17年4月1日
息子の「卒業旅行」をふり返る。
「4泊5日」と聞いていたのに、実は「3泊4日」で、行き先は「台湾」と聞いていたのに、実は「香港」。
当日朝、飛行機が欠便になったけどどうにかなる、と言われて送り出し、帰って来てから聞いたら、名古屋まで新幹線で行って飛行機に乗ったらしい。
なにより、「お金は、不安だから多めに持って行く。残った分は返す」と言われて12万円持たせたら、移動費その他で全部使って来てしまった・・・どういうドタバタな旅行だったんだ?!
カジノで2万使ったらしいし。
お笑いサークル同期4人男の旅。
1人は去年卒業したけど、芸人目指してコンビニでバイトしながら修行中。
1人は去年の就活に満足できず、あえて留年し、良い就職先が決まったのか、9月に卒業して4月の入社待ち。
1人は息子とほぼ同じように留年し、少しだけ余分に単位を取り、似たような小さな会社に入るようだ。コンビを組んでいたこともあるこの子が、私は何だか1番好きだなぁ。メガネ萌え?
おみやげもなく、写真も見せてもらえず、洗濯物だけが膨大に出た、親にとってはあんまり面白くない旅行だったけど、彼らは楽しかったのだろう。
ま、それが最も肝心な点だ。
17年4月2日
昼間はうちでカノジョと遊んでいると思ったら、夕方から出かけて行った、就職前夜の息子。
会社から出ている課題はほとんどやっていなくて、
「必要性がわからない。必要だと思ったら、その時やる」とスゴイことを言っている。
大内くんと2人して、
「ちゃんと会社に行けるのかねぇ。あっという間にクビになっちゃったりしないかねぇ」と話していたら、夜になって、ラインが入る。
「基礎年金番号と、マイナンバー教えて」
ああ、やっぱり、会社で必要な書類とか、今、ガストかなんかで書いてるんだ。
直前まで何の準備もしない人だなぁ。
こっちもいろいろ手続きとか考えてなくて、大内くんの会社の保険証はもう使えなくなるんだ、年金の猶予願いも終わりで、遡って払うか、将来もらう額を減らすか、決めなきゃいけないんだ、パスポートも取り返さなきゃ、とか、少しおたおたしながら、彼の重要書類用のファイルを用意する。
なんか、嫁入り前夜なのに全然心の準備ができてない花嫁の御母堂が、
「何事も旦那様の御心のままに、驚いたり取り乱してはいけません、って『偃息図(おそくず)の絵』を見せなきゃいけないのにっ!」って猛烈に焦ってるみたいだ、と思う。
朝は起きられるだろうか、入社式なのに背広は着て行かないって言ってるけど、みんなそうなのかな?通勤定期はいつ買うんだろう、3日で辞めてきたらどうしよう・・・心配事は尽きない。
本人も落ち着かないのか、11時頃帰って来て、無言のまま、どうも2時過ぎまで部屋でごそごそしている気配。
早く寝なさいね。
17年4月3日
カレンダーのせいでえらく寝ぼけてしまったけど、今日は息子の「初出勤」で「入社式」。就職しました!
とは言うものの、やっぱり起こさないと起きないようだし、その割に朝飯はしっかり要求されたし、普段、大学に行くのと全然変わらない格好で出かけたので、夫婦で送り出したのはいいが、なんつーか、実感がわかない。
夜になって、11時頃、
「ラインしてみてもいいかなぁ」と私が聞いたら、
「しちゃえ、しちゃえ!」と大内くんがけしかけるので、「1人でガスト?」と打ってみたら、すぐに、
「今、おわった」
「何が?」
「会社」
「残業?」
「飲み会」
そうか、やはり会社の飲み会があるのか。
課長が連れてってくれるのか、同期で勝手に行くのかわからないが、とにかく会社シバリの宴会はあるわけね。
12時頃帰って来て、夜食を要求して、食べたら寝た。
ほとんど何も話してくれない。
昨日の晩、「父さん、母さん、これまでお世話になりました。明日から僕も社会人です。ここまで育ててくれてどうもありがとう」という儀式をやっておくべきだったなぁ。ま、本人がまずその気にならないだろうけど。
彼は、非常に親に感謝している、とカノジョを含む関係者各位から伝わってくるのだが、その感謝を、見せるのは恥ずかしいらしい。
気持ちはわかる。
なので、無理強いはしないし、日頃飛び交う「ありがとう!」で充分だとは思うのだが・・・面白くもなんともないなぁ。
17年4月4日
目ざまし時計とiPadとiPhoneとiPad miniの助けを借りて、それでも最後は大内くんにひと声かけられてやっと起きた息子。
こんなんで、私が入院してる間とかどうするつもりなんだろうか。
いや、向こうがどう思ってるか以前に、心労でこっちが死にそうだ。
だんだん起きられる方向に向いているような気はするんだけどなぁ。
今日も帰りは12時頃だったので、「何してたの?」と聞いてはみたが、「仕事」というなり着替えてベッドに飛び込んでしまった。
まあいい。今日は夜食を食べなかった。
これで夜食もこれまで食べなかった朝食もコンスタントに食べるようになったら、心配でしょうが。
朝も、「ご飯とみそ汁だけでいい」と言う。二日酔い?
とにかく毎晩大内くんとはしゃいでる。
「社会人だよ!自分のお金は自分で稼ぐんだよ!そいで、私たちに借金も返してくれるんだよ!」
そのへんになると大内くんはやや懐疑的と言うか、いや、息子の誠意はみじんも疑ってないが、もらえるお金に限りがあるからなぁ、という顔をしている。
私は、1人暮らしをしながら甲斐性無しの学生であるカレシに時々おごってあげながら、一時払い養老保険とかゆうちょとかいろいろやってお金ためたよ。
そう言うと、
「いや、時代が違うし、息子は名古屋人じゃないし…」と煮え切らない大内くん。
だからさぁ、息子の口座から、なんだかんだ口実を設けて引き落とすんだよ、どんどん。
彼にお金を持たせとくとろくなことにはならない、ぐらいのことは私も心得てるよ。
こないだ、卒業旅行にトータル15万以上かかった時は驚いたなぁ。
いや、行く先がイタリアだとか言うならともかく、香港だよ?
