。
偉そうなことを言っているが、私も締め切り前2時間の時点でまだ卒論書いてたんだ。
そのあたりも、似たような青春である。
そして息子のレポートは、おそらく私の卒論より難しいものだったろう!よく頑張った!
17年3月6日
そういうわけで卒業のかかったレポートを提出した息子、教授が丁寧な人で、「ちゃんと見ました」という旨のメールをくれたのでひと安心。
私は土日の疲れで爆睡。
何の手伝いも出来ず、紅茶を入れてやるぐらいしかしてあげようのない、遠い昔に大学を出てしまった母なのだ。
大内くんの方がずっと質問に答えたり、調べ方を見てやったり、貢献度が高かった。さすが7年間も大学に行った、卒業の困難さを知る男。
午後、大内くんからラインが来た。
息子の送ってきた映像の転送で、件の教授が、
「合格水準に達する成績をつけておきましたので、あとは事務局と話してください」と親切なメールをくれたのだ。
「合格」
失敗もあり得たのか。
大学っつーとこも、昔ほどのレジャーランドじゃないんだな。
私は卒論を含めてあらゆるレポートを適当にでっち上げてきた記憶しかないのだが。
ともあれ、足りなかった2単位は埋まった。
卒業だ!
5年かけて、人よりずっと勉強しなくてコントばっかりやってて、友達はたくさんできたけどどうもやわらかめの友達ばかりで、カノジョ1号は3年間ワセジョにお世話になり、カノジョ2号はどういう運命のいたずらか、私の大学の後輩を調達し、そして今、ICUの演劇に出つつ、自分たちのコントグループの「第3回コントライブ」を行おうとしており、母親は今週末から1週間、心臓の検査入院だ。(関係ないが)
再来週末のコントライブまでには退院の予定だが、何かで延びてしまったらどうしよう、そもそも、「即、手術しましょう」とか言われたらどうなるの?
外出許可を取って見に行く、ぐらいしか思いつかない。
春は何かとあわただしいものだが、今年の春はまた、格別だ。
息子は本当に卒業できるのか?何か手違いや手落ちはないか?
4月1日に行ってみたら、会社は倒産してないか?彼は、来年も雇い続けてもらえるのか?
心配事だらけの私。
淡々と、入院の荷造りしよう。
ヘルニアで入院・手術をした友達が、
「おやつさえ食べなければ、1、2週間の入院でけっこう『しゅっと』しますよ!」と言っていたので、最近お気に入りのかしわ餅ともみじ饅頭を持ち込むのはやめようかなぁ。
17年3月7日
まんがくらぶのメーリング・リストで、深夜に訃報が駆け巡った。
大内くんあたりと同期で、マンガ家として活躍していた女性が亡くなったのだ。
昨年10月に、同年輩ではほぼ初めての病没者を出した大内くんたちは一様に悄然としていたが、今回もけっこうボディー・ブローのように効いてくる気がする。
皆、社会に出て30年ばかり。
社会人として、家庭人として、それぞれに活躍をしている。
そんな中で病気と闘っている人もいるが、健闘むなしく敗れてしまう人も出る。
私にも自死した友人知人が複数いるが、その人たちは少なくとも自分の意思で死んだのだ。
病死は・・・もっと生きたい、と願ってもかなわない時がある。それが悲しい。
息子の卒業を、一番近しい「父としての友人」だったOくんに知らせたかった。
去年の秋から、何度、
「ええぃっ、もう、Oくんがいないと不便だ!」と思ったことか。
息子のことを、誰よりも相談できる、早稲田の後輩の息子さんを持つOくんは、我々が何か困るたびに、
「そんなの、困らない。困るのは親のエゴだ」とばっさり切り捨ててくれたものだ。
留年が決まった時も、
「大内はどうのこうの言えないだろう」とまわり中が唱和する中で、彼の笑い声はひときわ高かった。
こうやって、人は彼岸に友を、親を、きょうだいを送り、その世界になじんで行くのだろう。
今の私は、中島みゆきの「病院童」を聴きたい。
17年3月8日
さすがに息子の卒業がほぼ決まっただけのことはあり、いつもは「いいね!」が5つぐらいしかつかない私のFBに、10人以上の人が「いいね!」してくれた。
次の話題の山は入院か。
そろそろいろいろ準備をしなくっちゃ、と、まず、iPadにマンガを詰め込めるだけ詰め込み、iPad
miniの方には文庫本、ノベルズなどのサイズの本を入れる。
前者を見開きで、後者を片ページずつで読むのが、今のところ一番気に入っている読み方。
iPadを横にして文庫を見開きにするのも実物に近いサイズで悪くないが、老眼の目には少し堪えるようになってきたのだ。
本はともかく、マンガはね、
「ジョジョ」104巻、
「NARUTO」72巻、
「あぶさん」107巻、
「カムイ伝」第一部二部合わせて36巻、
「ドカベン」48巻、
「本気(マジ!)」50巻、
「浮浪雲」108巻、
「美味しんぼ」111巻、
あとは「銀魂」27巻とか、「ハガレン」27巻、浦沢直樹は「PLUTO」も「Billy
Bat」も「マスター・キートン」も「20世紀少年」も持って行くよ。
少女マンガ成分としては、清水玲子の「輝夜姫」、岡野玲子の「ファンシィ・ダンス」と「両国花錦闘士」、山下和美「数寄です!」、「世界でいちばん優しい音楽」などなど。
弔意を充分にかみしめるため、谷口ジローの「坊ちゃんの時代」全5巻も読んでくる所存。
しかし、いかなヒマな病院生活でも、これ全部は読めないよなぁ。
私の「準備しすぎ」に慣れているはずの大内くんでさえ、
「いったい、何ヶ月入院してるつもりなの?世界一周の船旅に出よう、ってわけじゃないんだよ?!」と驚いていた。
そもそも、持って行けるところがスゴイ。
さすが128ギガのiPad。
ちょうどルンバのバッテリーに異常が生じて修理に出したばかりなんだが、大内くんも泊まり込んで病院から会社に通う1週間、誰がダスキンモップで床を掃除してくれるのだろうか。
あああ、入院というのは大変なものだなぁ・・・
17年3月9日
心臓の機能状態を調べるためのカテーテル検査を受けに、1週間の入院をする。
生まれつき弁に奇形があるのは運が悪いし、そのうえ心臓疾病を持つことになったのはさらに運が悪いんだが、入院先が「心臓のことなら日本有数」な病院で、そこに車で20分ほどで行けるのは運がいいんだろう。
今の主治医の先生が、その病院の心臓外科で切りまくってる有名な先生とおつきあいが濃いのも、ラッキーだ。
「え?キミんとこ、二尖弁と拡張型心筋症と大動脈瘤セットで持ってる患者さんいるの?切っちゃおうよ。うん、切ろう、切ろう」と酒の席で決まった、とまでは言わないが、少なくともデータは濃密に伝わってる様子。
人交わりに気を使い過ぎてしまうので、個室に入りたい。
そもそも大内くんに泊まり込んでもらいたいし、彼も病院から会社に通うつもりらしいのでそれはいいんだが、個室が空いてないと全部パーだからなぁ。
若い頃から病気持ちだったため疾病保険に入れなかったので、差額ベッド代は自費。
1日1万5千円。かけることの1週間。しくしくしく。
それはそれとして、荷造りをしなければならない。
本来、昨日の晩までに終わっておきたいところだが、なかなか終われないわけがある。
昔の荷造りと一番違う、と感じるところの「IT機器」の集団だ。
寝る前までiPadやiPodは使っていたいので、いきおい荷造りは朝になる。
延長コード、USBコネクタのいっぱいついたコンセント、それも1個では無理で、2個。
そして本体のiPad、iPhoneが2つずつ、そしてiPod。ちっちゃなスピーカーも持って行こう。4センチ角のANKER。
あとは洗面具と着替えで、こっちはまあいい加減なもんだ。
退屈すると何をし始めるかわからないから、いちおうお絵かき用の紙を持って行こう。
iPadに入ってる千冊近い本で、ほぼ退屈はしないと思うんだが。
FBに「入院日記」を書いていれば時間がすぐたつと思う。
思うんだけど・・・多分、入院ってすっごく退屈なんだろうなぁ。
今は亡き「ぴあ」の「パズル幕の内弁当」、これ、今でも持ってる人いるだろうか。私、持ってるよ。
数年に1度、コピーしてやってみてる。今回も役立つかも。持って行こう。
前の2回がそれぞれお産だったし、唯生の時は大騒ぎだったので退屈するヒマはなかった。
息子の時は大内くんが唯生のために介護休暇を取ってお休みだったので、会社に行かずずっと泊まり込んで一緒にいてくれた。
さて、そうすると、私にとっては今回が初めての「普通の入院」なのか?
