新しいページについて 

これまで育児日記を主体としてきましたので、自分自身の状態についてはお茶を濁してきました。
今回、子離れの時期も迎え、自身の新しいステージに入ったこともあり、これまでは書けなかったことを書いてみようと思います。

もしかしたらご不快になる方がいらっしゃるかと不安になる反面、何かのヒントを読み取って下さる方もおられるのではないかという期待から、なるべく素直に正直に、自分の感じてきたことを書いてみたいと思います。

基本的には日記に書いたことの中から関連のある記載をまとめてあるだけですので、特に興味を持って追って読んでみたい、という方のために特集記事めいた格好にしてありますが、内容はすでに書かれたものと同じです。
まとめて読めるところだけが取り柄だと思ってください。

これまで同様、どうぞよろしくお願いいたします。

年頭のご挨拶

あけましておめでとうございます。

平成が終わりナニヤラが始まるこの年、還暦を迎えるめでたい年女でございます。
生まれて初めて同学年の天皇を戴くことになり、これまでの天皇は全員おじいさんとかおじさんだったわけで、さていったいどうやって崇敬して行こうかと悩む今日この頃。
親にコツを聞いておくべきだった?墓に布団は着せられぬ。ちがうか。

何度も言うけど年女なわけで、これまでの60年に思いを馳せ、来し方行く末をあれこれ考え、半ばはとうに越えた人生の残量の過ごし方を思案せよと赤いちゃんちゃんこを贈られる年齢。
90過ぎたら次の計画を考えると豪語する上の世代の方々から、
「今の若い人たちは私たちと違って子供の頃からの栄養もいいし、医学も進歩しているから、きっともっと長生きできるわよ」と激励されたりする、悩める世代。

すみません、長生きしたくないんです。(私だけかもしれないけど)
「孫を育てる生き物は人間だけ」とやや乱暴にくくって先輩が言ってた。もっともだ。
それだって充分長生きなのに、ひ孫やその先まで見たくない。
「年金からひ孫の結婚式のご祝儀出してあげようかしらん」とか考えたくない。

早熟な子供の常で夭折に憧れていて、30を迎えた時には愕然としたものだった。(皆さんも覚えのある境地なのでは?)
それに80の声を聴く者が超レアな早死にの家系なので、70過ぎの人生を考えたことがなかった。
実際、両親は70代で病没し、短命一族の伝説を盛り上げている。
心臓と血管をメンテしてサイボーグになったこともあり、もしかして私は80代まで生きるかも?とぼんやりと考えるようになってきた。
年金崩壊。貯金しなくっちゃ。
重度障害者の娘とハーフニートの息子は全然あてにしたこともない。

ああ、なんて縁起の悪い年頭の辞。
年末に遊びすぎて持病の鬱をこじらせ、断薬したはずの睡眠薬に再び頼り、「やっぱりこのぼんやりは心地いい〜、また抗不安薬ももらおうかしらん〜」とか考えながらうとうとしてる。
自殺した友人が真面目な顔で手招きする年明け。

1週間お休みをいただいて、新年からの日記は来週更新します。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

19年1月1日

謹賀新年。
今年は年始の挨拶も初詣もすっ飛ばしたので、平和裏に9時頃に1日が始まった。

前の晩は「紅白歌合戦」が終わると同時に禁断の「日清ラ王」を半分こした年越しハーフラーメンを作り、名刹の除夜の鐘中継を聞きながら新年を迎えるとそのまま「生さだ」に移行、という年またぎだった。

いやあ、DA PUMPの「USA」、いいなぁ!
30日のレコ大から、何回片足上げて踊り狂ったかわからない。
せいうちくんが大掃除でワックスかけてピカピカにしてくれたフローリングが滑るもんだから、もうちょっとで、「USA踊っててすっ転び、年末の救急車に乗った全国13人の急患(想像)」の1人になるところだった。

サザンとユーミンが巻き起こす歌の渦の中で終わった紅白のラストも良かった!
北島三郎はノリが悪いなぁ、桑田圭祐が「いま何時?」ってマイク突きつけてんだから、「そうね、だ〜いた〜いね〜!」って返さなきゃダメじゃん。
「胸騒ぎの〜腰つき〜」ってにじり寄られて腰をスゥイングさせるユーミンはさすがだ。
桑田が小さくつぶやいた「恋人がサンタクロース」は聞き取れたかな、1986年と87年にやってた「Merry X'mas Show」を観る幸運に恵まれた、全国800万人(推定←ウソ)の音楽ファンの皆さん。

昼に年始に来るはずの息子から10時ごろ電話が入った。
「おばちゃんとこにはもう行った?オレも今から行こうと思うんだけど」
我々が毎年お年始に行っているおうちに、子供の頃から世話になっている彼も行く気になったらしい。
いいことだ。

「母さんたちは年末にもう行ったから、あなただけでも行っとくといいよ。カノジョも一緒?」
「うん」
あいかわらず能天気なヤツだ。
彼女ができるとすぐにあちこちに紹介したがる、ある意味フランクっつーか、大らかな人だ。
私も中学の頃からそうだったなぁ。
けっこう親からはひんしゅくを買ったのに、認めてもらいたい願望から意固地に紹介し続けていた。
息子とはずいぶん動機が違う気がする。

そんなわけで約束通り13時に2人がやって来たので、今年はなんだか幸先がいい。
お雑煮を食べ、タンドリーチキンやローストビーフ、おでんなどの無国籍料理でもてなした。
もっとも、息子はおばちゃんちでたっぷりご馳走をいただいてきたらしくてあまり食べず、カノジョの方もご馳走攻めにあったのだろうに、果敢にお雑煮のお餅を「2つお願いします」とリクエストしていた。
その意気や良し。

おばちゃんが持たせてくれた黒豆も食卓に並べて、楽しく過ごした。
息子は、1週間後にはアパートを引き払うそうで、てっきり彼女のアパートに転がり込むんだと思っていたら、向こうのお母さんから「待った」がかかったらしい。
そりゃそうだよねぇ、近々バイトすらやめる予定でふらついてるカレシが転がり込んできての同棲なんて、まともな母親だったら反対するだろう。
感心することに、つきあうこと自体には何の口出しもないのだそうだ。
理性的なお母さんだなぁ。

息子はあいかわらず妙に威張っていて、
「オレはちゃんと論理的に話したんだけど、理解されないんだよねぇ」とうそぶく。
なまじ言葉遣いとかていねいで慇懃無礼なだけに、私が聞いてても腹が立つわ。
「ご心配でしょうけれども、きっときちんと生活を立て、協力して誠実な暮らしをします」と一生懸命に頭を下げる場面だろうに、まだ何も形にしてないコント論をぶってもねぇ・・・

まあ、並んでお雑煮を食べている2人は互いを大事に思っているカワイイカップルだったよ。
我々には態度の良くない息子も、彼女に何かを説明する時には優しい声で穏やかに話す。
「この人(息子)はけっこう高飛車で横暴でしょう」とカノジョに聞いたら、少しきょとんとして、
「えー、高飛車ですかぁ・・・?全然そんなことはないですよ・・・」と困惑していた。
うん、カノジョに優しくしてあげてればいいよ。

アパートを引き払ってしまうので、当面住むところがないらしい。
「家に戻って来るとか、言うなよ!!?」と身構えていたら、先輩が仕事場に使っているアトリエの隅に間借りするらしい。
それもまた青春だ。
もう1週間もすれば引っ越しなのに、「住所はどこになるの?」との問いに帰ってきた答えは、「さあ。知らない」。
若者は、面白いなぁ。

今、息子は「インプロ」と呼ばれる即興的なコントに夢中になっている。
サンフランシスコとニューヨークの両方で学校に通ったのだそうで、もともと目指していた「演劇性の強いコント」に通じるものがあるのだそうだ。
日本にもすでにワークショップがあったり吉本が手掛けたりはしているが、まだまだ新しいジャンルなので、面白いことができるかもしれない。
仲間を集めて練習会を開いたりして啓蒙活動をしているところだって。

カノジョを指差して、
「この人にもちょっとエチュードをやってみない?って勧めるんだけど、恥ずかしがっちゃって。簡単にできるゲーム的なものもあるんだけどね」と言うので、
「はいはいはいっ、母さん、それやりたい!教えて!」と手を上げたら、息子は苦笑いしてカノジョに、
「ほらね、オレの母さんって、ホントにオレに似てるんだよ。好奇心が旺盛でね」と言いながら、やり方を教えてくれた。

2人で交互に「1、2.3」とカウントして行くだけなんだが、「3」は言っちゃいけない。
私が「1」と言ったら息子が「2」と返し、そしたら私は「3」と言わずに無言。
そのまま次は息子が「1」と言って・・・の繰り返し。

これはまあそれほど難しくないけど、次に、「1」の時は数字を言う代わりに指を鳴らす。「パチン」
「2」はこれまでどおり数字を言って、「3」では無言。少し難しくなってきた。
「赤上げて、白下げて、赤上げないで、白上げて」みたいな感じだね。

「もっとみんなでやる面白いのもあるんだけど」と言われて、もちろん私は大乗り気。
せいうちくんも「面白そうだね、やろうやろう」と喜ぶので、息子はますますおかしそうに笑って、
「ホントにオレの両親だよねー」と言っていた。
それって、親としては勲章だよ。
「親にだけは似たくない」って言われないで済むのは、ここまでの人生の勝者だからね。

リレーストーリーを作るゲームで、英語だとワンワードでつなぐらしいけど、日本語だから一文でいいって。

せいうちくんが話をぶちこわす傾向があるのを指して、息子が「オヤジは、ヘタ。人と協力して話を作るって作業ができない。異常な方へ持ってけばいいと思ってるでしょ!」と喝破する一幕もあり、まことに人格も性格も出る恐るべきゲームだと思った。
合コンで、王様ゲームなんかやるよりもこれやった方が、どの人をお持ち帰りすべきかが一目瞭然になると感じ入ったよ。

とても楽しい話をたくさんして、息子はアメリカに行く前とは人が変わったようにほがらかで愛想が良く、私にもとても優しかった。
帰りがけに玄関先で「今日はハグはないの?」と両手を広げたら、カノジョがいるから恥ずかしかったのか、
「また今度ね」といったんはドアの向こうに消えたのに、次の瞬間ドアをバタンと開いて、「ウソだよ〜ん!」とビッグハグをしてくれた。
「握手でいいよ」と腰が引けてたせいうちくんにも、ついでに「はぐはぐ」。

口々にお礼を言って2人が帰ったあとは寂しかった。
この寂しさこそが、手元に置いて育ててきた子供を手放す儀式にもれなくついてくる感傷なんだろう。
健康に育て、人の愛を教え、他人に心が震えることを知る日まで面倒みた。
ここらで終わろう。
あとは、ある時期に深くかかわった者として、彼らの幸福を祈ろう。

19年1月2日

友人女性2人を招いて、毎年恒例「小さな新年会」。
KちゃんとMちゃんは同じ高校出身で、中学時代から成績優秀だったのにマンガの方向へひゅーっと飛んでいった変わり種だ。
1人はマンガ家になり、もう1人はデザイン関係の仕事をしたり翻訳をしたり工業デザインの仕事をしたり、まあそれぞれ。
ほぼ毎年我が家のリビングで「小さな新年会」を楽しんでくれる。
せいうちくんが料理を作ってホスト役に徹するので、やや落ち着かないかな。

いつも、親しい方のKちゃんを時間差で先に呼ぶ。
2、3時間おしゃべりをしていると、Mちゃんもやってきて、10時ぐらいまで飲んで食べて憂さを忘れるという正統派の忘年会。
せいうちくんもいるので完全女子会とは行かないが、私があまり女子会に向いたウェットな性格でないところに、せいうちくんは実は女子力の高いニュータイプなので、当面うまく行ってる。

しかし、元々遅刻魔のKちゃんは、いかん。
私としては早くからおしゃべりを楽しみたかったので「1時に来てよ。Mちゃんには4時に来るようお願いしておいたから」と頼むと、
「えー、1時はちょっと早すぎるわ―」との答え。
じゃあってんで、2時ならどう?と聞いたら、2時ならなんとかだそうで。

例年の如く、彼女が来たのは2時半をまわった頃だった。
2時に「今、駅に着いた。これから歩いて行きます」とメッセージが来て、うちまでは徒歩30分以上かかるので、こういう場合はバスか、人によってはタクシーに飛び乗るんじゃあるまいか。
現れた本人にも聞いてみたよ、「なんでタクシーとか乗らなかったの?」と。答えは、
「ここに来る時は、ゆっくり散歩するって決めてるから。気持ちいい道なんだもん」。
だったら、もう30分早く出てくれ〜!

彼女の遅刻を厳しくとがめたのは何年ぶりかで、今思うとすでにこっち側の不調がにじみ出ていたのかもしれん。
彼女は「決まったとおりのことをすると思うだけで気が重くなり、出来ればアドリブで楽しく切り抜けたいタイプ」、そして私は、決まった時間に決まったことが起こることが心の平安の大元なのだ。
運命の女神の呪いを受けた、不幸な出会いと言えよう。

そのあともう1人のゲストMちゃんが来ての新年会はとても楽しかった。
酔っ払った男どもが下ネタ炸裂させてるのもキライじゃないが、やはり楽しげに笑いさざめく同性ほど心和む眺めはない。
「私たち、もう40年ぐらい知り合いなのよね〜」「ほんとだ〜」と盛り上がっていた。

おひらきになり、酒を飲まずにいた私が車を出して2人を家まで送ろうと申し出たら、喜んでくれたが、遅刻友人Kちゃんの方は、
「え?送ってもらっていいの?てっきり居残りでお説教かと・・・」と笑み崩れていた。
カワイイじゃないか!
せいうちくんも手伝って慰留し始めたので、めでたくその夜は彼女が泊まって行って、ひと晩みっちりお説教したのでした。(ウソ。さらにワインを1本あけてらちもない話をしただけ。いやー、でも、楽しかったなー)

自分が、他の人とは距離感が大いに違う、と一番感じるのはこの友人と話している時だ。
お互い、「友達」とくくってもどこからも文句は出ないようなつきあいをよくも何十年も続けているなぁと時々不思議にはなるが、私から見ればこれほど変わった人が社会生活を営み、あまつさえフリーとは言え仕事もしていることを思うと、人間の潜在能力の果てしなさにひざまずきたいほどの畏敬を感じる。
きっと向こうも私のことを、「あれでよく生きてるなぁ」と首を振り振り眺めているに違いない。
人間って、千差万別ですね。みんなちがって、みんないい。

19年1月3日

お正月休みの最終日は、友人宅を訪問。
お子さんが4人も駆け回ってる関係で、にぎやかで勢いあふれた新年を味わうことができた。
糖質制限中の我々のために牛・豚・鶏すべてを調理して「肉にくパーティー」をひらいてくれて、ありがたい。
我々も、1人女王様のSちゃんには、おみやげに持って行ったクッキーのうち、宝石のようなジャムで飾られた美しくも美味しいクッキーの別箱を特別に献上する。

楽しい楽しいパーティーになるはずだったのに、せいうちくんったら、
「車を停めてきたところが心配だから、見てくる」と言って途中でで行ったきり、適宜連絡は寄こすものの、「結局、満足の行く場所に停めて戻ってきた」のは1時間以上たってから。

ホストたちはせいうちくんが戻るまでメインの料理も作れず、でも子供たちには先に食べさせたいしで、ちょっと困惑しながら大奮闘してた。

やっと戻ってきたので開口一番「どれだけ時間がかかったと思ってるの?!1時間だよ!」と叱りつけると、驚いた顔で、
「?もう1時間もたってた?30分ぐらいじゃない?」」とのたもうた。
「1時間だよ!みんな、心配するじゃない。もっと臨機応変にやらなきゃダメだよ。鼎の軽重をわきまえてよ。今日の主眼は楽しく訪問することで、車を停めることじゃないでしょう!TPOがなってない。自分は一生懸命やってるつもりでさわやかかもしれないけど、周りが胸を傷めるから、1人苦労ほどほどに!もうちょっと行くと、それは『スタンドプレー』ってやつだよ」と説教してしまった。

せいうちくんは、自分の犠牲で皆が楽しくやれるなら、と考える滅私奉公の美しい心を持っている。それは確か。
ただ、「オレがやらなきゃ、誰がやる!」とにわかに殉教者の衣をまとってうっとりする傾向も否めない。

大学時代、伊豆の民宿にみんなで泊まりに行った。
夜も更けて、酒も入り、男女入り乱れてなんだかとっても楽しくなってたところへ、隣の部屋の酔っ払いのおっさんが乱入してきた。
かなり酔っていて呂律も回らず、何が言いたいのかがすでに判別不可能。しきりに一升瓶を勧めながらわけのわからない議論を吹っかけてくる様子。目は坐っているし、暴力をふるいそうな気配もある。

宿の人に知らせに行ったが、あいにく留守だった。
女性たちもいたことだし、ここはひとつ、避難も兼ねて皆で海辺に散歩しに行くことにして、酔っ払いおじさんを宿に残して行こう、とひそかに話がまとまった。
みんなでサンダルを履いて民宿の外へ出たら、1人足りない。
「どうせ、あの野郎だ〜!」と怒りに燃えて捕捉に走ったら、果せるかなせいうちくんだけは、おじさんの部屋で酒を酌み交わし始めている。

怒りを抑えて、「せいうちくんも、海を見に行こうよ。綺麗だよ」と声をかけたが、彼は酒に酔っているのと、誰も相手をしてあげない気の毒なおじさんと酒を酌み交わして魂の会話をする、というロマンに完全にダブルで酔っているようだった。

「何かあぶないことがあったら宿の人の責任にもなるし、あなたに万が一のことがあったら、あなたを残して逃げ出してしまった他の人たちにも辛い思いをさせるでしょう。こうしている間にも、あなたのことを心配して、遊ぶに遊べない状態なんだよ。一緒に、みんなのところに戻ろう」と手を取って連れ出そうとしたが、
「いや、僕は僕のしてることはわかってる。話を聞いてあげさえしたら暴れたりしないでおだやかに話せる人だよ。落ち着いたらみんなのとこに戻るから」と聞かない。

結局誰もけがやいやな思いをこうむったわけではないが、自分1人が犠牲になって他の人を助ける、という英雄的行為に酔ってるせいうちくんが、その時の私にはとても嫌だった。
誰かが残らなければならない状況なら別だろうが、全員で海辺へ出て花火もして、おじさんが酔いつぶれるなり宿の人が何とかしてくれるのを待てば、それで良かったはず。
なんでわざわざ人身御供になるのかねぇ。

とまあ、長くなったけど今回のこともそれに似ている。
「こんなに頑張ったオレに逆ギレするなんて、ひどくない?」とさらに逆ギレするのもいや。
心配したあげくに逆ギレされるのって、不幸だよ〜

いつものように帰りの車の中は修羅場になった。
いろんな解決案が出た(もちろんほとんどは私からである)中で、「息子に相談してみよう」がせいうちくん的にもヒットしたらしい。

せ「もしもし、父さんだけど、また母さんとケンカしちゃったんだよ。かくかくしかじかでね」
息子「あー、それはオヤジが悪いわ。誠心誠意、謝るしかないんじゃない?」
せ「もう謝ってるんだけど、許してもらえないんだ」
息子「そうは言っても、謝り続けるしかないでしょう。どう考えてもオヤジが悪いんだから」
せ「なんか、手伝ってもらえない?」
息子「んー、じゃあ、あとで母さんあてに何か書いて送っとくわ」
せ「お願い。いつもいつもすまないねぇ」

息子にもせいうちくんが悪い!と喝破されたことで少し溜飲が下がって家へ帰ったら(そうです、それまで、帰り道の路肩に車を停めて車内痴話ゲンカしてたのです)、息子からメッセージが。長文だ。

「お父さんは僕と似て自分勝手なところが多々あると思います。自分の世界というか、閉鎖空間に生きてきた時間が長いので、他人を慮るという機能が半ば抜け落ちた、ロボット以上、人間未満、のような愛すべき人です。(中略)人間はどこまでいっても人間同士で支え合う必要があり、その上で「相手の気持ちを想定する」というのは必須の機能のようです。僕はそう感じています。(中略)まあ、お父さんは現在、今日の自分の非道なレスポンスを反省しているようですので、許してくれると嬉しいです。ただ、この文章はあくまで助力ですので、お父さんの口からこの件に関しての総括をしっかりと聞いたうえで、「許す」「許さない」はお母さんがジャッジを下してください。それではまたお会いしましょう」

あまりの名文に感動したので、つい、「父さんは逆ギレするからイヤだ」と愚痴をこぼしたところ、

「どんなに自立できてなくても、逆ギレはしなくなったかもなぁ、僕は」という返事が来た。
「自立していないこと」を巧みに既成事実化した腕前を読んで2人して大笑いしてしまい、ケンカはなしくずしに仲直りした状態になった。
そこまでを見越しての捨て身の作戦なら、大したものだ。

しかし、大笑いしたからと言って、長年積もり積もった「何度言ってもわかってもらえない」ストレスは消えなかった。
この晩から、1年半薬なしで元気に過ごしてきた反動が一気に吹き出し、ある意味、前以上に重いうつの症状が出てしまい、正月明けでもやっている病院を探して急遽薬をもらいに行く羽目になった。

そしてもらった薬は強く、眠気と多幸感にうとうとしながら新年を過ごしている。

19年1月4日

遊びすぎたか何かのストレスが決壊したか、この1年半抑え込んできた持病のうつが再発した。
夜中に突然、「もう生きていられない」と号泣し始めたのに驚いたせいうちくんは、三が日が明けたばかりだというのにやっているクリニックを探し出して来てくれた。
その結果、今、抗不安薬をのんでじっと丸まっている。

派手な断薬をして袂を分かった元の医者は敷居が高く、そうでなくても5分だけ話をして毎回増えていく一方の薬に疑問を持っていたので、今回は別のクリニックを選んだ。
20年前とはずいぶん様変わりし、気軽に訪ねられそうな洒落た医院が増えていた。
心療内科のドアを出てくると駅前の雑踏、というのはなんとなくいただけない。
恥じるわけではないが、何かと心がナイーヴになってる時なんだから。

マンションの1室のような、しかしまったく閉鎖的でない明るい雰囲気の部屋で会ったドクターは、私の訴えを聞いて、
「死んじゃったら、大変だからね、人間、生きてなくっちゃしょうがない」と親切に言ってくれた。
滂沱と泣きながら
「いや、死ぬのは全然かまわないんですけど、やっぱり自殺は少し怖くて。主人や子供も驚くでしょうし、なるべく回避したいところです」と説明する患者は、いったいどう見えただろうか。

幻覚や妄想、深刻な肉体的不調を伴う離脱症状に悩まされながらやっとの思いで断薬したのに、結局戻ってしまった。
この1年半、つらくてももうあの生活には戻るまいと歯をくいしばって耐えてきたのは何のためだったのか。
かなりの挫折感に襲われている。

でも、ゾンビの群れに襲われて、人間最後の砦を死守してきたつもりが、ついに襲撃に屈してゾンビ化してみたら、
「な〜んだ、ゾンビってあんがい楽じゃん。あんなに抵抗しないでもっと早くゾンビ化すればよかったかなぁ」とあっけにとられているような感覚もアリ。

10年ほど前に主治医の引退に伴って転院した時に、20年の歩みを記録した紹介状を書いてくれた。
ところが、古風な精神科医である主治医の書いたそれは、手書きの字が読みにくくて、ずっと話し合ってきて内容を十分承知している私ですら「え?なんて書いてあるの?」と首をかしげるような書類であった。

果せるかな、紹介状を受け取った次の先生は「えー・・・うーん・・・」と絶句し、
「うさこさんは、この内容をご承知なんですか?」と聞いてくるので、
「はい、だいたい把握しています」と答えたところ、
「すみませんが、ワープロで起こしてもらえませんか?」と依頼された・・・自分の半生が綴られた診断書を読むのみならず書き起こす女・・・
はい、自分についての理解がいっそう進みました。

今回、8年ぶりぐらいにその書類を読んでみて、なんだか吹き出してしまった。

「現夫(前夫も大学時代の「マンガ研」の仲間。入院中、毎日のように見舞っていた)のプロポーズにためらいながら応じて再婚。夫に著しい愛着欲求。長年、育児全面的に依存。ブログにミステリ評を書き込む、仲間とのパーティーを主催する顕示。批判されたり、親しい仲間が当日不参加となると、見捨てられ抑うつで怒り、顕示の企てのすべてを断念し、抑うつ状態で好褥」

明らかに先生が勘違いしてるのは「ブログにミステリ評」のくだりね。
ホームページとブログの違いを言い立ててもさすがに意味はないけど、私が描いてるのは単なる日記で、ミステリ評書くほど読んでませんってば。(ミステリの好きな先生だったので、勘違いされたのだろう)
あと、「好褥」ってのは布団にもぐってぐずぐずしてることを指す精神医学用語ですかね、初めて聞いた時は、「いい言葉があるなぁ!」って心強く思いました。人間、レッテルを貼られると安心するもんです。

いずれにせよ、家事育児をせいうちくんに丸投げして、日記を発表したり宴会を開いては「私ってスゴイでしょ?」と自己顕示していたわけ。
それで参加者に遅刻やドタキャンをされると、
「嫌われている。私との約束はあの人にとって何の意味もない」と「見捨てられたとの思いから落ち込む『見捨てられ抑うつ』」に陥り、1人で怒りまくってふて寝してた。

オソロシイことに、たった今起こってることもほぼ同じ。
「なぜあの人は約束した時間に来てくれないのか。なぜせいうちくんは私が何度も言ってることをわかってくれないのだろうか。彼らにとっての私は、取るに足りない、踏みつけにしても気づきもしない存在なのか?!」との絶望的な怒りに身も世もない。
何十年経っても人は変わらないもんだなぁ。
身体をこわすほどの大量の投薬療法や苦しい認知療法はいったい何の役に立ったというのか、とうちひしがれて、何もかもイヤになってる←今ココ。

いろんなことが積もったこの1年半だったけど、ラストストロー(最後の一撃)は、友人の遅刻。
私「ゆっくり話したいから、1時に来てほしいなぁ」
友「私にとって1時は早すぎる。ギリギリ、2時」
私「わかった。じゃあ2時に待ってる」
というやり取りがあったにもかかわらず、当日の朝に「段取りが順に押してまして・・・2時はまわりそうです。ごめんなさい。3時までにはうかがいます」と言ってきた。

午前11時の時点で2時に遅れる予告をしてくるってのは、仕事人としては有能かもしれないが、「あなたの順番は繰り下がりました。重要な順に片づけて、終わり次第伺いますので、待っててね」ってことだよね。
早起きして2時にはお迎えできるように掃除してお料理作って、会えたら何を話そうかと段取りする、そのすべてがノックアウトされた気分。

それでも泣き顔のスタンプを送ったら、「ごめんなさい!がんばります!」と返ってきたので、
「ああ、やっぱり私を悲しませないように急いでくれるんだなぁ」と胸を熱くしていたら、2時(本来、我が家の玄関についてるはずの時間)にメッセンジャーで、「ただいま吉祥寺から歩いてます。今しばらくお待ちください」との連絡。

なんでそこで歩くの?!!うちまで、たっぷり30分かかるんだよ!?
オトナならタクシーですっ飛んでくるし、せめてバス。
そして、2時40分にやってきた彼女にそう文句を言ったら、驚きのひと言。
「で、待ち合わせは何時だったんだっけ?」
足も腰も力が抜けてへなへなと崩れ落ちそうだった。

「2時と言った記憶がないなぁ。そもそも、時間決めてたっけ?」
「何にせよ、こっちは待ってるって泣き顔スタンプまで送ってるんだから、バスに乗ればいいじゃん!」
「いやぁ、ここに来る時は、ちょうどいい散歩道なんでのんびり歩いてくるのがデフォルトなんだよね〜」
では、2時に着けるように早く出て、いくらでものんびり歩いてきたらよいではないか、との答えを飲みこんで、1年半ぶりの重いうつ状態に返り咲いた、というわけ。

