(大内くんの日記)
17年5月1日
2人ともやや疲れていて、眠ったり起きたりしていた。
朝、昭子は目が覚めると、息子と2人で写っている写真の前に立って、しばらく見ていた。
それで大きく深呼吸をして、「これがスタートポイント。とてもいいスタートが切れる」と言った。
自分が誰で、僕が誰で、唯生と息子がいて、ということを僕と確認しながら、ひとつひとつ、「私は昭子」「あなたは政太」「唯生」「息子」とかみしめるように確認するように発声した。
午後、こんな話をした。
「まだ昭子は目が覚めない。でも、もうそろそろ昭子が目を覚ましそう」
「昭子が起きたら、昭子は間違ったことをたくさん言う」
「昭子はママに『あなたが悪い』とばかり言われてきたから、間違ったことを言う」
「だから、昭子の言うことをそのまま信じちゃだめ」
「家族なら必ず持っているハコのことは知っているよね」
ハコ?何?
「ああ、一番大切なことについて話が通じない。この話し合いはとてもいい話し合いだったのに、一番肝心なことが伝わらない」
どんなハコ?パソコンの筐?
「似ているけど違う。家族を作ったら、必ず持つもの。家族の歴史とともに少しずつつなげていろいろなものがつながっていく」
心のハコ、ということならわかる気がするけど、それではだめ?
「それとは違う。でも、似ている」
「昭子は間違ったことを言う。でも、そのハコには正しいことが書いてある」
「ハコの外側に銀色の字で書いてある。昭子が間違ったことを言ったら、ハコに書いてあることを見て」
わかった。そうするよ。
「でも、肝心なハコを知らない」
「この話し合いは肝心なところが伝わらない・・・」
でも、言いたいことはわかる気がする。それではだめ?
「それでもいいとする」
「これはみんな昭子がみていた夢。長い長い夢。私はまだその夢にアクセスできる。でも、昭子が目が覚めたらアクセスできなくなる」
「私もその夢へのアクセスが少し弱くなっている。でもまだアクセスできる」
そう言って、入院中の僕のメモの足りないところを結構な分量補ってくれた。
思い出すように、心を集中しながら話してくれるのを、僕がメモにした。
夕方頃、
「そろそろ昭子が目を覚ます。そろそろ・・・」
しばらくして、
「今、目が覚めた」
と言った。今日のこれまでの会話は覚えていなかった。
今日が連休の谷間。
明日が榊原病院の診察なので、今日のうちに心療内科の先生に診察してほしいので、昭子に着替えてもらって車で外出。
時間は午後6時過ぎだったので、もうだいぶ暗くなっていた。
近くの駐車場からクリニックまでの間も、ちょっと歩くのがつらそうだった。
クリニックの前10メートルぐらいのところで歩けなくなってしまい、花壇で休憩。
クリニックに着くと、保険証がないことに気づき、2人はあわてる。
(昭子はとても不安がつのり、「不安な気持ち…」と言うことを繰り返し繰り返しつぶやいていた)
誰も待っていなかったが、珍しく待つ。
診察室に、時間のかかる人がいたようだ。
ようやく呼ばれて話をする。
書いておいたメモも渡す。
心療内科の先生のポイントは、
@ 2週間近く薬をほぼやめることができているのであれば、薬はほとんど抜けているのではないか。
A 手足の震えは、抗鬱剤や導眠剤の過剰摂取をしていた人が服用をやめた場合に生じることがある。人によりどれぐらいで収まるかは確定できないが、半年はかからないのではないか。また、震えは必ずおさまると思う。
B 薬をやめて数日ならば、このまま薬をやめることは難しいかもしれないが、もし既に2週間近くたっているなら、薬をやめる方向で対処していくのでいいのではないかと思う。
C 服薬は榊原病院で処方されているものを継続するのでいいと思う。これからこちらで処方できる。(本日はとりあえず2週間分出す)
10日のカウンセラーさんとの予約はキャンセルせずに、一旦保持と言うことにして終わる。
昭子をクリニックに残して、駐車場に車を取りに行って前まで持ってくる。
迎えに行ったら、昭子も受け付けの人もとてもほっとした顔をしていた。
昭子が心配な顔をしていたんだと思う。
その日、夜12時ぐらいに昭子はいったん寝かけたんだけど、僕がこのメモを書こうとしてパソコンに向かっていたら起きてきて、そのまま寝られなくなってしまった。
結局、朝の6時ぐらいまで起きていた。
17年5月2日
それから、2時間ぐらい寝て、息子が出かけるのを見届けてから、榊原病院へ。
診察を受けると、