本チャンの手術の前に検査入院があってよかった。慣れるもんね。
命のかかってる手術で生まれて初めて普通に入院するなんて、いやだよおぉ。
とは言え、最近何かと息苦しく、何らかの手は打たないとヤバい状態だ。
「切って、切って、切りまくってる」オーラ全開の、日本でトップクラスらしい先生が執刀してくれるといいのだが。
近所のK先生、あなた、S記念病院のT先生にどのくらいの強度のコネをお持ちなんですか?
かつてT先生の妻の命を救った、ぐらいのエピソードが欲しい。ドラマの観過ぎか。
しばし俗世とお別れなこともあり、昨日、会社帰りの大内くんと待ち合わせて、息子が出演する芝居を観に行った。
ICUの劇団で、コントつながりなのかカノジョつながりなのか芝居の演出補をやったことがあって、そのご縁で今回は出演もさせてもらうらしい。
けっこう有名なお芝居のようだ。高野文子の「ドミトリー・ともきんす」みたいな雰囲気。
さすがに脚本がしっかりしていて、面白かった。息子もいつの間にか発声もはっきりして滑舌が良くなっていた。
「コントと演劇は別のもので、自分はコントの道を行きたい」と常々言っていたが、演劇的要素を取り入れるのは悪いことじゃないから、これからも精進したらいいと思う。
楽しい2時間半をありがとう。
パイプ椅子で腰が痛くはなったが、大内くんと2人、演劇を楽しみ、息子の成長を楽しんだ。
卒業が決まっているとなるとなおさらだ。
(常に「何かの間違いではないか?」という冷や汗がひとすじ流れてはいるが)
この調子で社会に勢いよく出て行ってくれ。ついでに家も出てほしい。
そういうわけで行ってきます!
病院でこつこつと日記を書きますね!
17年3月10日
いよいよ入院。
午前中に大鍋いっぱいのカレーを作って、息子の1週間の食料としてもらう。
朝まで使っていたiPadやiPod、iPhoneを配線ごと荷造りする。
コードだらけだ。
タオルや着替えはもう準備してある。
結局、大内くんの出張用トランク、リュックサック、紙の手提げ袋ひとつ、そして普段と同じ、財布の入った私のショルダーバッグ、というラインナップでお出かけ。
あと、火曜は大内くん会社に行くかもしれないので、一応革靴を履いて背広を持って行く。
1時に来院の予定が、早すぎて12時についてしまった。
でも、そんなこと問題にならないスムーズさで事が運び、まず、第一希望だった安い方の個室に空きがないので少し高い方に入ることになった、と言われた。いいよいいよ、大内くんといられるなら。
その後すぐに、レントゲンを2枚、心電図、頸動脈エコーを撮って、肺活量を測って、病棟へ。
部屋へ案内されるとすぐに採尿と採血がある。
これでやっと一段落し、荷物を開いたり、パジャマに着替えたりして「病院のヒト」となる準備をする。
大内くんはさすがにパジャマはなんだろう、とジャージみたいな恰好。
せっかくインスタントコーヒーとマグカップを持って来て、売店で牛乳を買ってカフェオレを飲もうと思っていたのに、看護師さんからの生活の注意の中には「水・お茶」以外のものはあんまり飲まないように、というのがあった。
「朝、コーヒーを飲む習慣なんですが」と一応言ってみたら、ステーションに聞きに行ってくれて、
「朝、1杯ぐらいなら、大丈夫です!どうぞ!」と明るく答えてくれた。ありがたい。
そのあとは、薬剤師さんが来て今飲んでる薬を確認したり、心臓関係でもらっている薬はもう今晩からこの病院で出す薬を飲んでください、とのこと。
入れ代わり立ち代わり人がやってきて、カテーテル手術の説明をしてもらっている最中に担当の内科の先生が来たので、説明はいったんお休みして先生の話を聞く。
とにかく心臓の機能が落ちている原因がわからないので、できる限りの検査をして「これは関係ない」という点をつぶして行けば最後に原因がわかるのではないか、と。
どのみち奇形弁の交換と大動脈瘤の手術はもう「手術適性」(手術すべき時)であるし、この2点を治すだけで劇的に心機能が回復する可能性もあるし、何より、開胸すれば問題の心臓を目視することができ、病変部分があるかどうか確かめられる、というのも手術のメリットらしい。
まあ、いまどき「目視したい」という理由だけで切ることは滅多にないだろうけど、それ以外の立派な理由が2つも重なっているんだから、お医者さん側としては「切ってみましょう」と言うだけことはあるのだろう。
最後にまた看護師さんからカテーテル検査の説明を受け、お医者さんが熱弁をふるっている間に冷めてしまった晩ごはんを寂しく食べる。
友人がヘルニアで2週間入院した時はけっこう「シュッとした」のだそうで、この食事のつつましさと味の無さを考えると、そのぐらいのご利益は欲しいなぁ、と思った。
夕食を下げに来た看護師さんが薬を持って来てくれて、自分で保管している別病院の薬も一応確認して、飲み終わるまで観察している。夜の検温、血圧測定もある。
8時頃になってようやく人の出入りが途切れ、大内くんと交代でシャワーを浴びる。
息子は1年365日、時には朝晩、シャワーを浴びているが、不思議なことに、我々が入る前とか直後とか、お湯が余ってる状態の時は「お風呂、入る?」と声をかけるのに、滅多に「入る」とは言わない。たいてい、「いいや」と断られる。
風呂桶に浸かりたい、ということがほとんどないらしい。
今回、個室でトイレとシャワーがついているのはありがたいが、私はあんまりシャワーだけで満足するタイプじゃないな。
明日は「病棟のお風呂」が使えるそうだから、楽しみにしていよう。
こう書いているとどこにも大内くんの気配がしないけど、彼はちゃーんとつきそっててくれて、人がいる時は話をよく確認してくれたり、人がいない時はベッドの上で足のマッサージをしてくれたりしている。
ありがたやありがたや。
なんだかんだとしている間に時間がたってしまうのが病院の不思議で、あっという間に消灯時間。
9時に看護師さんが睡眠薬の管理に来るので手持ちを見せて、飲む。
「もう消灯ですから、寝てください」と言われるかと思ったけど、そのようなうるさいことは言ってこない。
持ってきた小さなスピーカーとiPodで音楽を小さく鳴らしながら、いろいろおしゃべりをする。
差額ベッド代だけで、保険に入ってない私には苦しくて、次回、手術をするとなれば2週間も入院しなければならないらしい。
ちなみに大内くんが貸してもらって寝ている「補助ベッド」は1日300円。
長方形と正方形の椅子を並べて使うような形で、専用のボックスシーツをかけると椅子がずれることもなく、表面が固いウレタンなので、ギリギリの面積で寝ている大内くんは、
「寝ごこち、いいよ。よく寝れそう」と言っている。
今日のところはここまでで、明日・あさっては土日だから何にも検査とか手術とかなさそう。
もしかして病院にボラれたか?と思わなくもないけど、大内くんと一緒に入院させてくれたことに感謝しているから特に文句はない。
17年3月11日
寝慣れない場所で寝ると目覚ましが鳴る直前に起きる、という特技を持つ私は、5時55分にぱちりと目を覚ました。
直後に看護師さんが起こしに来て、朝の検温・血圧測定。
8時に朝食で、大内くんは昨日一緒に行った院内レストランの帰りに買ったサンドイッチで朝ごはんをすませた。
朝食についてきた牛乳でカフェオレを作り、持って来たおやつを食べるのは・・・うーん、場所が場所だけに、「何か食べましたか?!」とすぐばれてしまいそうな気がしたので、やめておいた。(糖が出るとかさぁ)
大内くんは、
「よく眠れた。普段より眠れたかも」と言いながら、私の食事トレーがどいたあとの引き出しテーブルでパソコン拡げて仕事。
時々おしゃべりをしながらゴロゴロする。ああ、天国だなぁ。
12時にまた食事。
腸閉塞を起こした友人が、「すべてがすりつぶされた世界にしばらくいた」と言っていたが、私は「すべてが寝ぼけた味の世界にしばらくいる」ことになりそうだ。
午後にお風呂に入れると言うので入らせてもらった。
普通の家庭のお風呂とおんなじ。
ただ、「入院患者さんのための施設なので・・・」と大内くんの入浴は断られてしまった。
気の毒。お風呂に、入れてあげたいなぁ。
そういう私は、いいお風呂を堪能したのでした。
コインランドリーで洗濯もしてみた。乾燥が少し遅くて時間がかかるかな。
1回200円の乾燥代を、2回払わないといけなかった。
大内くんは、たいてい私の食事が終わり薬を飲んだ確認を受けてから1階(私の病室は4階)にある院内食堂に行く。
夜はあんまりメニューがないので気の毒だが、本人気にせず、明るくご飯を食べて帰りに中のコンビニで明日の朝食を買う。
私はお茶をガンガン飲むタイプなのでペットボトルの数がハンパない。
ああ、平和でいいなぁ。
これで、カテーテルが痛くないといいんだけどな。
17年3月12日
そろそろ明日のカテーテル検査に向けて準備が始まる。
おそらく右腕の動脈と右足の付け根の静脈から通していく、ということらしい。
足が静脈で良かった。
足の動脈を使うと術後の安静時間が2時間から一気に4時間に延びるのだ。
造影剤も入れることだし、術後は水分をたくさん取ってくださいね、と言われて「すいのみ」まで買って備えているが、今度はトイレが心配。
ベッドの上で差し込み便器を使って、と言うのはお産の時に体験しているから大丈夫だとは思うが、やはり避けておきたい。
さて、血管に入れるために周辺の毛を剃るか。
腕なんて、楽勝。
問題は、デリケートゾーン。
電動カミソリを渡されてシャワー室にシートを敷いて自分でやるんだが、なんつーか、よくわかりませんねぇ。身体も固くなって前に曲がらないし。
それでもひととおりシートの上にこんもりと剃った後の毛の山を作り、大内くんにナースコールを頼む。
すぐにさっきの看護師さんが来てくれて、シャワールームで様子を見て、「ここ、もうちょっとだけ剃りましょう。はい、大丈夫です!」と言いながら検査着と、T字帯を渡してくれる。
T字帯というのは、まあつまり、端にぴろぴろ〜っと紐がついている「ふんどし」だ。いわゆる、「越中」?