彼女には私の要求が過剰に想えたのだろう、苦慮したあげくに放ったのは、
「あんまり私のテリトリーに入ってこられると、静かに遠ざかるしかないね」というセリフで、何でも話し合いで解決しようとする私にとっては最後通牒の脅迫だ。
「人間が違うんだから、キミが期待してるような結論には決してならないよ。僕はこれ以上キミが傷つくのは見たくない」とのせいうちくんの意見ももっともだが、わかり合えない同士にとっての最後のよりどころが「合意できた約束」だと信じてきたので、「約束?そんな昔のことは覚えてない」という洒脱な生き方について行けない無粋な人間なんですすみません、と倒れている。

すべての人に好かれることはできない。
すべての人を好きになることもできない。
目の届く小さな庵を建てて、何も期待しないで過ごそう。
裏に林があって、理不尽な目に合わせやがって、との想い断ち難い相手には夜な夜な五寸釘を打つのも、ひとつの生き方かもしれない。

友人の遅刻も決してほめられたものではないが、私にはいささかコトを大きくしてしまうトラウマがある。
小さい頃からわりとパンクチュアルだったため、母と姉が「デパートに行くわよ〜」とか言い始めると、
「何時に、どこにいればいい?」と必死で聞いていた。
「午後3時に玄関に集合ね」と言われれば、3時5分前からお出かけの格好に身を包んで完全にスタンバイし、あとは靴を履くだけ、って状態で待ってた。

その時、母と姉が何をしているかと言うと、口紅をつけたりあーでもないこーでもないと服をとっかえひっかえしたりの「お出かけの支度」をしている。
もちろん玄関に集合したりはしない。
「もう3時だよう」と地団太を踏むと、2人は大仰に吹き出し、
「本気で玄関で待ってるなんて、バカじゃないの?!出かける用意ができたら出かけるわよ。そのぐらい、わかるでしょう!」と朗らかに笑い物にしてくれた。
「予定は未定で、確定じゃないんだから!」という迷セリフもこのころ覚えたんだろうなぁ。
なにしろ、実際のお出かけの時間は4時をまわるんだから。

そんなわけで、私は時間を守れない人、守らない人を見ると、私の人生に大きく影を落としたこの2人の女性を思い出さずにはいられない。
反動で異常に時間厳守の人となり、中・高時代のあだ名は「定刻5分前のうさこさん」だった。
人間だからもちろん遅刻もするが、そんな時の罪悪感と冷や汗の流れ方は尋常じゃない。

家族の行動を把握しておくのが好きな母は、出かけようとしているとよく車で送ってあげる、と申し出た。
バス便の多い名古屋では、自家用車の方が確かに便利だ。
しかし、私は可能な限りその申し出を断り続けた。
遅刻しないで目的地に着くために1時間から30分のゆとりをみる私からすると、時間ぎりぎりになっても「まだ大丈夫大丈夫」と言い続けてなかなか出発せず、いざ遅刻しそうになると、
「しょうがないじゃない、道路が混んでるんだから!あんたは細かくてうるさい!」と不機嫌になって怒鳴る母の車に乗るなんて、竜の咢に飛び込むようなものだ。

遅刻魔Kちゃんに「怒りすぎて、ごめんね」と言いたい気持ちはやまやまあれど、それぞれのトラウマってのは越えがたいんだよ。

彼女は、異常に拘束を嫌う。
「何時に、どこかへ行って何かをしなければならない」と考えただけで、なんとかしてそのくびきを出し抜き、回避し、はるか彼方へ逃げ去りたくなるのだろうと想像する。
一方の私は、約束を守ることに生きがいを感じ、期待されるその時その場所に存在する、そのために生きているといっても過言ではない。
誰かに必要とされ、そのニーズを満たすために自らの身を捧げて5分かそこら「誰かを待つ」行為が大好きなのだ。
こんな2人が待ち合わせをする・・・大概の場合立会人兼傍観者であるせいうちくんの胃がキリキリと痛むのも無理からぬ話だ。

それでも、この世で一番好きな女性の1人に間違いなくカウントされる相手なのだから、人間っつーのは思い通りにはいかないものだ・・・

ドクターとは、軽い薬をのんで日常生活を落ち着かせてからいろいろ考えましょう、という合意に達した。
「カウンセリング、なんてのも人によっては有効ですけどね。あなたももういい年だし、いろんな経験をしてきているから、自分より経験豊かな人の言うことでないと聞く気にならないでしょうから、むずかしいですよね。話し相手がいるだけでもいい、って方もいらっしゃいますが、あなたの場合、ご主人がよく話し相手になってくれるようだし、夫婦で話し合って行かれてはどうですか?どんな人間でも、2人いれば小さな社会ですからね。夫婦が依存し合うことは全然いけなくないですよ。よくね、共依存だなんて悪口を言う人もいますけど、夫婦が助け合うのはこれはもう当然のことですから。もちろんうまく行ってる夫婦の話ではあるんですが」

というわけで、過度の宴会を開くことを禁じられ、休息中心のおだやかな生活を送ることをせいうちくんに約束させられ、しばらくはぼんやりと過ごすことになりそうだ。
でも、この1年半、自分の人生を自分の手に取り戻したような気分になって過ごしたのは悪くなかった。
「それが、もっと無理なくできる日が来るんだよ。誰を見返す必要もない、自分が心からしたいことだけをおだやかにして行ける日が来るんだから、その日のために、もっと身体を大事にして楽しい生活にそなえようね」と言ってくれるせいうちくんは、いったい前世にどんな徳を積んでいるんだろう?ちょっと、そこらのおっさんが言えるような内容じゃない気がする。本気で布教とか托鉢とか始めたら、ついていっちゃいそうだ。

19年1月6日

息子が遊びにきた。
先日ケンカの仲裁に入ってもらったので立場が弱く、彼の大好きなかぶの味噌汁と、新作の「ミルフィーユ鍋」でもてなした。

「オヤジはさぁ、そこそこ経済的にも豊かだし、幸せに生きてると思うのに、どうしてああいう時に意地を張るって言うか、素直に流せないのかねぇ。やっぱり、何かのヘンなトラウマがあるのかねぇ。ま、母さんにも苦労をかけるし、あらためた方がいいよ」と正月から息子にエラそうに説教をされ、しかも一言も返せないせいうちくんであった。

「誰も、お年玉くれないんだよなぁ」とのつぶやきを聞いてないふりしたのだけが、家長としての最後のプライドかもしれない。

バイトも替わり、引っ越しもするつもりらしい。
そのすべてのディテールをまったく教えてもらえないのが、今の彼と我々の関係だ。
まあ、新しい女ができるとすぐに紹介しに来る程度の距離感なので、新しい仕事や家も遠からず知らせてくると思う。

ちなみに今度の彼女はもう1年半もつきあっている上、売れないコント師の彼を仰ぎ見て支えていく気満々の得難い賢女である。
私としても、かなうかぎり大切に遇したいと思う。
いい子なんだよ〜。
息子の女の子の趣味がいいのは、まったくもって七不思議としか言いようがない。
結局、家庭環境がいいのよね♪

「母さん、また具合悪くなっちゃった」とぽつりと言ったら、
「しんどいの?無理しないでね。いろんな時期があるよ。きっとまたよくなるから、ゆっくり休んで」とだけ言って、温かいハグをして帰って行った。
いろいろ難しい道を歩んでる彼だが、人間としての道は大きくは踏み外していない気がする。
そこが一番大事なとこだ。

19年1月8日

今まで、自分の病気のことはあまりはっきり書かないで来た。
せいうちくんの仕事に障るかとも思ったし、子供が小さいうちは正直言ってママ友達の目も怖かった。
なにより、主治医によれば小学校高学年で既に発症していたとされる「人格障害」は、当時まだまわりの理解も少なく、「異常性格」「反社会的人格」と取られかねない時代だったと思う。

私自身、「アダルト・チルドレン」という言葉は聞いたことがなかった。
23歳での自殺未遂をきっかけに主治医になってくれた大きな病院の部長先生は、当時には珍しく保険診療の中で可能な限りのカウンセリング的な時間を取ってくれる人だった。
「うさこさんは、まず本を読むところから入った方がいいかもしれません」と渡されたマスターソンの「境界例」は心理学用語に満ちていて難しかったが、逸話よりも理論から物事を読み取る傾向が強かったので、先生の見立ては正しかったのだと思う。

幼少期に適切な愛情の補給を受けられなかったため、世界が自分にとって安心できる場所でないこと、他人は取引をするべき相手であり、条件付きでない愛情は存在しないのだ、といった世界観が身についていた。

とは言え、私の家庭はごく平凡な中流家庭で、父親は相応の学歴と職歴を持ち、姉は優等生で、変わった子だと眉を顰められていた私でさえ、素行が多少怪しいことを除けば「頭のいい児童」の一群だった。
早熟で本ばかり読んでいたことと死について考えることが多すぎる点以外は、ごく普通の家庭の子女だったろう。

ただ、私の子供時代に決定的に足りなかったのは、「自分は、どんな人間であろうとも価値のある人間だ」いう人生の基本的な指針だった。
良いことをすればほめられ、悪いことをすれば叱られる、そんな簡単なルールすら存在せず、私のすることはいつも「どうしてそんなことをするかわからない。何が面白くて」とため息をつかれ、しまいには、「あなたはこんなこと、好きじゃないでしょう?こういうことが好きでしょう?」と好みを既定された。

「お姉ちゃんはいい子なのに」と始終比較され、その「よい子」の姉からは年の近い姉妹というよりは「第二の母」のようにふるまわれた。
実際、私は思春期に至るまで、彼女のことを内心では「チイママ」と呼んでいた。
めずらしく同年輩の気安さから打ち明け話をすると、翌日にはその「秘密」は母にご注進されていた。

もっと悪いことに、私は姉を好きでも嫌いでもなかった。
趣味も考え方も何もかも違っていて、ひとつも共感できるところがなかった。
もしもなにかの拍子に同じクラスになったとしたら、1年間、最低限の挨拶はしても彼女の内面には全く興味を持たず、何のつきあいも生じないまま別れて行って一生思い出さないような、そんな人だった。

そんな相手が、ことあるごとに、
「誰よりもあなたのためを思っているの」
「あなたは私の大切な妹だから、何をおいても守ってあげたい」
「あなたの気持ちは、本当によくわかるの」と話しかけてくる。
同じ本を読んで語り合うこともなく、同じ冗談に笑うことすらない(何しろ彼女は冗談が一切通じない人なのだ)、思春期の嵐の中でそんな相手と何を共有すればいいのか。

長じるにしたがって、こういうことが起こってきた原因がわかってきた。
母は、肉親の縁に薄い人で、両親をそれぞれ病気で若い頃に亡くし、特に愛してやまなかった母親とは自分自身若い身空で重い病に倒れて入院していた時、同じ病院に入院していたにもかかわらず死に目に会えなかったという悲劇に見舞われている。
その後も姉妹たちと引き離されて、親切ではあっても気兼ねの多い親戚の家を転々とする思春期を過ごし、奇跡のように父と出会い恋に落ちた時には、彼は白馬の王子様に見えたことだろう。
病気がちで、成績は良かったのに学校を断念せざるを得ず、両親もなく財産もない母に、帝大出の地方の名家の長男が熱烈な恋をしたのだ。
帰省の列車で隣り合って坐ったというだけで手紙攻勢を通じてプロポーズしてきた父が、どれほど素晴らしく見えたかは想像に難くない。私だって、くらっときただろう。

ただ、カケオチ同然で結婚してみると、父はやはりただの昭和の男だった。
誰も知った人のいない名古屋に連れてこられて最初に言われたのは、
「じゃあ、アパートを決めておいて。オレは友達のところに行って来るから」のひと言。
新天地での生活では、父は会社に行って給料を運んでくるだけで、それ以外のすべては、母の双肩にのしかかってきたのだ。

熱烈に請われて結婚したはずなのに、この扱いはどうだろう。
「サラリーマンの妻」の役割に押し込められて、気がつけば夫とは日常会話もない。
肉親の縁に薄かった母が最初の子供を産んだ時も、夫は産院にすら来なかった。(一説によれば雀荘でマージャンをしていたらしい)
母にとって、この小さな赤ん坊は、彼女が失くした家族のすべて、有り余る幸せを受けるべくこの世に降り立った「自分自身」だったのだろう。

以来、よくある話のように、母の生活は長女を中心に回って行った。
熱を出したからと言って心配そうな顔すらしない夫はもはや当てにせず、おんぶひもで背中にしょって病院に走る。
離乳食も、当時出始めていた「科学的な育児法」にしたがって大匙いっぱいの味噌汁の上澄みを飲ませるところから始めた。
ちなみに、私が自分の子供を産んだ頃に「離乳食って、どうしてた?」と聞いたところ、母の答えは、
「さあ、あなたの時は、気がついたらちゃぶ台に坐ってオトナとおんなじものを食べてたわねぇ」であった。
これほど、第一子とそれ以降は差がつくのである。

一度は愛した夫よりも、何度もおなかを痛めて産んだ子供よりも、自分の生まれ変わりとも言うべき最初の子ほど可愛く崇高なものはこの世に存在しないのだ。
それほどに、母親たちは顧みられていない。
自らをを投影してこの世のすべてと思いこんだ存在を、誰もが羨む素晴らしい存在に育て上げることこそが、多くの子供をただ死なせないように目を配る代わりに、現代の母親という崇高な職業婦人に課せられた神聖なる使命なのである。

話は少しずれるが、最後に、私が姉を完全に見限ったエピソードを記そう。
驚くべきは、それがまだ小学校に上がる前の記憶だという点だ。

当時、近所に我々姉妹を可愛がってくれている老婦人が住んでいた。
私は誕生日が近づいていたので、自分の大事にしているお人形さんに新しい服をたくさん作ってもらう約束をしていた。
当日の午後、人形を持っていさんで老婦人を訪ねた私が言われた言葉は今も忘れられない。

「あら、午前中に、お姉ちゃんが人形を持ってきてこれはうさこちゃんの人形だから、洋服を作ってあげてって言ってきたのよ。たくさん作ったから、もう余ってる布はないの。作ってあげられないわ」
青ざめて家に取って返して姉を詰問すると、彼女はまったく悪びれないしれっとした顔で言ってのけた。
「2人の人形だから、どっちの服でもいいじゃない?あなたの人形は服もないことだし、召使いってことにしたらどうかしら」
5歳にして、人間なんてやつはもう誰も信じないぞ、と心に固く誓った瞬間であった。

以来、私は家の鬼っ子であり続け、成績が良かったことを盾に東京の大学へ行くことを主張した。
母も、深夜徘徊や自殺企図を繰り返す娘にはほとほと手を焼いていたのだろう、「世間体の悪くない合法的な家出」としての上京は歓迎された。
「家から通える国立大学しか許さない」と言われて律儀に守った姉としては、「なんでうさこちゃんだけ」と茫然としていたが、ずっと家に置きたい良い子の娘と早く出て行ってもらいたい不良娘の違いはいかんともしがたかったわけで。

大学を出て、郷里に帰ろうなどとは微塵も思わずに早い結婚をした私は、いろんなことに気づいた。
私の中にはいつも母がいて、あれをしてはいけない、これをしなければいけない、と耳を聾さんばかりの声で指図をする。

その頃主治医となった先生の処方箋は、とても変わっていた。
「母と連絡を取らないこと。荷物も受け取らないで、出来ればご主人に頼んで送り返してもらうこと」ぐらいは、「ああ、母の影響を脱するために荒療治をするんだな」と納得がいったが(納得できることと従えることはまた別であった)、奇妙すぎてバカバカしく、従う気にならなかったのは、「タオルを、乱雑に畳むこと」であった。

先生によれば、母は異常なほどタオルをきちんとたたむ。
私もその影響下にあり、タオルをきちんとたたまないと仏罰が下るとかそんな類の恐怖を抱いている。
タオルはタオルに過ぎず、ほったらかしてたたまないでおいても何も恐ろしいことは起こらないから、それを体験してほしい、とのことだった。

子供が生まれたばかりの私には、畳むべきタオルは山ほどあった。
母がしていたように、ホテル仕様のようにきちんと方向をそろえてたたみ、同じ向きに整然と並んだタオルの山は見るからに美しい眺めだった。
「綺麗に畳んだ方が気持ちいいじゃない?ちょっとの手間なのに、先生はつまんないことを言うなぁ」と整然としたタオルの山を量産していたら、思わぬ伏兵が現れた。
せいうちくんである。

「タオルに目がある?畳むべき方向がある?そんなことしてるヒマがあったら、畳んでない山をこさえて、洗ってあるタオルをそこから掴んでタオルの用を成すんだ!子供のいる家に、悠長にタオル畳んでるヒマなんかない!」

以来、我が家では床に積んである洗濯物の山から必要なものを拾い出すことを「栗拾い」、部屋の中の物干し紐にかかっている乾いた服を取ってきて着せることを「梨もぎ」と呼んだ。
なるほど、必要は発明の母で、生活ははるかに円滑に回るようになった。

母を本格的に「出禁」にしたのは、息子が2歳ぐらいの時である。
盛大にこぼしながら離乳食を食べる息子の横に陣取った母は、一口食べるごと「ほらほら、こぼしてる」と手に持った布巾で息子の口を拭うのだ。
次のひと口を食べればまた口のまわりはべたべたになるのに、である。
そんな母の過干渉にさらされた息子が、母が滞在した日に限って激しい夜泣きをし、あげくに止まりかけていたおねしょが復活するのを見て、夫婦して、「これは、来てもらわない方がいいね」と決めた。

ちなみに、せいうちくんも母親の過干渉が激しくて小学校いっぱいおねしょが治らず、いまだに母親から嬉しそうにその当時の苦労を語られるという不幸に見舞われている人生なので、息子の受難は他人事ではなかったのだろう。

今の世の中には、「殴られた」「親が給食費を持ち逃げしてパチンコしていた」といったわかりやすい虐待よりも、「大事に育てられて、何不自由があるわけではない。なので、『自分は幸せであり、親に文句を言うなんて、親不孝だ』と自分を責める子供たち」がじわじわと増えているような気がする。

より悲惨な子供時代を送った人々から「甘すぎる」「しょせん幸せな子供の不平不満」と言われるのも承知で、だんだんとこういう話を書いていきたいと思う。
まあいいじゃん、とどのつまりはみんな「自分語り」なんだから。

19年1月12日

我が家で、恒例のまんがくらぶの新年会をやった。
ここ数年でいつもの顔ぶれが2人も彼岸へ渡り、寂しい気持ちだ。
しかし新しい顔も加わり、中でも現役の学外部員である娘さんを連れてきてくれた男性に拍手が集まった。
彼女は嬉しそうに紙とペンを取り出し、あっという間にリレーマンガを2作、おじさんたちに描かせてしまう凄腕女子。
現役部員の間では、リレーマンガが流行中らしい。

食べ物は各人に持ち寄りをお願いしたが、我が家としては低温調理器ANOVAを活用して豚の角煮風と鶏ハムを作り、凝り性のせいうちくんはおでんとハヤシライスも作った。
野菜も食べようね〜ということで、ブロッコリ入りのグリーンサラダと大根と明太子のサラダも。
あとは定番のタンドリーチキンで、お客さんたちももういいかげん飽きたんじゃないかと思うんだが、1人暮らしで料理の苦手な長老から毎度毎度リクエストされる、ありがたいメニューである。
お客さんの持ち寄りもあって、新年会にふさわしい豪華なつまみが並んだよ。

私は直前までずいぶん具合が悪く、薬で精神の不調を抑え込んで接客していたところ、鋭い洞察力とそれに輪をかけて鋭い舌鋒の持ち主Gくんから、
「ここんとこ調子が良くて昔のマシンガントークが戻ってきたと思ってたが、薬のんでると口調が全然違うな」と喝破された。
少量しか飲んでないんだし、気付かれずにすむかも、と気を張っていただけに、がっくりと落ち込まざるを得なかった。

しかし、同様の精神の不調で服薬しているメンバーがいたので、しばし「薬あるある」で盛り上がった。
「まっすぐ歩いているつもりなのに横にずれて行き、ドアにぶつかる」
「同じ要領で、道の端の溝に落ちる」
「会話がワンテンポずれて、次の瞬間、自分の言ったことが思い出せない」

笑ってしまうが、これはけっこう深刻な話。
私の場合は涙があふれて止まらなくなり、けっこうホラーな眺めになることも含まれる。
「うちの包丁は切れないから」とつぶやきながら、ロープをかける場所を探して夜中に部屋の中をさまよっている光景は、寝起きの悪いせいうちくんにはあまり心地良いものではあるまい。

それも含めて健康談議として笑って聞く皆さんの精神の強靭さに救われながら、たいへん楽しい新年会だった。
しかしなんだね、昔は不健康自慢つっても、飲み過ぎだとかマンガの読み過ぎで3日間寝てないとかまともな食事を1週間してないとか、そういう「男おいどん」的な話ばかりだったのに、今や50をまわった人々は、高血圧だのガンマグロブリンだの尿酸値だの坐骨神経痛だの痔だの緑内障だのについて、語る語る。
唯一一番健康そうな男性は、このほど生まれて初めての人間ドックを受け、深刻な病気が見つかったらどうしようと恐々としていたところ、「肥満以外には問題ありません!」と太鼓判を押され、それすらも病気自慢の話に紛れ込ませている巧みな話術であった。

めずらしく正体をなくして泊まる人も出ずに終バスの10時半には解散した健全な飲み会だったが、終われば終わったで寂しいもので、私はまた片づけ物もせずに部屋の真ん中に座り込んで号泣するのだった。
せいうちくんも大変だ、こりゃ。

そうそう、本日のハイライトは、長老がややためらいながら言ったこと。
「最近、言おうかどうしようか迷ってたんだが、おまえの髪型はけっこう可愛くなってきたなぁ」
もちろん速攻で、「では、せいうちくんが死んだら私と結婚しますか?!」と問い詰めたところ、
「絶対、ことわる!」のだそうだ。
「こんなに細かくてうるさい人間が2人で暮らしたら大変なことになるのは目に見えている。おまえはせいうちくんで満足しておけ。そもそも彼は丈夫で長持ちしそうだ。大事にしろ」とのことであった。
淡き老いらくの恋の夢消えぬ。

19年1月13日

1年ちょっと住んでたアパートの家賃が高くて払いきれないから引っ越したいとは聞いていた。
カノジョのアパートに転がり込む予定なんだろうと思っていたら、意外と強力な伏兵は先方のお母さんの反対。
ただ、物わかりのいいお母さんらしく、
「つきあうのは反対しない。彼がまたアメリカに修行に行くなら,それを終えて帰ってきてからでもいいんじゃないの?」と理路整然と若い恋人たちを論破したらしい。
実に立派だ。
私が向こうの立場でもそう言うかもしれない。

というわけで、手回しよくアパートの解約だけしてしまった息子は住むところがなくなってしまった。
かろうじて見つけてきた先は、先輩が仕事で使っているアトリエの片隅とのこと。
床の上に寝袋で寝て居場所を確保するという現代残酷物語。
まあ、いい修行だろう。

車を借りに来て、家具つきのアパートだったためわずかな身の回りのモノを運ぶだけの引っ越しをカノジョと2人で行うらしい。
それにしてもカノジョ連れて来るなら前もって言ってくれよ。
息子に車のカギを渡すだけでいいと思ってた休日の私たちは、パジャマ姿でカノジョに対面しちゃったよ。

軽くごはんを食べさせたら、なんだか文句のオンパレードだった。
息子「あんまりおなかすいてないって言ってるのに、どうしてそんなに盛るのかね?」
せいうちくん「親は、子供に物をたくさん食べさせたいっていう謎の本能があるんだよ」
息子「もう別の世帯に住んでいて、独立してるのに、そういうとこだけ昔の名残りが残ってるってのはどうなんだろうねぇ」

独立したやつが車借りに来て、飯食って、文句だけは一人前以上に言うなよ。
別世帯の礼儀があるなら、食べ物ぐらい「いやあ、食べ切れなかったよ、ごめん」って残せばいいだけじゃん。
こっちもいちいち怒ったりしないけどね。
せいうちくんとこっそり、
「今日の彼の目は細くて三白眼になってる。甚だしく機嫌が悪い兆候。たぶん、風邪ひいてるのに引っ越ししなきゃならないストレスに直撃されてるんだよ」と、「ほれ、これ飲んどきな」と漢方の風邪薬を渡すのみ。

私が買って大喜びしてたiPad Proを、「いいでしょ!これでマンガが大きな画面で読めるんだよ!」とはしゃいで見せたら、「ふーん、いくら?」ときた。
「15万ぐらいかな」
「使いたいだけ使えるね。いい身分だ」

おいおい、そりゃあ私はキミよりはゆとりがあるかもしれないよ。
でも、電子化したマンガを綺麗で大きな画面で読みたいと思って何年も研究し、ついにこれだと思うものが出たから買ったんだよ。
有り余ってるカネで手当たり次第買ってるわけじゃない。
それを言うなら、キミがパチンコに使ってるカネの方がよっぽどいい御身分だと思うよ。

そんなことで議論しても仕方ないので、Kindleで買ったバンドデシネの「MATSUMOTO」って作品を見せてやった。
芸術性には定評のあるバンドデシネで、日本のオウム真理教事件がどのように描かれているか、オールカラーで見て少しは度肝を抜かれるがいい。
実際、読んだら「綺麗だなぁ。このぐらいの画面だったらiPad Proで読む価値もあるよなぁ」とつぶやいていた。
私はこれから吉田秋生の「海街Diary」読むんだ。ほっといてくれ。

しかし、夜に1人で車を返しに来た彼の顔はますます赤い。
とっつかまえて熱を測ったら、37・5度。
「インフルかもしれない。明日休日診療所に連れて行くから、今日はとにかくこの家に泊まりなさい。アパートにはもう布団も何もないんでしょ?」
「うん。いいなら、泊めて」

こうして、久々に息子の部屋は正当な持ち主の寝息を聴く幸福に見舞われた。
しっかり風呂にも入り、せいうちくんの新しいパンツとパジャマを着こんで、なかなかラグジュアリーな生活である。
おまけに「ちょっと腹が空いた」と言ったとたんに、「日清ラ王」に宴会料理の残りの「煮豚、味つけ卵、ほうれん草」の「全部のせラーメン」が出現するという・・・実家って、いいとこだよなぁ。

「たまには泊まれて、嬉しい?」と聞いてしまうのが私の悪いところだが、ラーメンが効いているせいか、
「うん、嬉しいね」と素直な答えが帰ってきた。
いつもこうなら、月に1度ぐらいは帰ってきてもいいのになぁ、と胸が熱くなったよ。
ただ、インフルでない時にお願いしたいね。

19年1月14日

朝カらトヨタレンタカーにバン借りに行って本棚を運ぶはずの息子の予定は、まず、前日までに押さえておかなかったので借りたい車種がなく、翌朝一番に電話して聞いてみる、と言っていた本人がレンタカー開店時間に起きないうえ、どこからどう見ても立派なインフルエンザ患者で、引っ越しどころのさわぎじゃない。

渋る本人を休日診療所に連行して行ったら、見事なインフル患者であったらしい。
恐ろしいのは、その診療所には朝一番から65人もの(息子の番号札が65番であった)病人が押し寄せ、ほとんどの人がインフルエンザの診断を受けて特効薬をもらって帰ったという現象であった。
車で息子を待っていたせいうちくんは、頼みの綱の特効薬が途中でなくなってしまい、「オレの息子は3才なんだ、ワクチンをくれ!」と銃が持ち出されるような「11人いる!」的なパニックが起こる妄想を起こして、1人で苦しんでいたらしい。

何時間も待たされた息子は大変不機嫌そうであったが、さすがはインフルの特効薬、「リレンザ」だっか「タミフル」だったか「イナビル」だったか、毎年変わるのでついぞ覚えていられないんだが、実によく効く。
あっという間に食欲が出てきて、「父さんの作ったお粥が食べたい」と言って2杯も平らげ、昏々と眠り、夜にはコンビニに出かけて「鍋焼きうどん」を買ってきて食べていたくらいだ。

翌朝にはすっかり良くなり、トヨタレンタカーに行ってバンを借り、本棚を運ぶんだと言って揚々と出かけて行った。
このまま家に居着いたらどうしよう、と少し心配していたのだが、若者というものはそれほどきゃしゃにはできてないらしい。
「世話になったね。ありがとう」と両親をかわるがわるハグし、自分の生活に帰って行った。
人間、若くて健康ならたいがいの可能性が開けている。頭も性格も、人並みには育てた。
後は自分のやる気だけだ。
縁あって親子に生まれたんだから、これぐらいのサポートはするよ。
困ったら、少し休みにおいで。

19年1月16日

その日は朝から具合が悪かった。
病院で余分にもらった薬をほどんど飲みつくしてしまって、追加をもらわなければどうしようもない。
そもそも私は予約とかに律義で、「お約束の時間」があると、急な発熱でもしないかぎり出かけてしまう。
薬が必要だから行く、というより、そこに予約があるから何としても出かけて行くのだ、という勢いで、予約は3時半からなのに、12時にはもう街に着いていた。

お店を冷やかすというような特技があればいいんだが、あいにく不調法なもので、とりあえず食事をしに行く。
具合が悪くなってからせいうちくんからも「無理なガマンはやめなさい。糖質制限はある程度ゆるめて、楽しいと思える食事をすること」とのお墨付きをもらっているので、昔、井之頭五郎さんが行ったことで大人気になった喫茶店兼呑み屋みたいな謎の店に行く。
ここの「ナポリタン」は、私が自分で作るよりも大量のケチャップを投入した大盛りで、喫茶店のナポリタン好きにはたまらないんだ。
サイドメニューのポークジンジャーとアイスコーヒーを飲んだら妙に元気になって、とんでもない計画を立て始めた。

私はもう20年近くauを使っているのだが、こないだ新スマホを買った時に、何だかよくわからない契約を結ばされた。
日曜には女性週刊誌が2誌タダで読めるとか、水曜に王将の餃子を食べに行くとサービスでもうひと皿もらえるとか、嬉しいような嬉しくないような特典がいろいろついてくる。
女性週刊誌だけは日曜のうちにむさぼり読んで最近の皇室事情や将来もらえる年金、NISAやiDECOについて「お勉強」しているが、他の特典はおよそ利用したことがない。
ところが、火曜の今日、あちこちのカラオケ屋が1200円までタダというキャンペーンをやっているのだ!