もっと安く行けないかね、普通。
そのように息子の金銭感覚はいったんパチンコで崩壊してるので、もろい。
慎重な指導が必要と思われる。
でも、社会人なんだよね・・・
給与が振り込まれるカードを作るにあたって、「リボ払いだけはやめてね」と懇願する両親だった。
17年4月6日
えらいもんで、息子はもう4日も会社に行っている。(大内くんなんか30年近くも行ってるんだから大したもんだが)
朝、起きられないのも、
「ああっ、また起こされちまった!なんでオレは自分で起きられないんだろう!」と猛烈に反省しているようだし、目ざましをいろいろかけるとか工夫もしているようで、ひと声かければガバッと起きるようになってきているので、そのうち何とかなるだろう。
今日は、「マナーを教わる日」だそうで、珍しく背広で出かけた。
これを着て通勤することを何となく夢みていたし、就活用は主にコントの衣装としてボロくされてしまったので、新しい背広を2着買ってあげたんだよね。
で、それらも結局コント用。
今日はまともな出番があって、背広が喜ぶ声が聞えるようだ。
カノジョとも会えてないんじゃないかと思えるし、大丈夫かね。
金曜の夜、なんて我々的には話したいこと、聞きたいことがたまりまくってるんだが、もし彼女が泊まりに来たら、カノジョに譲るよ。
いや、カノジョがいた方が、口の重い息子が何かしゃべってくれるかもしれない。
カノジョ〜、「会社、どうですか?」って聞いてよ〜、私たちとお茶飲みながら。
でも、最近の若い人はそんなのとっくにラインで聞きまくってるのかも。
明日は私の手術前の最後の診察、というか面談。
どういう手術をするのか、とかいろいろ聞けると思う。
その結果、「やめときます」と言うことはあり得ないんだけど、やっぱりちゃんと聞いておきたいよね。
ネットで、恐ろしい記述を目にした。
私が受ける弁置換術で人工の「機械弁」を選択すると、血栓ができるのを防止するため、生涯にわたって「ワーファリン」という抗凝血薬をのまねばならないのだが、なんと、その薬を飲んでいる人は「納豆」を食べてはいけないのだそうだ。
ビタミンKを多量に持っていてそれがワーファリンの効き目を阻害するかららしい。
「というわけで、納豆が好きな人には気の毒な話なのですが、ワーファリンを飲んでいる限り、永久に納豆とはお別れだと思ってください」と書いてあった。軽いなぁ。
私は豆類がキライで、でも納豆が大好きだから、栄養学上は何の問題もないと思っていた。
と、ここに至っての納豆禁止。
牛や豚の弁から作った「生体弁」だと、食事も他の薬もほとんど影響も制限もないのだが、10年ぐらいしかもたないため、70歳以下の人に用いられることは滅多にないらしい。
私だって、10年後にもう1度手術だ、って言われたらやだし。
つまり、納豆はあきらめるということか・・・よし、明日買って来て、「納豆お別れパーティー」をするぞ!!
というわけで、明日は会社を休んでくれる大内くんと一緒に説明を聞いてきます。
じっくり検討したいので、今週の日記はここまでとさせていただきます。
あ〜、こないだ会った「切って、切って、切りまくってる」オーラ全開のエースの先生に切ってもらいたいなぁ。
なにしろ、年間300回以上切ってるんだよ!
他の先生も似たようなもんだろうとは思うけど、やはり、ここは部長先生にお願いしたい。
患者側の、切なる要望です。
17年4月7日
今日は大事な手術の説明日。
大内くんと2人で出かける。
病院まで車で15分ぐらい。
いいなぁ、これぐらい近ければ、私1人でタクシーで通院することもできるし。
(もうすっかりペーパードライバーなんです・・・)
朝一番の予約だったが30分ほど待たされて、説明担当のドクターに会う。
30歳ぐらいの、若いにーちゃんだった。
ここから研鑽をつんで、立派なお医者さんになって行ってもらいたい。
彼から聞いた話は、おおむね、ネットで調べてすでに知っている話だった。
私の心臓機能が急激に落ちて来てるので、手術はいいタイミングみたい。
難しい「僧帽弁の交換」ではなく、「大動脈弁の交換」だったのはありがたい。
いちおう、「人工弁」の2つのチョイスとして、カーボン製の「機械弁」を入れるか、牛や豚の心臓弁を加工した「生体弁」を使うかどうかは話題になったが、「生体弁」は10年ぐらいしかもたないので、50代の私が使うと、70歳ぐらいで再手術する必要が出る。
それはまったくありがたくない話なので、「機械弁を希望します」「うんうん、普通、そうですよね」という感じで、まったく切迫感がなかった。
機械弁を入れると血栓ができやすくなり、脳梗塞等の原因になるので、「ワーファリン」という抗凝血薬をのむ、というのは知っていたし、その結果、「納豆の食べられない身体」になるということも調査済み。
一応ドクターに確認したが、やはり「控えてください」ではなく、「厳禁」のようだ。さめざめ。
今日、納豆を買って帰って食べ納めをしよう。
「納豆の食べ納めをして、納得」(納の字がたくさん)
しかし、ワーファリンというのはそれほど怖い薬でもないらしく、私の場合、ひざの痛みどめにロキソニン系のシップを貼っていて、それはワーファリンと併用するのは要注意、とあったのだが、ドクターは、
「ひざに1枚貼るぐらいなら大丈夫でしょう」と言うし、心配していた「定量を決める」検査にしても、入院中にかなりのところまですませてしまって、
「退院後は、1回ぐらい来ていただければいいかと」と言われた。
すぐに、元の町の病院に戻す方針らしい。
何もかも、てきぱきしてるね。
ドクターとの面談はそれで終わり、また20分ほど待って、今度は看護師さんから入院に関する説明。
前に1度検査入院してるからだいたいの勝手はわかるけど、今回は手術だからね。
手術が終わった時、大内くんは私に会えるが、私の方はたぶんまだ意識がなくて、会ったことにはならないらしい。
運よく個室が取れれば、翌日、ICUから病室に戻ると、会社を2日も休んでしまった大内くんがいる予定。
手術のあとは身体がむくんで3、4キロ重くなっているので、水分摂取に制限があるらしい。
こないだの入院の時、院内の自販機やコンビニでお茶を買うと500mlで150円だったのが悔しかった私は、持ち込み分として2リットルボトルを4本ぐらい用意していたんだが、無駄になった。(そのうち私が飲むからいいんだけど)
そのあとは、ごはんも普通にいただけるし、術後2、3日目から病棟内を歩く、というリハビリを課せられており、それは最後にはマシン漕ぎにまで行き着くメニューらしい。
私の日常よりずっと健康的。
それに、驚くことに、「2週間ぐらい」と言われていた入院は、「1週間から10日」ぐらいのものらしい。
そう言えば、検査入院の時も「1週間ぐらい」と言われたのが5日で退院だったなぁ。
最初は慎重論?