お産ですべて慣れているからいいけど、若くして初めてこんなとこ来たら泣いちゃうかも。
あとは、点滴用の針を入れておくとか、足の甲で脈が取れる場所をマジックでマークしておくとか、細かい作業。
ただ、これらすべてがいっぺんに来ないで30分に1回ぐらいずつ来るので、意外とまとまった時間がないものだ。
友達にじゃんじゃんメールしてやろうか、とか思ってたんだけど。
持って行った本を読むヒマすらないぐらいだ。
「ジョジョの奇妙な冒険」なんて持って来たのがいかんのだろうか。
17年3月13日
いよいよ心臓カテーテル。
朝食は食べたし、晩も出ると言う。
「1日のカロリーが1400kcalって決まってるってことは、お昼が出ない分、晩はちょっと豪華なんですか?」と間抜けた質問をして看護師さんに笑われた。
「すみません、特にそういうことはないんですよ」
残念だ。
昼頃、準備するように指令が来たのでT字帯と検査着に着替えて、大内くんに「行ってくるね」と手を振り、徒歩で(車椅子ではなく、と言う意味)検査室に向かう。
なんというか、壁だと思っていたのが一面扉で、開くと、その向こうは工場みたい。
車作ってるとまでは言わないが、ラジカセを作るベルトコンベアがあると言われたら信じるなぁ。
7、8人の人たちがよくわからない専門用語や仲間内での隠語でしゃべってるもんだから、何を言ってるのかさっぱりわからない。
しかし、この場の私は1個の肉体に過ぎず、話を理解する必要は全然ないのだ。
台の上に寝るように言われ、その上から大きなバスタオルをかけたと思ったら、下に来ていた検査着を慣れた手つきで脱がせてしまう。
今、私、タオルの下には頼りない紙製のT字帯しかつけてないんですけど。
まあ、恥ずかしがっていても仕方ない。
腕に「麻酔のための麻酔シール」を貼ってもらってあったのを外し、足の付け根と腕に麻酔をし、いよいよ始まっちゃうんだなぁ。
私は検査というものがそう嫌いではないし、新しいものを受けるとちょっと面白い。
腕と足からワイヤーがぐいぐい入ってる感じだ。
ちょっとずつ先に送っているようで、唐突に、昔家庭科で習った「運針」を思い出してしまった。
それにしてもぐいぐい入るねぇ。
目標部分に到達したらしく、
「息を一杯に吸って、一気に吐いて、そこで息止めてください」というレントゲン的な指示がどんどん出る。
「ああ、今、大事な撮影をしているんだ。きちんと対応せねば!」とあせる。
しばらくして終わって、ワイヤーを抜いて、圧迫止血をして今度はベッドに載せられて部屋へ。
大内くんが「ああ!」とちょっと安心したような顔をしていた。
どうやら、私が立ち去ったのち看護師さんたちが部屋からベッドを出してしまったので、「きっと、このベッドに寝て戻って来るんだろう」と思ったそうだ。
時刻は午後3時半。5時半までトイレに行きたくならなければこっちの勝ち。
横になっての絶対安静で、喉が渇くので大内くんに頼んで「すいのみ(ただのストローつきのコップ。昔のやつの方がロマンがあった)」でお茶を飲ませてもらう。
ここであんまり飲んでしまうとまずいので、口を湿らす程度。
大内くんがついて話し相手をしてくれたので、2時間はあっという間だった。
トイレに立つことは許されたが、動脈だけあって腕の出血は止まらないようで、もうしばらく圧迫止血。
その間にも食事が来る。
右手が使えない私のためにスプーンで食べられるようなおかず(スープ煮、とか)を用意してくれて、おまけにごはんはおにぎりになってる。細かい心遣いだなぁ。
食後、担当の内科の先生が来て説明してくれたところによると、「悪いところが見つからない」のだそうだ。
「冠状動脈が狭くなっている、ということならバイパス手術をする、という対応があるんですが、大内さんの場合、確かに心臓の機能が悪くなっているのに、原因が見当たらないんです。
なので、この際、弁を交換して、大動脈瘤も人工血管に替える、という手術はもう絶対必要ですから、それをやって、心臓を目視することで病変を見ることにしましょう。
なので、2週間後にオペのカンファレンスがありますので、そこにかけて、執刀医のスケジュールなど見て、決めて行きたいと思います。早ければ4月中に手術、ということも充分ありますので、よろしくお願いします」
「いえいえ、こちらこそ」
というのが今の私の心臓の状態らしい。
自分としては、今、特別に悪いわけじゃないなら切ることないじゃん。悪くなってから切ればいいのに、と思う。
すると大内くんが、「今、悪いんだよ。横で見てると、すぐ息切れして、苦しそうだよ」と半ば怒っている。
あいかわらず自分の身体感覚がないもんだなぁ。
「キミは、その点、ほとんど『乖離』してるから」
まあ、そうかもしれないな。大内くんの言う私の像だけが私で、あとは、全部ニセ物だと思えるよ。
あと2つ、検査をしてみて、それで明日は退院だ。
思っていたより2日も短い、5日間の入院。バンザーイ。
17年3月14日
今日は退院なのに2つも検査をするので、朝から忙しい。
夜中にナースコールをして手首の止血バンドをはずせるか聞いたんだが、その時点ではまだ出血があり、そのあともう1度見に来てくれたらしくて、バンドが外れているうえ手首にマジックで書いた謎のマークが。
聞いてみたら、腫れていた箇所をマーキングしておいたがもう元に戻っているので大丈夫、だそうだ。
「私、寝てました?覚えがないんですけど」と聞くと、
「いえ、そんなことないですよ。起きてらしたですよ。少しうとうとされてたようですが」という答え。
睡眠薬のせいかなぁ。
なんにしても、足の静脈、腕の動脈、両方とも血が止まった。よかった。
検査のため朝ごはんと昼ごはんは食べられない、もの悲しい朝。
サンドイッチとヨーグルトをパクパク食べる大内くんをじっと見てしまう。
まだ昨日の検査の余波で少しふらつくので車椅子に乗せられて、行った先は内視鏡室。
胃カメラのようなものを飲んで胃の側から心臓の裏側を見る検査だ。
喉をマヒさせるどろっとしたゆるいゼリーのようなものを喉の奥で止めること、2回。
そして横向きに寝て、点滴で軽い麻酔を入れる。
前にも本当の胃カメラをのんだことがあるので大丈夫だろうと思っていたら、マウスピースのようなものを口から押し込まれ、これが喉に収まるまではかなり苦しい。
いちばんつらいのはそこだった。
そのあとは何だかぼんやりしている間に検査が終わり、マウスピースをスポッと抜いた時はホッとしたよ。
また車椅子に乗っていったん部屋に戻り、次に呼ばれたのがMRI。
やかましいことで有名なこの機械での検査を、私はまだしたことがない。
「金属を身につけていないか」(歯はOKらしい)「狭いところが怖くはないか」などの質問を受けた後、検査台に横になるとヘッドホンのような耳あてをつけてくれてアーチ様の機械の中に入って行く。
「30分ぐらいかかります。最後にとても大きな音がしますが、驚いて身動きしたりしないように。それが終わりの合図だと思ってください」と説明を受けた。
どの検査も面白いので、いろんなものを見逃すまいと一生懸命目を開けてあたりを見ているんだが、たいていつい目を閉じてしまう。
MRIも、ドラム缶をガンガン叩いてるような音や、金属音、様々な音がして、これがウワサのやかましさかぁ、たいしたことないぞ、と思っているうちに吸い込まれるように睡魔が襲って来て、気がついたら検査は終わっていた。
問題の「驚くほどの大きな音」は聞けなかったなぁ。
部屋に戻ると大内くんがほぼ荷造りを終えていてくれた。会計もすませてくれたと言う。
3日後の金曜日にもう1度MRIを受けに来るよう言われ、薬を1ヵ月分もらっておしまい。
(薬が終わりそうになったら、これまでかかっていた町のお医者さんに行くことになっている)
これで退院だ。
検査着から普通の服に着替えて、看護師さんたちにお礼を言いながら荷物を持って病棟を出る。
ちょうどタクシーが来ていたので、家まで。
ああ、我が家だなぁ!と感じるより先に、昼過ぎなのに息子はまだ寝てるし、おまけになんでか知らないけどリビングに布団敷いてるし、お皿は洗わないで流しに突っ込んであるし、カレーの鍋は出しっ放し。
「帰ってきたよ!」と語りかけるも、「うーん、むにゃむにゃ」という反応。
少なくともカレーは、さっき温めて食べたので出ている、ということを確認する。
息子が全く洗濯をしなかったもので、自分たちの洗濯物と合わせると2回まわさなきゃならなかった。
1回目はシャツ、Tシャツ類、タオル類を洗って外に干し、2回目はそのまま乾燥にかける。
その頃になるとさすがに息子も目をさまし、ぼーっと突っ立っていた。