勿論ドリンク代は払わないといけないが、1200円以内のカラオケ使用料はタダ。
念のためカウンターでケータイ見せて聞いてみたら、2時間歌ってもタダで、ドリンク代が400円ぐらいかかるだけなのだそうだ。
病院の予約まであと2時間あるし、休んで行くにもちょうどいい。

こうして、生まれて初めて「ひとカラ=1人カラオケ」をやってしまいましたよ。
普段、観客がいる時には絶対受けない、誰も知らないアルフィーの「白い夏バレンシア」とか、超地味な曲「祈り」とか歌って、少しハジけようと「OッDORANAI!!」を歌い、もうどうでもよくなってきたので紅白を思い出して「Lemon」と「U.S.A.」を歌い、そろそろ終わろうと十八番の戸川純「恋のコリーダ」を2回続けて熱唱。そして大好きな「メリッサ」で〆る。
うーん、確かにこれでアイスコーヒー代420円だけだったわ―。
病院は毎週火曜だから、また来ようかな。

で、30分前には病院へ行く律義さ。
待合室には、けだるい雰囲気の人とさめざめと泣いている人がいる。
さっきまで「恋のコリーダ」を熱唱していた私は後者だ。
なぜこんなに落ち込むのか、なぜ死んでしまいたくなるのか、ナポリタン食べてカラオケ歌うぐらい恵まれた身分なのに、何がそんなに悲しいのか。

先生には薬をほとんど飲んでしまったことを告白し、「あなたね、そんなに飲んでたら死にますよ」と忠告された。
次回はそれほどは出せないし、観察が必要だからまた来週来てくれとのこと。
話は割とよく聞いてくれるし、なにより、もうこの年だから性格だと思ってあきらめて、うまくつきあっていくしかないという発想が好きかも。
私の人生のほとんどは、異常性格としか思えないこの人格との戦いに費やされて来たから。
結局、「フツーの人」なんてほとんどいなくて、みんな何かの方法で折り合いをつけてる気がする。
私の一番の問題は、「適当」に済ませることができない点なんだろうな。
ただねえ、あいにくなことに、自分ではその性格が結構気に入ってるんだよね。

先生に、「夜中に首を吊る場所を探して家の中をうろうろしてます。10年前に友人がドアの上部のストッパーに紐を掛けて首を吊ったので、主人は家じゅうのドアのストッパーを外して隠してしまいした」と語ったら。
「あなた、そんなに大事にしてくれているご主人が先に死んだら、いったいどうやって生きていくつもりですか?」と聞かれたので、いともあっさりと、
「もちろんすぐに後を追います。主人のいない人生は考えたことがありません」と即答した。
先生は、相当毒気を抜かれた顔をしていた。

まあ、合う薬が見つかるまでいろいろ試しながらやってみるから、気長に通ってくれ、とのこと。
また泣きながら会計を待っている間に、インフルをおして引っ越しを敢行した息子が心配になってきた。
「具合どう?引っ越し終った?」とメッセージを送ると、すぐに、「元気。今、車返した」と返事が。
「じゃあ、吉祥寺?母さん、今吉祥寺なんだけど、会えない?」
「どこ?すぐ行くよ」
「じゃあ、駅前のサンマルク」
思いもかけず、息子とのデートが成立してしまった。少し気分が上がったぞ。

サンマルクに行って3階まで上がってみたが、彼はまだ来ていない。
「テレビを売ってから行くので、少し待ってって」と言ってきた。
「君はタバコを吸うから、喫煙できる3階に席をとっておくよ」と返すと、「さんきゅー」と軽い返事が。
おばさんはね、こんなとこにも気を使うのよ。

やがてやって来た彼は、カウンターの並びの席にいた私に、
「こっちの方が話しやすいでしょ」と2人掛け体面テーブルの席が空いたのを見つけてすばやく飲み物を移動させてくれる。
私のカバンやコートまで持ってくれた。
こういうとこ、紳士だよなぁ。女の子にちょっとモテる秘訣かもしれない。

それから30分ほど、楽しくおしゃべりをした。
家でインフルエンザの看病をしてもらったのが、よほど嬉しかったようだ。
「家に帰りたくなった?」と聞いたら、
「いいや、全然。でも、ああいう時は本当にありがたいと思ったよ。これからもいい距離でいたいね」だそうである。

「しかしさぁ、オヤジって、かなり心配な人じゃない?」と突然聞かれてビックリ。
息子「いや、ほら、人の気持ちがわからないって言うか、自分の気持ちだけで突っ走っちゃうじゃない?」
私「食べたくないのに、皿に盛りすぎるとかいう点?」
息子「まあそれもあるけど、なんだか人の話を聞いてないんだよな。あれで、仕事はできてんのかね?」
私「それはまあ、30年も勤めてそれなりの地位でそれなりの給料もらってるんだから、それなりの評価をするべきじゃないの?会社ってとこは、無能な人に給料払うほどヒマじゃないよ」
息子「そこはわかってるつもりなんだけど」
私「多少突っ走る傾向があるとしても、仕事の上でみんなが『うーん、どうしましょうねぇ』って膠着した時に、『これでいきましょう!』って勢いで押す人も必要なんだよ。そういうとこに存在意義があって飼われてるんじゃないの?何十倍も給料もらってアンタを養ってきた人の仕事にあれこれ言うのは、何十年も早いよ」
息子「立派なとこのある人だってことはわかってるよ。ただ、あの人、オレのこと可愛がり過ぎてないかなぁ」
私「母親があんまり母親らしくないから、父親がその分頑張ってるんだよ。両親がバランスとれてるんだから、それでいいの。そう言えば、父さんは初恋の人と結婚した口だから、あなたの女性関係が多彩なのは理解できなくて心配してるようだよ」
息子「オレはクリエイターだからなぁ。いろんなことを知る必要があるんだよ。オヤジは、女一人で、世間が狭いよね」
私「ところがね、母さんは実はものすごく面白い人間なんだよ。1人で10人分ぐらい面白い。だから、父さんは充分経験を積んでるよ。あなたが心配してやるようなことじゃないよ」
息子「ま、そうなんだろうな。それは、見てればわかるよ。いい組み合わせだよな」

家族観とか我々がどういうつもりで彼を育てたかとか、実にいろんな話をした。
ずいぶんわかってもらったと思うし、彼は、基本的に「母さんを愛してる」んだそうだ。
母への渇望はあってもまっすぐに愛せなかった自分に、こんな素直な言葉をぶつけてくれる子供ができるとは考えたこともなかった。
本当に嬉しかった。

「吉祥寺を離れるから会いにくくなるけど、また会って飯でも食おう」という彼に店の前でハグしてもらって別れたあと、バスに乗って帰ったが、どうにも寂しくなってしまった。
薬をのんでも涙があとからあとからあふれてくる。
あいにく、会社のせいうちくんはつかまらない。

気がついたら、台所の床に座り込んで、家で一番切れる刺身包丁を取り出して、自分の腹部や腕を切りつけていた。
自傷である。
13歳の頃、私はリストカットの常習者で(当時、そんな言葉はなかったんだが)、切って開いた傷口の中をもう一度切った時は、自分がどこか別の世界の生き物のような気がしたものだ。

日頃砥いでないなまくらな包丁で脂肪の多い人体はそうすぱすぱと切れるものではなく、血の玉が浮かぶ筋が何本もできるだけ。
それでも20本以上の筋が体中を走る頃には上半身がぬるぬると血まみれになってきた。

なにかがもどかしくて、誰かに助けを求めたくて、息子にメッセージを打っていた。
「包丁が切れない。誰か助けて」
すぐに返事が来た。
息子「どゆことかな?大丈夫?」
私「死にたいのに、血が出るほど切れる刃物がないの」
息子「家行くよー」
私「来たら、泣いてる母さんの一代記を聞かされるだけだよ」
息子「でも死んじゃダメよー」
私「死にたいのと死ぬのはちがうから、心配しなくていいよ。あなたはあなたの生活をしなさい」
息子「わかったー。なんか欲しい言葉とかあったら、いつでも送るからね」
私「母さんがどうしても逃れられない深い悲しみが、あなたにはない事を祈るよ。それだけを考えて育ててきたつもりだよ。母さんとは関係なく、幸せになってね。母さんは母さんで、父さんと幸せにやるから」
息子「うい〜、お父さん早く帰ってくるといいね」
私「生きててもいいと思えない子供を育てるなんて、人間のやることじゃないよ。本当にひどい目に合ったもんだ。たぶん父さんがすっ飛んで帰ってきて慰めてくれるから。迷惑かけてごめんね。今日はちょっと限界を越えていた。薬をのんで寝るから、心配しないで。また今度ね」
息子「うん、また元気になるようなことを一緒にしよう。また家へごはん食べに行くよ」

こうして見るとずいぶん心配して優しくしてくれてるようなんだが、彼は自分のできる領域から一歩でも外れるとかなりの無関心になる。
写メ時代であるので、血まみれの腹と腕と首の写真を送ったら、
「母親が浅い傷を作って血だらけになってるだけだなぁ」と、あまりに的確な講評が返ってきた。

もちろんせいうちくんが帰ってきた時の方が大騒ぎで、こういう修羅場には慣れているはずの彼も動転し、「どうしたの、どうしたの」と繰り返すのみだった。
やがて傷を洗ってワセリンを塗って、薬を少し多めに飲ませて添い寝してくれた時は、ああ、結婚しててよかったなぁ、と心から思った。
せいうちくんがどう思ったかは、あんまり考えたくない。

私は、今日、幸せになりすぎたのだろう。
昔から、幸せを感じている時にはいつも母に冷たく水をぶっかけられた。(もちろん架空の水だが)
「何をいい気になってるの。あんたが1人で幸せになるなんて、許さない。私抜きで幸せになる人には、ばちが当たるんだ」
「私の思い通りにならないあんたは、幸せになんかなれないのよ。みんなに好かれてほめられるおねえちゃんとちがうあんたは、ダメなの」

次第に私は空想の世界で遊ぶようになったが、そこにも母の言葉は追いかけてきた。
幸せを感じた後に自傷をしたり、自己嫌悪に陥ってすべてを台無しにしたりしてきたのは、母の呪いだ。
今でも、私がちょっとした幸福のあとに落ち込んでいると、せいうちくんが諭してくれる。
「お母さんが、『なに幸せにひたってんのよ。あんたなんか幸せになれるわけないじゃない』って言ってるんだね。もう、そんな声はしないよ。お母さんは、死んじゃったんだよ」

いずれにせよ、これほどの激しい自傷は35年ぶりぐらいなわけで、傷はすぐに治るだろうが、自分で自分の心のケアをしないといけない。
「私は悪くない。少なくとも、自分を罰するほどには悪くない」
「私は今、幸せだ。それは、自分で苦労して勝ち取った、私の勲章だ」

かつて、私の主治医は私を「サバイバー」と呼んだ。
「過酷な運命から、立ち直り、生き残った者」という意味らしい。
「正直言って、あなたほど早くから発症してずっと症状に苦しんでいた人が、一流の大学に進学してきちんと就職できたのが信じられないほどです。あなたは、そのあなたの能力と意志の強さを誇るべきです」
先生、あいにくなことに、私はまだ過去にとらわれています。
私の「誇り」は、まだ母の呪いに負けています。
夫の庇護さえ、母の攻撃から私を充分に守り切ることはできていません。

19年1月17日

なんと間がいいことがあるものだと言うべきか、はたまた息子は隠れた孝行息子であったのか、せいうちくんが見事なA型インフルエンザを発症して、早退してきた。
会社では、インフル患者は業務の進捗状況に関わらず、6日間の出勤停止を命じられるそうだ。

たとえ39度の熱があっても、せいうちくんが家にいてくれれば今の私にはとても心強い。
ひそかにインフルウィルスを置き土産にして行った息子に、感謝しかない。

肉体を病んだせいうちくんと、心を病んだ私とで、この週末は閉じこもって美味しいものを作って食べ、萩尾望都の「残酷な神が支配する」のように2人で漂流しよう。
手に手を取って生還する週明けを目指して。

19年1月22日

せいうちくんのインフル休暇最後の日だったので、通院につきあってもらえた。
私1人では医者にびびってしまってなかなか思うことが言えないため、横から家族としての意見を言ってもらえて、大変参考になったと思う。

新しい先生もたいそう熱心な人で、保険診療内の短い質疑応答の中でありながら、私と母との関係、母自身の親子関係、母と父の関係、「お姉さんがいらっしゃるとのことですが、それだとお姉さんも鬱症状を発症していませんでしたか?」などと鋭い質問が飛んだ。
親子関係不全に端を発する問題をよく理解しているという印象を受けた。

概ね、母との関係からネガティブなフラッシュバックを起こし、自分の行動に自信を無くし、自傷的な行為に走ったり、人間関係をだいなしにしたりするのだという症状のようであった。
「まあ、60年も生きてるんですしね、いまさら性格は変えられませんよ。病気ととらえて全部治すというよりは、今のままで何とか自分の行動様式に慣れて、うまい対処法を見つけるのが一番です。そのために多少はお薬の力を借りて、辛い状態を乗り切っていきましょう」という中庸な提案になんとなく信頼がおける気がする。

睡眠薬をもらって夜眠れるようになったせいか、生活は安定した。
ただし、日中に強い薬を使っているため、ふらつきがひどく、もう何度丸太のように倒れたかわからない。
血液サラサラのワーファリンをのんでいるせいもあり、身体中アザだらけである。
せいうちくんは、「今、人にキミの身体を見られたら、僕はDV夫の汚名を免れない」と不安そうにしている。
診断書書いといてもらったほうがいいかしらん。


それでも今日はとても嬉しいことがあった。
昼に病院に行くと言ったら、息子がその時間に吉祥寺にいるそうで、一緒に食事をしようと言ってくれたのだ。

全員にとって思い出深いカレー喫茶で、一緒に懐かしいカレーを食べた。

大盛りのポークカレーを頼んだ息子が、運ばれてきたカレーが大盛りでなかったことを不審に思ったらしく伝票をめくって確認した上で、店員に穏やかに声をかけ、「大盛りを頼んだんですけど、伝票にもそのようには書いていないようです」と注意を促して、問題なく盛り付けの追加を出してもらうことができた。

こういうところは、特にしつけた覚えはないが、最近話題になっているコンビニや飲食店の店員さんに横柄な若者や老人に比べて、とても安心できる材料だ。
外で食事する際にも、いただきますもごちそうさまも、誰にともなくお箸を両手に挟んで唱えてから食事に手をつけるし、残すこともなく気持ちよく平らげる。
もしかしたら食育だけは成功してるかも。

アニメやマンガの話などを中心にとても楽しく話が弾んだ。

幼い頃からこういうサブカルを与え続けたことに関して、彼は他のどんなことよりも親に感謝しているようなのだ。

柔道を途切れることなく続けさせたことや、大学教育まで受けさせたことよりもよっぽど感謝しているらしいのを目の当たりにするのは、親としていささか忸怩たるものがあるが、嬉しいのもまた事実。
オタクの血はこうして伝承される。

島本和彦の「アオイホノオ」の愛読者だという彼に、昔は呼び出し電話で人と話をしたこととか、ビデオがなかったので、見たい番組の時間にはまさにテレビの前に正座して待つしかなかったし、セル画の1枚1枚を目に焼き付ける勢いで見るしかなかったことをどう思うか、と聞いてみたら、「いやー、そういう熱意が今のアニメを作っているんだと思うよ。心は今も同じだよ」と語っていた。

つい息子の同意を求めて私の親の愚痴などを言っていたら、
「しかしアンタらは愚痴が多いね。僕とカノジョなんかは全然愚痴は言わないよ。もっと楽しい会話をする」と冷笑されてしまった。
そりゃ仲の良いカノジョと愚痴なんかこぼし合わないだろうよ。
私とせいうちくんだって、互いの仲については楽しい話をする。
愚痴、それは困った親戚がいる時などについ口に出る家族の話題である。
まだ君らには早すぎる。


この後もまだ1、2時間なら時間があるから、もう少し一緒にどうと言われ、思わず私の目は輝いた。
今日も、1200円までカラオケがタダになるクーポンを持っているのであった。

息子にそう告げると、「母さんはカラオケが好きだね」と笑いながら付き合ってくれるようだった。

狭いカラオケルームでタバコを吸うことだけは閉口したが、あまりカラオケは好きじゃないんだよねと言いながらも我々に合わせたのか、サザンの「C調言葉にご用心」とか小林明子の「恋におちて」などを歌う。(これはめぞん一刻の挿入歌だったのだそうだ)
私が歌う「メリッサ」や「アゲハ蝶」には「お、ポルノグラフィティーだ」とうれしそうに唱和してくれた。


保育園の卒園式で会場にあったマイクを囲んで、園児たちが大きな声のものすごい早口で歌っていたのが「アゲハ蝶」であった。
昔の子供はなんと難しい歌を歌ったのであろうか。

せいうちくんにはいつもの「Lemon」をお願いし、私は戸川純の「恋のコリーダ」を歌ったのだが風邪で声がガラガラだったので大失敗。

意外なのは息子がものすごく歌がうまいこと。音程がしっかりしていてリズム感も良く、声がよく伸びる。
恥ずかしげもなくノリよく歌うところは芸人風か。
こんなところも私に似ているんだなぁと胸が熱くなった。


1時間半ばかりのカラオケではあったが、とても楽しかった。
今度喉の調子が良い時にもっと一緒に歌おうねと息子も言ってくれた。
家を離れて1年余り、間に3ヶ月アメリカに行ったこともあり、今の彼はとても落ち着いて穏やかな優しい息子になってくれている。
これで生活力さえつけば何の文句もない。

カノジョと2人で食べてくれと、トマト煮込みハンバーグと豚の煮込みと煮卵をタッパーに入れて渡したら、「助かるよ、ありがとう。一緒に食べるね」とニコニコしていた。
「じゃっ!」と手を振って雑踏で別れた息子。
こういう距離でなら、また付き合いがいもあると言うものだ。

その日は病院での診療がうまくいったこともあり、夫婦2人でなんだかニコニコとずっと過ごせた良い1日だった。
明日からはまた会社だ。
私も、不調ながらも少しずつペー
スを戻していこう。

19年1月28日

ちょっとつまびらかにできない事情で、ひと晩大学病院のICUに泊まってしまった。
昨今の状態から簡単にわかるような、いかにも「お察しください」な事情。
救急隊員の方々や病院スタッフの方々に大変なご迷惑をかけ、猛反省しております。

意識はほぼはっきりしていたので、本来ひと晩中つきそってもかまわないICUなのだが、さすがにせいうちくんに徹夜させるのは気の毒で、いったん帰って明日の朝また来てもらうことにした。

ICUというところは、私が知ってる大学のあっちとは全然違って、静かで、緊張感に満ちていて、しかし何も起こらず、退屈で、時間をつぶす方策としては自分の指の数を数えてみるぐらいしかないところである。
睡眠薬をもらって10時に寝て、次に目を覚ましたのが12時。
(あんなに電子機器だらけなのに見える範囲に時計がない!眼鏡なしで搬送されてしまったのがいけないのかもしれないが)

4人ほどで忙しそうに黙々と働いてる夜勤スタッフにいちいち「今、何時ですか?」と聞くのが申し訳なくてずいぶん我慢したり目を凝らしたりどこかのモニタに時刻は出てないか探したり自助努力したんだが、結局朝までに4回ほど聞いてしまった。
それにしても、次に起きたら1時でその次は2時で、あとは全然眠れなくなって電子音がピコンピコン言うのを数えてみたり、ベッドは狭いしいろいろ管やらコードやらがついてるからほとんど身動き不可能な状態で自分の体の痛いとこをあちこち数えてみたり、ありとあらゆる努力をしましたとも。

あまりに眠れないでいるのを気の毒がってくれたスタッフさんが、せいうちくんが置いて行ってくれた本を読む許可をくれた。
驚くなかれ、完全電子機器禁止で、スマホもiPadもすべてダメ、読めるのは紙の本だけ。
しかも、私物の預かりは禁止なので、本を勝手に手元に置いていたことをひとしきり叱られてからの、やっとの許可だった。

でもね、暗いんだよ。
あちこちの機器が放つホタルのような明かりでは読めないの。
蛍雪時代だったら私は大学落ちてる。

薄暗い中で必死に目を近づけて文字を追いながら、ふと気づくと私の指先が赤く発光している。
脈拍だか血圧だかを測るために指先に貼ってあるコードをおさえるシールに、なぜか赤色ダイオードのようなほのかな光源がついているのだ。
おそらくは、暗い中でも指先のどこで計測しているか一目でわかるように発光してるんだろうなぁ。
「E.T.」で人差し指を寄せるように、ページに指先をくっつけてそのかそけき光源を少しずつ動かしてなんとかしばらくは読んでみた。
でも、圧倒的に疲れたので、この試みは放棄せざるを得なかった。

あと、静かすぎる。なにかの運命がひたひたと迫っているような静かなすり足の気配以外は、意味するところを覚えるだけで1週間は修業しなきゃならなそうな電子音のみ。
話をできるほどヒマな看護師も話せるほど状態のいい患者さんもあまりいないのであろう、40床ほどのベッドは10床ほど埋まっていたと思うが、声やナースコールで何かを要求できるほどの元気な人はほとんどいなかった。
(少なくとも私は自分の声しか聴かなかったなぁ。貴重な例外か)

「6時になれば消灯時間が終わってせいうちくんも来てくれるって言ってたし、とにかくあと3時間、2時間、1時間!」とカウントダウンして待ってたんだが、いったいどういう行き違いがあったのか、せいうちくん側では「8時」に来るつもりになってた。
私はもう「6時」に来るもんだと思って待ち受けてた。

6時半にはスタッフさんに、
「主人が来ないんです。何かあったのかと思うと心配で、電話をかけさせていただけませんか?」と泣きつき、冷徹に、「緊急以外の連絡は不可です」と却下を食らう。
ああ、もういくつの却下を食らっただろう。
人間の命を守る最前線、そこには、守らなきゃいけないルールがたくさんあって、そのすべてに意味があって、みんなの命を守ったりスタッフさんのお仕事をやりやすくしているんだよ。

いずれにせよ、会社を休んで駆けつけてくれたせいうちくんとは無事に会え(お互い「何時って言ったはずだよ!」って水掛け論はしばらくしたけどね)大好きな人と離れていたひと晩の寂しさをかみしめる。

でも、衛生第一のICUだから、せいうちくんは、薄いグリーンの不織布のガウンを着て、頭には給食当番みたいな不織布の帽子かぶって、もちろん盛装の仕上げは半面を覆うマスク。
大丈夫、せいうちくんの優しい目が心配そうにきらめいているのはよくわかるよ。
いちいちマスクとらないとちゅーできないのと、そもそもICUでちゅーしていいもんかどうかがとっても不安なんですけど。

その後、医師と面談し、身体の状態は許容範囲内なこと、すぐにかかりつけの信頼できるクリニックを受診してくださいね、という条件で、恐れていた経過観察入院を免れることができた。
「救急隊も動いてますしね、僕ら医師としても、2週間ぐらいは加療と観察を兼ねた入院をしていただきたいんです。おうちで安静が十分に保てますか?ご主人はそばにいてサポートすることができますか?今回のことも、もうちょっとタイミングが悪ければ最悪の事態になっていたわけで、そう簡単に安心しておうちにお返しするわけにいかないんですよ」
「はい、必要なら休みも取りますし、連絡は密にしますし、本人の気分の安定を何より心がけて安静な生活をさせますので」とせいうちくんがほとんど一筆書く勢いで保証して、やっと放免してもらえました。

すぐに予約を取り、退院したその足でかかりつけのクリニックに行ったが、当然ながらど叱られた。

「こういうことする患者さんを受けたがる医師はいないんですよ。うちでの治療は難しいんじゃないですか?万が一死んじゃってもコトだし、もう、入院できるとこを探した方がいいかもしれないですよ」
「それは、もう診ていただけないということでしょうか?」
「治療を続けるなら、ルールが必要です。まず、『自殺企図』は絶対禁止。これ破ったら、僕は即座に手を引きますからね。そしたらねぇ、あなた、もう、『H病院』しか行くとこないですよ」との不気味な注意。

ちなみに、担ぎ込まれてひと晩ICUでお世話になった大学病院でも、
「なにしろ死のうとしたわけですから、2週間ほどは観察と加療を目的とした入院をしてもらいたいんです。H病院が適当だと思います」となぜか推薦を受ける、自殺企図者の吹きだまりらしい謎の「H病院」であった。

吾妻ひでおがアル中でひょうひょうと入院していたことであまりに有名になってしまったこの病院、どんな場面でも、「いい病院ですから」とか「おすすめできる病院です」という言い方は聞いたことがなく、ある医師に言わせると、「どんな患者でも受け入れるのは、もうあそこぐらいしかない」のだそうだ。
これはもう、「怖いもの見たさ」のレベル。
なんだか入ったら人生半ば終わりな雰囲気が漂っている、と言ったら、そこから生還している吾妻ひでおに失礼か。
(今、先々に備えて「失踪日記2 アル中病棟」を精読しているが、何度考えたって、私はアル中の方の人ではないんだってば。むしろ、彼らに嫌がられる「精神の人たち」の側)

死にたくならないような生活を心がけなければいけないわけだが、さて、積極的に死にたいほどではなくともあまり生きていたいと思わない人間は、どう生活すべきなんだろうか。

私の中に渦巻いている得体の知れない悲しみと怒りのエネルギーはあまりに大きく、私本体を簡単に飲み込んでしまう。

せいうちくんと過ごす時間の楽しさだけがかろうじて私を現世につなぎ止めているわけだが、彼だって仕事もしなきゃ食っていけないもんで、毎日私と遊んでいられるはずがない。
しょうがないので、本と漫画さえ読んでいれば無限に暇が潰せると思っていた特技に賭けてみてるんだが、何かが心の琴線に触れるたびに悲しくなったり落ち込んだり死にたくなったりするのね、読書体験って。意外だわぁ。

「美味しんぼ」「あぶさん」「ゴルゴ13」あたりはまずあたりの来ない「いよっ、大根役者!」と声をかけたくなるようなある意味無害な作品だが、同じような短編連鎖式人生訓編群でも「浮浪雲」「黄昏流星群」はちとやばい。注意喚起作品である。

19年1月30日

「このままだと何かのはずみで死んでしまうかもしれないから、もう少し気を付けた方がいい」と主治医に注意されたので、とりあえず、なぜ死んでしまいたいかを考えよう。

生きているのはつらい。
楽しいこともたまにはあるが、基本的に面倒くさいことが多いし、悲しいことや腹の立つことの方が総合的には多い気がする。
おまけに何と言ってもあと40年しないうちにほぼ確実に死んでしまう。
多少の努力をしたところで寿命は飛躍的に伸びたりしないし、もし伸びてもたいてい認知症になったり動けなくなったり、あまり満足な状態とは言いがたいらしいし、そもそも私はあらゆる意味での努力がきらいだ。

世の中の役に立つこともあまりないし、子供たちはもう私を必要としていないし、唯一せいうちくんの相手をすることでこの世でのみすぎよすぎをしている身の上。
いなくたって、せいうちくん以外の誰も本格的には困らないだろう。

というようなことをせいうちくんに言ってみた。
答えはこうだった。
「キミは、自分が好きじゃなさすぎる」
なにをおっしゃるうさぎさん、この世に私ぐらい自己愛が強くて自分を偏愛している人間がいるだろうか?