胸の傷が痛むので、皆さん、コルセットのようなものを購入するらしい。
病院で買うと1万円以上するのか。高いじゃないか。家帰って、通販でもっと安いの探そっと。
積極的に動くことで痛みも減って来るらしいが、私がかなり苦手とする分野だなぁ。
とにかく痛いことは痛いんですね?はい、痛いです、ということを確認して、お話は終わり。
「思ったより早く元の病院に戻れそうじゃない」と大内くんは機嫌がいい。
うん、そうしたら、これまで通り土曜に大内くんの運転で連れてってもらえる。
「痛い話」だけはイヤだったけど、全体に、まあ希望の持てる面談でした。
あとは入院を待つだけか。
一方で息子は、ついに1週間、会社員として連日夜中まで働ききった。他の事は何一つする暇がなかったろう。
金曜の夜、「カノジョきてもいい?」と言うメッセージとともに、カノジョを連れて帰ってきたが、ずっと会えずにいたのだろう。
楽しそうな若い2人を見て、なんだかいじらしくてしょうがなかった。
息子は会社から山のようにビジネス書や啓蒙書を渡されている。
これを読むのも仕事のうちか。
翌日には、朝からコントグループのメンバーに会いに行き、まだまだやる気はあるようだ。
親と顔を合わせる時間もめっきり少なくなったが、なかなか良い顔になっている。
まだ大人の顔には程遠いが、これから鍛えられていくのだろう。
カノジョと友達を大切にし、一生懸命働き、かつ楽しい思いをしてほしい。
楽な人生ではないかもしれないが、それもまた人生の醍醐味だと思ってもらうしかない。
17年4月8日
今日は少し雲が出ているけど、花見だ。
まずはICUの桜を見に行く。
私が入学した頃に25年物と言われていた桜は、いまではもう70年物か。
学生たちが「滑走路」と呼ぶ長くてまっすぐな桜並木の突き当りは教会。
息子も、カノジョに連れられて、この週末、1回ぐらいは見に来てるんじゃないかな。
ホントにね、昨年度は早稲田にもお世話になったが、実はICUにもいろいろお世話になっている。
何しろカノジョがICU生なんだから。
ここのオーディトリアムでお笑いをやった時、演劇部のカノジョが裏方の手伝いをいろいろしてくれた、というのがご縁の2人だ。
もう半年以上たつが、けっこうラブラブである。
なんでラブラブなのを知ってるかというと、2人の主なデート先はうちだからだ。
もう、膝枕や肩を抱いて映画を観てる、なんてことには驚かない。
堂々とやってくれ。
こんなふうに自分のキャンパスがなつかしくなるとは、想像もしていなかった。
息子も、早稲田に思い入れがあるんだろうか。
「卒業式で撮った写真、見せて」と頼んだら、「1枚しかない」というその写真は、大隈さんの胸像の前で留年仲間とピースしてる写真だった。
ちゃんと大隈さんを写して来たか。偉いぞ。
話は戻って、井の頭公園の桜も見たが、あそこは桜1本当たりのお客さん数が多すぎる、と言うか、つまりは「混んでる」。
綺麗なんだけどね。
あそこでまんがくらぶの人と花見をしなくなって、もう何十年たつだろう。
5年前には、息子が大学に入ってるかまだ入ってないかの時期に、高校の友達と大勢で花見をしているのを目撃した。
今では、カノジョに「ねえねえ、大内さん。お花見しに行きましょうよ〜」と言われても、「めんどくさい」という態度なので、親はハラハラしてる。
「彼は、『花鳥風月』に興味のない、情緒的でないヤツなんです」と一応言っておいたが、そんな息子を、カノジョはいつまで許してくれるだろうか。
それはそれとして、花見と花見の間に天丼を食べたりして、我々も、なかなか春を楽しませていただいております。
来年も今のままでいたい。
大内くんは稼ぎがあって、息子は就職先が倒産したり首になったりせず、唯生は不健康なりに健康で、私はなぁ・・・手術が成功してるというイメージで乗り切りたいですね。
17年4月9日
前にも書いたように、心臓の手術が済んだら「ワーファリン」と言う「血液をサラサラにする薬」を生涯にわたって飲み続けなければならない。
そして、その「ワーファリン」と言う薬の最大の敵は、「納豆、クロレラ、青汁」なのだそう。
後者2つには何の問題もない、と言うか、一生無縁でいて構わないが、納豆だけは・・・私、大好きなんです。
豆類全般がキライな私にとって、「納豆さえ食べてりゃ文句ないでしょ!」という最後の切り札だったのに・・・
そういうわけで、今、納豆とお別れパーティーをしています。
おととい、病院の帰りに納豆をたくさん買って、大内くんはもちろん「全部、キミが食べていいよ」と言ってくれたけど、こういうのは分け合って食べるからおいしいんだよね。
1パック分を器に入れて、よくねりねりして、細かく切ったネギをたっぷり入れて、さらにねりねりして、付属のたれとからしだけでは足りないと常々思っているのでしょうゆ少々とチューブからしを1センチほど入れて、さらにねりねり。
ああ、立派な納豆ができあがった。
これをね、熱いごはんにのせて、食べるんです。3日間続けて食べて、今日が最後。
だって、手術は10日後で、納豆はワーファリンの働きをうち消すビタミンKを、1週間も出し続けるんだもん!
大内くんが遅かったので、晩ごはんは2パック(100グラム)の納豆に大量のネギ。
軽い丼メシで一気にいただきました。
これ以上食べたら、検査でNGが出そう!
納豆なんて、いつでも食べられると思ってた。好きだけど、夢中になって食べるようなもんだとも思ってなかった。
食べてはいけない、しかも一生、と言われて初めて、その貴重さに気づいた。
美味しかったよ。長年、ありがとう。
今度生まれ変わる時は、絶対に一生納豆を食べられる身体に生まれてくるからね!
17年4月10日
昨日、息子は朝から本をたくさん持って出かけてしまった。
会社から支給されたか買わされたか知らないが、「7つの習慣」とか、あの類の本。
「どっかで会社の宿題をやってるのかもね」
「彼は、何でも外のガストでやるからね」
と話していて、ふと気づけばもう11時。
「すごいね。12時間以上外出してるよ。誰かのアパートに転がり込んでるんでもなければ、こんな長い時間、外にいるって難しいよね」
「そもそも、誰と会ってるんだろう?」
この、最後の疑問だけは氷解した。
息子からラインで、「カノジョ来ても大丈夫?」と聞いてきたのだ。
少し遅れて、「朝は起きるから」。
あー、つまり、会社に寝過ごすといけないから今日はやめときなさい、って言われるのを想定してたんだな。
OKを出しておく。
12時過ぎに、2人で帰ってきた。
きっと、どこかのガストでそれぞれの作業をしてたんだろう。
それで、もうこれ以上遊んではいられない時間になったので、ろくに話もできない、と知りつつ、一緒に眠りたくてうちに来るんだね。
「やっぱり、ウィークディは全然会えないでしょう?」と聞いたら、カノジョはこくりとうなずいて、
「なんか、啓蒙書ばっかり読んでます」と苦笑い。
「それは、会社の宿題だから、カンベンしてあげて。会えなくて寂しいだろうけど、こうやって家に来てもらうとか、できる協力は力いっぱいさせていただくので、どうぞよろしく」と頭を下げたら、今度は困り笑いの顔になってた。
約束通り翌朝は7時過ぎに起きて、しかも起きていた大内くんの証言では、まったく親は声をかけてない、とのこと。
こうして少しずつ、サラリーマン体質になって行くのかなぁ。
カノジョも一緒に出かけてしまって、少しつまらない。