ケータイで確認したようで、
「オレ、卒業できてたわ」と言う。
「おめでとう!」と叫んで抱きつき、両手を取ってピョンピョン跳ねようと思ったのに、彼は全然ノッてこない。
高校入試の時と大学入試の時は一緒にピョンピョンしたのに。
「彼には、もう過ぎた出来事の確認にすぎないんだよ」と大内くんは言う。
こっちは、もしかして何か間違いがあったのではないか、実は単位が足りてないのではないか、と心配でたまらなかったのだが、卒業かぁ。嬉しいなぁ。
今週末に下北沢でやる3回目のコントライブのため出かけてしまった息子に、ちょっと茫然としながら家事の続き。
ちょうどルンバが故障して修理中なので、各部屋にモップをかけてまわる。
やっと落ち着いて、お風呂に入ったのが5時ごろか。(久々の風呂桶に、大内くん、喜ぶ。「やっぱり、お湯につからないとお風呂に入った気がしないね。息子はどうして入らないで平気なんだろう?」)
夕食は軽くおそばを食べて、早めにベッドに行く。
不自由な補助ベッドで4泊を過ごした大内くんが広いベッドで自由な姿勢で寝られるのも久々だ。
ご苦労かけました。
やはり検査に次ぐ検査で気疲れしていたのか、私もかなり落ちるように眠ってしまった。
本番の手術のことはあまり考えるまい。
「やんなきゃ、ダメかなぁ」と何度大内くんに聞いても、答えは、「やりなさい」だし。
「今、普通に生きてるけどなぁ」
「普通じゃないし、ほっといたらひどくなるだけだよ」
「ほっといてみなきゃわかんないじゃん」
「あれだけ検査して、お医者さんが手術しよう、って言ってるんだから、しなきゃダメなの。もう、どうしてわかんないのかなぁ!」と半ば怒って寝てしまった大内くん。
ごめんね。でも、どうしても実感がわかないんだよ。
今度、カンファレンスにかけて手術が決まったら、一生懸命話を聞いてみるからね。
17年3月15日
大内くんは久々に出社したが、私は1日中爆睡してた。
目が覚めてやったことは、家計簿の整理。
いやぁ、2人で病室で長いこと過ごしていたら、「老後をどうしよう」という話になっちゃったのよね。
息子が結婚して孫でも生まれてたら、今住んでるマンションを5万円ぐらいで貸してあげて、我々はもっと小さな部屋を借りて住もうか、という話をしてたんだけど、上げ膳据え膳、掃除までやってもらって暮らしてみたらあまりに快適なので、早めに2人で老人ホームに入ろうか、という話に。
自分たちのスペースで顔つき合せているのは全然苦にならないし、生活の雑事を人に任せてしまえるのが魅力的。
しかし、食べなくても食事代は取られるとか、節約のしようがないとか、問題点はいくつかある。
まあ、まだ時間はある。ゆっくり考えよう。
入院中、友達とラインやメールをしていたが、
「お金がかかっても個室派。大部屋は考えられない」という人が多かった。
ただ、昔の大部屋と違って、今は日中でもカーテンを閉め切って各自自分のスペースに寝たり坐ったりしているようだ。
昔は、昼になってもカーテンを閉め切ってたりすると「雰囲気が暗い」と同室者たちから文句が出たりしたものだが。
私は、唯生を産んだ時に急な帝王切開でおなかの傷は痛むし、保育器に入ってる唯生のことが心配で、親族が赤ちゃんを囲む明るく楽しい産科病棟の雰囲気に耐えられずずーっとカーテン閉めっぱなして泣いてたし、赤ちゃんの可愛い泣き声がそのへん中から響いてくるのがつらくて、10日の入院を無理言って1週間にしてもらって早々に帰った経験がある。
息子を産んだ時は、大内くんが唯生のための介護休暇に入っていたし、個室だったし、息子はおっぱいをよく飲む元気な赤ん坊だったしで、全然困らなかった。
なので、私も断然個室派。
この病院は大部屋とは言っても4人部屋で、人数少なめ。
カーテンでプライバシーが守られてるのはいいが、いくら何でもケージに入った鶏のようにみんながカーテンの向こうで息をひそめている気配がして、それはそれで気になる。
次回も個室が取れるよう、そしてできれば安めの方の個室であるよう、お祈りしておこう。
17年3月17日
いったん退院した病院に、やり残した胸のMRIを撮りに行く。
この1週間にどれだけの検査をしたことだろうか。
先日は頭だったので、寝てしまっても問題なかったが、今日は心臓のため、「息を吸って、止めてください」と言われるのに合わせなければならなくて、寝ているヒマはなかった。50回ぐらいアナウンスがあるそうだ。
時間も、前回は30分ほどだったが、今回は1時間もかかった。
「音が変わります」というアナウンスもあったりして、フルコンサートを楽しませてもらった。
これが「やかましい」「苦手」という人もいるのかぁ、面白いだけじゃないか、と思ったよ。
呼吸を1分近く止めなければならないシーンも2回あり、なかなか観客参加型の楽しいひと幕だった。
終わって着替えて出てきたら、待合席で大内くんが熟睡していた。
この人は、寝られるタイミングでは必ず寝ている。
検査中の私が心配で手を揉み絞っている、というようなことはないのだろうか。
愛妻家なのを疑ったことはないが、神経のありどころが、私とは違う人種のような気がする。
これですべてのデータがそろい、あとは2週間後にあるオペのカンファレンス次第だ。
今、切らなければならないのか、誰が切るのか、どう切るのか、検査のデータをもとにいろいろ話し合うんだろう。
「医龍」を読んでその感覚をつかもうとしている。
「患者。57歳女性。二尖弁と胸部大動脈瘤あり。拡張型心筋症の疑いあり」
「切りましょう」
とあっさりなるのかな。
正中線切開。下腹部にも帝王切開の傷があるのに、また傷が増えてしまう。
私は傷が盛り上がって残る、ケロイド体質なんだ、そう簡単に切らないでもらいたい。
(もちろん、切る以外に選択肢がないのはわかっている。ただの悪あがき)
唯生の施設の担当ドクターがシンガポールの病院に誘われて行ってしまうらしく、ご挨拶の電話があった、と大内くんが言っていた。
入れ替わりの激しい病棟で、6年も診ていただけたことの方が珍しい。
優しく、辛抱強く、危機の時には機敏に、唯生に接していただいた。
私が手術するので唯生をよろしくお願いしたら、
「S記念病院は、心臓にかけては日本一の病院で、手術の症例数も群を抜いています。安心して治療に専念なさってください」と言ってくださったそうだ。
いろんなドクターがいる。
唯生を診てくれる施設担当医、腸閉塞の緊急オペをしてくれた外科医、私に薬を出してくれる街の心臓専門医、私の弁置換と人工血管への交換をしてくれる心臓専門外科医。
みんな、一生懸命努めてくれているのがよくわかる。
人の生き死にに関わることだからなぁ。
願わくば、一番腕の立つドクターが執刀してくれますように。
心臓日本一の病院まで車で15分しかかからないところに住んでいるという強運に、もうひと働きしてもらいたい。
17年3月18日
息子のカノジョがよく泊まりに来る。
ならしたら、週に3日ぐらいは来ているかも。
たいてい夜中に息子と一緒にやってきて、こっちもパジャマ姿でご挨拶だけして、翌朝も私が寝ている間に出て行く、という泊まり方で、あんまり一緒にごはん食べたりはしない。
お客さん用と言うか、まあ、余分の布団が二組ぐらいあるので、息子の部屋の、あり得ないぐらい狭いスペースにその1枚を敷いて寝てもらってるわけだが、やはり、時々はシーツやカバーを洗濯している風情を見せなければ、と思う。
今日はいい天気っぽかったし、カノジョが来ないとわかっていたので、前日の夜、カノジョの布団を出しておいて、息子に、
「シーツとカバーを外しておいて。明日、洗濯する」とラインを送っておいた。
そしたら案外すぐに帰ってきたので、「布団、頼むね」と言ったら、しぶしぶ作業に取りかかりながら、
「こういうの、オレがいない時にちゃちゃっとやっちゃおうとか、思わないわけ?」と聞いてくる。
これは、ちょっと真面目に説教だ。
「あなたのカノジョが使ってる布団だよ。母さんマターじゃないでしょ。あなたたちマターでしょ。洗濯するだけでも、好意でしてあげていることだよ。明日、洗濯して取り込んでおくから、あなたかカノジョがカバー掛けておきなさい。あなたがやってあげるのが親切ってもんだと思うけど」
さすがに息子も反駁できず、「ん・・・」とつぶやきながら作業を終えた。
そして翌日、彼が昼過ぎに起きてくる頃には、春の風にあおられてとっくにシーツもカバーも乾いていたので取り込んで、
「手伝ってあげるから、掛けちゃおう」と、2人で黙々とシーツとカバーを掛けた。
まったく、「オレがいない時にちゃちゃっと」って、どういう理屈なんだ!