せいうちくん曰く、
「キミのそれは、自分を好きなわけじゃなくって、自分を認めてもらいたいだけ。存在を、価値を、この世に生きる権利を認めてもらわなかったから躍起になって本来自分のものであったはずのそれらを取り戻そうと格闘してるだけで、本当の意味では、キミはまったく自分を好きになってあげていない」

「人は、自分が大好きだから、自分を喜ばせようとするものだよ。僕なんかは根が怠け者だから、すぐに『今日はやる気が出ないからいいや』とか思って用事をサボってつかの間の快楽を得ようとする。けど,キミはそんな風に気分だけではサボれない。『ほかにやらなきゃいけないことが見つかったから』とか『今日はこっちが急ぎだから』とか、やらなくてもすむきちんとした理由が出てくるまではやらなきゃいけない用事から逃げ出せない。人間はね、そういうところで自分を甘やかしてゆとりを生み、バランスをとっているんだよ。やりたくないことはとりあえずやらないで、その時の気分を大事にしてごらん、いつも、どうしたら一番自分を楽しくさせてやれるかを考えて」

そこまで言われると、反論したくなるじゃないか。
「言っとくけど、私はすごい怠け者の甘えん坊だよ。やらなくていい理屈があったらいくらでもやらないですごすよ。じゃあ、家のことも何にもしないで寝て暮らしていいんだね?」

「それが、まさに今のキミにしてほしいこと。あれだけのことがあって心も身体も疲れ果てて、それなのにキミはまだゆっくり眠ることさえできない。1か月ぐらいは休暇のつもりで、何にもしないでやりたいことだけをやってごらん。幸い、うちにはもうご飯を作ってあげなきゃいけない子供はいないし、大人2人の話し合いで何でも進められる状態なんだよ。2人の人間が一番幸福なように、そこにこそ気を使っていこうじゃないか」

と、珍しく言いくるめられまして、当面休暇中。
と言ったって、もともと我が家で私がやってたぶんの家事の割合は非常に低く、1日寝てマンガ読んで過ごしてたわけだから、結局何にも変わらないんだけど、そこに「治療中だという気概を持て。精神の健康のため、あえてだらだらと過ごしているんだということを忘れるな!」との注釈付きの生活がしばらく続く予定。
なんだか久しぶりに昔の主治医の「タオルをきちんとたたんではいけない療法」を思い出したよ。
結局、おんなじことを言ってるんだろうね。そして私にはあんまり進歩がないんだ、きっと。

19年1月31日

私はすぐ怒る。
しかし、相手が悪くてすぐに謝ってくれればたいていたちまち許す気風のいいおねーさんだ。
もし何かの手違いでこっちが悪ければ、さらにマッハの速度で最大限の謝罪を惜しまないのはいうまでもない。

文句は言うが、愚痴は「今から言います」宣言とともにしか言わないようにしている。
愚痴を言って多少なりともましになるのは私自身の気分でしかないからだ。
せめて、相手の了解を取り付けてから始めたい。

一方、文句ってのは「今のこの事態をどう解決するか、どう打破するか」という建設的な気分から来ているがちょっと短めの波長を伴っているだけで、十分に問題を打破する議論に発展していくものだと思っている。
だから、修復不能な亀裂が入らない限り文句の応酬は嫌いじゃないし、たまに「次の機会には使ってみよう」と思えるようなイカシた罵倒に遭遇できることもあるのが嬉しい。

こんなふうにいくつか自分を分析するところから始めてみると、どうも自分の一番の特徴であり欠点であり他人と大きく異なっているところは、「白黒はっきりしすぎていて、グレーゾーンが異様に少ない」ことではないかと思われる。
好きな言葉は「とにかく」「要するに」、大嫌いな言葉の代表はせいうちくんが日常に多用する「なんとなく」であるところも、この説を裏付ける。

私の母親は気分の不安定な人だった。
そして、同時にそれを正当化する名人でもあった。
母のはた迷惑な行為には必ず「だってしょうがないじゃない、そうなっちゃったんだから」という自己弁護が付き、悪いのは大方自分以外の誰かほかの人間であった。
おまけに暴力的でもあり、気に入らないことがあると鍋敷きとか台拭きとか投げつけてくるうえ、当たらないと腹立ちまぎれに拾ってくるよう命じてもう一度投げつける念の入れよう。

投げるのがそんな柔らかもんならそう怖くないじゃないか、と思う人も多かろうが、怒り猛った母が全力投球した「ヘアブラシ」(主観的にはとても堅い)がマンションの廊下を一直線に飛翔し、行き止まりの鉄のドアに当たって「かぁぁぁぁん」と跳ね返ったあの時の音は、もういまだにトラウマになってるぐらいで。

私が破天荒な性格の割には安定を好み、パンクチュアルで事態の予想を立てたがるのは、絶対にこの母のおかげで不安定極まりなかった幼少期の世界のせいだ。
昨日なんでもなかったことが今日は文句の種、もめごとの原因になる。
今日「いい」と許可の出たことが、明日も同様に許されるかどうかはわからない。
すべては母の「その時の気分」だった。
必然的に私の世界も不安定となり日々姿を変え、いまだにアブストラクトに私を恐慌させるようだ。
決まったルールにど外れて固執するのはどうもその辺が原因なんだろう、できるだけしっかりした浮き輪につかまっていたい的な。

なので皆さん、私が些細なことにこだわって頑迷になっているような時は、
「ああ、うさこさんがまた小さな浮き輪に必死でしがみついているなぁ」とのご理解を賜ると非常にありがたいです。

19年2月5日

クリニックに行くついでに、近くの図書館で予約の本をピックアップできるよう調整しておいた。
せいうちくんにはこれがものすごい驚きなんだそうだ。
毎週のように近所に行ってる今、受け取り館を変えるぐらい当たり前じゃん、と言ったら、
「合理的すぎる。僕には絶対思いつかない!」
ほめられるのはすごく嬉しいけど、私にはあなたの職場の仕事がどう回ってるのか、思いつかないよ。
「僕が出来ない人だから、周りに優秀な人が育って助けてくれるんだ」って得々としてる場合だろうか。

今日も1200円まで無料のカラオケを一人で楽しんでいこうか、それとも一人メシで先日も食べた「パッ・タイ」を楽しもうかと考えたけど、どうも体調が悪い。

先週は息子とせいうちくんがインフルくんで、せいうちくんに至っては別口のただのおなかの風邪を再びひき込んできてる。
私も早く帰って休もう。

ところがその夕方から、強烈な下痢と嘔吐と高熱に襲われた。
結局、ほぼひと晩39度台でしたよ。ああ、びっくりした。

そこで気づいたこと。
「夢のママ」を期待してしまう。
こんなに「おねつ」なんだから、お布団にふくふくと寝かせてくれて、氷嚢でおでこを冷やしてくれて、いつもは貴重品なヨーグルトやプリンを食べさせてくれて、「苦しい?熱いねぇ。かわいそうだねぇ。早く良くなるようにママがぎゅっとしてあげようね」と言ってくれる理想のママ。

私の母は、私が病気になるのを嫌っていた。
大病をして体が弱いのが自慢なので、自分より具合が悪い人がいるのが許せないようだったし、心の弱い人で、「子供が病気。面倒みて治してあげなければいけない」って現実がいちいち重かったんだろう。
「具合が悪い」と言うと、まず体温計が出てきて、微熱や平熱では「ない!」と却下される。

中学で異常が発見された心臓も「ああ、あれは違う。うそうそ」と言われた。
私自身、7年ほど前に異常がはっきりしてもなかなか本気にできず、ついには手術を受けても、なんだか自分の身体のことではないみたい。

「おねえちゃんは本当に心臓が悪いんだけどね。心配だわ」となぜか心配されていた姉は、私が手術を受けると聞いて、
「あなたも心臓が悪いの?でも、私の方が悪いわよ。忙しすぎて、時々薬もらいに行くの忘れちゃうんだけど」。
なんかもう、いろんな思いがぐるぐる渦巻くなぁ。

そんな私にとって、リアルに39度もの熱が出るなんて、人生の大チャンス。大当たりのジャックポット。
優しいせいうちくんがきっと徹夜でありとあらゆる世話をしてくれるに違いない、って期待してしまい、現実には仕事もありそんなわけに行かないってとこで、ずいぶん泣いて責めてしまいましたよ。
思い出すと非道だった。

ただねぇ、その前の晩におなかが痛くて丸まってたせいうちくんは、「そういう時はほっといてほしいタイプ」らしい。
「おなかに手を当てて『お手当』しようか?あんがい効くよ?」
「お白湯飲む?あったかくしたポカリもいいらしいよ」
「はらまきでもしてみる?」
気の毒なことに、最後には「ごめん、今、苦しくて返事できないから、話しかけないで…」って言われた。

私は辛い時苦しい時具合が悪い時、かまってかまってかまい倒してもらいたいタイプ。
「ほうっといてほしいのか…」って驚きながらそのまま寝たけど、次の晩に私が具合悪くなったら、
「僕とは違うタイプなんだよね。看病して親切にしてあげよう」って張り切ってもらって一向にかまわない。
「つらそうだなぁ…ほうっとくのが、一番だろうなぁ」となぜナチュラルに思うのか。
話し合おうよ、すりあわせようよ!

30年結婚してて、今後も20年ぐらいはよろしくお願いしたいと思っているのに、人って本当にみんな違う。
そして、せいうちくんも私も、自分の考えから離れるのが少し苦手な方。
よっぽど工夫しなきゃなぁ。
課題がいっぱいで楽しい人生、ってことにしておきましょう。

19年2月7日

親子関係の本を読んでいたら、こんなことが書いてあった。

「ものごとを悪い方にばかり考えたり、出した成果に対して素直に喜べないことに居心地の悪さを感じる人がいます。このように、何に対してもマイナスに考え、『自分が悪いのでは?』と疑ってしまうのは、子供の頃から重ねてきた究極の合理的思考(否定的自己認知)がひとつの原因となっています。

幼い子供は、年齢相応の合理性を持っています。『どうして?』としょっちゅう問いかけるのは、その表れなのです。ところが、突然叱られたり理由なく冷たくされ続けてきた子供は、その理由を考えても訳がわからないのです。意味不明なできごとばかりでは、子供の世界は合理性を失ってしまうので、『全部自分が悪い』と考えるようになります。そうすれば、すべての現象が合理的に受け止められるからです。母が怒るのは自分が悪い子だから、母が束縛するのも自分が悪い子だから、と考えると説明がつくのです」

うーん、私は感情的なところも多いにせよ全体としては合理的なタイプだと思っていたけど、どうやら自分が考えていたよりはるかに小さな浮き輪に必死でしがみついているだけかもしれないなぁ。
自由な発想で問題の解決を図るのと合理性はかならずしも同じじゃなく、むしろ前者の柔軟さが私の持ち味かもしれない。
合理主義者を標榜するのはやめよう、とちょっと思った。

自分の浮き輪の話を考える時、友人から聞いた話をいつも思い出す。
彼女は小さい頃、1人でお風呂に入るのが怖かったんだって。溺れてしまうんじゃないかって。
するとお母さんは彼女の首に細長くたたんだタオルをかけ、「この両端にしっかりつかまってれば大丈夫!」と教えてくれて、彼女は安心して入浴したのだそうだ。
浮き輪やタオルは、人生に必要なものなんだよ。
特に、いずれは溺れないで1人でお風呂に入れるようになるのが確実なんだとしたらね。

ちなみに上記の話は「いい話」だからね。いいね。
ついでに、息子と先日話した時に「子供だって説明してくれればわかるのに」と言われたことについて。

「虐待になるか否かを分けるのは、その後のフォロー、つまり言葉による説明と感情面のケアにかかっています。『合理的思考』のところでも述べましたが、子供は大人が想像する以上にいろいろなことを考えることができます。フォローをされれば、ダメなものはダメだと心に刻むと同時に、親が叱ったのは理由があってのことだと理解できるでしょう」

彼が自己申告通りに「言われればわかる」ことと、15年ぐらい遅かったのかもしれないが、今でも我々のフォローは有効だということ、をしみじみ思う。
それもこれもそこそこ良好な親子関係あっての物種だ。
私の脳裏には、理由のわからない台風が吹き荒れてるような心象風景が広がりっぱなしだ。

「いつかは完全なお母さんが、完璧に自分を受け入れて愛してくれる」という幻想がいまだに私を苦しめる。
ええ、還暦なんですけどね。
大人になりきれない人に、年齢は関係ないんだろう、きっと。
まずは「世の中に『完全』なんてものはない」というところから始めようか。
欠乏が大きいから、「得られるはずのもの」が赤色巨星並みに膨張・巨大化してるのかなぁ。
「お母さん、あなたは私の何がそんなに気に入らなかったの?どう直したら、お姉ちゃんより愛してくれたの?」という悲鳴のような悲しみで、涙と鼻水だらけになって泣くのはもうやめよう。

19年2月18日

「二月の勝者」というマンガがある。中学受験のマンガか。
1巻の最初で塾講師が言う。
「君達が合格できたのは、父親の『経済力』、そして母親の『狂気』」。
子供の頃から受験して難関を目指すにはその2つが欠かせないのかもしれない。
せいうちくんも、
「ある時期、狂気になるしかないと思うよ。特に母親はね。ただ、その狂気の中にずっととどまってるってのが問題で…」と複雑な顔してた。

まあ、我が家では「今の息子」を観察してて「ここで受験だ!」ってタイミングを見てたら、都立高校を受けるって選択になった。
せいうちくんが男子校アレルギーだったとか、私が地方出身者なので「東京のいい学校」を全然知らないとか、そういう事情もあったけど、中学受験は「向いてる子」と「向いてない子」がいると思う。
そもそも「勉強に向いてない子」もいるという事実が認められにくい世の中になってきた。学歴偏重の時代が続いたからだろうか。
だからこそ、「ここで頑張らせなければ!」って狂気も欠かせない条件なのかも。
そもそも、子供を育ててる時ってあんまり正気ではいられないよね。

息子がうんと小さい頃、「自分は今、この子に溺れ始めている。しかしある程度は溺れなければ育てられない」と思ったので、親しい女友達に頼み事をした。
「いつか、私がこいつのために正気をなくしていると思ったら、そう言ってね」と。

そして、息子が10歳の頃、「バレンタインデーにチョコがもらえない男子はぼくだけだった。学校で、ちょっと泣いちゃった」との報告を受け、私は思わずその友人に電話をかけてしまった。
「今からでも、あなたの名を借りてでも息子にチョコをあげたい!」
彼女は、冷静に真摯に、言ってくれた。
「前に頼まれていたから言うけど、今、あなたは正気をなくしているよ」
持つべきものは良き友と未来予想能力、って話だけど、ちょっとぐらい狂気に陥らずに、なんで親をやっていられようか。

私の母親は、私のためには狂気にはなってくれなかった。
小学校の帰り道に近所のいたずらな同級生男子に石をぶつけられ、帰宅した母が、頭から流血して「いたいよう」と部屋にうずくまって泣いている私を発見した時も、母の怒りはなぜか自分の子供に向いた。
「ぶつけられて黙ってることないでしょう。文句言ってきなさい」

しおしおと当該男子の家に行き、お母さんに事の次第を告げると驚いていて、夜に当人を連れてカステラ持って謝りに来た。
母親は満足そうだったが、翌日、学校で「あいつ、文句言いに来たんだぜ。カステラ泥棒だ」と男子たちに罵られたことを母に告げると、再び、
「言われっぱなしになってないで、文句言いに行きなさい」

たぶん、カステラは食べちゃってたんだろうなぁ、手ぶらでまた相手の家に行き、お母さんに、
「カステラが欲しくて言いに来たんじゃありません。謝ってもらいたかっただけです。もういいですから」と話した。
普段は活発なのに、本当に足取りもとぼとぼと住宅街を歩いた、その不思議な気分をずっと覚えている。

大人になってからも何度も考えていた。
母親は「怒り狂ってねじ込む」ような人ではなかった。
彼女の「世間体」はそういう方向に働いていた。
内弁慶で、よその人に言いに行くのはめんどくさく、恥ずかしく、「子供のケンカに親が出るのは大人げない」と、子供本人に言ってしまうような人だった。
まだ小学校5年生ぐらいの子供に。
ケンカじゃなかったのに。日頃の私がおとなしすぎて自主性を育てる必要があったわけでもなかったのに。

3歳ぐらいの頃、デパートのエスカレーターでふざけていて転げ落ちて頭に怪我をしたら、母親は、駆け寄るデパートガールさんに「いいです、大丈夫です」と繰り返しながら急いで家に帰り、泣いている私を抱きしめて言った。
「小さい子が怪我をすると、親がちゃんと見てないからだって、ママが叱られるの。だから、ママ、『病院に行きましょう』って言われても、ささっと逃げてきたでしょ?でも、あなたの泣き声を聞いて、もう今にもおまわりさんがママを捕まえに来るかもしれない!」

ママがつかまっちゃう!と必死で涙を飲み込んで痛みと戦って、ガマンしようと思った。
ガマンしないと、ママが連れて行かれちゃうから。
痛くても、泣いたらダメだから。
大げさなことになったら、ママが嫌がるから。

「子供は自分自身より大事」と言葉では言われて育ち、子供にはその言葉を超える「自分の言葉」がまだないから、母の言葉と「大事にされない現実」は常に乖離していた。
初めてのお産が緊急の帝王切開になり、呼吸せずに産まれた赤ん坊は呼吸器に直行で抱くことも顔を見ることもできなくて、産後の入院中、私はずっと泣いていた。
母は飛んできてくれたが、親戚の優しいおばさんが慰めようとしてくれたら、「うさこちゃん」と低く叱った。
もう泣くな、と。人を、ひいては自分を、困らせるなと。

彼女は、自分が困ることが一番嫌いだったんだと思う。
自分が人に迷惑をかけても、自分のことだから気がつかないでいられる。後ろ姿は自分には見えないようなもの。
でも、子供のことでは親、特に母親が責められるから、「子供自身の責任で行動させる」「自主性のある子供を育てる」体裁で、みっともないことはしなかったんだと、今はわかる。
勉強しないことやマンガを読むことにほとんどうるさくなかったのは、「母自身は別に困らないことだから」だったんだろう。

母が「私のために」狂気に陥ってるところをみたことがないから、健やかに「狂気」を持ち、不要になったらさっと「正気」に返る、そんなお母さんたちに憧れる。
さてさて、私は今、正気でしょうか?

19年2月19日

通院日。
1人で外に出ると、ふらふらしてかなり不安。今日も1人カラオケは無理か。

前回、先生に「ご主人は引いてますよね」と言われたのが納得いかなかった。
せいうちくんに話したら、
「キミが大変でかわいそうで、僕に何ができるかどうすればいいかと悩んではいるが、全然引いてはいない。それだけは違う。何十年もカウンセリングにずっとつきそってきたのは伊達じゃない」と断言されたので、そこだけはちゃんと伝えねば。

あと、せいうちくんと結婚してから初めて「もしかしてこの人は最近流行りのモラハラ夫か共依存で、奥さんをダメ人間にして面倒みて、自分の存在意義を確かめてる?」と考えてみた。いちおう、何でも考えてはみる。

その話だけでなく、自分の考えやせいうちくんとの話をまとめたものをタブレットの画面で1スクロール半ぐらいにまとめて持って行き、「見てもらえますか?」と聞いたら、先生は「はいはい」と読んでくれた。

「母親に破壊し尽くされたことに初めて気づき、今、瓦礫の中に立ち尽くしている」というのがせいうちくんの説。
「悲しいのが当たり前だよ。絶望するよ。だって、瓦礫なんだもの」って。

そう聞いて、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
「『病気』が良くなったら、お母さんから完全に離れられたら、元気で完璧な自分が出現するんだと思ってた。元気な自分は、お母さんに隠れて見えないだけだと思ってた。だから、お母さんは死んだし安定剤も睡眠薬ものまなくなったから、もう自分は大丈夫なんだと思ってた。それなのにダメでダメでどうしようもないから、絶望してどうしていいかわからなくなってた。まさか、お母さんが私を完全に破壊し尽くしたなんて思ってなかった。そこまでひどいことができるなんて思わなかった。だって、どんなにひどくったって、『親は子供を愛してるものだ。あなたを大事にしてる』って言ってたんだもの。全部本当に嘘だなんて、思ってなかった。きれいなお城が出現するとばかり思ってたのに、瓦礫しかないなんて!」

せいうちくんの手を握ってしばらく泣きながら、よく考えてみた。一生懸命考えて言った。
「でももう、幸せになっても怒られないんだよね。思ってたお城はないけど、瓦礫を片づけるのを邪魔する人はいないんだよね。ひとつひとつでも石ころや破片を拾って片づけるから、きれいになった空き地に新しい建物を建設するのを手伝ってくれる?この年からじゃたいしたものは作れなくて、せいぜい2,3階建てかもしれないけど」
予想通り、彼の答えは、
「もちろん手伝うよ。キミがキミとして幸せになってくれれば、それが僕の幸せだよ」だった。
またぽろぽろぽろ。

てな話をタブレットで読んでくれた先生、
「考え方として間違ってないと思いますよ。そうか、ご主人は僕が考えてたのと違うみたいだなぁ」
私「ここに一緒に来る男性はモラハラのタイプか、引いてるかですか?」
先生「うん、いろいろ見てるとね、正直言って、どっちかになっちゃうね。『あ、これはアレだな』ってね。ご主人は違うのかもなぁ。あんまり会ったことないタイプだなぁ。彼は、僕の世界に新しい窓を開いてくれましたよ」
私「『共依存だとしたって、30年やってきたことなんだし、人に迷惑かけなきゃいいよ』って言ってます」
先生「カギと鍵穴がぴったり合っちゃったんだなぁ。それはもう、しょうがないよね。合ってればね、いいんだよ。ご主人も、あなたという重荷があったからこそ生きる張り合いがあったのかもだし。オレもね、結婚してなかったらもっとふらふらしててさ…今頃はさ、もっとダメダメでさ…」

なんかツボに入ったのかな、自分語りが始まったぞ。まあ、同意はしてもらえた。

当たり前だけど、向こうにとって私(とせいうちくん)はまだ何回かしか会ったことない赤の他人、多くの患者の中のごく一部だ。
まずは「社会的に外に出ている夫の陰に隠れて自分の世界がなくなってる専業主婦が、子供が出てって『空の巣症候群』で煮詰まってうつになってる」ってケースかな?ってとこから始まるんだろう。
いやまあ、煎じ詰めればそういうことかもしれないけど、この専業主婦は、こじらせ方が半端じゃないんですよ。
(というふうに、自分を特別な存在だとずっと思ってるのが一番顕著な症状の、やっかいな患者)

「泣くのは、いいよ。どんどん泣きなさい」と言ってもらえたので、しばらくは思うさま泣いていよう。
驚くほど涙があふれてくる。
「涙は心の汗だ!」と往年の青春ドラマは言ったが、中高年もあんがい汗が出る。精神的にも肉体的にも。
「涙が心の汗ならば、汗は肉体の涙なのか」と「筋肉番付」で古舘伊知郎が言ってたのを思い出すなぁ、今、私は心も肉体もやたらに汗をかく、だらだらと汁っぽい生き物だ。
どこか失調してるのは確かなんだろう。

19年2月26日

クリニックに早めに行ったら待ってる人が全然いなかったので、先生独占状態。30分も話しただろうか。
部屋が暖かくて少し袖をたくしあげた時、腕のあちこちに赤い筋を作る自傷が目に入った。
「自分でもなんであんなことしたか、わかりません」
「そりゃよかったよ。そう思ってくれてさ。今でもそういう気持ちです、って言われたら、困っちゃうもん」
先生、気さくな人だね。

先「なんでつらくなっちゃうのかなぁ。お母さんとの関係が問題なのは確かなんだけど、あなたは、虐待を受けたのかなぁ」
私「普通に生活してごはん食べさせてもらって、衣食住に困ったことなくて、東京の私立大学まで行かせてもらって、普通に良くしてもらってることはわかるんです。毎日殴られたり怒鳴られたりしてたわけじゃないし」
先「殴らなくても、虐待はあるんだけどね」

先週日記に書いたようなことを話した。
コントロールされ、母の思い通りでないと怒られたこと、責任を持ちたくない母のため「子供の判断で」「母の気に入るように」行動しなければならなかったこと。
すでに20年以上カウンセリングを受けているため、話す内容がこなれすぎてるのは感じるが、仕方ない。

先「話を聞いてると虐待っぽいね」
私「そう思いきれないのがしんどいです。『育ててもらったのに』『何不自由ないのに親に文句言って』って、母の声のみならず世間の声も一緒になって責めてきます。ここはひとつ、『虐待だった』ってことで、いきませんか?」
先「うーん、もっと話聞いてからだな。あなた、大学時代とか、楽しいことはなかったの?」
私「自由にやってましたから、楽しいと言えば楽しかったですけど、いつも何かに追い立てられてる気分でした。切羽詰まってるというか」