息子がいなくてカノジョと話す機会があったら、あんなことやこんなことも聞きたい、って息子のいろんな生活を知りたくなってしまうよ。
まあ、今ぐらいがほどよい距離感なんだろうね。
17年4月11日
ちょっと人にはわかりにくいかもしれないが、私は、どうして自分が手術を受けなければならないのか、いまだによくわからないのだ。
大内くんにそう言うと、
「まだそんなこと言ってんの。『あなたは病気じゃないのよ。どこも悪くないの』っていう、お母さんの呪いだね」と憤激する。
確かに、昔から、「熱」等のはっきりした「証拠」がない限り、「仮病」と言われた。
頭痛は「エアコンに当たり過ぎたから」だったし、腹痛は当然、ただの食べ過ぎだった。
「身体が弱い」と自分を定義する母は、自分以外の家族のメンバーが「自分より具合が悪くなる」ことを許せなかったのだろう。
そんな母は、私の心雑音等の症状を、「何かの間違い」と言っていた。
40代になった私が、「そう言えば、私、昔心臓が悪かったんだよね?」と聞いたら、いともあっさりと、「ああ、あれはウソ」という返事が返ってきた。
問題のある家庭で育った私は、母の許可なしには病気になることも許されなかったのだ。
母が亡くなって5年ほどたつだろうか、もう平気だと思っていたのに、今回の心臓疾患を、まだ認められない自分がいる。
本当は、手術なんか必要ないと思っている。
自分が、まわりの人の関心をひきたくて、仮病を使っているんだと思っている。
大内くんは怒って、
「ちょっと、そのへん走っておいで。あっという間に息切れを起こして苦しくなるから。横で見てると、普通に生活してるだけでも苦しそうなんだよ。自分でも、『息が切れる。苦しい』って言ってるじゃない!」と言う。
それは、確かにその時は苦しいと思うんだけど、覚えておけない。
何ともない時は、自分でも「あれは、仮病だったかも」と思うのだ。
ばかげた話だよね。
日本一の心臓専門病院で検査して、彼らが、何ともない人間を手術しようとしている、とでも言うのだろうか。
明らかにどこかが悪いから手術するのであって、その過程がウソのようにスムーズなのは、彼らが心臓疾患に慣れていて、かつ、私の症状がはっきりしたものだからだろうと思うべきだよね。
母の暴力や日常的な批判、とりわけ自分の意見を認めてもらえない一種のモラル・ハラスメントの中で育った私は、肉体と精神の乖離を起こしている。
肉体が感じることを、精神が認めないのだ。
温度・湿度計を見て、気温27度、湿度70パーセントを超えると、エアコンをつけてもいいかな、と思う。
大内くんは、「自分が暑いと感じるならつければいいんじゃない?」と言うが、目に見える計測結果がないと、自分の体感にはまったく自信がない。
このまま手術をしたら、私は自分で、
「何でもないのに手術を受けた。機械弁まで入れてしまった。取り返しがつかない」と後悔しそうな気がする。
大内くんは、
「ウソのように楽になって、手術を受けて良かった、と思えるはずだよ」と言うが、彼は自分の体感の確かさに基づいてそう言うけど、私の体感は、多分、苦しかったことを全部忘れて、前と変わらない、と思うんだろうなぁ。
とにかく、病院が私のためにベッドを開けて待っており、日本トップクラスの心臓外科医が「さあ切ろう、もう切ろう」と待ち構えている、この現実を、私はいったい、どう自分にごまかしているんだろうか?
大内くんは会社を休み、上司は「奥さん、大変だね。お大事にね」と言って休みを許可してくれて、病院では様々な検査をしてくれた人たちが、「ああ、弁が悪いんですね」と結論を出してくれた。
病気でなければ、一体なんだろう?
もしかして、「原因不明の心機能低下」が説明されずに残っているのがいけないのかもしれない。
カテーテル検査の結果を教えてくれに来た内科の先生が、
「結論として、悪いところはありませんでした」と言った、あれが気にかかっているのかな。
しかし、一方で、
「二尖弁(弁の奇形)と大動脈瘤は、もう手術適性(手術すべき時)ですから、とにかくそれをやりましょう。弁を交換したら、劇的に良くなる可能性もあります」とも言われた。
そこで、体感の鈍い私が。「劇的に良くなった気はしないなぁ」と思ったら、どうしよう。
すごく、大内くんをはじめとするまわりの人たちの好意を踏みにじっているような気はするんだ。
みんな、私が「病気だから」治そうとしてくれているのに、肝心の本人が全く乗り遅れている。
手術まで1週間を切った。
私は、真剣に手術に向かえるだろうか。
それとも、本人がどう思っていようと医師は手術をし、結果的に「治したぞー!」という満足感を得る。
これは、病気でない健康な心臓を切った時には味わえない達成感なのかもしれない。
いっそ、医師のために手術を受けるんだ、とでも思ってみようか。
あんなに切りたがるところを見ると、なにがしか医師のためになるのかもしれないし。
いや、そんな考えは傲慢だね。
あくまで私が患者だから手術が発生するんだ。
ただ、その大部分が、「私が、苦しいと思っている」という訴えから始まっているんだと思うと、ちょっと仮病を使っただけなのに、町中を救急車が走り回る大騒ぎになってしまって、事の大きさに「どうしよう」とおびえている子供のような気分だ。
検査結果というものもあるのにねぇ。
あんまり、「この検査のここを見ると、こう悪いです」と言われてなくて、むしろ、前述の「悪いところが見つからない」と言う言葉だけがクローズアップされている気がする。
ということは、インフォームド・コンセント不足?
ああ、医者にかかるというのは大変だ。
様々な意味で、病の根は深い。
17年4月12日
3月19日に終わってしまった息子の主宰するコントグループのステージだったが、実はその企画を練っている時、息子が、
「壁にかける大きなホワイトボードが欲しい」と言い出していた。
「何に使うの?」と聞くと、
「アイディアとか、思いついた時に書いておきたい」という返事が返って来て、一瞬、
「そんなの、ノート買って書けばいいじゃん」という反論が頭の中をよぎったが、まあ、息子が何かに前向きになるというのはいいことなので、楽天やアマゾンでいろいろ探したら、薄いシートで、壁に直接張るタイプ、というのを見つけた。
「これでどう?」
「うん、ちょっと小さいかもだけど、これで始めてみるよ。ありがとう!」
最近、コンスタントにありがとうが聞けるというか、人間らしくなってきたなぁ、と思ったよ。
そいで、問題のそのホワイトボード(シート)を、水樹奈々のポスターをはがしてもらった後に貼ってみた。
うん、横長で、いいじゃん!
その後、稽古の予定とか息子の心に浮かんだこととか絵をたしなむカノジョの落書きとかいろいろ書いていたが、公演が終わって、大部分は消されてしまった。
しかし、今、起こっていることも面白い。
中学か高校の時、やりませんでしたか?
蜻蛉(とんぼ)、蟷螂(かまきり)、蝋燭(ろうそく)、躊躇(ちゅうちょ)、痙攣(けいれん)等の難し〜い漢字を1人ノートに書いてみて、何となく悦に入るというか、そういうコムツカシイことがやりたくなりませんでした?
「憂鬱」の「鬱」なんて、大人気でしたね!
息子は毎日1個ずつぐらいそういう漢字を書いている。
私もやった。中学の時は萩尾望都のおかげで「薔薇」が一番人気だったかも。
でも、もうホワイトボード満員だから、そろそろさーっと全部消しちゃうかもしれないいなぁ。
そしたら次は何を書くんだろう?