ところで、人に聞きたくてもなかなか聞けない質問と言うのがあるもので、皆さんは、シーツ交換を何日ごとにおこなっていますか?
昨日読んだ庄司陽子の「生徒諸君!最終章・旅立ち編」の最新巻では、家事がダメダメなくせに母屋の隣で同棲生活をしているナッキーに、お母さんが、
「シーツは毎日替えるのが一番なんだけど、あなたたちは2人とも働いているから・・・2、3日に1回でいいでしょう」と教える。
そりゃ、理想はそうかもしれないけど、ホントに?
うちは、ベッドが3つあるので、週のうち1回はどれかを洗濯する、という布陣でやっている。
つまり、1つのベッドは3週間に1度ぐらいしか手をかけてもらえないのだ。
大内くんは家事全般こなすが、洗濯に関しては、
「シーツ?半年に1度ぐらいでいいんじゃない?」と恐ろしいことを口走ったので、一切、手を引いてもらってる。
息子は、自分のシーツが寝相の悪さでずれまくって、完全に剥がれて、マットレス本体の上で寝ていても気にしない。
誰かが洗ってくれている、という認識を持っているかも怪しい。
ここまでさらしてしまう、我が家の「ベッド+カノジョの布団」事情です。
カノジョのおうちでは、どのくらいの頻度でベッドメイクをしているのかなぁ…気になる。
17年3月19日
息子が8人編成のコントグループを立ち上げて、はや半年。
3回目のコントライブを観に、下北沢に行った。
就活で抜けていた人が戻ってきたり、逆に今回、就活で出られない人がいたり、メンバーが増えたり、いろいろだ。
毎回、下北沢に来るたびに悲しくなる。
昔は落ち着いた私鉄沿線の街で、ちょっとしゃれていた。
今は、パチンコ屋と服屋とジャンクフードに凌辱されている。
道があちこちつながって、自転車が増えたのも一因かもしれない。
いつものようにアンゼリカでカレーパンを買い、喫茶店パルファンへ行きマスターにご挨拶、そして3時からの回に行ってみる。
我々のように、昼の回と夜の回両方観る人は、まずいないだろうなぁ。
7人でやる1時間20分のコントを見て。
「ダメだ。最悪だ」と思ってしまった。
お客さんはまあまあ入っていたし、笑いもよく起こっていたが、我々的にはもう、練習不足、練り不足としか言いようがない。
これは、一般のお客さんには全然関係ない、親の「もっと良くあれかし」という願いが強烈すぎるんだと思う。
どんよりとしてa亭でラーチャンを食べ、駐車場に停めてた車の中でひと休み。
ラブホに入るという選択もあるかなというぐらいの疲れ具合だったので、車で来てよかった。寝入ってしまいそうだ。
1時間半の間にはさすがに寝ることもなく、
「それにしても息子は、これからどうするんだろう。みんな就職するか、プロを目指して頑張るかで、なかなかコントグループに割くヒマがないよね」
「お客さんの動員も、結局、友達を呼んでるんだから、ほぼ全員が社会に出ちゃうこれからは、見に来てもらうのも難しくなるよね。サークルの後輩とか慣れた人がスタッフを手伝ってくれてたけど、それだって、バイト料を払って雇わなきゃいけなくなるかもしれない」
「今のテンションを維持するのは難しいよね。息子自身、仕事の合間にどれほどのコントが書けるか、心許ないね」
と話し合う。
ああ、親の心配は果てしない。
しかし、報われることもある。
いつものことだが、2回目は細かい修正がなされており、1回目よりずいぶん出来がよく見えるのだ。
単に「次に何が起こるか知っている」せいだけかもしれないが、安心して笑える。
短い時間で変更を行ったためか、2回目の方がむしろ「かむ」現象や「セリフを忘れて真っ白」な状態が散見されたが、大まかには、ずいぶん良くなっていたと思う。
残念ながら、これまでの2回のように、終演に先立ち「次回のご案内」を聞くことはできなかった。
予定を、決められなかったのだろう。公演があるかないかも怪しいのかもしれない。
だが、そうであるならそうであるほど、無理やりにでも「次もある」と言ってほしかった。
エレベータの前にいたら、息子が大内くんにスッと近づいてきて、食いしばった歯の間から小さな声を絞り出すようにして、
「恥ずかしかった。こんなんじゃダメだ。次、頑張る!」と何度も繰り返していたそうだ。
その意気や良し。
まだまだやれるよ。頑張れ。
大内くんの運転で家に帰り、お風呂に入って、
「今頃は撤収も終わって、打ち上げとるかねぇ」と下北に思いを馳せる。
息子は頑張った。
今回、ICUの演劇に少し浮気して、コント直前に8回も舞台に立っていたのはいかんと思うが、おかげで親も観に行って面白いものを見せてもらったわけだし、私の検査入院などで家も落ち着かなかったろう。
4月からは仕事が始まる以上、これまでより時間的にも頭の廻しどころにしても難しくなると思うが、好きでやっていることなら、好きなだけやってくれればいいと思う。
ただし、お給料という形で会社に買われていることは忘れないでもらいたいし、仕事がめんどくさかったり辛かったりした時に「コントの道」を逃げ道にして欲しくはない。
親も応援している。
今日は、何組かの中年夫妻を見た。
「うちの息子は何やってるんだろう?」と思う親は我々だけではないということだ。それが、親心。
17年3月20日
くたびれ果てて泥のように寝込んで、9時ごろに目を覚ましたら、玄関に息子のカノジョの靴があるのを見つけた。
ケータイにも、「泊まりに来てかまわない?」とラインが入っている。
驚くのは、私が何の記憶もないのに、
「もちろんいいよ。お疲れさま」と返事しているうえ、やはり眠りから覚めてきた大内くんによれば、
「夜中に、会った、って言ってたよ。『本当にお疲れさま』って言ったよ、って聞いた」
うーん、ひとつも覚えがない。
やはり睡眠薬の飲み過ぎであろうか。
大内くんは完全に治ったらしいが、私はまだ「軽い風邪をがっちりひいた」状態だし、疲れたので、今日は家でのんびり過ごそう、と決めて、ベッドでごろごろと本を読んだり、書斎で自炊をしたりしていた。
12時過ぎにカノジョが、遅れること15分ぐらいで息子が起きてきた。
2人ともけっこうよれよれに見える。
いくら若いからと言っても、やはり、くたびれたんだろう。
お昼ごはんに、先日、名古屋の友達が送ってくれた「あんかけスパゲッティー」のレトルトを使って、パスタを作ってあげた。
あと、キャンベルのスープを我々もご相伴。(我々のお昼は、アンゼリカのカレーパンを食べて終わっている)
息子に、「おいしいカレーパンあるよ」と言ったら、「食いたい」。
もう、パスタができるところだったので、
「食後にしたら?もうできるよ」と言っているのに、「今、食いたい」。
押し問答はやめて、レンジで40秒温めたカレーパンを渡す。
「うん、うまい!」
これが聞けちゃうと、あとはもうどうでもよくなっちゃうんだよねー。
パスタも「うまいね」と言ってぺろりと食べ、小柄だが健啖なカノジョもかなりぺろりと食べてくれて、もうあとは好きなように過ごしてください。
テーブルについている時に、
「大内さんは、お母さんが入院してる時、『寂しいなー、家に帰るの、やだなー』って言ってたんですよ!」と聞かせてくれたのですごく嬉しかった。
それ以外にも、昨日の舞台について、
「大内さんは案外アドリブが多いんですよ」とか、いろいろ教えてくれる。楽しい。
息子はあいかわらず無口だが、コントの批評とかをしていたら、それなりに反応がよく返ってくるようになった。
私が何かをけなしてしまったので。「怒った?」と聞いたら、
「いいや。オレも、それほどコドモじゃない」という答え。
確かに、昔はコドモだったもんね。凶暴な。