先「お母さんは、あのダンナさんのことはどう思ってたのかな」
私「『いい人よね』とは言ってましたけど、上から見てましたね。私なんかを好きだって言う人は、みんな変わり者の宇宙人だって思ってたみたいで。前の結婚の時は、早くきちんと結婚したら母が安心して、ほめてくれるって思ってたところがあったんです。でも、母と姉が『やっぱり変わった人よね。あの子に似合いの宇宙人よ。宇宙人は宇宙人同士結婚するのよ』って言ってるのを聞いてサーっと血が引いて…それで離婚したわけじゃないですけど、精神的には追い詰められてました。母は、私サイドに立つ人をみんな、巧みにけなすんです。元の主治医のことも、『立派な先生よね』って言う反面、『面白い顔してる』とか『頑固で極端』とか、さりげなく執拗に悪口を挟んでくる」
先「ダンナさんのことも悪口言ってた?」
私「悪口までは言いませんが、夫の下の名前で『〇〇ちゃん』って呼んでて、私より年下ってのもあったんでしょうけど、軽く見てるのが夫にも伝わってはいました。怒るような人じゃないので波風は立ちませんが、病気の娘を支えてくれてる人に対する態度じゃなかったと思います。口では『ありがたいわねぇ』って言ってても、母自身が感謝してるんじゃないんですよね。『あなた、〇〇ちゃんに感謝しなきゃね』って感じで。姉も同じでしたが、もっと態度があからさまで、腹が立ちました」

言ってて、頭の芯がキーンと冷えるような感じがする。
そうか、こんな人たちに育てられたのか。
せいうちくんとの今の暮らしを、厄介者が大人しく去ったとほっとしこそすれ、全然認める気なんかない人たちだった。
人たち、は主に母と姉だが、問題を見て見ぬふりしてた父にも一端は被ってもらうよ。

お父さん、「母親と姉がくっついちゃって、あの子がはじき出されてる。かわいそうだ」って親しいおばさんに言ったでしょう、なんで私に直接言ってくれなかったの。
そしたら私、嬉しかったのに。亡くなってから聞いても、遅いよ。
私の悲鳴が聞こえてたのに気づかないふりを決め込んでいたなんて、知らなかった。びっくりだ。
お互い変わり者で家族からはみ出してたけど、お母さんとお姉ちゃんていうカタマリをはさんで反対側にいたから直接話はしなくて、たまに目と目が合うと連合軍をそっと指して「ありゃ、かなわんな」って言い合ってるつもりになってた、それが思い込みじゃなくて本当だって、生きてるうちに話してくれたらよかったのに。
お父さんの遺品のPCデータもらって、誰か知り合い宛の昔のメールに「下の子が東京の大学に入りました」って書いてあるだけで、あなたの視界にちゃんと入っていたんだ、って嬉しくなるぐらいだったのに。

このクリニックではカウンセリングも受け付けている。
今は先生に時間を割いてもらってるけど、一度ちゃんと自費で受けるのもいいかもしれない。
これまで公費に助けられてしか受けてなくて、1時間5千円とか払ったらもうちょっと真面目に考える気になるかも。
美容院にそれぐらい出すことはあっても、精神の健康にはなかなか支払えない。
「日本人は見えないものに金を払う習慣がない」せいだろうか。

考え始めると、信田さよ子の「カウンセラーは何を見ているか」なんて本を図書館で借りて読んでしまう。
だからさぁ、その、下調べして理論武装して臨むの、やめようよ>自分。

19年3月5日

せいうちくんはけっこう私の嫌がることをする。
ちょっとのすき間時間に何か始めて、終わるべき時間が来ても「やりかけてるから」「始めちゃったから」と言って作業を止めないことが多い。
そのたびこっちは「そういうの、やめようよ」と何度も提案している。
たぶん、結婚生活30年間、ずっと。
「始めちゃうものはしょうがない」と踏ん張るならまだしも、「そうだね、僕はせっかちでいけない。これから気をつけるよ。やめるね」って謝るから、次回また同じことが起こると頭にくる。

しかも、私もいい加減辛抱強いというか、あきらめが悪いというか、「この人はこういう人なんだ」と見切れない。
それを「愛の深さ」と自画自賛自己陶酔だけはしなくなる程度の成長はあったものの、さてもさても、業の深いことよ。

先日も同じような問題が起こった。
しかも、第一次問題勃発時に床に突っ伏して泣いている私をせいうちくんは真摯に慰め、
「僕はどうしてこうなんだろう。キミをこんなに悲しませて。もう絶対にしないから。これから気をつけるから」と泣かんばかりなので、「わかったよ。頼むね」と涙を拭いた。
その2時間後、「もう寝ようね」と言って2人とも「歯を磨くためだけに」書斎に行ったら、机の前に座ったせいうちくんはいきなり書類仕事を始めた。
10分後、「これ、いつ終わるのかなぁ。もう、私は歯磨き終わったけどなぁ」と思ってる私が話しかけていたら、
「ちょっとややこしい記入をしてるから、返事ができないかもしれない」と。
第二次問題勃発。しかも、より大々的に。

私、静かに蒼く怒り狂う。
「『もう寝よう』って言ってたのに、なんで何の断りもなく作業が始まるの?ついさっきだよ。あんなに謝って、もう絶対しないって反省してたの。私が涙を拭いたら終わりなの?あなたに約束を守ってもらうためには永遠に泣き続けていなきゃいけないの?言っとくけど、そのアピールのために泣いてるんじゃないからね、私は!」
自分で書いてみてもメンヘラだとは思うが、せいうちくんもいちいち謝るし。
また謝罪の嵐。

今日は、せいうちくんと話し合った結果の新説をクリニックでちょっと唱えてみた。
「こうこうこう言うわけで、夫はある種のモラハラって言うか、精神的なDV加害者じゃないかと思うんですよね。『もうしない』と言ったことを繰り返し、謝ってはまたやる。それが私のストレスになってるんじゃないかと。本人は『そうかもしれない。でも離婚はしたくないから、もし僕が原因なら僕自身カウンセリングを受けるとかしてもいいから、先生に相談してきて』とのことです」

だって、克服できたはずの「母親との問題」が今頃になってこんなに激しく再燃するなんて、おかしいもん。
せいうちくんが「お母さんの最後の抵抗。キミが本当に幸せになろうとしてるから、離すまいとキミの心の中で暴れてるんだ。負けちゃいけない」って言うのは、母親にすべてをかぶせて自分自身の加害をごまかしてるんじゃないの?

確かに私が過反応している部分もあるだろう。
育つ過程で受けた「誰も私を見てくれない」トラウマがぱっくりと開き、「ああ、また同じ状況が起こっている。何度も何度も起こる。もういやだ」と必要以上の流血を見るのかもしれない。
それでも、現在起こっていることはせいうちくんとの問題であって、私の中で母親がめちゃくちゃに暴れて手がつけられないのとは違うような気がする。

なんだかんだ言って、息子が家を出て陥った「空の巣症候群」をこじらせ、せいうちくんと夫婦として顔を突き合わせ、これまで向き合いきってきたつもりでもまだまだ向き合う余地があったってこと?

そんなような話を聞いて、先生は腕を組んで、しばらく「うーん」と考えていた。
「あなたの夫はさぁ、ちょっとADHD気味だね。書斎だか寝室だか知らないけど、寝るって言ったんなら寝ればいいじゃない。気が変わりすぎだよ。あなたがまた敏感だもんだから、夫の気が変わったのが目についちゃうんだねぇ。夫の言葉にとらわれすぎなんじゃない?」

私「それは確かに私の問題点なんですが、母親から愛情を感じられない『現実』を、あなたを愛してる、大好きだ、可愛がってる、っていう『言葉』にすがって補ってきた悪癖のせいだと思います。言葉にこだわらずにはいられないんです」

先生「それも、直せって言って直るもんじゃないからなぁ。あのね、あなたの夫は、治療するほどのことはないけど、気が変わりやす過ぎ。安定を求めるあなたには、合わないと言えば合わない。でも、出会っちゃって好きなんだったら、お互いそれで行くしかないでしょう。言ったことぐらい、覚えてて守れ、って僕が言ってたって夫に言っといて」
おお、私はお咎めなしかい!
てっきり、極端で過激、って叱られるんだと思っていたぞ。

治療者というのは、クライアント(患者)の利益を守り、明らかに病気であったり社会に迷惑をかけ秩序を乱すんでない限り、「そういうところがいけません。直しなさい」とは言わないんだね。
もし、このドクターがせいうちくんを治療してるんだったら、私に「あなたは夫を追い詰め過ぎ」と言っていたことだろう。
たとえ内心はどうあれクライアントの利益第一に動いてくれる有能な弁護士が、相手側についていなくてよかった、と胸をなでおろすような気持ち。

せいうちくんに「離婚しなくてもいいようだよ」と言って先生の言葉を伝えたら、こちらはこちらで胸をなでおろしたらしい。
「そうかー、ADHD気味か。確かに、集中するのが難しいんだよね、気が散りやすくて」と言ってネットで簡単なテストを受け、「うーん、スコアが高い」とかつぶやいていたよ。
私は、回転が速いのと激しやすいのとで一見集中力なさそうなんだが、実はわりとすぐ集中状態に入れるんだ。
ただ、精神的に体力がないので、すぐくたびれて倒れちゃうけどね。
2人とも、「超能力が短時間しか使えず、しかもそのあと一定期間使い物にならない」主人公みたいなタイプなのかも。
なんだ、結局似たもの夫婦か。

印象的だったのは、自分たちのことをよく理解してもらおうと「夫も私も、マンガが大好きなんです。マンガのサークルで知り合いましたし。まあ、オタクですね」と言ったら、しばらくのちの会話で、
「まあしょうがないよね、マンガ読むようなオタクなんだから」と言われたこと。
良いとも悪いとも思わないが、日頃オタク同士だけでつるんでいるので、何やら新鮮な見解であったことですよ。

19年3月12日

クリニックの先生が言っていた。
「人間は、1人でぼーっとしていられるのが理想なんだよね。でも、実際にはいろんな制約や事情があるから、一人暮らしのご老人ぐらいかねぇ、実現できるのは」

1人か。私が最も苦手なことだ。
1人でいると人格が保てない。
ポルノグラフィティだって「Mugen」の中で歌っているじゃないか。

「僕が暗闇を恐れてるのは いつか そのまま溶けていきそうだから
 ほんの小さな灯りでもいいさ 僕は輪郭を取り戻す」

私にとっては、他人の存在や発してくれる言葉が「灯り」で、それに向き合って初めて自分の輪郭がわかる。
自分の内側からは、「自分」の感覚はやってこない。
もちろん「感情」は内側から沸き起こってくるんだが、今度はそれを止める「外と内の境目」、自分と外の世界を仕切っている壁がないと感情がそのまま外にあふれ出してしまう。
その「仕切り」「壁」も、内側から作るというよりは、外側にいる人の気配が作ってくれる。
あくまで、人と自分の仕切り。

コウモリが超音波を発しながらその反射で自分の位置を知るように、私は言葉を発して、相手から返ってくる言葉で自分の位置と存在の意味を確かめる。
透明人間にペンキをかけたように、その時初めて自分の姿が浮かび上がる。

こんな「ほぼポエム」を語っても仕方ないので、先生に言う。
「1人って、苦手なんですよね。どうしても、少なくとも配偶者には頼ってしまいますね。幸いと言うかなんと言うか、向こうも寂しがり屋なので、私が極端で過剰すぎるとは思うようですが、基本的にイヤではないようです」
「いいんじゃないの、向こうもそれでいいなら。組み合わせだからね」

今回のお話で一番重要なのはこちら。

「落ち着いてるようだから、そのままで。不安になっても、それは春のせいだから、深く考えてはいけない。春は誰でも調子が悪くなる」

念のため、「考え事が湧き上がってきても、今は気にしないで、5月の終わり頃にゆっくり考えた方がいい、ってことですか」と聞いてみたら、
「そうそう!」と確信を持って答えてくれた。

なるほど。では、しばらく考えないでおいて、気絶して過ごそう。
精神的に不安定な者の、これは冬眠ならぬ「春眠」と呼ぶのか。
春眠暁を覚えず。
いかん、起きられなくなりそうだ。

実は、いつの季節でも使える処方箋があるんだよね。
「今、考えるな」
春に限らず、考え始める時(もちろん「今夜のごはんは何にしよう」的なことは別よ)には必ず唱えてみた方がいい。
本当に必要なことなら、またあとから必ずわいてくるし、その時にはさくっと解決できるかもしれない。
「今」は、考え込んでしまうようなことのあらゆるすべてにとって、考えるのに最も都合の悪い時であると心得て、とりあえず深呼吸してから寝よう。

19年4月1日

通院日。今日もドクターとゆっくり話せた。
カウンセラーをつけるかどうかは、もうちょっとゆっくり考えてもいいって。
プロと話すのは楽しいだろうな、と思うんだけど、費用がかかるからね。
もっとも、保険診療内でドクターに聞いてもらうのが申し訳なくなってきて仕方ないんだ。

「とってもとっても人に話を聞いてもらいたいんです。自分の考えが、自分では確認できなくて、言葉にして外に出して反応をもらって初めて、安心するんです」と訴える私に、ドクターは、
「あなたの望むように話を聞いてくれる人は、ダンナさんと医者しかいない。たぶん友達でも無理だろう。そして、病院にいつまでも通えるわけじゃないし、ダンナさんもいなくなるかもしれない。人間は、いくつかの『点』で支えられているもんだ。もうちょっと、あなたを支える点を増やした方が安心」と熱心に説いた。
(見えないボールを空中で支える様な手つきを見てると、点は4つ以上は欲しいようだ)

趣味や、自分自身の活動、というようなことを言われた。
読書とか、好きなことはあるが、今んとこは何をしてもその結果を誰かに話したくなるから、自立してないってことかな。
性格を根本的に変えないことには、どんなに夢中になれる趣味を探しても結果は同じな気がする。
そもそも、趣味の活動をする人たちだって、同好の士が集まって会話をしたり作品を見せ合ったり、コミュニケーションしたいんじゃないだろうか。

まあ、自我の殻が弱いのはわかるよ。内と外の境目が希薄。
幸い私の話を聞くのが好きだと言ってくれる夫をつかまえたから、先に死なれたら、老人ホームの職員さんに聞いてもらって過ごすのでヨシとするのかも。
きっとそういうおじいちゃんおばあちゃんは多いよ。

息子から「病院の帰りに会って、ごはん食べよう」と誘われてる。
嬉しくて、ついドクターにも、
「今から息子とお昼を食べるんです」と言ってしまう。
「それはいいね」とニコッとしたかと思ったら、すぐに真面目な顔になり、
「でもね、息子は大してあてにしちゃダメだよ」と念を押してきた。
しませんとも。
すごく甘美なのはわかってて、でも、次世代に呪いを残さないことを最大の目標にしてきたつもり。

さて、その甘美な息子との時間。
時間前に来てたし、狭い階段を降りる時は「オレが先に降りるから」って前に立ち、「いいよ」って言うのに手を取ってくれる念の入れよう。
店員さんにも丁寧すぎるほど丁寧。
「公園を少し散歩して花見をしてからお茶を飲もうか」と提案したら、
「疲れちゃわない?オレはお茶飲みに行くだけでいいよ」って言いつつも、さらに希望したら花見につき合ってにこやかにポーズ取って写真撮らせてくれた。
カフェでも、ケータイが壊れているからと連絡用にノートPC開く(その都度テザリング頼んできた)以外は、熱心に会話してくれた。
半年前は、家に来てごはん食べてても仏頂面でPCばかり見てたのに。

驚くほど親切で態度がいいので、
「どうしたの?前はもっと感じ悪かったじゃん。気を遣って無理してるんじゃない?」と聞いたら、
「コントを人に見てもらいたいと思うと、人に杜撰な態度はとれない。真剣になったんだよ」と言っていた。
「親にぐらい、杜撰になってもいいよ。腹は立つけど、それで見捨てる関係じゃないから」
「オレは不器用だから、この人には杜撰でいい、この人には丁寧に、なんてできない。無理はしてないから、大丈夫だよ」
この変化は、やはりアメリカに行ってからだと思う。
他人の釜の飯がそれほど効いたか。

私はどうしても、「無理をしているのではないか」「本当は怒っているのではないか」「下手に出て迎合しているのではないか」と邪推ばかりしてしまう。
「無理をせずに、でも受け入れてほしい」
「怒らないで、許容してほしい」
「迎合ではなく、真実、好意を寄せてほしい」
と自分勝手に願い、心の底で要求しているだけなのに、「正直に言ってちょうだい」みたいに言うのはずるい、卑劣だ、と自分を責めながらも、許されていると思いたい。
誰に?
きっと、息子に、じゃないんだよなぁ。

「親には良くしてもらっているし、自分が子供だった」と言うのに対し、
「まだ20代の自分の子供が、親をわかって、許してくれるなんて信じないよ」と言ってしまった。
「それはもう、ご自由に」と笑っていたが、いい気持ちはしないだろう。
ハグしてもらって別れたあと、ずっと謝りたいと思っている。
でも、それはなおさら自分の無罪、非のなさを訴えて彼に無理をさせる行為ではないかとも思え、「許されよう」としてはいけない気がする。
ぐるぐるぐる。

「母さんのことは、父さんにまかせて。あなたには何の責任もないし、心配はいらない」
「おばあちゃんとの関係から、母さんの孤独から、母さんを救わなくていい。それは、母さん自身の問題だから」と言ってあげたい。
しかし、母親とこんな難しい会話をしたい子供がいるだろうか?!

夜、せいうちくんに話したらおおむねこんな答え。
「息子に、嘘はないと思うよ。機嫌が悪ければ顔に出る子だよ。僕は全然心配しないなぁ。親切で愛想のいい、機嫌良くできる状態でよかったと思うよ。元気で、前向きな時期なんだよ」

せいうちくんの方が、「許される」「愛される」ことについては素直で無邪気だ。
「3歳までの育てられ方は良かったんだろう」というのが我が家の共通理解。
お母さんが、メタメッセージが出せるほど器用な人じゃないから。
「勉強ができるようになる」までの彼の人生は、幸せなものだったのだと想像する。

我々は、息子を幸せな人に育てただろうか。
そのことばかり気になってしょうがないけど、本人が「オレは幸せだよ!」と言い切ってるので、信じるんだろうなぁ。
人にとっての「信じられないこと」は、たいていその人の「信じたくないこと」なんだよね。
つまりは自分サイドの問題だ。
息子が幸せだと、私は何か都合が悪いのか?この点をもうちょっと考えてみよう。

ところで「令和」である。
平成元年に結婚し、令和元年に結婚30周年と還暦を迎え、発令の瞬間は息子とごはん食べてた。
けっこう幸せな人生。

私「あなた、平成生まれなんだっけ?」
26歳息子「そうだよ!」
私(軽く驚いて)「そうか!じゃあ、天皇の代替わりの瞬間とか、知らないんだ」
息子「あたりまえだよ!」
なんだか漫才みたいな会話になってしまった。

今日、明治生まれも大正生まれも昭和生まれも、ちょっと余分に老け込んだ気分になったにちがいない。
平成生まれの、全員31歳より若い人たちは、どうだったんだろうね?

19年4月15日

昨夜具合が悪くて泊まっていった息子は、さすがによく寝たせいか、7時頃に起きてきた。
会社に行く前のせいうちくんにも会えた。
一緒にごはん食べながら私には2度目の「いだてん」見て、2人でほーっとなった。
さて、9時前に病院に行きたまえ。

「15分前に待合室に入れてもらえるから。その時点でたいてい行列できてるけど、まあ最初の5、6人に入れれば、全部で1時間もあれば。じゃっ!」と混む病院に息子を送り出し、ひと休み。
あー、予想外に息子と長くいたのでキンチョーした。
いいこと言おうとかね、認められたいとか好意をわかってもらいたいとかいろいろ考えちゃうんだよね。
息子が知ったら「親子なのに」と目を丸くされるのかな。

気になるので私も早めに家を出て、ほぼ通り道の病院のぞいてみたが、いない。
薬局に行ったら、こちらにいた。
だるそうに座っている横に行き、「どうだった?」と聞くと、「インフルだった」。

「あらー、じゃあ、昨日のうちに休日診療所に連れてってあげればよかったねー、ごめんねー」と、もらった特効薬をその場ですぐにのむらしい彼に、水を汲んできてあげた。
「ありがとー。オレがインフルじゃないって思ったんだから、オレのせいだよ。寝させてもらったおかげでずいぶん良くなったし。母さんたちにうつしてないといいんだけどなぁ」
「1月にも父さんうつされて休んでたけど、あん時は母さんが不安定だったから、ありがたかったよ。父さんの会社はね、インフルエンザだと業務の進捗にかかわらず6日間休まなきゃいけないの。最近は防疫への考え方が上がってきたからね」
「ふーん…でもそれって、父さんとこが恵まれた、いい会社だってことだよね」
「え?勘違いしてるかもだけど、有給休暇使うんだよ。公休じゃないよ。ま、有休を6日続けて使うって普段は滅多にないことだけど」
「あ、そうなの。有休使うの」

ずいぶん拍子抜けしたみたいだ。
どうもこの人は、サラリーマンは恵まれてる、と「特権階級的」に見過ぎじゃないのか。
いや、いいとこもあってね、
「偉いということは一切ないけど、楽なのはサラリーマン。年金も税金も天引きで管理してくれて、健康診断とかの面倒もみてくれる。生活のコツがわかって自己管理能力がつくまでは、マネージしてくれる人がいると楽。母さんたちは自由業をやったことがないから、それ以外のアドバイスはできない」と彼が会社を辞める時に真面目に話しておいた。

その気があれば安定したサラリーマン生活も夢じゃないとこまで自力で行って、好きで辞めたんだから、ちょびっとでもうらやましがるな!
自分で選んだフリーターの道に失礼だし、こっちだって「だから会社辞めなきゃよかったじゃん」って言わずにいるほど人間ができちゃいないかもしれないんだからね。

バスで一緒に駅まで出た。
窓に向かって並んで立って、
「いい天気だね〜」ってのんびり言ってくれる息子はいいね。こういう子なところは、ホントに良かった。

今朝一緒に見た「いだてん」の話をしてた。
「二階堂トクヨがダメだった。ぞっとした。ああいう圧はイヤだ」と言われ、
「彼女をそこまで追い込んだ『男性社会の圧』が先にあるんだよ。母さんは今、ソフトフェミになりかけだから、そう言われるとつらいんだ」と語っておく。
彼は、人を拘束するもの、圧迫するものに対してほとんどアレルギーのような嫌悪感を持っているようだが、これまで不自由だった女性たちが枠を超えていきたいと思った時、しなやかにばかりはやっておれんのだよ。

バスを降りたところで別れた。
「お大事に。なんか困ったら連絡して」とは言ったけど、「治るまで泊まって行きなさいよ」って言ってあげられなかったなぁ。
どうも私は「管理するサガ」だから、あんまり近くにいない方がいいだろう。

自分の通院で、いつもより話すことが多かったのは息子と接したせいか。
カルテをめくりながら、
「息子さんは、お笑いをやってるんだっけ?親は心配だろうけど、本人の気の済むようにさせるしかないよ」と言うドクター。
思わず大演説をぶった。

「いや、好きなことがあって、全力でやれるのは幸せなことだと思ってます。息子がそういうものを持ってるってのは嬉しいですよ。それで食えてれば、いや、食えなくても、バイトしてお笑いやる生活が苦にならなければいいんです。親戚なんかには『モノになればいいけどねぇ』って心配されますけど、結果が出なきゃダメなんでしょうか。そう言う人たちは、会社に勤めてたら『いつ、どのぐらい出世するの?』って聞きますよ。息子からも反抗期には『両親もエリート主義』って思われてたみたいですが、筋金入りのエリート主義の人と一緒にはされたくないです。2人とも大学出てるんだから、子供にもよくよく他にやりたいことがなければ、そして高校3年生からでも受験で大学行けるんだったら、行ったら?って言いますよ。とりあえず自分の知ってる道を薦めるのが人情でしょう。そのあとはもう、本人のやりたいことと適性でやってもらうしかないですけど、最初の装備としては」

さすがにしゃべりすぎたと思ったので、
「こんな考え方は、おかしいですか」と聞いたら、ぶんぶんと首を横に振っていた。
「いや、理想の子育てだよ。ちょっと、人に聞かせたいほどちゃんとした家庭だなぁ。なのに、あなたはなぜだか悲しいんだね」
うっ、涙が出ちゃう。
人に認められたり許されたりすると、私の涙腺は簡単に緩むんだ。


「人間は、1人でぼんやりできるのが一番。若いと、ついいろいろ考える。瞑想とかね。そうか、あなたは、若いんだなぁ」「と言うか、社会経験が少ないから、成長しなかったんでしょうね。考えすぎたりしゃべりすぎたりしちゃうんです…」
「若い頃はみんなそうだよね。オレだって、高校の先生にカーッときて、夜眠れないぐらい『ああ言ってやる、こう言ってやる』ってひと晩考えて、でも翌日言えないの(笑)」
「私もそんなことがよくあります。とにかくあらゆることを考えついてる気がします」
「自分が考えつかないことを人が考えつく、それを、夫を見て学ぶのが一番いいんだけどね」

先生、そんなこと言ったって、せいうちくんは何にも思いつかない人なんですよ。
私「昇進したって言ったから、お母さんから『お祝い送るわね』って言ってくると思うなぁ」
せいうち「えっ?思いつきもしなかった!こないよー」って言ってたら週末に「お祝い、何がいい?」って電話かかってきたもんなぁ。
必死に断っていたことの是非はともかくとして、なぜ想像だにしないのか。
お母さんにとっての事態の嬉しさと、元の性格とあなたへの関心の高さを思えば、絶対そうなるよ。
1+1=2だよ。

「そうかー、じゃあ、こうしよう。この先、あなたが思いつかないことをひとつでもダンナさんが思いついたら、『あっ、今、私は思いつかないでいることができた!』って喜んでください!」
この先生、けっこういろいろ実践的な行動療法持ってるな。

自分の考えを意識しすぎるところはあるけどそれはもう性格で変えられないから、ダンナさんに話し相手をしてもらってよく吐き出しなさい、悪口でも何でもいいよ、と言われておしまい。
少し不安が強いと言ったら、新しい薬をくれた。
これが、要するに気分をアップさせる薬なんだが、テンションが上がりすぎてバカなことをしないようにもらっていたダウン系の薬はそのまま処方されている。
上がったと思ったらダウン系をのみ、下がったと思ったらアップ系をのむ?自己判断?
かなり話の通じるこの先生でも、薬に関しては出し過ぎの傾向があるかもなぁ。

19年4月22日

通院日。
先生の前に座るなり、
「この1週間、何か楽しいことはありましたか」と聞かれたので、せいうちくんと一緒に塾にバイトに入った話と、これまた一緒に友人の赤ちゃんを見に行った話をした。
「そうですか。それは、楽しかったですね」と言った先生は、私が複雑な顔をしていたせいか、カルテをぱらぱらとめくって前の方の記載を見ていた。
履歴とか成育歴とか確認したんだろうと思う。

「でも、あなたは悲しくなっちゃうんだなぁ。なんででしょうね?」
その答えはある意味簡単で、別の意味では難しい。
自分を「アダルト・チルドレン」すなわち「親との関係が原因で、社会で生きづらさを感じると自分で認めた人」であると思っている。
問題は、自分がそう認めているだけで、ほかの人は誰もそう思ってくれないんじゃないかと不安な点。

もちろん、医者は別。病院に行けば、私が我儘だとか怠け病とか思ってる事柄にも名前がつく。
「あの人たちは、何もないところからでも問題を作り出すから」これは、母の声。
「齋藤何某などは、『境界例』というお札を発行してますからねぇ」と、これは地道な治療に続かない「精神科医」による安易なラベリングを嘆いていた昔の主治医の声。
「病院だって、ずっと通えるわけじゃない」と、今の先生の声。「いつかは良くなって、自分の楽しい人生を送りましょうよ」って意味で言ってもらっても、「保険診療でいつまでも仮病の人の面倒は見られませんよ」と聞こえてしまう。