大内くんと2人で見て、確信した。
うちの息子は「中2病」だと。
ただし、本来の中2病がずっと中2にとどまっている、という意味なのとはまったく違って、成長が遅いのだ。
今、やっと中2に来たところ。
この先、いろんな意味で健やかに歳を取って行くと思う。
大内くんは言う。
「彼はね、スキップできないんだよ。飛ばしちゃえ、ってことができない。朴訥に実直に、1歩ずつ自分の道を歩かないと、自分で気がすまないんだよ」
同感である。
若者がオトナになるの遅くなっているという。
思春期が終わるのが30歳ぐらいだそうで。
うちも、やっと反抗期は抜けたが、ナイーヴな思春期であることに変わりはない。
むしろ、親を罵倒したりしなくなった分、ストレスがたまらないかなと、心配だ。
とりあえず仕事は面白いそうだし、カノジョともお泊まりデートで何とか続いているし、大きく言えば前途洋洋。
(来年、首にならんか?と心配されてて洋洋も何もあったもんじゃないが)
この先も、この調子で頼むね。
17年4月14日
火曜日の心臓の手術のために、明日土曜から入院。
土、日と大内くんと過ごし、月曜は大内くん、病院からの出社。
手術の日は大内くんが控えてなきゃいけないんだけど、終わって、麻酔状態の私が運び出されるのを見て、おそらくは手術の経緯とかどうなったかとか聞くんだろう。
気の毒なことに、私はひと晩ICU泊まりなので、病室もいったんチェックアウト、というか、その晩、大内くんが泊まるわけにはいかないらしい。
病室が変わるかもしれないので、荷造りをして、次の病室に運んでもらえるようにしておいて、いっぺん家に帰るって。
なんとなく大内くんと過ごすひと晩を想像していたので、手術の傷が痛くても、「痛いよ〜」と甘えていれば少しはマシかと思ったのに。ちっ。
で、大内くんはもう1日休暇を取って、翌朝、病院に来て、私が入る予定の病室(もう入ってるかもしれないが)で待つ、と。
木曜は接待で遅いので、もう病院へは来てもらわずに、自宅へ帰る。
大内くんのいない夜は寂しいけれども、息子がどの程度ちゃんと暮らしているか、途中で確かめられてありがたいと思っておこう。
金曜朝は家から出勤、帰りは病院へ。
それで土日を一緒に過ごし、場合によってはリハビリにつきあってもらう。
(廊下を歩いたり、自転車を漕いだり、退屈そうなんだもん。健康な時だってやらないのに、なんで身体が痛い時に!)
月曜日からは基本、毎日病院から通勤するけど、もうその週のうちに退院だろうし、退院の日はまた会社休んでもらわないといけないし、そのあとは怒涛のGWが待っている。
手術明けのGW。
一体、何をして過ごすのか。何ができるのか。
少々痛くても散歩をしてもらう、と強硬な大内くんもいるし、おそらく病院でもそのようなリハビリを推奨することだろう。
まあ、いいけどね。
大内くんはほぼずっとそばにいてくれるわけだし、散歩もつきあってくれるだろうし。
むしろ、サラリーマン生活の最初の1ヶ月を終えて、あまりに休みがないことに茫然としているはずの息子が、GWが極楽過ぎて、出社できなくなっちゃうんじゃないか、そんなことの方がよっぽど心配だ。サラリーマン5月病。
息子よ、頑張れ〜、母さんも地道に頑張ってるよ〜!
17年4月15日
朝8時30分頃、入院するために、大内くんと一緒に荷物を持って家を出て、前の道でタクシーを拾う。
タクシーの運転手さんは2回血管の手術を受けたことがあると言っていた。杏林だそうだ。
「大丈夫ですよ。病院はしっかりちゃんとやってくれますから」と励まされて、榊原記念病院に着く。
15分ほどだった。
病院に着くと、まずは外来であれこれ検査を済ませて、それから病棟へ。
病室は個室がとれた。ひと安心。
これで、大内くんにも手術の日まで付き添い入院してもらうことができる。
部屋に補助ベッドも用意された。
火曜の手術の晩はICUに泊まることになるので、いったん部屋を出なければならない。
水曜からまた、別カウントの入院扱いになり、その日個室があいていなければ、その後の入院生活は大部屋となってしまうため、とてもドキドキする。
病室に入ってからも、あれこれ検査に行く。
全部終わったら、体育会系の、威勢のいいドクターが入ってきた。
歯切れのいい関西弁で、
「難しい手術だけど、うちの高梨なら大丈夫。一緒に乗り切って行きましょう!」と言い、手術の説明をしてくれた。
人工心肺を使って体温を26度まで下げ、その人工心肺すら停める瞬間があるそうだ。
完全な心停止。
あらためて怖くなる。
病院一の腕と言われる高梨先生に、すべてを賭けるしかない。
付き添いの人には食事が出ないので、部屋で私の夕食をすませたあと、大内くんと1階のレストランに行く。
何を食べたかは忘れた。
そして病院の初日の夜は更ける。
明日は日曜日だから、そこそこ暇。
月曜日は忙しそう。
17年4月16日
入院2日目。朝食のパンに杏ジャムがついていると言うだけでものすごく嬉しくなる。
すでに「入院」という病にかかっている。
大内くんの昼食は1階のレストランで「野菜炒め定食」。
野菜炒めなのに肉がたくさん入っている。いいなぁ。
また別の外科医の先生が来た。
「大変な手術だけど、頑張って一緒に成功させましょう!」と、例によって体育会系のノリで言うので、
「4、5時間はかかる手術なんでしょうね」と言うと 、
「いや、そんなもんじゃありません。他の病院なら7、8時間はかかるでしょうね。うちの高梨を信頼してください」と、この先生も、タカナシズムだ。
つまり高梨先生は、5、6時間で済ませてくれると言うことか。
切ったはったの世界に生きる外科医には、このぐらいの自信が必要なんだろうなぁと、ブラックジャックを読んで育った世代の私は思う。
まことにもって、頼もしい。
そんな病院風景をバックに、大内くんは補助ベッドに座り、ひたすら「エロイカより愛をこめて」を読んでいて、冷戦が終わったあたりでずいぶん絵が変わったと驚いている。
入院でさえなければ、楽しいひとときなのだが。
17年4月17日
ずっとマンガを読んでいる。なぜ今、「カムイ伝」を読むのか、自分でもわからない。
家にいる息子からラインが入った。
「そちらはどうですか。僕は資格試験に落ちました」
向こうからLINEしてくるのは珍しいうえ、この内容。さすがの彼も少し落ち込んでるのかな。
国際情勢にも興味が出てきたと言っている。
1人でおいといたんで、ちょっとおかしくなっているのだろうか。
明日は手術なので、先生たちが入れ代わり立ち代わり顔を見にくる。
正直言って手術は全然受けたくない。なんで受けないといけないかもわからない。
傍の大内くんにそう言ったら、「バカですか」と言われた。
病院の人が病室を空けて入院させ、執刀医を選び、手術の日を決める、それでなぜ受ける必要がないと思えるのかわからないのだそうだ。
「だってどこも悪くないし…」
「こないだ息苦しいって言ってたじゃない」
「覚えてない。今苦しくないし」
「悪いのは頭だね。頭は手術してもらえないけど」
やはり、1番問題なのは、私の身体感覚のなさというか、肉体と精神の乖離なんだと思う。
手術でつないでもらえないものだろうか。
ICUの看護師さんが説明に来る。
ひと晩はICU泊まりだし、大内くんも付き添えないので家に帰る。