2人がそれぞれの用事で出かけた4時過ぎ、今週のごはんの仕込みも大内くんがやってくれて、さて、お風呂でも入るか。
疲れて何をする気力もわかない。
大内くんは、
「それは、風邪のせいだよ。全身状態が悪いんだよ」と言う。
確かに、「うつ病でないのにうつ状態になるのはガンと風邪だけだ」と言うぐらいだからなぁ。
もともと落ち込みがちな人生だが、風邪が拍車をかけているのかも。
ふとしたはずみで、息子のコントグループ前の時代、他のグループと合同でやった「合同コントライブ」のDVDを見つけた。
かけてみたら、これがまあ、面白いのなんのって。
今のコントよりずっと面白く、見せ方も高度。
「初めてだから、たまりにたまってたアイディアを吐き出せたんだろうねぇ」
「そして、その後、たまるほどの余地が無く、次々とコントライブをしてるってことか。いつ?2年半前か。その間に全部で6回、コントライブをやってるけど、これほど出来がいいのはまだ観てないなぁ。これ、YouTubeとかに全部上げたら、火がつかないだろうか」と大内くんは言う。
夜中に帰ってきた息子にその話をしたら、
「オレたちの中ではわかってることなんだよ。どれがよかったとか悪かったとか。いちいち言わなくていいよ」とけんもほろろ。
思わず、「そんなに母さんにいろいろ言われるのはイヤ?」と聞いてしまったら、
「そういうわけじゃないけど、やってるオレたちは、わかってるってこと。それだけ」
まあ、怒ってないんだから確かに「それほどコドモじゃない」のかもしれないけど、
「そんなにあれを気に入ってくれたの、ありがとう」と言ってくるほどオトナじゃないね。
キミはもうじき、コドモでも大人でもない、「新人」という生き物になるんだよ。楽しみだね。
お給料をもらうのは、絶対にものすごく気分がいいから、少なくとも満額もらえる5月までは頑張ろう。
借金も返してくれるって言うし、キミのおこづかいがいらなくなったら我が家の家計簿は劇的に健全化する。
母さんはすでに、貯蓄額を概算して、取らぬタヌキな気分になっているよ。
コントにも燃えてほしいけど、お仕事も、頑張ろうね!
17年3月21日
接待で遅い大内くんを待っていたら、11時半ごろ息子からラインが入った。
今日もカノジョが来てもいいか、という問い合わせだ。
これを、「聞いてくる」ようになるまで、どんなに時間がかかったことか。
前カノの時からそうだったが、「今日、来るから」という切り口上。
「こっちにも都合があるんだから」と言っても、
「オレの部屋に泊めるだけで、他に迷惑はかけてない!」と言い張っていたなぁ。
今カノになって半年以上たつが、息子はやっと「今日、来てもいい?」「来ても大丈夫?」とか聞いてくるようになった。
今カノは明るい性格で私ともよくしゃべってくれるので、来るのは大歓迎だ。
しかし、元々私は引きこもり。
年に2度、まんがくらぶのメンバーを呼んでホームパーティーをするが、それが限界、って感じ。
なのに、しょっちゅう家に家族以外の人がいる。
これはストレスでないわけがない。
気を使ってすり減って、しかも気を使えば使うほどしょうもないことを言ってしまう私の性格を知り抜いた大内くんは、かなり事態を憂慮してる。
「都合はどう?って聞いてくるんだから、『今日はちょっと体調が悪い』とか言えばいいじゃない。僕は、手術のあとなんかは消耗するし、大変だろから、しばらく遠慮してもらうつもりでいるよ」と珍しく強い口調で言っていた。
でも、断りたくはない。
断って、息子に恨まれるのが耐えられないのだ。
能力を超えた八方美人はよくない、とわかってはいるのだが・・・
まあ、もうちょっと考えてみよう。
私の引きこもりな生活に新鮮な風が入ってくる、と言えなくもない。
問題は、風が強すぎて風邪をひくことぐらいだろう。
17年3月22日
息子のカノジョが来ていたので、昼頃あわただしく起きてきた彼らに食事を出し、食べたお皿は私が洗い、さてさてこのへんをどう指導して行ったものか、と悩みながら、小さなペットボトルにお茶を入れて、お出かけのしたく。
今日は病院だ。
最近ふらつきがひどいから、自転車で行くのはやめてバスにしよう。
お出かけのしたくを整え、バッグをたすき掛けにかけて、リビングにいる2人に「行ってくるね」と言い、玄関で靴を履き、壁一面の鏡を見たら・・・
私は、家でいつも着ている「はんてん」を着ていた。
書斎でジャケットにに着替えてリビングにとって返し、
「母さん、今、はんてんで外に出るところだった!」と言ったら、2人して笑いながら、息子は、
「ま、いいんじゃないの?どっかで気づくだろう、と思った」と言うし、カノジョは、
「いつもそういう格好でお出かけなのかと思いました」と言う。
そんなわけないじゃん!郵便物でも見に下に降りるだけならともかく、バッグまで持ってそれはないだろう!
なんとか無事に出かけたが、このマンションを買う時、玄関の一面を鏡にする、というオプションを選んでおいてよかった。
よくそう思うんだが、今回ほどよかったと思ったことはない。
しょぼいオプション内覧会だったが、鏡を売るおじさんだけがハンパなくやる気があり、我々の注文に、
「はい、ブロンズ色の鏡にして、両端に擦りガラス入れたら、すごく風格が出ますよ!いいですね!」と嬉しそうに答えてくれた。
今でも、玄関は家の格を高めてくれてると思っている。
家を買うなんて一生一度のことだから、と頑張ってみてよかった、と思う瞬間。
このマンションは、お金がないという事情もあるが、なるべく息子家族(予定)に譲ってあげたいな、と思う。
17年3月23日
息子がごろごろと映画観てるリビングを出て、ベランダの洗濯物を取り込んでいたら、驚くべきことが起こった。
のっそりとベランダに出てきて、「手伝おうか」と言ったのだ!
あんまり驚いたんで一瞬口が開いてしまったが、なんとか、
「じゃあ、それとそれ、取り込んでおいて。そのへんに置いといてくれればいいから」と言うと、
「ほーい」と言いながら、洗濯物がいっぱいぶら下がったハンガーを持って行ってくれた。
息子から、何かを手伝おうかなどと気を使われたのは、十何年ぶりだと思う。
しかも、昔は手伝ってもらうとかえって手間がかかるところをぐっと飲み込んで、
「はいはい、ありがとね」みたいな気分だったのが、今や、私より背も高いし力も強い。
本気で手伝ってくれたらすごく助けになるだろう。
実際、最近、台所の上の方の棚に入ってるものを、「ちょっと、あれとって」とか言って使い立てしてしまうこともあるのだ。
これで、本格的に家のことをしてくれるようになったらどんなに便利か。
家では何にも仕込んでいないので、息子の奥さんになる人が頑張ってくれたらいいと思う。
それにしても、ああ、驚いた。
17年3月24日
昨日は12月のお誕生会。
と言っても、大内くんともう1人、社の同僚Hさんが12月生まれで、12月に行う予定だったのだけれど、Hさんの殺人的な忙しさに負けて、ついに今日まで押し切られてしまった。まあ、それでも、なんとか開催。
Hさんの奥さんや私も同席して、バレスホテルでローストビーフを食そうという集まりだ。
予定の時間に我が家夫婦とH夫人は現れたが、大内くんによると、Hさんは少し遅れるらしい。
「いいですよ。待ってましょう」と3人で世間話をしていたら、大内くんのケータイにどんどん連絡が来るという。
「今、走ってるんだって!」
「走らないでいい、って言って〜!」と思わず女性陣はユニゾン。
さほど息も乱さずに5分ほどでHさん登場。
ひと息ついたところでワインリストの検討を始める。
Hさんも奥さんも、ワインアドバイザーの資格を持っているほどのワイン好きなのだ。
飲めない私も1杯だけいただいて、「乾杯」!