たぶん、最初の声が、大きすぎる。
専門家たちは、病気の治りにくさ、自覚の脆さ、せっかく築いた信頼関係が崩れる無力感や結局「病んだ側に引っ張られるむなしさ」から、「絶対治ります。一緒に頑張りましょう!」とは言えないのだと思う。
それでも精いっぱい、「あなたさえよければ、通ってみてください」と言うだろう。
良い医者ほど控えめに言うと思う。
その誠実な声は、「あなたは病気なんかじゃないの。甘えてるだけなの。何でもないんだから、大げさに病院なんか行かないの」という母の大声にかき消されてしまう。

「そろそろ、行かなくてもいいかも…」と言ったら、せいうちくんに猛反対された。
私「もう落ち着いてきたから…」
せ「落ち着いてきたからこそ、腰を据えて治療するんじゃない!前の前の先生の時は、ご高齢で引退されるからいったん治療終了ってことになったし、その次の先生の時はとにかく薬を切らすわけにいかないって条件で、同じ薬を出してくれるところを探すのがメインだった。苦しい離脱症状を乗り越えて、やっとまたゆっくり話を聞いてくれるいい先生に会えたのに、行かないって言うの?治ってきたからこそ、もっと治る可能性が出てきたんじゃないの!」
私「じゃあ、どのくらい通えばいいの?先生は、半年は来てくれって言ってたけど」
せ「僕は、3年はかかると思ってるよ」
私「3年!あなたって何でそんなに気が長いの?私のこと、いくつだと思ってるの?3年!!」

とあきれたところで、先生にもその話をしてみた。
「夫は信じられないぐらい気が長いんですよ」と。
でも先生は、うなずいていた。
「ご主人の感じ方で正しいと思いますけどね。ゆっくり行きましょう。そう急がないで。そのうち、気がついたら『ああ、そういえばしばらく薬を飲んでないわぁ』って思う時が来ます。それまでは、規則正しく楽しい生活をしましょう。3年も、って言ってもね、僕なんか67だけど、もう、3年なんてあっという間ですよ。オリンピックだって、もう来年じゃないですか!GWだって、まだかな〜まだかな〜って思ってたら、もう今週末なんだからねぇ!」
「本当にもうすぐですね!でも、終わるのもすぐですよね!」
って言ったら、笑ってたんだから、気が短いのは私だけなわけじゃなさそうだ。

しかし、そうか。ゆっくり生きてもいいのか。
とりあえず週に1度食べても体重が特に増えないから、パッ・タイ食べよう。
GWとかいろいろあるから、次に行くのは3週間後。長いねぇ、ドキドキ。
こういう人を大勢抱えてるから、先生も休んだ気になれないだろうなぁ。

19年6月10日

遊びすぎなのはわかっているけど、とてもとても具合が悪くなった。
こういう時の感覚をなんと言えばいいんだろう。
よく、底知れぬ砂の地獄に沈むようだとか、二度と夜明けが来ないようだとか、幸せな思い出も何もかも消え失せたようだとか聞く。
どれとも違うなぁ。
ただひたすら、この世が始まってからのすべての悲しみが自分の中に堆積していて、そのすみっこに火がついて、轟々と燃え盛る炎ではなく青白いかげろうが立つように、私の心を侵食していく。

まあキレイに言いすぎなんだけど、内側がそうなってる結果として外側で何が起こるかというと、泣く。
つっころばされた幼児のように、飴玉を取り上げられた子供のように、夜泣きを覚えたばかりの赤ん坊のように、とにかく泣く。
さんさんさんさんと、よくもこんなに出るなぁと自分でも感心するぐらい、涙はあとからあとからあふれてきて、私のほっぺたはただの涙の通り道になってしまう。

体裁なんかかまっちゃいられないとはいうものの、鼻水ぐらいはかみたい。
顔がガビガビしてきそうだから、時々は涙も拭きたい。
更年期障害で汗をかいていた頃の名残で家中のあちこちにタオルが置いてあるのが幸いし、どこで泣き始めてもタオルにだけは困らないが、やはり顔がぐちゃぐちゃになる感じはイヤだ。

「そんな時は風呂で泣け」と宮部みゆきが直接教えてくれたわけではないけど、「小暮写眞館」の登場人物の1人は泣きたくなると風呂に入る。
水風呂の季節になっていつでも水が張ってあるから、どぶんと飛び込んで泣いてみよう。

それでもあんまり具合が悪いので、ちょうど通院日でもあり、せいうちくんがお休みをとってついてきてくれた。
彼もたまには先生の話を聞きたいらしい。

今日一番話したいことは、先週末に読んだ「オランダの17歳女性が子供時代の性的暴行とレイプのトラウマからうつ病と拒食症に苦しみ、最後には安楽死が認められた」件。
同窓会に行って7連発宴会でくたびれた話と並行で話したもんだから、
「楽しかったけど、落ち込んだってことですか?」と目を白黒された。

ただどうもなぁ、先生には「性的暴行とレイプ」のくだりがストレートに入っちゃったみたいで、はっきりと言葉にはしなかったものの、「それぐらいで」と言いたそうだった。
いや、実はね、私もそうは思うのよ。
そこらへんは個人の考え方とか宗教とかいろんなものがからんできて、イコールトラウマ、イコールうつ病、イコール安楽死、とはならんよなぁ。
先生、こだわらないでください。言いたかったのはそこじゃない。ああ、いっそそこんとこはぼかして話せばよかった。

「苦しくて、その苦しみを認められて死ぬことを許された人が、いっそうらやましく思えるんです」と言ってもまだ、先生にはうまく伝わらない気がする。
「あなたが苦しいのもさ、どこまで行っても原因はわからないんだよ。その原因を知りたいと思うのが医者の本能なんだな。だけど、わからないものはわからない。人が2歳ぐらいで言語を得て物事が言語化される前、たとえばDNAのレベルであなたに何が起こったか、それは100万回問いかけてもわからない。それが僕の苦しみだよ」

と、大人しく横で聞いていたせいうちくんがここで口をはさんだ。
「先生、私は長いこと彼女の治療に付き合ってます。だから、この理屈っぽい人が今何を考えているか、よくわかるんです。彼女は、『先生は、私は苦しんでもいないし病気でもない、仮病で同情を引こうとしている人だ、と思ってる』って思ってます!」
なんでわかるんだ!

さらに彼は続ける。
「先生がそんな風に思ってないと、僕にはわかっています、病院で、医者が話を聞いて薬も出す、それは立派な病人なんですが、小さい頃からずっと『仮病』『気のせい』と自分の認識をねじ曲げられてきているので、そこんところが彼女にはわからないんです」

先生は、「そりゃ困ったなぁ。苦しんでないなんて、思ってませんよ。ただね、原因を知りたい、突き止めたいと思うのがさっきも言ったように医者の本能なんですよ」と繰り返していた。
けっこう長く話したけど、最後に強く言われたのは2つ。
「7連発宴会なんて、どうやったらできるんですか。活動しすぎ」
「生物的に、休んでください」
これは、どう受け止めるべきなのか。

帰り道、せいうちくんに、
「先生はやっぱり、私が言葉であれこれ言うけど虐待されたわけでもないし、病気の原因もないって言いたかったんだね」とつぶやくと、彼はびっくりして飛び上がった。

「ちがうよ!キミは自分に起こったことやされたことを言葉では話せるけど、もっと前、言語を知る前の例えば2、3歳以前にどんなことがあったかと疑ってるんだよ!言葉で認識していないようなひどい目にあったのかもしれないじゃない。こんなに長いこと治療してそれが出てこないってことは、それぐらい深刻なことだって言いたいんだよ」
「えー、100万回話し合ってもしょうがないって言ってなかった?」
「ちがうよ、100万回問いかけてでもその謎を解きたいって言ってるんだよ。それが医者の本能だって。でも今はまだわからないから、それが先生の苦しみだ、って。100万分の1の答えを、キミと探すつもりだって言ってたんだよ!」

今、ブラックジャックを読み返しているので、「アッチョンブリケ」と口走ってしまった。
「よくそんなに深読みできるねぇ。私、ママが私を逆さ吊りにしたぐらいしか思いつかないよ」
「したかもしれないじゃない!」
まあ、普通のおばさんだったしねぇ、人間、自分の親がそんなことするとはあんまり想像できないものなんだよ。

そこで思い至ったのだが、先生は、私が隠れた性的虐待の被害者だと思ったのかもしれないな。
自分で認識してないかないしは隠そうとしている、だが周囲にはわかってほしくてサインを出していると思い、先生としてはことさらに性的被害の話に驚いて見せて、話を引き出そうとしたのかも。

まあこのようにいろいろ考えてはみるもんだ。
しかしめったに正解にはたどり着かない。
ホームズやコロンボが「犯人はあなたしかいないんです」なんて言うのは、作者が他の可能性をいっさい考慮に入れてないってだけだよ。

で、私は依然としてダンジョンの間違った通路に迷い込みがちなので、せいうちくんは先生に見せる用に「僕はこのように理解しました。間違っていたら読んだその場で妻に訂正を伝えてください」と上記の「解釈」を箇条書きにしてくれた。
なかなかここまでしてくれるダンナさんもいないものだが、こういう人が実は隠れた精神的DV、モラハラ夫だったりするから、今の世の中はコワいのだ。

19年6月18日

今日の病院はハードルが高かった。
なにしろ、薬を飲みすぎて風呂場で転んだとか自傷したとか、いろいろ告白しなきゃならんのだ。
前に救急車で運ばれてひと晩泊まってきたあと、
「今度こういうことをしたら僕は手を引きますからね!」って厳しく叱られた。
もう診ないと言われたらどうしよう。

診察室に入るなり、顔面の派手な痣と腕の包帯や絆創膏を見て、
「どうしました!」と驚いていた。
「事故、プラス自傷です。自殺企図ではありません」と説明し、前に怒られた件を話すと、どうも先生はすっかり忘れていたようだ。
カルテをめくって前の方を見て、「そんなこと言ったかな−」ってつぶやいたの、聞き逃さなかったよ!

まあ、治療中断とかいう話にはならなかったので、せいうちくんから託された「先生の言葉の解釈」を読んでもらう。

    1.うさこは精神の病で大変苦しんでいる。(そのことは疑いない。)
    2.うさこは長年以前の主治医とも面談を重ね、ある理解にたどり着いているが、それでもなお苦しみが癒えないとすると、恐らく言語化できないような何かが作用しているのではないかと考えている。
    3.あるいは小さな頃に死を選んでしまったかもしれないような虐待を受けた人が偶々生き残って50代になり、過去を振り返ったとして、小さな頃の虐待を言語で再現できるかというと、そうとは限らないのではないかと思う。遺伝子レベルでの影響もあるかもしれない。よって、言語化できないものがあることは充分想定できる。
    4.主治医として、当然それが何なのか解明したいと思うのが性分であるが、そう容易には判らないことが主治医の苦しみでもある。
    5.何かの拍子に解明できることもあるかもしれないし、0.01%の確率であっても、繰り返しているうちに何かに到達できることもあろう。あなたのその苦しみを何とかするため、治療にあたっていく。
    6.いずれにしても、疲れたら休むことが生物として必要なことなので、それに支障がある気持ちには負けず休んで欲しい。
(もし誤解があったら、具体的に修正して、うさこが「先生は苦しくないと言った」というような誤解に陥らないように、たびたび参照するものとしたい。)

先生は、たいそう感銘を受けたようで、読み終わるなり、
「素晴らしい!完璧だ!」と叫んだ。
 「私は、先生が『病気とも、虐待が原因とも言えない』って言ってると思ったんですが」と付け加えると、驚いたように、
「そんなことは言ってませんよ!ご主人の解釈が正しいです。よくわかってますよ!」と言っていた。

そこからあらためて、家族図を元に、母の生育歴や父と結婚したいきさつなどを詳しく聞いてくれた。
前にもひととおり聞かれたけど、相談者全員が定着するわけじゃないから、何かのきっかけで本腰入れるって感じだ。

「お母さんも、病院にかかってたことはないのかなぁ」と聞かれ、
「それは、自分が40代ぐらいの時に父に聞いてみたんです。そしたら、『身体は悪くて通院してたけど、心療内科とか、そういうことはない』って言ってました」と答えた。
「お母さんとあなたの関係について、お父さんがどう思ってるのか、聞いてみたことはないの?」
「はい、ないです。父親ってのはそういう話をする相手じゃないと思ってました。家のことには関心がないタイプでしたし。だから、父が亡くなった時に親しいおばさんから『パパは、うさこちゃんのこと、心配してたのよ。ママとお姉ちゃんがくっついちゃってるから、あの子がはじき出されてて、かわいそうだ、って言ってたのよ』って聞かされた時は、腹が立ちましたね。『わかってたんだったら、言えよー!』って」

姉についても、
「何歳違いなの?2歳かー。あなたが生まれた時、お姉さんはどんな反応だったんだろう?」
これは、母から聞いていたので答えられた。
「緘黙症になって、当時は2年保育が普通だった幼稚園に1年早く行かせて3年保育にしたそうです」
「緘黙症!赤ちゃん返りとかはよくあるけど、それはもう、ノイローゼだよ。じゃあ、お母さんとお姉さんの関係は特殊だったんだね」

次の診察では、姉の人生について語ることになりそうだ。
好きでも嫌いでもない、まったく趣味の合わない相手。
でももちろんやっかみはたっぷりあって、良く思いようがない。
つくづく、親は同胞(きょうだい)を分断してはいけない。
親の側にも好き嫌いはあろうけど、片方だけが正しかったり優れていると持ち上げて、上下関係を作ってはいけない。
ただでさえ、年齢という上下関係が自然にできてしまうんだから。

19年6月23日

古いノートが発見された。(PCではない。ただの紙のノート)
せいうちくんが書いた、息子が生まれる頃の記録だった。
最初は、妊娠中で不安定な私に彼が何を考えてるかを伝えるために書いていたようで、次第に出産の検診に付き合ってくれた時のメモ(妊婦体操や呼吸法の絵も)や生活雑感に。
娘のために取得した1年の介護休暇に入る頃には、通う予定の施設との打ち合わせや関連役所との連絡など、事務的な手続きの話もいっぱい。
社会保険労務士の資格が取れないかなどとも考えていたようだ。

もう名前を聞いても誰だかわからなくなってるような人の連絡先が膨大に書いてあって、当時の我が家がどれほど多くの人のネットワークに支えられていたか、せいうちくんがあらゆる関係各所といかに連絡を取り合ってくれていたかがよくわかる。

陣痛の時の様子、お産のあと一緒に泊まり込み入院をしてくれてた間の記録、1ヶ月検診で大出血して緊急入院になった時の顛末など、かなり克明に記録されてる。
さすがの記録魔の私もそこまでは手が回らなかったので、助かるなぁ。

妊娠中、母や姉が「今度は元気な子が生まれる」との期待で妙にすり寄ってきていたこと、それでも5ヶ月先に生まれていた姉の息子の話ばかりされて私がつまらない思いをしていたことなどを、横でよく見ていてくれたのがわかる。
はみ出し者の娘でも、妊娠すると「名誉市民」になるようだ。
「これであなたもまっとうな社会に入ってくる」との期待だろうか。
せいうちくんの実家も、娘の時にあれほど突き放したことを忘れちゃったように熱心になってて、
「結局、25年以上経ってもな〜んにも変わってないね〜!変化は、私の両親がもういないことだけ。我々は進歩がない!」と笑ってしまった。

せいうちくんはあまり日記などを書かないタチで、始めてもすぐ終わってしまういわゆる「三日坊主」なため、途切れながらとは言え半年以上にわたる日記はたいそうめずらしい。
まだ我が家がHPを立ち上げる前だし、主たる書き手の私は寝込んだり臨月まで続くつわりでトイレにこもってたりしたため、あまりまとまった記録が残っていない我が家の「無文字文化時代」と思われていた時期。
大量の記録の発見は、今後の歴史書に大きな影響を与えるものと思われる。

19年6月24日

通院日。
母親と姉と自分の関係を話していて出てきたのが、
「どうしてもお姉ちゃんにきょうだいを作ってあげたくてあなたを産んだ」と言われたこと。
先生は「あちゃー」というような奇声を発していた。
「なるほど、そういうパタンですか」的な声かしらん。

昔は「身体が弱くて一人目も危険だと言われていた母が、命がけで私を産んでくれた」と感動していたんだが、いつからか、よく考えたらそんなことはひとつも言われていない、と思うようになった。
自分自身子供を、特に2人目を産んでからか。
少なくとも私に言うのは失礼な話。

19年7月1日

通院日。
私の悲しみと寂しさの原因は何だろう。

「小さい頃、母親の足元にまとわりつく姉と私に、母がスリップを切ってつるつるしたナイロンの布を与えてくれました。その布が手放せなくなり、今でも寝る時や本を読む時に触ります。姉も二十歳ぐらいまで触っていたと思います」と話してみた。
「そういう気持ちがお人形さんなんかに向かう人もいる。人格が乖離してもおかしくないほどのストレスを受けてたってことだよ。本当に、中に別の人格が出現するぐらい」と言われた。
ずっと続く離人感などを話してみたら、うんうんとうなずいて聞いてくれた。

布を触るのはやめなくてもいいそうだが、ストレスを受けたことは認めた方がいいらしい。
先生「簡単に虐待とか言えないけどね、何かがあったんだよ。まだあなたが言葉にできる前の頃かもしれない」
私「たとえば1週間ぐらいほったらかされて、飢え死にしそうになったとかですか?」
先生「そんなわかりやすいことしか想像できないでしょ?もっとね、毎日毎日のことなんだよ。赤ちゃんは泣いて不快や足りないことを知らせるけど、お母さんによってはそれを読み取れない人もいるからね」

そうだとしても、長年治療を続けてきていったんは薬もやめられたのにまた具合が良くないことに関しては、
「やはり、空の巣症候群だったのかと思います」と話したところ、
「時期的に、きっとそうだろう。それをきっかけに、寂しい思いやつらい思いがフラッシュバックしちゃったんだろうね」と言われた。

また話を聞かせて、と言われて終わる時、
「来週まで、どんなことに気をつけて、どんなことを考えて過ごせばいいでしょうか?」と聞いてみた。
先生「自分について、考えてみて」
私「ただでさえ自分のことばかり考えて、苦しくなるほどです」
先生「じゃあ、本でも読んで」
私「本を読むとますます自分に事寄せていろいろ考えてしまいます」
先生「うーん、じゃあ、何もしなくていいよ」

自分のことで頭がいっぱいで、帰ってきたせいうちくんにそれを訴え、そして毎週毎週「私が」「私が」と書き散らかす、そんな生活を先生が知ったらどう思うんだろう。
イマドキはそういう人も多いだろうな。
SNSは「承認欲求」であふれかえっているもんね。
「私を見て!」って気持ちがにじむどころか見え見えでうるさいだろうと気になって、最近ではSNSから遠ざかっているぐらいだよ。

19年7月8日

通院日。

今日、印象的だったのは、息子と投票の話をした件。
「理想的な親子じゃないですか。いい関係ですよ」とほめられた。

母から「選挙については夫婦でも話し合ってはいけない」と言われた話をしたら、
「よく、『政治と宗教の話はするな』と言うけどね、また別の話だね。お母さんのは、人を支配しようとする時にやるやり方。禁止して、秘密を作る」だそうだ。

今回はいろいろつらくて、それ以外何を話したかよく覚えていない。
今の自分を信頼し、自信を持ち、せいうちくんと何でも話し合うのがいいようだ。
しかし、自信がなさ過ぎて、何をどうしたらいいのか混乱しっぱなし。

19年8月26日

先生、急に入院しちゃったんでしばらく間があいていた。
奥さん先生の代診を受けたりしてしのいでいた。
今週、やっと久しぶりにお目にかかった。
どうやら肝臓結石らしく、再来月ぐらいに内視鏡で手術をしてしまえば心配はないと言っていた。

船に乗っていい思いをした話をすると、
「元気そうになった。船旅がいい刺激になったのかもね」。
でも、「一番良かったことは何でした?」って聞くから、
「食事の支度も何もしなくてよくて、日常から解放されたことでしょうか」と答えたら、
「ああ、やっぱり料理や家事は大変だものね」とカルテに書こうとするから、押しとどめてしまった。
「いえ、料理を始め、家のことは普段から全部主人がやってくれてるので、そこじゃないんです。主人に負担をかけないですむところが嬉しいんです」

毎週のように話をしてるドクターでさえ私の「なんもしなさ加減」をいまだに誤解している。
とすると、世の中の人の「最低限の家事ぐらいは当然やってるんだろう」との思い込みと、万が一やってないのがバレた時の「専業主婦のくせに家事やらないの?なんで?!」という怒りは相当なもんだろうなぁ。
せいうちくんのように「やれる人がやれる時にやれることを」なんて主義の人は少なそうだ。

友人たちにお誕生日パーティーをしてもらった話もした。
私「でも、嬉しすぎて本当とは思えないんです。『あんたのことを好きな人なんかいない。いたとしたらよくよく変わった人か、物好き』って、母の声がします」
先生「うーん、嬉しかったんでしょう?自分の気持ちよさを大切にすればいいでしょうに」

私「それ、主人にも言われました。思わず言い返した言葉に自分でハッとしましたよ。『私が心から気持ちいいと思えるのは、甘いものを食べてる時とうんこが出た時ぐらいなもの!』これって、赤ちゃんが原初的に心地よいと感じられる、生存に必要な最低限の快感ですよね。友人の家で赤ちゃんが皆にあやされてニコニコ笑ってるのを見て、自分にはそういう段階の心地良さがなかったんだと気づきました。母はたぶん、あやしたり相手をしたりするのが苦手で、大泣きしていよいよおっぱいをあげるしかなくなってはじめてこっちを見てくれてたんでしょうね」

先生「あなたの寂しさは、言語が関わる領域を超えてるかもしれないね」
私「言語領域に入ってきてからは言葉で否定されましたが、それは母が自分勝手な人間だったからだと理解することができる気はします。さっきも言ったように、『あなたを好きな人なんかいない』って、つまり自分だけ、母親だけが愛してくれるんだから決して離れていくな、ってことですよね。そこまでわかってはいても、刷り込みって強いですよね…大元に根源的な寂しさがあるために、よけいに母の愛情が欲しくて仕方ないんです」

そういうことを意識した上で、せいうちくんと仲良く暮らす今の生活を一歩一歩続けていくしかないし、今はそれができているんだから、頑張って続けましょう、というのが先生の処方箋。
変わっていないように思えても、らせん階段がぐるぐる回りながら少しずつ上がっていくように、変化は確実にあるから、と。

「先生の側から見ていて、らせん上の私は何度も同じあたりに現れるわけですが、位置としては前よりも高いところにいますか?」と聞いたら、
「もちろん上がってますよ!」とうなずいてくれた。

時間がかかることは確かだ。
気が短いので、「何かに気づいて」えいっ!と治ってしまうイメージしか持てない。
気づくだけならこの40年近く、山ほどの気づきや悟りを得てきてるんだが、あまり人間として向上した気もしないし治った気もしない。
子供が大人になるのに何十年もかかるのは承知してるが、年齢的には大人である人が育つ場合は、もうちょっとなんと言うか、スキップとか加速とか抜け道とかの裏技があってもいいのではないだろうか。

19年9月2日

通院日。
週末は友人と還暦祝いの食事をして楽しかったこと、翌日息子も含めて飲み会があり、彼が泊まって行ってこれまた楽しかった話をした。
「よかったじゃないですか」と、なんとなく「息子との関係良好」とカルテに書いてる気がした。

「息子から、理屈っぽいって言われたんですよね。私の話し方は、理屈っぽいですか?」と聞いたところ、
「まあ、あのダンナさんと毎日話してたら理屈っぽくもなるんじゃないの?ずっとああいう堅い仕事でしょう?」と言われ、かなりショックを受けた。
「あのー、主人は確かに30年法務の仕事してますけど、全然理屈っぽくないです。むしろ、私が彼に理屈を説いてます」

いやー、主治医だからって全部わかるわけじゃないんだなー。
我々カップルを見ていて、せいうちくんの理屈っぽさに私が引っ張られてるなんて発言したのはこの人が初めてだよ。
はばかりながら、夫に会う前から私はこんなしゃべり方とこんな考え方だ。

先生にとって、私が多くの見知らぬ患者の1人であり、問題を解決しようとはしてくれているが、その問題もなるべく一般化したところからアプローチしているのだなぁとあらためて思い知らされた。
「理屈っぽい」のだとしてもそれは私が困る問題にはとりあえずならないからそう話し合う必要もなく、「よくあるケース=ダンナさんが理屈っぽい」のフォルダに入れた、って感じだ。

それはそれとして、今回の宴会で得た最大の教訓は、「人がどうふるまおうと他の人はあまり気にしない。極端に迷惑をかけなければ、どんな人間であってもいい」ということだと話したら、喜ばれた。
楽になる、いい考え方である方法だって。
「人間はね、それほど他の人のことなんか見てないからね。トランプみたいな極端なのは困るけどね」って、先生の主義思想が垣間見えたぞ。

「人間は分かり合えるし分かり合うべきで、たがいに近づく努力をすべきだ。そして主治医は万能にわかってくれる神様に近い存在だ」と思い込んできた世界観がかなりボロボロになったので、しばらくゆっくり考えよう。
齢60にして、「好きに生きていい」とのお墨付きをいただいたのかも。
主治医にさえ気に入られる必要がない、ってちょっと新しい概念。

19年9月5日

考え込みすぎて具合が悪くなった。
久々にオーバードーズをして、記憶がない。
考えて考えて考えて、ぷつりとキレてやたらに薬を飲むのは悪い癖だ。
おかげで今日はどんよりと記憶のない眠りに沈んで過ごした。
これじゃ、元の木阿弥じゃないか。

19年9月9日

台風だから通院もお休みにしようかと思っていたら、朝には行ってしまってバスも電車も動いていたので、ちょっと「ちぇっ」と思いながら出かける。
皆同じように思い、しかも実際に休んでしまったせいだろうか、すいてはいた。

ドクターに昨日息子のライブを見に行って面白かった、と話すと、カルテをぱらぱら見ながら訊いてきた。
「息子さんは、前からお笑いがやりたかったの?」
高校時代から好きだったこと、いつからプロになるつもりになったかわからないが大学では迷わずお笑いサークルに入ったことなどを話した。

「劇団員だったら、人に話したときに『売れるといいね』って言われにくいと思うんです。お笑いやってるって言うから、『テレビに出るといいね』『ブレイクするといいね』ってなっちゃう。一般の人のお笑いへの期待は上げ底ですよ。悪いけどそれで食ってくのは難しいと思ってて、本人が好きでやってれば生活が苦しくても楽しいから、それでいいと思うんですよね」
「ふーん、息子さんは、幸せだね。いい親子だよ。やれ、どこの大学に入れの、どこの会社に入れの言う親が多いのに、本人の楽しさを一番に考えてあげられるあなたは、立派なお母さんだよ」
うわー、ほめられちゃったよ。

今日は他にもやたらにほめられた。
「あなたのすごいところは、いろいろ考えて、それでもって人を助けてあげられるところなんだよね。なのに、どうして自分だけは救えないのかなぁ…」
ドクターにそんなに悲しそうに言われると、罪悪感が生じるじゃないか!
「人を助けてあげられてるんだったら、きっと他の人たちが私を助けてくれますよ。人間は、自分じゃ自分を救えないんですよ」って宗教くさいし、患者が言うのはヘンだぞ。

自分でもね、憂いがなくて理性がクリアな時は、人のために何かできる気がする。
ただ、体力がないと言うか精神力も体力なので、力が小さすぎる。
せめてせいうちくんを具体的に幸せにしたいな。
娘と息子は、この世に生まれたことと両親が彼らを愛し彼らの幸せを望んでいること、それも仲良く手をつないで笑顔で見守っていることを、贈り物と思ってくれ。

ああ、また「私の幸せを望んでくれなかった母」のことを思い出して頭に来ちゃったじゃないか!
「親になればわかる」と言われ続けて、うん、親になったからよくわかるよ。
「子供の幸せを望むのが親」じゃなくって、「子供の幸せを左右する恐ろしい力を持っているのが親」なんだよ。
なのに、良い人間と悪い人間がいるように、良い親と悪い親がいる現実。
力の使い方には、慎重なうえにも慎重でいよう。