手術後は麻酔が残っているし、呼吸チューブを外すまでは少し苦しいが、痛み止めも点滴で入れてもらえるらしい。
「地獄の一夜になりそうだ」と言ったら、大内くんは、
「麻酔でぼーっとしてるうちにひと晩なんてすぐ経っちゃうよ。痛いのは翌日の夕方ぐらいからだよ、きっと」と、傍観者の気安さで言う。痛かったらどうしてくれるんだ。
まあ、まだICUから出ているかどうかもわからない私に付き添うため、翌朝早くまた来てくれるそうなので、感謝しておこう。
それにしても食事がおいしくない。何もかも寝ぼけた味だ。
明日は手術のため一日中絶食となるが、あまりおしいと思えないのはラッキーかも。
「食事は全部食べられましたか?」と聞いてくる看護師さんに「はい」と答えたら、苦笑とともに小さな声で、「あんまりおいしくないですけどね」と言っていた。病院中で有名なのか。
病棟の担当の人が「ムダ毛を剃りに」やってきて、その後お風呂の準備ができているから入っていいと言ってくれる。(部屋にシャワーがあるけれども、やはり手術前はお風呂に入りたい)
リハビリ担当の人が来る。
手術担当の看護師さんが来る。
麻酔医が来る。
もう、先客万来である。
最後に、御大というかラスボスというか、執刀医の高梨先生が現れる。
心臓にかけては日本一という病院のトップで、年間300件を切る男だ。
検査から1ヶ月たらずというハイスピードでこの先生に執刀してもらうことが決まったので、大内くんは泣かんばかりに喜んでいる。
私も、改めて自分が強運の女であると感じ入った。
手術担当看護師さんが行った、簡単な記憶力のテスト(手術後は少し混乱する人がいるらしいので、そのチェック)では、ほぼ満点を取ることができた。
どうやら今の私の忘れっぽさは、アルツハイマーではないらしい。(間違えたのは日付の問題だけで、私みたいにカレンダーレスな生活を送っていれば致し方ないと思われる)
17年4月18日
(昭子の感想)
朝9時から始まった手術は、ゴッドハンドのおかげで4時間半ほどで終わったらしい。
待っていた大内くんは、もう2時間ほどかかるかと思っていたので、先生が出てきたのに、重大な問題でも起こったのかと驚いたらしいが。
「もう、縫合です」言われ、別の意味で腰が抜けたと言っていた。
その後2時間ほどで私の顔を見ることができたらしいが、私は麻酔が覚めずに夜中まで寝ていた。
当然スタッフが大勢付き添っている手術現場のままである。
10時頃、病室に戻ってきた時も、あまり記憶はない。
朝から病室で待機していた大内くんの顔だけは見たような気がする。
大内くんは先日受けた記憶テストの問題があるものだから、私が比較的はっきり喋るので、大きく安堵したらしい。
(政太の感想)
6時に起床後、次々にいろいろな人が挨拶に来てくれる。
最後に高梨御大登場。
「では、今日はよろしくお願いします」と言葉少なく、しかし顔をじっと見て去っていく。
手術中の太い点滴の針を刺してもらう。
「血管が細いですね〜どこに刺しましょうか・・・」とあれこれ刺して選手交代。
あれこれ刺してまた選手交代。
ついに手術出のスタッフが連れて来られて手の甲に刺すのに成功。
「ひじの内側には実に見事な血管があるのですが、手術中ひじは動かしてしまうので使えないんですよね〜」。
そしていよいよ9時に昭子は手術室に。
一緒に搬送用のエレベータ室まで。
エレベータ室の扉のところで昭子とはお別れ。
「じゃあね」
見送って胸が一杯。
次に話ができるのは明日の昼過ぎ頃か。
僕は部屋に帰って荷物を病棟に預けて部屋を引き払い、貴重品(といっても、中身はパソコンとiPadとお財布(とてもとても重い)のリュックを持って2階の家族待合室に。
待合室はかなり広い。
ゆったりしたソファーが沢山並んでいる。
家族は2組。
どうやら1組は昨晩緊急搬送されてきた人みたい。
このあとも救急車で別の病院に搬送されるよう。
もう1組も昨晩から。
布団と枕が自由に使えるようで、その1組は時々起き上がるけどぐーぐー寝ている。
パソコンで会社のメールを見ながら時間をつぶす。
今頃胸を切っているのか・・・・・
人工心肺は動いているのか・・・・
ドラマで見ているような緊急事態になったりしないのか・・・・・
昭子は痛くないのか・・・・
全然仕事に集中できない。
といっても眠くもない。
これは僕には珍しいこと。
何もやらないとすぐに睡魔がやってくるけど、今日は全然。
むしろ動悸が・・・・
1時間
2時間
3時間
手術は早くで5〜6時間
普通は7〜8時間かかる手術なんだよね。
これからまだまだだなあ。
と思っていたら呼び出し。
ICUに行って部屋に通されると高梨先生、
心臓が飛びでそう。
手術の途中で呼ばれるとは。
「安心してください。やるべきことはみなやりました。縫合していますからもう少しかかりますが」
にこにこではないが、ひと安心の顔で告げられる。
そうかぁ。
終わったんだ。
よかったなぁ。
それからもう1時間して呼ばれてICUに入る。
人が8〜9人くらい取り囲んでいるベッドがある。
手術終わり立てなんだね。
真ん中に昭子が寝ている。
挿管していて、すやすや休んでいる。
穏やかな顔。つらそうじゃない。
よかった。
和田先生が、
「手術はうまくいきました。夜中まで出血がないか見て行きます。それで大丈夫なら麻酔を解きますから」
「ありがとうございました」
あとは、血栓が万一動いて脳にまわって脳梗塞を起こすことさえなければ心配はないらしい。
がんばれ。もう少しだよ。
ここで昭子とはお別れ。
僕は家で一泊。
病院の通りをはさんで向かいの「白糸台」というバス停から三鷹方面へのバスにのる。
30分くらいでうちの最寄のサミットの前を通って三鷹図書館前。
そこで降りて家に歩く。
1人で家の近くを歩くのも久しぶりだし、昔、息子が警察に通っていた頃は連日通っていた通りも久しぶりだし、何だか不思議なふわふわした気持ちで家に帰る。
家は思ったよりきれい。
洗濯をして、掃除機をかけて、窓をあけて風を通して、少したまった事務をやって。
心配をかけている人に手術の無事を連絡。
息子に連絡したらすぐに電話がかかってきた。
「大丈夫だったの」、と、いつもよりやや丁寧な電話。
「母さんは大丈夫だよ。手術は無事終わった。夜中まで寝てるようだよ。また明日から父さんは病院。今日は家だよ」
しばらく仕事をしているうちに息子が帰ってきた。
一緒に晩ごはんを食べて少し話す。
昭子のことは本当に心配している様子。
それでも、とにかく勤め始めた会社でのことで頭が一杯なようだ。
「すべての考えを切り替えるように言われている」
でも、そんなこと無理だよね。
「自分の今までの蓄積で勝負するしかないじゃない。新しい未知の課題があるとしても、それを解く自分は昔からの自分以外にいないよ。自分で勝負していきな」と伝えたら少し安心していた。
こんな会話になるのも、昭子が手術を受けて寝ているという非日常の時間だからかな。
「母さんに、なんて、伝える?」
「あなたは、大丈夫」
「大丈夫だよ、でも、大丈夫だから、でも、なくて?」
「そう」
そうなのか。
翌朝も一緒に朝ごはんを食べる。
感心なことに自分で起きられるようになっているよ。