Hさんご夫妻は、私のためにわざわざ病気平癒のお守りをもらって来てくれたそうだ。
「ちゃーんとフルネームでお願いしておきましたから、よく効きますよ!」とH夫人。
名前を書いた、ってことは、お賽銭ぐらいじゃないってことね。
すみません、そんな、私のために出費を。
それぞれが選んだ前菜をつつきながら、話題は仕事の方に引っ張られがち。
「ダメじゃん。今日は、仕事の話抜きなんでしょ?」と止めても、やはり止まらないもんで、H夫人が結婚するまで同じ会社に勤めていたこともあって、社のメンバーの話題に。
しかし、何を話していても、ローストビーフが出るといったん話は止まる。
おいしいのだ。
私は最近家で、毎日のようにステーキを食べているが、くらべものにならない。
しみじみとかみしめて食べてしまった。
メインがすんだら、Hさんがノートパソコンを出して、ダンディでカッコいい部長のFさんはじめ、いろんな人の写真を見せてくれた。
H夫人にはなつかしい顔が多かったようだ。
やがてデザートがやってきた。
Hさんと大内くんは12月生まれだが、パーティーがずれこんでここまで来たので、ぜひバースディソングをお願いしたい、できれば2人分、フルコーラスで、とお願いしてあったので、リクエスト通り、それぞれ2人の名前が入った見事なコーラスを聴かせてくれた。
残念だったのは、大内くんは自分の分だけケータイのビデオを編集して、その歌の素晴らしさをFBに載せたい、と思っていたのに、私が全編続けて取ってしまったものの、編集ができなかったらしい。
ビデオでケーキや風景をなめている時にHさんの顔が映っちゃったし。
Hさんは顔出しNGなんだよね〜。
しょうがない、来年に期待だ。
楽しい時間があっという間に過ぎて、上のラウンジも予約しておいたはずなのだが取れておらず、まあ、私も入院前だ、治ったら快気祝いをやりましょう!ということで、ホテルの前でHさんたちとお別れ。
中央線もバスも、座って帰れた。嬉しい。
もう2年もしたら、子会社に出されるか関連会社に行くよう言われるかだ、と大内くんが日頃言っているので、
「会社辞めちゃったら、よっぽど意識して頑張らないと、友達は残らないよ。Hさん夫妻とか、がっちりつかまえておいてね。ずっと仲良くしたいから」と言い渡してある。
今日のような楽しい席が、その時役に立つといいのだが。
17年3月25日
息子の大学の卒業式。
これまで、さまざまな学校の行事や式に出てきたので、5年前、入学式に行かなかった時はまわり中から、
「どうしたの?大内家が、行かないなんて!」と驚かれたのだが、自分たちとしては、「もういいや」の気分が強かった。
ここまで育ててきて満足だし、そもそも「別室で映像を観る」というような参加の仕方は、あまりしたくなかった。
で、行かずにすませて、前年のYouTubeで拾った映像を観て「こんなもんか」と気分だけ味わった。
新入生たちは、やたらに紙の束をもらって困っていた。
息子も、電話帳ぐらいの紙束を持って帰り、各サークルを比較検討し始めたようだった。
お笑い、と決めてはいても、古参の落研もあれば比較的新しいサークルもある。
毎晩12時頃に、感心なことに酒の匂いは特にさせずに、無表情に帰ってきた。
で、その電話帳ぐらいのサークルをあちこち回って、あの頃は相当ただ飯が食えたんじゃないだろうか。
12年柔道を続けた男ではあるので、友達に「ブドウ関係のサークルもまわってる」と変換ミスしたら、
「ワイン関係のサークルかと思った!あの子がねぇ、って、驚いたよ」と後日語っていた。
すいません、武道サークルです。
結局比較的新しいお笑いサークルに入って、新歓ライブに招待され、5月には大隈講堂ライブをやり(新人はまだ出してもらえない)、部内ライブを経て、文化祭デビュー。
その後は、各大学が集まるよしもと主催のコンテストなんかによく出ていて、およそ家にいるということのない人だった。
その頃は、柔道サークルにも時々顔を出していたようだし。
「白帯をして行くんだけど、組んだとたんに相手の顔色が変わるのが面白い」と語る黒帯二段の彼は、相当、悪趣味なのではあるまいか。
お笑いの方は、サークル本体の力も強く、コンテストではたいがい上位にいた。
チーム戦になったりすると、優勝もする。
もっとも、息子の代は、むしろ「優勝できなかった年代」と呼ばれてしまうのだが。
そんな中で知り合った気の合う仲間たちと初めての、お仕着せでない「合同ライブ」を開いたのが2014年の12月。
これは、最高のライブだった。息子に言うと機嫌が悪くなるが、これを越えるライブはまだ観たことがない。
そんな勢い余って意足らずみたいなライブをもう2回やって、2016年には、息子が主宰するコントグループを発足させ、この3月までに3回のライブを行った。
8人のメンバーはほぼ全員が今年仕事に就く。
「ほぼ」以外の人は、お笑い芸人を目指してバイト中だ。
今後、どう活動して行くつもりだろう?
そんないろんな思い出をしょって卒業式に出るんだなぁ、と思ったら、「出ない」と言う。
「まあねぇ、ほとんどの友達は卒業しちゃっただろうし、父さん母さんも行かないから、いいんじゃない?」と言っていたら、当日の朝、急に、「やっぱ、出る!」と叫んで、背広に着替えてあっという間に出て行ってしまった。
「彼が出るなら、見に行く?」「いいや、疲れたよ。家で休んでる」と会話して、
「いつもよりお金たくさん借りちゃうけど、ごめんね!」と言って持って行った5千円のことを思うと、複数の飲み会に参加してくるんだろうなぁ。
思った通り、夜中に、カノジョ連れて機嫌よく帰ってきた。
「おかえり」と言って、えんじ色の卒業証書を手渡され、しげしげと見る。
これを手に入れるために、どれほどの苦労をしたことか。
息子は至って機嫌よく、自分の部屋でカノジョを待たせてるくせに、
「写真、撮る?」と大内くんに呼びかけ、にっこりとフレームに収まる。
「母さんも撮ろうよ」
うーん、これは、相当飲んでるんじゃないだろうか。
でも、息子に肩を抱かれて感無量、思わず涙がこぼれそうなところを大内くんがパチリ。
いい写真になった。問題は、私がパジャマ姿だってことだけだろうなぁ。
何か、いろいろ語り出しそうな彼だったが、明日から同期の卒業旅行で、もう2時なのに、5時半起きとか言ってる。
おまけに、カノジョが寒い部屋で待ってる。
惜しいが、今日のところはここまでだ!
彼が出て行った部屋で、卒業証書を抱きしめて泣いてしまった。
別にこれがどうしても欲しかったわけじゃないんだが、息子が5年間、お笑いに燃えながらも学業の方も最低限は努力した証だ。
息子の身体のぬくもりが伝わってくるようなえんじの表紙を開いて、息子の名前を何度も見て、いつまでもいつまでも、大学には到底行けない唯生のことまで思って、涙があとからあとから止まらなかった。
大内くんが私の肩に手をかけ、
「2人でやってきたことだけど、いろんな人にお世話になったね。保育園の先生たちとか、シッターさん、ヘルパーさん、今の息子は、僕達だけのものじゃないよ。社会のものだよ。これから彼が社会にちゃんとお返しができるよう、やれる限りはお手伝いしようね」と言った。
私はやはり泣いていた。
さまざまに嬉しい夜だった。
いっときはもう1年かと思われたが、よく頑張って卒業してくれた。
親の大仕事が終わった感がある。
17年3月26日
お笑いサークルの仲間と、香港に卒業旅行。
前日夜中に飛行機が欠便とわかり、出発が1日遅れるかと思われたが、午前4時頃、時間は遅れるが当日出発、の連絡が。
8時前に家を出るので、「起きれるかな」と心配そうなのを見て、つい、「起こしてあげようか?」と言ってしまった。
「ありがと」と言って寝てしまったようだが、こちらも起きる自信がない。完徹だ。
カノジョが来ているので、部屋に踏み込むわけにはいかない。
ドアをノックして、「起きてる?時間だよ!」をくりかえすこと5回ぐらい。やっと起きてくれた。
シャワーを浴び、きわめてテキトーに荷物をバッグに放り込んだ息子は、
「じゃ、オレ、行くから。カノジョは1時間ぐらいしたら起こしてあげて」と言うなり、ぴゅーっと出かけてしまった。
「行ってきます」のハグもないの?