「よくありません。心臓か、まわりの臓器が大きくなっています。炎症反応も強くなっています」ということで、CTを撮ることに。
CTを撮ってまた診察室に入ると、
「心臓のまわりの膜と心臓との間に液体がたまっています。すぐに処置が必要なので、今日このまま入院してください」とのお話。
すぐに入院手続きをして、部屋へ。
運良く、また個室が取れた。
手術の承諾書等を次々済ませ、点滴を入れて昭子は手術室へ。
心臓の膜からドレーンを中に入れて、中にたまった液体を外に出す。
たまった液が白っぽかったら大丈夫。
鮮血の色なら、出血の場所を探り、再び胸骨を切って心臓の点検をしないといけない、ということらしい。
今回は術後一般病棟に帰ってくるはずなので、僕は病室で待っていられた。
1時間ほどして帰ってきた。
手術は成功。
液体は白く(実際には薄い赤)、問題ないものだったとのこと。
これからドレーンで液を抜きながら、ワーファリンを調節して、体調が整ったら退院。
来週になるようだ。
いずれにしてもよかった。
とても危険な状態だった。
その晩、昭子は明け方まで寝られなかったらしい。
それでも、僕があまり寝ていないことを気にして、
「あなたは寝て」ときっぱりきっぱり何度も言って寝かせてくれた。
僕は簡易ベッドに入ると、あっという間に寝てしまった。
17年5月3日
6時に目が覚めた。
よく眠れた。
1日昭子と過ごした。
ドレーンがついているし、元気もないのでトイレに行く以外には立ち歩いていない。
「昭子は生まれ変わった」
「これまで薬で身体を傷めていたのは昭子もいやだった」
「心臓が怒っている」
社会についても見え方が変わったようだ。
「あらゆるものがつながっている。仕事と仕事がつながって、やっと世界が出来あがっている。あなたもそのような中にいるのか。すごいけど怖い」
家に帰ったらストックしてある薬を全部捨てることを約束した。
とてもいいことだと思う。
この昭子と何としても暮らせる方法を考えねば。
連休はこの1日を含めあと5日ある。
この5日間のうちに生活を落ち着かせるように努めよう。
17年5月22日
5月11日に退院してから、まだ身体が本調子に戻らないので、人前に出るのはまだまだ先の話になると思っていた。
しかし、22日月曜の夜、大内くんの大学まんがくらぶのMLに、親しい女友達Mちゃんからの書き込みがあった。
「突然のことですみません。Sちゃんが亡くなりました」
私より5つ年下の女友達、Sちゃんが、52歳の若さで、亡くなってしまった!
去年の年末には腸閉塞を起こして入院していたと聞いていたが、実は1年前に乳がんが見つかり、腸閉塞は、腹膜への転移が原因だったらしい。
ただの消化不良だと思って、全然気に留めてなかった。
彼女の病気の真相は、親友のMちゃんだけが聞いており、今回の訃報は、誰にとっても寝耳に水だったのだ。
打ちひしがれる友人たち。
とりあえず、金曜日にお通夜だと言う。私も行かねば。
まだちょっとふらふらするけど、大内くんも行ってくれるし、何とかなるだろう。
美容院とか、人前に出る時にはすませておきたいと思った件は全部すっ飛ばすことになりそうだが。
夜中に息子が帰ってきたので、「うちにもよく来た、Sちゃんが死んじゃったんだよ!」と話すと「えっ」と絶句していた。
「あの、本屋さんの?」
「そう。乳がんが、悪くなって、突然だった」
「そうか・・・」
「父さんと母さんは、金曜にお通夜に行くから。品川のお寺だから」
「・・・オレも、行っていい?」
「いいよ。行きたいの?」
「うん。行きたい」
「会社から早く帰れるようなら、おいで。N口さんたちも来るよ。飲み会も行く?」
「うん。行く」
親の友達のお通夜に行きたいなんて、珍しいね。
そもそもそういうシチュエーションが珍しいけど。
30年来の友人だったSちゃん。
私が大内くんと結婚する前から、いい友達だった。
よく、下北沢の私のアパートで、Mちゃんと一緒にお菓子を作ったりごはんを作って食べたりした。
くらぶの仲間と、旅行もたくさん行った。
本当に、よい仲間だった。
私は、自分の健康にかまけて、友達の病気にも気づかなかった。
退院のお知らせを出した時など、Sちゃんも「いいね!」をくれたけど、その彼女とコンタクトを取ろうとはしなかった。
後悔してもしてもし足りない。
悲しすぎて、涙も出ない。
せめて、お通夜に行って他の仲間たちと彼女を偲ぼう。
17年5月26日
くらぶ仲間、Sちゃんのお通夜。