そろそろ親がいない方がしゃんとする年齢なんだな。
夜よりは言葉少ないけど、少ししんみりした感じ。
「母さんによろしく」といって出かけていった。
ぼくも追うように、わりとすぐ出かけた。
日曜日は元部下の結婚式があるので、式服を持って行く。
サミットの前のバス停から乗車。
バス停に書いてある行き先に「榊原記念病院」の文字。
こんなに近くに書いてあるのに全然気づかなかった。
そんなものだね。
バスには発達遅滞の子が沢山。
バス停ごとに次々乗ってくる。
制服を着ているので、養護学校の子だね。
病院の裏に、唯生の母校がある。
唯生は肢体不自由児向けの養護だったけど、精神発達遅滞向けの養護も隣にあったんだ。
結局病院までその子たちとずっと一緒だった。
ぼくが降りたら、あとはみんな生徒たち。
次のバス停が養護だからね。
病院では9時から昭子を待つ。
一般病棟に移ることが決まったら電話がかかってくることになっている。
昨日の家族待合室で待つ。
電源もあるからパソコンが困らない。
結局13時に電話。
担当の人が「14時に一般病棟に移りますので、そこに合流してください」とのこと。
続いて昭子が出てくれた。
驚くほどしっかりした声。
「大丈夫だよ!」
よかった。脳に血栓も回らなかったんだね。
いつも以上に明瞭な発声。
滑舌もいいね。
14時に病棟に行くと、ベッドに載った昭子がやってきた。
顔も明るい。
少し心配したけど、またいい個室をとってもらえた。
昭子とやっと2人に。
それにしても昭子から何本の管が出ているのか。
内部からの血などを抜いているんだね。
酸素マスクと導尿とドレーン3本と点滴かな。
それでも昭子はとても元気・・・・というか元気すぎ。
すぐに普通にくいっと起き上がろうとするので止めるのが大変だ。
(あとで清水先生から、手術の翌日はみんなきりきり元気だと聞いたけど、本当にそうだった)
手術翌日の夜はおだやかに更けました。
神さまありがとうございました。
昭子が帰ってきました。
(再び昭子の感想)
息子は夕食にシチュー、大内くんはカレー。朝は息子がカレーに大内くんがシチュー。
息子は、「母さんは大丈夫」と言っていたそうだ。
「大丈夫だよ」でも「大丈夫だから」でもないところがポイントとのこと。
「母さんは素晴らしいよ」と大内くんが言ったら、
「うむ、確かに素晴らしい」と言い、
「君の理性は母さん譲りだ」と言われて、
「オレでさえ、あの滝のような正論に合うと、腰を落とさざるを得ない」と答えたそうだ。
傾聴せざるを得ないというような意味らしいが、果たして褒めているのであろうか?
17年4月22日
手術後、初めてシャワーを許可される。
ガーゼもテープも全部とって、傷をむき出し。
正中切開だが意外と小さいとも言える。
しかし、下腹部の帝王切開の傷と合わせると、なかなかすごい見物ではある。
57歳と言う年齢は、2種類ある人工弁のうち、10年から15年しかもたない生体弁を使うには若く、機械弁を選択するしかなかったが、妊娠・出産を済ませているので、血栓のできやすい機械弁にもれなくついてくる抗凝血薬、ワーファリンに対する抵抗は少なかった。(唯一の例外は納豆である)
今は、ヘパリンと言う薬を少しずつ入れて、血液をサラサラにしている。
ワーファリンの量が安定したら、効き目がすぐ切れるヘパリンは止めるらしい。
命綱とも言える、ヘパリンを入れている点滴が痛む。
どうも少し薬液が漏れているらしい。新たに刺せる血管を探して、看護師さん達が右往左往する。
動きの激しい肘の静脈が使えないので、他の血管を探すことになるが、私は肉付きがよすぎるのか、皮膚の上から血管がなかなかわからないらしい。
若い看護師さんがベテランの看護師さんを呼んできて、その人でもなかなか血管を見つけることができなかったので、ついに手術のスタッフである男性が出てきた。
さすがに有能で、一発で、太くて使える血管を探し出し、点滴を入れてくれた。
私は覚えていないが、手術の前に私にいっぱい針を刺しまくった人らしい。
ちなみに今日は病院全体の電気系統を点検する日で、午後は、重要な電源以外は停電状態だった。
5時までの作業なので、2時ごろ、薄暗い病室でポータブルLEDライトをつけて血管捜索が行われていたが、結局5時になって電気がつくまで、延期せざるを得なかった。
だんだん暗くなっていく部屋で大内くんと2人、音楽を聴きながら話し込み(スピーカーもiPodも充電式なのでOK)、大病院でこのような経験をすることの面白さに、結構盛り上がった。
あと、昨日顔を出した血管外科医から、いいことを聞いた。
「僕は予言者じゃないんですけど、胸を切った人は翌日かその翌日ぐらいに背中が痛くなることが多いんです。これが実は筋肉痛なんですね。胸を切って後に開いているので、僕みたいに猫背な人は背中に負担がかかるんです。大内さんがたまたま日ごろからすごく姿勢の良い方だと言うんでなければ、背中が痛んだら、看護師に言って湿布薬をもらうと、効くかもしれませんよ」
これが実は大当たりで、3日目の今日、妙に肩が凝り、痛む。
「これか!」と湿布薬をもらい、貼ってみたら実によく効いた。
しかも病院が出してくれる湿布薬は、市販のものより成分が濃厚で、湿布成分がむせ返るようである。
これも、面白い経験だった。
17年4月23日
大内くんが職場の人の結婚式に呼ばれて病室から式服で出て行った寂しい日曜日、大学の友達がお見舞いに来てくれた。
寮で一緒だった、1年後輩の女性。
水泳にゴルフに飲み会に、楽しい50代生活を満喫している様子に、大いに刺激を受けた。
しかし、刺激を受けても何をしたらいいのかわからない。
私はおよそスポーツに興味がないのだ。
ああ、人間が、マンガを読んでいるだけで健康になれるんだったらどんなにいいだろうか。
「1日最低5時間は本を読みなさい。老眼が良くなります」と言われたい。
現実にはその逆で、使えば使うほど眼は老化するし、本だけ読んでいて健康にはなれない。
いよいよ何か、始めるべき時なのだろうか。
その友人は、カナヅチだったところから水泳を始め、今やバタフライが泳げると言う。
ゴルフも、レッスンプロについて習って腕を磨いたらしい。
「お金かけて、回収しようって思うと楽しくなる。タダで楽しもうってのは難しい」という言葉には説得力があるなぁ。
まあとにかく、一度心臓の止まった人間として、どう生きていくかを考えよう。
とりあえずは胸や腕の内出血が消えてからだ。
私がLINEで送った写真から、息子が卒業写真を手に私の肩を抱く写真をデータ加工し、引き伸ばしたものを額装して、お見舞いの品として思ってきてくれた。
ちょうど病室にピクチャーレールがあったので、即座に飾る。
私のベッドの足元から、息子の笑顔が私を見つめている。私はその傍らで半分泣いている。
とても嬉しい贈り物だ。
この1、2年、自分の人生の残りを考える時、重要なのはこれまで作ってきた友達だと思うようになった。
自分が自分がと言って生きてきた私に、誠実な優しさを向けてくれる友達がたくさんいる。
その人たちにも何か返したい。
17年4月24日
車椅子を押してもらって1階に降りて、CTを撮る。
体の中が暖かくなる不思議な感覚にももう慣れてしまった。いったい何回CTを撮っただろう?