まあ、昨日が大サービスデーだったからなぁ。
しかし、扉の向こうで熟睡してるカノジョをどうしたもんだろうか。
完徹の私たちに、もう1時間起きていろ、というのも切ない話だ。
おまけに、1時間たってノックして、「ごめんね。頼まれたから起こしてるの」と3回ぐらい言ったけど、「はいっ」という返事の後は、また寝こんでるみたい。
実は息子と大して変わらない体質なんじゃないだろうか。
4回目に、「何時に起きなきゃいけないの?」と聞いたら、ドアが開いて、ゾンビのようになった彼女が現れた。
「確かに大内さんに『1時間ぐらいしたら起きる』と言いました。用事は、2時半から映画館のバイトです」
「え、じゃあ、今まだ10時頃だから、むしろ、うちで寝てった方がいいんじゃないの?風邪気味みたいだし」
「ハイ、そうさせていただくと助かります。1時半ごろ起こしていただければ」
「じゃあ、寝て寝て」
というわけで、我々も完徹のあとの、あの吸い込まれるような泥にはまって行くような、一種甘美な時間を味わう。
1時半にカノジョを起こし、うどんを作って食べさせるが、どうも息子が家に持ち込んだ風邪と同じやつを手ひどくひいている、という印象だ。
あまり時間はなかったが、またいろいろと重要な情報が聞けた。
息子の「カノジョ置き去り癖」はあまりいいとは思えないが、役に立つのもまた、確か。
今度、息子の就職祝いと称して焼肉でも食べに行こう、とカノジョと約束したので、その折にでも、またカノジョとお話ができるだろう。
明るくて前向きで生真面目で、「青春を生きている」様子のカノジョを見ていると嬉しくなる。
さて、我々の愚息は、いつまでカノジョの心をつなぎとめておけるかな?
17年3月27日
病院から電話があって、入院と手術の日が決まった。
4月15日(土)入院の、18日(火)手術だ。
正直、もうちょっと先の話になるだろうと思っていたので、意外、というか、驚いてるんだろうなぁ、私は。
10代の頃から、いつ死んでもいいと思っていた。
自分で死のうと思ったことも何度もある。
死は、常に自分のかたわらに寄り添う親しい友人で、強く望めばいつだって私を別の世界に飛翔させてくれるような気がした。
でもそれは、私があまり幸せでない子供時代を過ごして来たからで、特に大内くんと結婚してから、
「こんなに甘えていいんだ!」「寂しかったら夜中でも起こして、話を聞いてもらえるんだ!」と驚愕して以来、どうも私は、「幸せ」というものに目覚めてしまったらしい。
人格と皮膚感が乖離しているのか、体感がわからない。
常に自分の身体を誰かが使ってる気がする。
そんな私が心臓を切り刻む手術を受ける・・・本来ならウェルカムの事態だよね。
切るのは「私の心臓」だから。
痛くてもつらくても、それは「私」に起こってることだから。ちゃんと受け止められるはず。
それに、手術の最中に何かの間違いで死んじゃっても、私には本当の意味での悲しみは無いのだ。
最近でこそ、「大内くんと長生きしたいなぁ」とか「息子のコドモを見たいなぁ」とか素直に思うが、それでもやっぱり、寝ている間に死ねたら幸せだと思う。
大内くんがね、可哀想なんだよ。
ヘタしたら、私がいない時間を40年ぐらい生きるかもしれない。
まあ、自分でもなるべく生きる努力をするが、皆さんも応援してほしい。
生還して、これまでの自分とは違う価値観で生き直してみたいと思います。
17年3月28日
マンガ仲間に、ミセスAという、4人の子を持つお母さんがいる。
それだけで、座ってマンガを読む暇なんてないだろうな、と驚いているのだが、彼女は、私のHPの愛読者でもあるのだ。
いつもよく読んでいただいて、たいそう嬉しい。
彼女がリンクを貼ってくれたおかげで、彼女の友人たちも「うつらうつら日記」を読んでくれるようになったらしい。
中に1人、どうしてなんだかわからないが、我が家のHPをとっても気に入ってくれた人がいて、中継者たるミセスAから絶賛のお言葉が返ってきた。
自分勝手に、その日あったことを極めて少ない登場人物で語るだけなのに、どこがそんなに面白いと思っていただけたのだろう?
ミセスAとのこの友情を育てていけば、いずれ、そのお友達に会える日も来るかもしれない。
今はとにかくせっせと日記を書こう。
17年3月30日
今日は大内くんが九州に泊まりの出張。実に寂しいが、最近、さすがに慣れて来ちゃったなぁ。
帰りが遅い人をじりじりと待つより、「今日は帰ってこない!」と思った方が「好きなことを好きなだけ」感がある。
そんなことを思いながら誰もいない家で1人でピザを焼いて食べていたら、ちょうど食べ終わった瞬間に大内くんから電話が。
「さびしいよう」と訴えると、
「うんうん、明日帰るから、よく休んでおいて。週末、一緒に遊ぼうね」と優しい返事。
「でも、接待で遅い時より、いっそいない方が楽かも」と言ったら、
「えっ、そうなの?僕がいない方がが気楽?」と不安そう。
いやいや、そんなことないよ。
ただ、「待つ」のにくたびれてしまっただけ。
明日の夜遅く帰ってくるのは、やはり切なく待つよ。
シャワーを浴びてもう寝る、と言う大内くんとの電話を切ってしばらくしたら、息子からライン。
「カノジョ、来ても大丈夫?」
この人も、ちゃんと「こっちの都合を聞いてくる」ようになったなぁ。
「全然かまわないよ。父さんいなくて寂しいし」と返したら、
「帰ったら、お茶でもしようか」と思いがけない返事。
「お茶うけ何もないよ」
「何か買って行くよ」
驚きだ。
だって、この人は、昔カノジョ1号とつきあっていた頃は、やはり頻繁に家に連れてきたくせに、
「お茶だけでも」と言う私の目の前で、グラスの麦茶をぐっと飲み干し、
「これでお茶は飲んだよ」と言って、2人で自室にこもってしまった過去があるんだよ。
それが「お茶でもしよう」とナンパのようなことを言ってくるとは・・・人間、変われば変わるもんだなぁ。
それから30分ぐらいして帰って来て、近くのガストでネタ書いていたらしかったが、お茶うけは忘れていたようだ。
家にあるクッキーを出して、ほうじ茶を淹れ、3人でいろいろ話す。
と言っても、おもに私とカノジョがしゃべってるだけで、息子は森博嗣の「四季・夏」を読むのに忙しい。
いいんだ。これは、私が大好きで薦めたシリーズで、「すべてがFになる」から入って、人を撲殺できそうな分厚い「有限と微小のパン」を経てたどり着いたものなんだから。
それに、彼女か私が何か言うと、「ん?今、こう言った?」とひょこっと顔を上げるので、聞いてはいるんだよね。
20分ぐらいで、息子が湯のみを置いて「ごちそうさん!」と言ったので、「ああ、これで終わりだな」と思い、解放してあげた。
本当に、よくつきあってくれるようになったよ。
アメリカに行った話が出たので、急にお世話になった大内くんの従姉のことを思い出したらしく、バイリンガルの彼女に堂々と日本語のメールを打っていたし。
ちゃんと卒業・就職の報告をしたようだ。なんだかすごくエライ。
私も眠くなったので、今日は大内くんのベッドで寝てみる。
私はシングルだが、彼は前に一緒に使っていたダブルベッドに寝ているのだ。
寝返りをうってもうっても端に届かない広い平野で、
「いつもこんないい思いをしていたのか。ちっ」と、寝相のいい私でも思う。
まあ、今日は私1人で息子たちにお茶に誘われるといういい目を見たので、ベッドのことはカンベンしてあげよう。
「会社は、いつ辞めるかわからない」というような恐ろしい話も1人で聞いてしまったし、嬉しいんだか困るんだか。
もちろん、トータルではとても嬉しい。
卒業式の夜の写真をカノジョにもほめられ、やっぱり幸せだなぁ、と思って、また涙ぐむ私であった。
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