大内くんと息子は、それぞれの会社がひけたら直接向かうとのことなので、私も家から出かける。
おととし、夏物の喪服を買ったのを着て行く。
その時にやはりくらぶ仲間のOくんのお通夜に出たが、かかとの皮がずるずるに剥けてしまった痛恨の思い出があるので念入りにバンドエイドを貼って行ったが、バスに乗り、吉祥寺で井の頭線に乗り換える頃にはバンドエイドの下で皮が剥けてきた。
井の頭線の中で、大内くんが会社を出たことを知る。早いね。プレミアム・フライデーか。
「品川で待ち合わせて、一緒にタクシーで浅草寺に行こう」と連絡が取れたのは永福町を出る頃。
渋谷の多目的トイレでかかとのバンドエイドを張り替え、急いで山手線に乗り換えたら、あらら、間違えて反対向きに乗ってしまい、原宿であわてて逆向きに。
20数年前には勤めていた品川駅に着いて、駅があまりに大きくなっていたので道に迷いながらなんとか大内くんと会う。
タクシー乗り場が混んでいて、浅草寺に着いたのは、6時少し前のことだった。
Sちゃんの名前が大きく出ていて、「ああ、やっぱり本当だったんだ」と、めまいにも似た大きな悲しみに襲われる。
境内には、見知った顔がちらほら。
言葉少なに一緒に列に並び、かなり待ってからお焼香をする。
着物姿のSちゃんの遺影に、また悲しくなった。
心の中で、「どうして?」と彼女に呼びかけるけど、答えはない。
お焼香後、境内の端に立っていたら、だんだん人が集まってきたので、「お清め場」に行く。
10数人が来ていた。あとの方で、息子もやって来た。
ゲームデザイナーのN口さんと、今日の連絡を取り仕切ってくれたMちゃんの夫、IT企業のIくんの間に坐ったゲーム会社勤務の息子は、
「もう勤めてるんだー」と言われながらお寿司を食べ、ビールを飲み、業界の先輩方の話に耳を傾けていた。
ガタイのいい、礼儀正しい体育会系の彼を見て、場違いに誇らしかった。
Mちゃんは、中学校からの女友達に囲まれて、少し離れた席にいた。
彼女の顔を見たら少しは泣けるかと思っていたが、やはり目の奥が焼けつくような思いがするばかりで、涙は出ない。
あまりに失い難い友人だったSちゃん。
皆で、心から彼女の冥福を祈った。
息子は、「お先に失礼します。N口さん、今度、食事につきあって下さい。仕事の話をいろいろ聞きたいです」と丁寧に言って、ひと足先に帰った。
私も、やはり胸の手術痕がふさがっていないし、このひと月、ほとんど入院していて外の世界に慣れていないので、お先に失礼することにする。
「また、ゆっくりと」と皆に言って辞去し、階段を降りたら、下の椅子に息子が座っていた。
「手持ちのカネが無くなったから、融通してもらおうと思ってオヤジにメールしてた」と言う彼に腕を取られるようにして並びの椅子に座らされ、
「Sさんのことを、話して」と頼まれた。
元気だった人が突然いなくなってしまう不条理に、深く胸を痛めている様子だった。
「会社の跡継ぎという難しい立場で、最善を尽くして生きた、立派な人だったよ」
「母さんがとてもつらい時期にそばにいてくれた、本当の友達だった」といったことを話す。
彼は私の手を握り、
「母さんが元気になってよかった」と言いながら、Sちゃんの思い出をたくさん聞いてくれた。
「母さんは、疲れたでしょ。もう帰る?」と言われたので、
「そうだね。そろそろ。タクシーで帰るよ」と言ったら、「家まで?」と驚いたようだったが、
「どうせだから、あなたも一緒に帰ったら?」との誘いには、
「じゃあ、浅草寺の駅まで。そのあとは、知らない街を歩く楽しみもあるから、1人で帰るよ」と言って、途中までタクシーで一緒に行った。
タクシーを降りて手を振る息子に「早く帰りなよ」と声をかけ、我々は帰った。
とても疲れて、悲しくて、皮の剥けた足が痛かった。
家に着いて、喪服を脱ぎ捨ててお風呂に入り、大内くんと、「悲しいね。信じられない」と何度も言い合う。
遺影を見て、納得が行ったかと思われたのに、やはり信じられない思いでいっぱいだ。
人は、本当にあっけなく死ぬ。
命は、失われたら取り返しがつかない。
私がこうして生きているのにも、多くのお医者さんの努力と、大内くんの尽力と、様々な運の良さがモノを言っているのだなぁ、と深く思う。
この人生を大切にしよう。有限の時間を、有意義に生きよう。
少なくとも、大内くんに恩返しをせずには死ねない。
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