1階は久しぶりに外の風。
医療機器メーカーの新人さんらしき、背広が全然板につかない男の子たちを大勢見る。
病棟でも、新人看護師さん達が、先輩について、恐る恐る私の点滴の交換をしたりする。
4月は新人さんの季節。
息子も、両親が家を空けている非常事態下で、毎日研修を受けているらしい。
いじらしいもんだ。
1回使うと廃棄される滅菌済みキットをふんだんに使い、作業のたびに薄いビニール手袋をはめてはそれも廃棄。
そんなゆとりのない紛争地域などでは、どれほどの命が感染症によって失われるだろうか。
入院してからの私は、もう100回ぐらい死んでいそうな気がする。
病棟歩行のリハビリを順調に進め、今日は初めてのリハビリ室。
立派な設備で、自転車こぎや様々なマシンが並んでいた。
私も15分自転車をこいだ。
全く楽しくない。リハビリの先生が悪魔に見えた。
幸い明日の退院が決まったので、もう来なくても良いのだが、なぜ人は運動しなければいけないんだろう。
見舞いに来てくれた大学時代の友人が水泳やゴルフをエンジョイしているらしいのだが、私の楽しさのベクトルは全く運動方面には向かない。
身体を動かしたいと思うことがない。
昔は、いわゆる「活発な女子」だった。
私の若い頃を知っているその友人も、「昔は、あちこち動き回ってたよね?バイク乗ったりしてたじゃない?」と、不思議がっていたが、確かに、行動的な人間だった。
20代に病人となり、気持ちの上でもまったくバイタリティーがなくなってしまったのだろうか。
子育ても終わり、健康な心臓を得た可能性もあることだし、別の生き方を考えてみた方がいいのかもしれない。
そう、生き方を、変えるべき時なのだ。まだ遅くない!
17年4月25年
11日間の入院を終え、退院した。
手術から、1週間。
いつの間にか、5月が近くなっていた。
一緒に「病院合宿」をした大内くんは、病院から2時間以上かけて連日通勤してくれた。
社会人1年生の息子は、大鍋いっぱいのカレーとホワイトシチューと家に残された。
朝、起きられるのかも怪しく、どういう生活をしているのかわからないが、時々メッセンジャーで、
「そちらはどうですか。僕は資格試験に落ちました」と言って来たり。
大内くんのスーツ袋も、友人が持って来てくれた息子の写真の額も、たくさんのコンセントで充電したiPad、iPod、iPhoneも、全部荷造りし、お世話してくれた人たちにお礼を言って、ドクターたちに励まされ、3日後の抜糸の予約と、1年後の機械弁と人工血管の診察の予約をして、タクシーに乗って、15分。
帰ってきた。
週末はカノジョが来て助けてくれていたのだろう、家は一見、そう荒れてはいなかったが、玄関を開けた瞬間、ものすごい異臭がした。
リビングには布団が放置され、カーテンは閉め切ったまま、異臭の元は、水に漬けてシンクに積み上げられた鍋や皿の山と思われる。
まったく、換気をしたり窓を開けたり掃除したりしないで暮らしていたようだ。
感心に洗濯はしていたみたいだけど、全自動乾燥洗濯機だからなぁ。
とにかく、すべての部屋の窓を開け、すべての扉を開け、ベランダを開け、家に空気を通す。
さわやかな4月の午後1時に、家に帰って来られて、本当に良かった。
病院から持って帰った我々の衣類もあり、息子の布団カバーやタオル類、何度も洗濯機を回した。
さて、彼はどうやって1人暮らしをするんだろうか?と首をかしげながら、とりあえず、家を常態に復帰させ、大内くんと、元の通りの暮らしを復活させた。
2人きりになれるのは、本当に嬉しい。
外からいつ人が入って来るかわからない、プライバシーのない生活だったから。
そもそも、コードやチューブを全身につけた私は自由に歩いたり起き上がったりできなかった。
何をするにも点滴台を引きずって歩き、トイレにも点滴台と一緒に入り、いつもいろんなものとこんがらかっていた。
最後のコードがとれたのは、今日の午前中だった。
疲れ切って、大内くんが眠ってしまったあとも私は眠れなくて、でもそのおかげで息子に会えた。
夜中の1時に帰って来るのか!
「おかえり」と声をかけると、彼も「うん、おかえり」と近づいてきて、正中線の切開跡がのぞいている私のパジャマの胸元に驚いて、
「うわー、大丈夫?それ、どうなってんの?」と、おそるおそるそっと、ハグしてくれた。
「胸骨、って知ってる?」
「うん、知ってる」
「それ、切ったんだよ。今、骨折してるのと同じ状態」
「痛い?」
「痛いよ」と、手術の傷跡や、点滴が漏れてできた腕や胸の無数のあざを見せたら、「痛いだろうね」と、涙をぽろっとこぼしていた。
家事力はないが、優しい気持ちの人に育ってくれたなぁ。
ありがとう。
17年4月28日
(昭子は退院後気が抜けたこともありだいぶテンションが低いので政太の感想)
退院後最初の診察。
ワーファリンがちゃんと効いて血液がしかるべき粘度になっているいることが確認できたら専門病院は卒業。
中島みゆきの「病院童」という歌が本当に身にしみる。
「病院は外国だ 病院は戦場だ」
「まさかすぎる人生が行ったりきたりする」
(でも)
「表通りからさほど遠くない」
家から車で15分あまりで着いてしまう所にあるのでこのギャップにいつも身体がねじれそうな気持になる。
採血とレントゲンを経て診察。
ワーファリンは効き過ぎくらい。
レントゲンも異常なし。
ただ、炎症反応がやや強めに出ているとのこと。
てきばき抜糸を済ませて外科の先生(初めて見る先生)が
「念のため来週2日に来てください」
元々休みをとるつもりだったので大丈夫。
少し心配。
でも、やや早めの退院なので、じき落ち着くかな。
その後、役所で身体障害者手帳の話を聞いて必要な書類をもらった。
役所の裏にある行きつけの八百屋さんで大きな人参を沢山買い込む。
「今日は家にある里芋とこの人参とでがめにを作ろうね」
本当は今日の日記で手術の話題は終わりになるはずだっけど、来週に若干持ち越しになりました。
それでも、よくここまで来れたなあ。
幸いこれからGW。
身体を休めるにはちょうどいいです。
昭子の幸運を引き込む力に敬服しつつ今週の日記を終わります。
家に帰ったら友人ご夫妻から退院のお祝いのお花を送っていただきました。
ちょっとくたびれていたのでとてもうれしかったです。
ありがとうございました。
新「年中休業うつらうつら日記」
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