19年9月13日

ちょっとしばらく日記をお休みします。2、3週間ぐらい。
たまたま通院日にしている月曜が2回お休みで、そのうえドクターは10月に胆のうの摘出手術を受けるそうなので、予約が混んでる。
患者サイドもお騒がせしないよう心掛けて治療を見守り、無理にスケジュールに入れてもらわず頑張るのだ。
実は3週間も行かないでいいなんて一種の休暇を取った気分。
この機会に自分のことを考えるのを少しやめて、ゆっくり呼吸するのに合わせておなかをふくらましたりへこませたりして時間を過ごしてみようと思う。

「オレはSNSは大っ嫌いだ」と公言する息子に、「母さんは何でも自分のことだと思い過ぎで、Twitterとか読むのにはまるで向いてない。やめろやめろ!」とド叱られたこともあるぐらいで、流行りのネットデトックスを少しやってみようかと思う。
本とマンガとテレビはありね。
うーん、TwitterとFBはなしなかぁ。LINEもメッセンジャーもか。
そこまで厳密にはやらないから。ちょっと無口になるだけだから。そもそも私、FB始めた頃に比べると相当に無口になってる。

還暦にもなったことだし、落ち着いて考えてみたい。
静かにしてるのも身体を休めるのも悪くない。
しばらく旅行にでも行ったと思って、時々「どうしてるかなぁ」と思い出してくれれば。
ただひたすらマンガ読んでるんですけどね。

テンションが上がりすぎて具合悪くなることも多かった1年がやっと落ち着いて、11月まで一切何の予定も入れてない。すがすがしい。
休暇を取ったつもりで、何もしないでいてみよう。
むずむずしてきたら、それが向かいたい方向なのかも。
「やっぱり私、ごろごろするのが大好き!」と叫ぶために、思いっきりごろごろしよう。

19年9月30日

久しぶりにドクターに会った。
単に毎週月曜に来てたら2回連続で休日だったというだけではあるが、実はこのあと彼は胆嚢摘出の手術を受けるので、また3週間ぐらい先になる。

医「腹腔鏡でやれたら3日で退院していいって言われてるけど、もし切ったら、しばらく入院です」
私「開腹ですか」
医「そう。全身麻酔って、あれ、イヤだよね。完全に意識なくなるしちょっとおかしくなるし、死ぬのに近い気がする」
私「私は楽しみでしたけどね。人工心肺を止める瞬間すらあると聞いて、なんかのマチガイで再起動しなかったら、それはそれでアリだと思いました」
医「僕が死んじゃったら、この部屋誰が片づけるの。自分じゃないとわかんない物だらけでさ、迷惑もかけるし、片づけるまでは死ねないよ。つまり、いつになっても死ねないってこと」
私「持ち物はほぼ夫と共有ですし、私の本や私物は夫が完全に把握してますから、大丈夫です。PCの中身も整理してあります。手術の前には万一の時のために夫と息子宛に手紙を書いてPCの中にしまっときました」
医「…ものすごく用意のいい人だね…」
私「友人関係でお世話になった人や仲のいい人にわずかながら遺贈の書き物をしておきたかったんですが、そこまでは時間がなくて。還暦になったんで、そろそろやります」
医「そこまでやる人いないよ…」

だってさぁ、人はいつ何時死ぬかわからないし、待ちわびているとまで強くは言えないけど、現実になったらやや僥倖であると思ってるんだよ。
死をもてあそんでる?死にたい死にたいという人に限って本当は死にたくない?わからん。

医「キリスト教の人とかは向こうの世界に行くと思って、楽しみにしてる人もいるかもだけど、そういう何かがあるの?死んだらどうなると思ってるの?」
私「特に宗教はありません。死んだら、無くなりますよ。無です。読んだ本も観た映画も、全部消えちゃうんです。だからむなしい」
カルテにでっかく「死は『無』です」と書かれちゃったよ。
言っちゃったものはしょうがないな。
手塚治虫の「火の鳥」教の信者です、って説明するのは難しい気がする。宇宙生命体とか。

ドクターが手術を終えて元気になるまでは負担をかけては悪いので、あまり面倒くさいことをいうのはやめよう。
眠れないなら睡眠薬をふやしましょう、と簡単に言うのはできるだけ避けたい良心的なお医者さんのようだから、よく話し合って考えてもらおう。

いつもの薬をもらいに薬局に行ったら、おねーさんがおじさんと立ち話してた。
同じ建物に整形外科が入ってる関係なのか、美容関係のものをよく売ってるんだよね。
おねーさん曰く、
「今晩はお店閉めたあとでずーっと作業ですよ。美容液は10パーセントだけど、サプリは食品だから8パーセントなんですって。もう、やめてよーって言いたくなりますよねぇ!」
今夜は日本中そういう残業だろう。

19年11月18日

通院日。久々に主治医に会った。
ひと月前は入院してて奥さん先生の代診だったから、2ヶ月ぶりか。
2回目の入院はもう終わってるだろうと、診察があるかどうか確認の電話をしてみたら、
「先生はこれからまた入院しますので、明日の診察はありますが、そのあとしばらくまたお休みです」と言われてビックリ。

本人に会って、
「3回目の入院をされるんですか?」と聞くと、
「いや、5回目なんです」と言われてさらにビックリ。

ただの胆石なのに、取りきれなかったり切った後から胆汁が漏れたり考えられる最悪のシナリオをたどっており、まだ石が1個残っているのを内視鏡で取る、取れればいいけど、無理だったらまた開腹手術になるのだそうだ。
開胸手術のあとの検診で緊急入院になった身としては、それはイヤだよなぁとしか言えない。

65歳を過ぎている人なので、引退とか考えるのかと思ったら、それは全然ないそうだ。
であれば、この機会によく治してもらってまたバリバリ診療してくれ。
こっちも歳なので今さら新しい主治医は面倒だし、あまり薬を濫発しないところが気に入っているので、ここを最後の治療の砦としたい。

「自分の親も夫の親も夫婦仲が良くないので、夫と仲良くしてると不興を買うというか、叱られる気がして、座りが悪い」と話す。
「夫婦はこういうもの、なんて形はない。ありとあらゆる形がある。あなたの夫はあなたのことよく考えてくれてると思いますよ。2人がよければそれでいい、って、言ってくれるんでしょ?その通りですよ。人にはいろんな考え方があるからね」と一般論を言ってると思ったら、どこでどうつながるのか、
「でもさぁ、『桜を見る会』とか言っちゃってねぇ。5千円でやれるわけないじゃん。1円でもはみ出してたら、犯罪だよ」と、思わぬところで反安倍派を発見した。
安部信者の夫を逆洗脳しようとしていると話すと、「やんなさいやんなさい」な勢いだった。

先生の入院手術のため、次回はまた1ヶ月後。
内視鏡だけですむのか、ちゃんと退院してこられるのか。他人事ながらドキドキ。

日中の薬をやめる代わりに睡眠薬の増量を勝ち取り、よし、これでぐっすり寝て、昼間は読書三昧の生活をするぞー。

19年12月16日

胆石の手術が成功したと機嫌のいい、やっと病の癒え始めた主治医と、久々にゆっくり面談。
15キロもやせちゃったけど、石は全部取れて問題ないから、これからもバリバリ診るって言ってくれた。

これからどういうペースで通院しましょうか、と持ちかけたら、
「話したければ、僕はほぼ毎日病院にはいますから」って、そうか、1週間に1回か1ヶ月に1回かのどっちかだったから、どうしたらいいんだろうって思ったんだが、面談の必要度は、患者側が決めてもいいのか。
ちょっと驚いた。
「向こうが必要とする or これ以上しょっちゅうは無理」で頻度が決まるんだと思っていた。
とりあえずクルーズも行くし新年だし、ひと月後。

「あなたは虐待されてきたと思う。いろんな虐待がある。まったく、親は何を考えてるんだ。子供の幸せを考えない親が多すぎるよ。最近じゃ、駅前のサピックスに入れて外務省に入れようとしてるけど、それが子供の幸せかね?!」
「先生、それは私の問題を離れて、夫とその母の問題に入ってます」
でもね、先生は「世の中間違っとるよ!」と興奮してて、あんまり聞いてなかった。
少なくとも私の子育ては成功してると言ってくれたから、いいや。

その息子は、正月前にカノジョを連れて泊まりに来て、重度障害者の娘が生活する病院に一緒に会いに行ってくれると言う。
歴代カノジョの中で、初めて娘に会う人が出現するわけだ。
私が知っている限りのカノジョは4代いて、順に、
「話そうとは思いつかなかった→言えなかった→話せた→会わせる」と来ている。絵に描いたような着実な進歩だ。

「大丈夫でしょうか。普通の人は、ちょっとびっくりしちゃうんじゃないかと」と聞くと、先生は、
「『普通の人』と障害者は、そのぐらい近づいた方がいい。やんなさいやんなさい」という大胆なご意見だった。

せいうちくんは前もってカノジョに、
「障害者と言っても、たぶん考えてるより見慣れない身体をしています。びっくりしちゃってください。慣れてる私たちでも、けっこうびっくりします」と言おうと思うそうだし、私は、
「意味がわかると思って話しかける必要はないから。優しく呼びかけてくれればいいから」と言うつもり。

せいうちくんの実家は「結婚するかどうかも決まってない人が祖父母宅の親族の集まりに来る」のを却下したが、実質正月に泊まりに来るうえ、施設にいる障害のある姉に会うってのは、結婚が決まらないとやってはいけないことだろうか。
むしろ、そういうことを積み重ねて結婚するかも知れないし、途中で価値観の違いに気づいたり気が変わったりして「いつでも方向転換していい」のが最近の結婚観ではないかと思う。

話はそれてしまったが、この主治医の考え方、話を聞いてくれる雰囲気、投薬にケチンボなところが気に入っているので、これからもお世話になりたい。(ザラザラ薬くれる医者は、もうこりごりだ)
でも、せいうちくんに、
「だからって、先生にとって私はただの患者で、友達になってくれるわけじゃないんだよねぇ」とぼやいたら、
「当たり前じゃない。キミは人に完璧を求めすぎるよ。主治医も、『黙って座ればピタリと当たる』みたいな期待をしすぎ。長い間かかって話をしていくしかないんだから、気長に気楽に」と叱られてしまった。
そうねぇ、吝嗇で懐疑的な性格でなければ、私は占い師にハマっていたことだろう。

20年1月23日

不調でも医者は行く。いや、不調だからこそ行くのだ。
主治医は胆石がすっかり取れて回復の一途だと元気そうで、そこだけでもよかった。

医「さて、クルーズに行って、どうでした?」
私「楽しかったんでしょうけど、疲れちゃいましたね。主人は、『疲れないようじゃ、遊んだ甲斐がない。疲れてくれ』と言います」
盛大に笑われた。

私の気の焦り、何かしなければという焦燥感、いつも追い立てられるような気持ちはすべて母親からもたらされているのだろうと。
「ご主人も、何にもしなくていいって言ってるんでしょ?あの人の言うとおりにしとけば間違いないと思いますよ」
これは、主治医がせいうちくんを信頼していると言うよりは、心配な患者は全部入院させてしまえた時代でもない今、安心してまかせられる家族や関係者がいればその人を医者も信頼していると示し、できるだけ外注に出したい気分なのではないかと邪推する。
「ダンナさんは、裏も表もない、1本の大木ですよ。頼りにしていいんじゃないですか」
最初にせいうちくんに会った時は、「またモラ夫がついてきた」って思ったくせに。

医「日中、寂しいんですよね。人間は誰かと繋がってないと不安ですから。今はSNSとかもあるけど、あれもねぇ、広がりすぎちゃってかえって不安になるよね」
私「息子に、心配されるんです。『母さんは性格的にくよくよしやすくて、SNSには向いてないんだからさぁ、あんまりやんない方がいいよ。最近はイヤな事件も多いから、読んでて不安定にならない?』とか言われて」
医「息子、ものすごく物事が見えてるね〜!SNSの本質も、あなたの性格もよくわかってる。頼もしいね!」
ますます外注に出そうとしてる気がする…

自分で自分の苦しみの正体がわからない、詐病ではないか、疾病利得を求めて、仮病を使っているのではないかと不安になる。なにしろ自覚症状と本人の訴え以外に客観的な病変はないのだから…と語ると、なぜかあきれられた。

医「疾病利得ってあなた…どこに得があるんですか。そんなの、一時的におなか痛いって言って仕事を休むとかの役にしか立たないよ。あなたの場合は、長すぎる。何十年も長いこと苦しんで、それでいくばくか得したって、割りが合わなすぎる。病気になることでプラスがあるんじゃなくて、あなたの人生のマイナスを必死で埋めようとしてるんじゃないですか。だいたい、僕は仮病に薬は出しませんよ」
私「詐病の人って、来ませんか?」
医「ああ、よく来るね。言うだけ言うと、気が済んで帰っちゃう。あなたはね、詐病じゃないです。きちんと、話をしに来てください。せっかく薬をやめて生活できてた人にまた薬出すのは僕も無力で心苦しいんだけど、ここはひとつ、薬の力を借りてだんだん乗り切っていきましょう」

胆石という自らの病気を克服したせいか、医師はいつもにもまして力強かった。
安倍政権を倒す方向に力が満ちているのかもしれない。
それぐらい、かつては闘志であったろう左の思想家風な人である。
私もあんまり薬使わない方向に頑張ってみようかな。

20年2月7日

昨日はせいうちくんが早く帰ってくれたので、病院に一緒に行ってもらった。
私はどうやら、ドクターに向かってもわりと「わかってるんです。大丈夫です」的なスタンスを取ってしまうようで、前からせいうちくんに心配されていたのだ。
面談の、実態を見てもらうことになってしまった。

せ「うさこはずっと苦しんでいます。つらいのにいつもの診療の時は『つらい』と言えず、てきぱき、理性的な話をしてしまっているように思います」

先生「そうなのか。ここに来たら苦しいって言わないと」

せ「おとといは調子よかったですが、昨日は悪かったです」

私「そうです。昨日は薬も少し多めに飲みました。苦しかったです。死んでいいと言われたらどんなにほっとするか、と思います。先生にそんなこと言ったら叱られそうですけど」

先「500人ここに来ている人がいて、3人くらいは本当に具合が悪いですね。一人は小さい頃に親に捨てられて、もう一人は親が偉すぎて、始終怒鳴られた人です」

せ「うさこはそれらの人に匹敵しますか」

先「勿論です。だから話しているので」

私「私はその3人には入らないで、500人中せいぜい20人くらいだと思いました」

(せいうち心の声「そう思ってるんじゃないかと思ったよ…」)

先「その3人の一人です」

せ「うさこの母はうさこが母以外の人に感心したり、母のお陰でなく楽しくなるとそれが耐えられなくて、威圧したり、見捨てたりして圧迫していたように思います。また、始終怒鳴られていたようです。うさこの甥っ子が実際長い時間怒鳴られているのを見ました。きっと同じような目に合っていたんだと思います」

先「なんでそんなことするかね。親は子供にやさしくするのが仕事なのに」

せ「うさこはそれでも、母の育て方が『かしこい育て方だ』と思っていたんです。例えば、うさこが小さい頃、転んで泣いていると、『お母さんが目を離したからあなたがケガをした。泣き声を聞きつけて、お母さんの責任だからって警察が来る。あなたが泣いていたら、お母さんが捕まってしまうの』と言って脅して泣き止ませようとし、うさこが一生懸命ガマンして泣き止むとか」

先「ひどいね」

せ「うさこの中にいる『私(母)がいなくても楽しい気持ちになるなんて許さない。私以外の人に感心するなんて許さない。そんな子は悪い子で、私はそんな子は大事にしない』といってうさこをいじめる何かを、先生に手伝っていただいて消したいんです。もしかしたら先生が前におっしゃっていたように、3歳を超えて言語化できる前にそのような概念が心に刻み込まれてしまって、うさこのいろいろなことを感じる心と一体化してしまっているかもしれません。それをぷちぷち少しずつはがして、始末して欲しいんです」

先「それはそうかもしれないね。自分とお母さんのそういうところが一体になってしまっているんだね。自分から離れることをお母さんが許さないんだね。そのお母さんが心に一体化してしまっているんだね」

せ「どうすればいいでしょう」

先「精神病院に入って怒りを爆発させてしまって、その混沌の中から抜け出すことができれば、それで解決するかもしれないね」

せ「でも、それはできません。出てこれなくなるかもしれません」

先「そうなんだ。だから私のところに来てくれているんだからね。私がやります。でも、来てもらって『はい、治りました』とはならないよ。時間がかかるよ」

せ「判っています。1ミリずつです」

先「そう。1ミリずつ。でもそれをやっていくのが俺の仕事だしな。とにかく少しずつはがしていかないとな。時間はお互いが生きているかぎりかなり長くあると思ってくださいよ。じっくりやりましょう。時間はあるから」

私「(泣きながら)でも、どうしても自分が病気だって認められなくて」

先「だからあなたは500人に3人の重い症状なんだから」

私「夫に依存していいんでしょうか」

先「子供に依存しちゃあダメなんだけどね、夫ならいいんだよ」

せ「1人に頼るリスクはあるかもしれません。私に万一のことがあったらよろしくお願いします」

先「それはねぇ・・・とにかく、また来てください。話しましょう」

せ「お邪魔じゃなかったですか?」

先「そんなことないです」

とまあ、こんな話になった。長くてすみません。

自分の中に、自分を責める声がある。
「仮病なんか使って、人に迷惑かけて」と叱る声。
耳をふさいで、気絶していたい。
薬を飲みすぎて倒れているのはそんな時だ。

なんだか暗い話で終わってしまった。
そういう日もある。

20年2月20日

通院日。
少し早めに退社してくれたせいうちくんと待ち合わせて一緒に行く。
こないだも来てくれたな。最初から数えたらもう5、6回はドクターに会ってる。
思えば20代で先々代のドクターとカウンセリング始めた時なんか、ずっと基本は同席だった。

そのせいもあり、彼自身も親との関係が歪んでいるとの自認がある。
まあねぇ、先日一緒に飲んだ友人男性も、はっきりと、
「オレたちのまわりは毒親に悩むヤツだらけだよ!」と断言してたもんなぁ。
いい高校からいい大学にと言われて育ち、しかもずっとマンガやアニメが大好きなのを親から厳しく禁じられてきた人々が集う場所だったから。
私は別の集団から来て、同じ悩みを持つ人たちに出会い、その中の1人と強烈に魂が呼び合ってしまったんだろう。

先日お母さんから「うさこさんにマインドコントロールされてる」と言われ、30年の結婚生活もそんな風にしか見てもらえないのかと落ち込んでいるせいうちくんと、もちろんそのあおりで暗くなりまくっている私に、先生は言う。
「そんな親のことは気にしなくていい。コドモの時ならともかく、50過ぎの息子をどうこうしようなんて、思う方がどうかしてる」

せ「自分は、反抗期ってものがなかったと思うんですよね」
先「ああ、オレの友達を思い出すなぁ。全然反抗期のないヤツでね。なにもかも母親の言いなりだったよ。結婚してもね、女房と子供たち置いて、母親とハワイ行くんだよ。お母さん98でまだお元気」
私「先生…それが一番くらっときました。まだ15年続くんですね…」
先「だから、気にしちゃダメ!お2人はせっかくこうやって出会ってお互い大事に思ってるんだから、それを第一に考えなさい」
なんか今日は、ついでにせいうちくんのカウンセリングまでしてもらっちゃったぞ。

「これは夫の問題で、私が考えることじゃないのかもしれませんが、どうも自分の母親が亡くなってしまって本人に言いようがない分、夫が代わりに自分の親との問題を解決してくれればという代償行為的な思いがあるのかもしれません」と言うと、先生は少しため息をついた。
「あなたはなぁ、わかるべきことはもうみんな、わかってるんだよね。頭ではね。ただ、現実がついてこない。そこを変えていかないとね」
はい、それも、わかりすぎるぐらいわかってるんです。

でもね、正直、せいうちくんがうらやましい時もある。
親に、「素晴らしくて天才で最高!」って臆面もなく言ってもらえるなんて。
たとえそれが子供本人の「本当の姿」とも「なりたい自分」とも違うんだとしても、そんな目で見られてみたかった。
「あなたはダメだから」「お姉ちゃんを見習いなさい」と言われ続けるのはつらいよ。
時々せいうちくんを一発殴りたくなるのは、自分のきょうだいがそんな思いをしてるって彼には芯から底からは理解できてないからだろうな。

そうかぁ、もしかしたらお姉ちゃんもそんな風に可愛がられたくはなかったのかしらん。
母親と一緒になって私を支配しようとしたのは、彼女が生きていくための最後の手段だったのかしらん。
そうだとしても許せない。
それを思うと、「同胞(きょうだい)を分断支配しようとする親の利己心」は本当に恐ろしい。

気が滅入る時は古本をたくさん買うのが一番。
カラオケもいい手段だが、今、体力がない。
送料をケチってずっしり重い紙袋(もちろん二重にしてもらってる)をそれぞれぶら下げてバスに乗る体力はあるのか、自分たちよ。

20年2月27日

長いけど、人様のTwitterから引用。

「『自分が子どもとして育った家庭よりも、大人になってから自ら築いた家庭の方が居心地がいいし、好き』というのは一見すると親にとっては面白くないことかもしれないけど、ぶっちゃけあるべき姿だし、子どもが自ら選んで築いた家庭が幸せなものであることを親は祝福すべき」

私としてはなんでこんな素晴らしい意見がもっとバズらないのだろうと不思議なほど、真理だと思う。
読んで、目から特大のウロコが落ちた。

子供やその家庭、孫までも、自分の家庭や幸福の付属品のように扱う親がいると思うんだ。
「恥ずかしくない盛大なお式を」「将来は看てほしいから二世帯住居を」「男の子は着せ甲斐がないから、女の子の孫がほしい」「孫にも自分や息子のように一流大に行ってほしい」などなど。
生き物として、自分の遺伝子が伝わるのは嬉しいかもだから子供や孫を望むのがイカンとは全然思わないけど、その種類や能力、生活ぶりを規定・期待しちゃいかんでしょう。人が生まれてくるってのは、それだけで奇跡なんだから。

良い意見を見た時は、リプライも丁寧に読む。
「親になって育児の目的は『子の自立』だと思っています。
 子が選択した将来が幸福なら親にとっては本望なはずですね」
「↑完全に共感いたします…でも見ていると、すでにとっくに成人している子に、「引き続きずっと影響力を行使したがる」(する権利があると勘違いしている?)親ってものすごく多いんですよね」

うーん、深い。

何歳ぐらいの人が書いてるのかわからないけど、Twitter民の中には少なからず「毒親育ち」や「昭和の親子関係に疑問や不満を持っている人」がいると感じる。
図書館で識者の本を借りるのも良いが、1人1人が生身の市井の人間で、その生活の中でちょっとずつ考えたり努力をしてるんだと思うと、目に見えない群衆からの温かい力が我が身にもみなぎるようだ。
心を強く持ったり自身の子供世代への接し方を振り返ったり、いろいろ参考にさせてもらいたいと思い、今日もせっせとTwitterを読んでいる。

20年3月18日

気分が重いのはなぜだろう。
他人が自分の思うように考えたり行動したりしないからと言って苛立ってはいけないと思いながらも、無闇に気分が悪い。

まだせいうちくんにも言えてなかった「母の加害」を思い出して話す。
まったく話してない事柄は少ないので、自分の中での受け止めや印象が変わって楽に話せただけかもしれない。

私の母とせいうちくんのお母さんは似ている。
「思いついたら行動に移さなければ気がすまず、その結果どうなるかはあまり考えない」

「自分の実家の『とんちんかん』は気にならないないしは気づかないが、配偶者の実家は非常に『とんちんかん』に思える」ものなので、お互い気がついた点は遠慮なく糾弾・批判していいことにしている。
たいがい、「本当だ、なんでこんなやり方でいいって思ってたんだろう!?」ってなる。

知人から、「稼ぎのある、料理も上手な夫をつかまえてよかったですね。それは手放したくないでしょう」と言われ、驚く。
「つかまえる」にも「手放したくない」にも違和感しか感じない。
「立派に出世したダンナさん持って、大満足でしょう?出世してもしなくてもどうでもいいとか、そういうこと、言います?」と確認され、これにも驚いて、
「言いますよ!」
「…ふーん、ずいぶん余裕な発言ですね!非常にイライラします、本当に!」
「夫を愛してない女だから、イライラするんじゃないですか?」
「…」
「だって、夫は元気で好きでいて一緒にいてくれることが一番でしょう?」

もちろんこれは世界観の不一致によるケンカというものだ。
物静かにお別れしたが、お互い二度と会わない方が幸せだと無言で合意したと思う。

食べるのと眠るのが難しくなったので、せいうちくんにつきそってもらって病院に行く。
「事故に遭ったようなものだから、一時的に薬を増量」と了承してもらう。
3年前の心臓手術をきっかけに断薬できていたところ、1年前から不調がぶり返し、今回の増量に至って本当に残念。

世の中は新型コロナでどうなるのだろう。
ネットやテレビの小さな窓から世界をのぞくだけなので、全体像がつかめない。
無観客の相撲の映像や花が売れないニュース、マスクをかけた担当美容師さんの姿から、何か大変なことが起こっている雰囲気だけがひしひしと伝わってくる。
息子のバイト先のパチンコ屋や飲み屋さんも打撃を受けているようで、収入激減なのだそうだ。
いろんな人の上に立ちこめる暗雲が、私の上にも濃くあるのだろう。
ただ、それは違う色形をしている。

いろんなことがごちゃまぜになっていて、書きたいことがきちんと書けないもどかしさを感じるが、数年後の自分に今の時代と自分の不安定さが伝わればと思って書いておく。
そのために20年以上書いてるんじゃないか、と半ば意地になっているかも。

20年4月17日

ついに東京都の新たなコロナ感染が201件出てしまった!200越えしてきた!
あんまり一喜一憂してもしょうがないから冷静になろうと思うが、少しショックな数字。
ここまでやや落ち着きを見せてきていただけにね。

せいうちくんがお休みなので(テレワークにもお休みがあるのだ)、通院につき合ってもらった。
やはり不安が高まっているのだろう、抗うつ剤と睡眠薬をすこーし余分に消費してしまい、10日後の予約日では手持ちがショートしてしまうのだ。

予約は昨日のうちにすんなり取れて、天気がいいので自転車で行った。
別にバスが怖いわけじゃないけど、まあ運動にもなるからね。

朝早い時間のせいか待合室には誰もおらず、受付カウンタには透明ビニールの遮断壁ができていた。
すぐに呼ばれて入った診察室でも、ドクターの前には同じガードが。
しゃべるからねぇ、お互い。両者マスクしてても、飛沫は飛ぶよね。
ちんまりとおとなしく座ったせいうちくんを横に、最近の状態を話す。

せいうちくんがテレワークで家にいてくれるので基本安定していること、しかし、多くのテレワーク家庭で起こるイライラやストレスが皆無でないこと(私の場合は『どうして家にいるのに遊んでくれないの。話ができないの」という子供並みの主張なんだが)、誰もが今そうであるように不安で重苦しい気分になりがちなことなどを話す。

ドクターは正直、この事態をなんだか楽しく受けとめているようだ。
「世の中はこれから変わるよねぇ。5Gやドローンの時代だもん、人がいちいち会う必要なんかないよねぇ。それが、よーく証明されたと思うよ」と、「おのれ根はアナーキストだな」って感じのウキウキさ加減。
反体制だとは思っていたが、これほどとは。

私の病状も、
「ダンナさんがいてくれるのがいいみたいだね。心に空いた寂しさの穴はそのままでも、注ぎ込まれる量が増えてるんだ。今はそれでしのいで。とにかく1日1日をやりすごすのが大事な時なんだから」とのこと。
「死ぬのがイヤだと思ったことがなかったんです。でも、今この新型コロナにかかって死ぬとなると、重症化したとたんに夫にも会えず、手を握って看取ってもらうこともできず、たとえ同時に罹患しても同じ病院に送られるかどうかもわかりません。ずっと夢だった、友人たちを集めての生前葬も今はできません。だから、生まれて初めてぐらいの感覚で、『ああ、これで死ぬのはイヤだな』って思ってます」と語ったら、
「うん、あなたが考えるように、つらい死に方だよね。ここはひとつ、死なないようにしよう」と優しい目で言ってくれた。

薬がショートしたことは怒られなくてすんだ。
1ヶ月分の薬をもらって、次はまた来月。
「お互い無事で会いましょう!」と約束した。

「あんがい街に人がいるよねぇ。もちろん金曜の昼間にしちゃ少ないけど、ゴーストタウンなわけでは全然ない。NYとかの写真も、実はものすごく人がいない瞬間をねらって撮影されてんのかねぇ」と話しながら、ブックオフが閉まっているのを横目で見ながら自転車でとなりの駅まで移動。

ガタガタになってきしむ私の自転車を駅前の自転車屋さんに見てもらったら、もうチェーンを換えないと無理とのことで、1時間ほどかかると言われ、これ幸いと元々の用事であった郵便局での送金などをする。
施設にいる娘、うつぶせ姿勢で過ごすと体調が改善されるので特製のマットを使っており、それを新調したのだ。
完全なオーダーメイドなのでけっこうな額がかかる。
でも大丈夫、彼女は彼女の年金をもらっており、出費はそれで充分まかなえる。
我々が代わりに送金してあげてるだけ、って格好。

駅ビルで紅茶と新鮮な鰯を買い込み、本屋兼文具店で買い物をし、ここでも意外と人が多いのに驚いてる間に1時間は過ぎた。
3千円足らずで、自転車はすーいすいのなめらかな快調さになっていた!

小さな信用金庫に寄るのが本日最後のミッション。
去年半年ほど働いた、塾の事務の報酬が振り込まれてるのを下ろしに来たんだ。
平日の開店時間内なら、小銭まで回収できる。
わーい、15万円ぐらい働いたぞー。20数年ぶりの労働報酬だぞー。
あまりにささやかだけど、嬉しかった!

自転車で走り回っていろいろ雑事をすませ、どの用事も必要だったと胸を張れる半日。(本屋の件だけはちょっと怪しい…)
くたびれ果てて家に帰る。
このぐらい運動すれば日頃の運動不足解消には充分だろう。
それでなくても少なくとも私は最近、前よりずっと健康的な生活を送っているし。

夜には息子とZOOM家族飲みが企画されている。
まったく、ZOOMなしに我々はどう生きてきたのか?!
仕事でTEAMS使ってる方々もZOOM飲みに来ると必ず「ZOOMの方がいいですね!」と感心している。
情報漏洩と爆弾は多少心配なものの、今、時代はZOOMであると言ってよかろう。

20年5月18日

通院日。天気がいいので自転車で行った。
結局自粛が始まってから1回も公共交通機関に乗ってない。
元々外出が少ないもんね。
せいうちくんも会社さえ行かなければほぼ私と同じ生活だよ。
今日は仕事が忙しいので同行はあきらめた模様。

ドクターはあいかわらずビニール膜の向こうにいる。
「基本、夫が家にいてくれるせいもあって何とかなってますが、不眠や不安は感じます。これは現在の状況下、誰もが同じでしょうね」と言うと、まさにそうで、そこはもうどうしようもないそうだ。
私のことを話すというよりはこれからの日本を憂える会みたいになって終わった。
息子が頑張ってる話をして、そういう息子を育てたこと自体でもう私の生産は終わってるので社会的に引退でいいですか、と聞いたら、いいって。
「60過ぎて英語の勉強をする人もいれば蕎麦打ちをしたいって人もいるけど、その人たちが若い人たちみたいに日本の英語教育を考えるわけにも行かなければこれからの農業を考えるわけにも行かない。20代と60代では、残っている時間も気力も違っていて当たり前」と言われた。

なるほど、私はこれまで、まだまだ何かしなければならないと思っていたなぁ。
人の役に立ち、魅力的な人間になり、世の中を憂えるんだと。
ある意味20代の頃に考えていた自分のままでいたわけで、それはもう、しなくていいことっつーか、やりすぎるとグロテスクになりかねない傲慢かもしれない。
いや、向上心のある人や自然にできる人はやったらいいけど、私はそこまでできない。
自分のことだけ考えていても人を巻き込めるほどの力がわいてくるってのは、若い頃だけのウルトラパワーなんだろう。

「自分は自分でいい」って百万回言われ、百万回読み、百万回思おうとした。
まだ無理だが、百万一回目のトライだ。

まずは自分に優しくしてあげよう。
お気に入りのナポリタンを出す喫茶店がテイクアウトを始めたとTwitterで知ったので、街に出たついででもあり、薬局に処方箋を出す前に電話注文しておく。
薬をもらってから、私のナポリタンとせいうちくんのポークジンジャーカレーをテイクアウトしに行く。
炭水化物祭りだ。いちおうサラダもついてるから、いい。
できる範囲で楽しく過ごさないと、少なくとも自粛期間は乗り切れない。

ちょうどせいうちくんのお昼休みに家に戻れた。
お店に行ってた頃を思い出し、特に息子といった日々を思い出して、2人で喫茶洋食のランチを楽しんだ。おいしかった。またテイクアウトしに行くぞ!

本日の東京都新罹患者は10人。
上がったり下がったりだけど、長い目で見れば確実に下がってる。


20年5月28日

気持ちが荒れて眠れず、首を吊る場所を探して家中をうろうろしてしまった。
実行しかける時の気持ちは、なんだろう。
悲しみと諦念と、そして確かに歓びがある。
もうこれ以上生きていなくていいんだとの歓喜が。
異常な精神状態にあるので、遺書を書いてないことには気づかない。

体重で家の一部を破壊して初めて我に返る。
派手な物音がしてもせいうちくんが起きてこないことでさらに我に返る。
「そうか、今、私は『狂言自殺』をしたんだな」としょげながらベッドにもぐり込むと、半分寝てるせいうちくんが身体に腕を回してくれながら、「眠れないの?」と寝ぼけ声で聞く。

「死にたくなって、首吊ってみた」
これはさすがに、飛び起きるよねぇ。
「ダメだよ!なんで僕を起こさないの!?」
そうだな、死のうと思うぐらいならせいうちくんの明日の会社なんて些細な問題だ。
本当に妻が自殺したら会社行ってるどころじゃなくなるんだから。
こういうことを考えつかなくなるのは、いわゆる「切羽詰まってる」のか「思考停止状態」なのか。

睡眠薬を盛大に追加してもらって、とにかくその晩は寝た。
そのせいか翌日はずーっとぼーっとして過ごし、お昼ごはんに何を食べたかも覚えていない。
夜は野村萬斎版のオリエント急行殺人事件第二夜を観て、楽しかったので、録画の山の中から三谷幸喜の「マジック・アワー」を観たあとで睡眠薬をのんでおき、さらに「清洲会議」を観始めた。
1時間以上経つと睡眠薬が切れてしまいそうな気がして、眠った方がいいと思う。
せいうちくんとたくさん遊んでお話をしたせいか、今夜はずいぶん落ちついている。
「明日は会社休みの日だし、もっと遊べるよ。キミが眠くなって寝落ちしちゃうまで観られるよ」と言ってくれるせいうちくんとベッドに入って、なんとか寝た。

毎日毎日眠れないのが怖くて、寝る時間を迎えるのが怖くて、ぐるぐるのループに入るともう死ぬしかないような気分に陥って、バカだなぁ。
「狂言自殺をしてしまうんだ」と激しく泣きじゃくる私を、
「そう言って責めてるのはキミのお母さん。キミが死にたくなるたびに『本気じゃない』『狂言』っていじめてきた。本気なのは僕にはよくわかってるし、いつ死んでしまってもおかしくないんだから、もうしないでね」とせいうちくんが説得してくれた。

「死にたい」わけじゃないのかも。「これ以上生きていたくない」だけで。
誰でも毎日は戦いだろう。
私は、毎晩やってくる眠りとなんとか折り合おうと、無意味な戦いを続けている。
いっそ寝るのやめるかぁ!

20年6月15日

通院日。せいうちくんも出社日で、ちょうどよかった。

ドクターは「いかがです?」と聞いてくれるから、
「自粛が明けて夫が時々会社に行くようになりました。やっぱり寂しいです」と訴えると、
「せっかくテレワークが根づきそうだったのに、このままだと元に戻っちゃうねぇ。日本の社会は動きにくいよ」とやっぱり反体制の闘士っぽいセリフ。おのれ、根は全共闘だな。

私「リモートの方が能率あがる点も多いし、通勤時間は確実に削減できるし、どうしてもの日だけ出社、って決めればいいと思うんですけどね。夫はそんなに仕事好きじゃないと思ってましたけど、やっぱり30年の間に刷り込まれてるんですよ。どうも会社ってとこは行くもんだと自然に思ってるみたいです」
ドクター「そこは別の考えの妻が主張してさ、目を醒まさせてあげようよ。せっかくの変化のチャンスにさ」
うーん、私たち、なんだか反社会的な悪だくみを共闘している雰囲気になってきたぞ。

私「家にいるのに仕事してて、遊んでくれないってのにも慣れました。もう淋しくないです。家にいれば一緒に昼ごはん食べたり合間に顔見たり、仕事終わったらすぐに遊べたり、いいことばっかりなんです」
ドクター「そうだよね、そこでゆっくり休んで、元気を取り戻そう」
私「何もする気がなくなって床に倒れてたり、ぼーっと寝てたりするんです。考えすら浮かばないでぼんやりと落ち込んでます。でも、どこも悪くない自分が疲れてしまったりするのはおかしいと思って、休むことに罪悪感があるんです。夫は『頼むからゆっくりして。キミは十分具合が悪いんだから』って言ってくれるんですけど」

先生はかなり困った様子。
「歳が行けば、若い頃みたいに動けなくなることもある。元気がない時は身体の声を聞いて。(先生、それが難しいんですぅ)ご主人と同じで、僕からも頼みます。休んでください」

ドクターはなぁ、知らないんだよ。
私が1日中ほとんど寝てるとか、洗濯以外の家事は全部せいうちくんがやってくれてるとか、これ以上ないぐらい休んでるってことを。
そんなことをぽつぽつ言ったら、ドクターはちょっとお手上げの仕草になった。
「そんなこと言ったって、現実にあなたは疲れ切ってるじゃないですか!」
えー、これを疲れてるって言うの?仮病って言わない?
「言いません。身体がくたびれてる、って訴えてるんです。僕のためだと思って、休んでください」
はあああい。

いろいろな会話の中では、
「あなたはねぇ、ちょっと強迫的なんだよね。自分で自分を追い詰めてる。なんでそうなるのかねぇ」と嘆かれた。
そこは私も知りたいところ。
母からずっと、
「だらしなくて根気がない。いいかげん。真面目なお姉ちゃんを見習いなさい」と言われ続けてきたってのに。強迫的なとこがあるなんて思ってなかった。
どうも高校あたりで姉と私の性格が入れ替わってきた気もする。
それでも母の「姉がエライ」は変わらなくって、30代になる頃には、
「あなたは気が小さくてくよくよしすぎる。お姉ちゃんのほうがよっぽど思い切ったことをやる」と言ってた。
いったいどっちの私が本当で、どっちの私が「良い子」になれたんだろう?
そんなもんは最初っからどこにもいないから、考えるだけ無駄なんだが。

20年7月13日

通院日。
珍しく雨も降らず湿度もたいしたことなく、ほどほどの涼しさが心地よい。
自転車で行こう。

今日はなんの警戒なのかわからないが、おまわりさんがいっぱい出ていた。
特に行き先の駅前では10人以上が歩道を巡回しており、事故や事件があった感じでもないんよね。うーん、なんだろう。
歩道を自転車で通ると怒られないか、耳に突っ込んだコードレスのイヤホンを見とがめられて叱られたらどうしよう、など様々に不安になる。
息子が小・中と警察署で柔道を習っていたせいもあり、おまわりさんは市民の味方だと思って生きているが、「歩行者<自転車<車」と立場が変わるごとに段階的におっかない存在と化す。
「一般市民<泥棒<強盗」とやることが変わったとしたら同じように感じるんだろうか。

ドクターとの面談は少し長くなった。
せいうちくんがテレワークで家にいてくれることがとてもいい環境で、落ちついてきたのではないかと言われた。

主なトピックは2つ。
友人と「距離を置く」ことになった話をする。
「誰だって違うことをしていて歳をとれば、立場も考え方も離れてくる。合わない部分は『そんなもんだ』と思うしかない。『距離を置こう』と言ってくれるだけ、誠実で良い友達。たいがいの人は何も言わずに離れていく。大事な人ならまた会えるよ」と言われた。

この件だけに限らず、私が社会経験が少ないため対人スキルが上がらず20代の感覚のまま暑苦しく人との距離を詰めようとする欠点が、今回浮き彫りにされたと思っていると話す。
「いいじゃん、あなたには夫という良い友達で理解者な人ががっちりついてるんだからさ」と言われたので、
「1人では、リスクマネジメントの観点から不安ですね。夫が先に死んで1人で老人ホームに入ったあとでも話せる人が欲しいです」と言ったら、少し笑われた。
「その友達はいくつなの。同年配?若い友達を作らないと、老人ホーム後は難しいね。自分より長生きする世代の人でないとね」

ここ数年に知り合った20歳年下の友人2人のことを考えた。
彼女らの子育てが終わったら一緒に温泉に行ってみたいなどと勝手な夢を抱いているが、その頃私は80歳。もう旅行はできないだろう。
せめて老人ホームを訪ねてくれるよう、今度お願いしてみよう。

もうひとつは息子との関係。先日書いた「包丁問題」とか。
「息子を不安にしてしまっていた。毒親の連鎖を止められなかったのではないかと思うと、くやしく悲しい」と告白する私を、ドクターは笑い飛ばした。

医「いい話だなぁ!『殺されるかもしれん』と思ったって言語化し、あなたに伝えられる息子はすごいよ。全然問題なし。『親としても好きだし、尊敬もしている』って言ってもらってるんでしょ?十分じゃない。夫はなんて言ってた?」
私「@ 「そんなことはなかった」と彼の記憶を否定しなかった
  A 「自殺しようとは思ってたかもしれないけど、あなたを殺そうと思ったことはない」とちゃんと説明できた
  B 「怖い思いをさせてごめんなさい」と言った
の三点で、正しい対応だったと言ってくれました」
医「いい判断だね!やっぱりあなたの夫は頼りになるよ。息子も実に立派に育ってる。現代の家庭のお手本だよ」
私「息子、お金がないですけど」
医「若いんだから、いいよ。やりたいことがあって、親が否定してない、それだけで若い人には充分」

苦にするべきことは何もないので、今のペースを守って平穏に暮らすこと、を宿題に出された。
こちらとしては、少し落ちついて客観的になれている今こそもうちょっと詰めてお話をしておきたいので、新型コロナ騒ぎ以来月イチになっていた面談をもう少し頻回にしておきたい、とリクエストした。
あと、前回減薬できた分が、やはりないと不安だとわかったので再開してもらうお願い。
両方とも快諾してもらえた。

少し感情が乱れた以外はうまくいった面談だったと思うんだが、もしかしたら感情が乱れまくった方が「いい面談」と呼ばれるものなのか?
トイレの中や閨房の作法同様、密室で個人的に行なわれるものなので、「あるべき形」を知らないんだ。
本で読む面談は、著者の筆でキレイにまとめられていたり患者側が「絵に描いたような反発から一転してこれまた絵に描いたように衝撃的に気づいて反省」していたりするので、どうも実態がわからない。

昔、会社の若いカウンセラーと話をしていた時、どっと泣き出して、
「ごめんなさい、あまりに教科書通りに進むものだから、調子に乗ってやり過ぎてしまいました」と謝られたことがある。
そういうのは「いい面談」なのか「悪い面談」なのか。
そもそも個人的なことに「よい」「悪い」「あるべき形」などの言葉を使ってしまう考え方こそ私の問題であるような気がしてきた。

テイクアウトのランチを買って帰り、せいうちくんのお昼休み時間に一緒に食べるまで、雨も降り出さず無事に終わったミッションだった。

20年7月29日

通院日。
珍しく雨もギリギリ降ってない涼しい日だったので、自転車で病院へ。

病院の前に自転車停められるんだけど、駐輪札もらってかけとかなきゃいけないうえ、帰りにタイ料理屋さんでパッ・タイとカオマンガイのテイクアウト受け取りたい。
ビル内2階の病院から札をもらっていったん外に出て自転車ハンドルにかけ、帰る時も2階の郵便受けに抛りこんでいかねばならないのが面倒だし、自転車で移動した先のタイ料理屋の路上にテイクアウト受け取る間放置していいかどうか自信がない。(地下のお店から戻ってきて自転車が撤去されてたり怒られたりしたら凹む)

というわけでまだ朝早いから空いていた駅前の2時間無料駐輪場に停めてあとは歩いたのだった。
実に気弱。

今日は自律神経失調症について話した。
異様に汗をかく、涼しくても焦るとしたたるほどである、頭痛がおさまらない、不安や動悸がする、といった症状、心臓の手術以降だということと心臓の先生は「それは心療内科の領域」と言っている点を話した。
これに関しては「自律神経だと思う。薬も出しているし、気長に心身の状態を整えてください」との返答。

私「汗以外は外に見えない症状で、仮病・詐病を使ってるんじゃないかと自分として判断がつかないんです。気のもの、というか。心臓の数値なんかも少し良くなってきて、主治医が『もうほとんど健康な人と変わりませんよ』と言うんですが、自分としてはだるくて息苦しくて」
医「うーん、そこらへんをあまり考えずにゆっくり休めるようになるといいんだけどね。内科の医者はね、治った良くなった、と言いたがる傾向があるんだよ。言葉のプラシーボ効果みたいな。『うん、大丈夫ですね!』っていう内科医が多いんだ。オレだって血圧けっこう高いのに『はい、よろしいですね』とか言われて、どこがよろしいんだよ!ってなっちゃった」
私「怠けてる、って母の声はだいぶボリュームが小さくなったんですけど、他の人から言われた『左うちわで優雅ですね』『私だって具合は悪いですよ。休めていいですね。休みたいけど、家族のことを考えたら休んでなんかいられないんです』といった言葉が刺さります。耳を聾せんばかりに響きます」
医「人と比べる人は、良くない人なの。人間、他の人の事情なんてわからないんだから、比べてどうこう言ったってしょうがないじゃない。思うのは自由だけど、相手に言うのはダメだね。どっかおかしいよ」

心温まるが、あんまり励ましにはならないなぁ。
やっぱり私が欲しいのは「あなたは病気」ってお墨付きなんだろう。

薬をもらい、パッ・タイとカオマンガイ受け取りに行った時に近くに自転車整理(監視人)のおじさんが立ち番してたので聞いてみた。
「あそこの店にテイクアウト取りに行って、受け取ってお金払って階段上がってくる間お店の前に自転車置いたら怒られますか?」
「いやぁ、店に入って20分30分食べるわけじゃなし、受け取る間ぐらいはかまわないと思いますよ。なんか言われたら、テイクアウトですって言えば大丈夫ですよ」
ああ、よかった。次にこういう機会があったら自転車で来よう。

今日のところは駅を抜けて自転車置き場まで歩いた。
2時間におさまっていたらしく、無料で引き出せた。ラッキー。

家に帰ってちょうど昼休みに入ったせいうちくんとお昼ごはん。
病院での話をすると、なんだか怒ってた。というより、困ってたのかな。
「先生は前に『僕のためと思って、休んでください。体を休めてください』って言ってたじゃない。身体がしんどい時は休んでよ。僕は、キミが朝すやすや寝てると、『明け方にやっと寝られたんだろうな。よかったな』ってほっとするし、昼にうたた寝してるの見ると、眠れるときに眠ってほしいって心から思うよ。先生だってキミが具合が悪いと思って診てるのに、どうしてそんなに言葉の意味が読めないんだろう。今日の話を聞いても、僕には先生が心配していることしか伝わってこない。他のことではあんなに頭脳明晰で何でもわかる人なのに、お母さんの呪いがかかってる部分ではひとつもちゃんとわからない」と、彼にしては長い長い不満を述べていた。
そうか、すいません、とちょっとしょんぼり。

くたびれたので午後は薬を飲んでお休み。
2時間ほど寝て、悪夢をたっぷりみた。
でも、今日もダウントン・アビー観て、寝る時はジョジョの「スティ−ル・ボール・ラン」を読むんだ。高見沢さまの2冊目の小説「秘める恋、守る愛」だって読むぞ。
まだまだ人生には希望がある。

20年8月17日

溶けそうに暑い。
Twitterには、

日本「オレ、37.5度以上が4日続いてるんだけど、新型コロナだろうか」

などと書いてあるぐらいだ。
今日、浜松では41.1度を記録したんだって。インフルエンザでもそんなに出ないぞ。

せいうちくんの夏休み終了前々日は通院日&免許更新。
1日に2回の外出シリーズとなるため、暑さでくたびれないように出入りごとによく水風呂で身体を冷やし、冷房の効いた部屋で水分をたくさん摂って休んだ。
おかげであまり大きく体調を崩すこともなく、無事に夜を迎えられた。

スタートは午前中の病院。
「せっかく休みだから一緒に行くよ」と言ってもらい、数日前までその気でいたんだが、なんだかだんだん1人で行きたくなった。
20年ぐらいずっとカウンセリングに立ち会ってもらってたし、今のドクターも何度もせいうちくんには会って話している。
なかなか自分の気持ちや状態を説明できない私にとって、せいうちくんのアシストはものすごく助かるんだ。

でも、ほとんど生まれて初めてと言っていいぐらいの気持ちが生じた。
「これは私の問題だから、1人で話せるようになった方がいいかも」
もしかしたらすごく画期的なことかもしれない。
一方でせいうちくんに心を許せなくなったのかとか好きが減ったのかとか自分の心を疑ってみる。

「来ようと思えば一緒に来られるのに1人で来たのはいいことですか?」とドクターに聞いたら、
「いいんじゃない?あの人はあなたのことすごくわかってて、あなたのプロで、話がわかりづらくなると解説してくれてとっても助かるんだけど、僕は僕でまあ自分で理解しなきゃいけないこともあるし」とのこと。

医「人間は生まれて来ただけで喜ばれるんだけど」
私「母親は、『姉を一人っ子にしないためにあなたを産んだ』って言ってました」
医「ダメだよ、そりゃ!なんでそういうこと言うかね〜!」
先生自身次男で、母親とお兄さんの癒着が強くて困ってた、実は今でも困ってるらしい。
医「母親が兄貴の嫁さんと折り合いが悪くてさ、今は老いた両親が2人暮らしだから『オレたちと暮らそう』って言ってるんだけど、母親としてはやっぱり長男と暮らしたいんだよねぇ」
わりとよく、ドクターの身の上話になるんだ。これもカウンセリングの一環?人に歴史あり?

「生きてるだけでいいんだから、なんかしなきゃとか思わないで暮らしてねー」といつものように言われて薬もらって、近くの図書館で待ってたせいうちくんと合流して本借りる。
今日はせっかく一緒に街に出たから糖質制限解禁日として天丼食べようと思ったのに、昨日のうちに調べたら月曜定休だった。がっくり。

20年8月31日

ハートには2つの意味がある。
先週は心臓の定期検診で、本日は心の方の検診。
何の病院でも真面目に行くなぁ、我ながら。
医療費の無駄遣いではないかと思いつつも、「ではまた次回」と言われると予約取って通うのが当たり前のように感じがち。
歯医者のように「今回の治療はこれでおしまいです」と言われていても、「定期検診には来てくださいね。お知らせ出します」と言われると、「はい」と言ってしまう。
持病持ちってことを別としても、きっと「病院ぐせ」のある人とない人がいるんだろうな。

今日の主な話題その1。
「母親にたたかれたり怒鳴られたりしていたのを思い出した」件。

息子から、「お母さんにきつくものを言われたことはないなぁ」と言われたのをせいうちくんと「よかったよかった」と話していたのをきっかけに、自分はけっこうきつくあたられていたと気づいた。
せいうちくん曰く、
「出会ったばかりの頃はよくそう言ってたよ。その後の生活の中で忘れたって言うか、お母さんをよく思いたい気持ちが打ち消した記憶なんじゃない?」。

くたびれてた息子が塩対応であった件まで含めて半ば愚痴ると、ドクター、
「そりゃ息子にはわかんないよ、そんな目にあったことないんだもん。『わかるわかる』って言われても困るじゃない!」って笑ってた。
考えてみればその通りだ。
自分はけっこうマシな子育てをしたってことか。偉いじゃん。

主な話題その2。
「高3の時、私立文系を受けるのが決まっていたのに数Vの授業を取るように言われた」件

理数系が苦手で私立文系なんだし、数UBですでに挫折していたので「無理だよ」と言っても、
「苦手なことから逃げてはいけない。たとえいい成績が取れなくても、受けなさい」と譲らなかった。
たまたま担任が数学教師だったため、
「おまえには無理だし、受験にも卒業にも必要ない。オレからお母さんに話すから」とわざわざ呼び出して話してくれたんだが、母は聞く耳を持たなかったらしく、根負けした担任から、
「おまえのお母さんには往生こいた(困った、お手上げ、の意の名古屋弁)。オレの手には負えん」と、数V受ける羽目に。
さすがに気の毒に思ったか、担任は授業中に黒板の前で解く場合は「そこはxだろう」「そこを二乗して」とかちょっとずつ答えを教えてくれたし、追試に次ぐ追試もなんとか通らせてくれた。

それでも私は、母のことを立派だと思っていた。
「普通だったら大学受験を第一に考えて他のことはむしろしなくていいって言うぐらいなのに、逃げちゃいけないって姿勢を教えてくれてる」と。
学齢前の私が歯医者で泣きわめき、治療にならなかったのを連れ帰ったあと、
「もうこんな子を育てる自信はない。家を出る」と荷造りを始めた母を見てあわてて泣き止んで歯医者に単身戻ったもんだから歯医者さんから「1人で戻ってくる子は初めてだ」と驚かれ、「これは子供自身に行動を選ばせる賢い子育て。自分も親になったらこうしよう」と思って育ってきたのとまったく同じ気持ちだった。

数Vの話に、ドクターは憤激した。
「ひどいね!戦争中に『名誉のために死んでこい』って言ってたのと同じじゃない!受験前の大事な時期にさ、そんなの、拷問だよ!」
よく考えたら、そうだ。
「あなたのお母さんはそういう人なんだよね。あなたにとって本当に大事なことより、外側のことを押しつける。あなたの中身を大切にしてくれなかったんだよ。オレの母親もそうだったなぁ。自分はウソばっかりつくくせにさ、『人間はウソをついてはいけない』とかね、竹の絵が描いてある掛け軸の前に立たせて、『この竹のように真っ直ぐになれ!』とかさ。そんなん、なれるわけないしさ、そもそもその竹が、別に真っ直ぐじゃないの。芸術だから(笑)」

「あなたが悪くておかしな反応が起こるんじゃない。おかしな反応しかできないように組み立てられちゃってる機械なんだよ」と言われてもあんまり「私のせいじゃない」気はしない。
あいかわらず「あなたはおかしなことばかり言う」「むずかしく考えすぎ」と母に責められたことを思い出してしまう。

まあ今は、「せいうちくんとドクターが私をおかしくないと言う。支持してくれる友達もいる。息子も私が嫌いじゃない」あたりを心の支えにして毎日を過ごそう。
何しろ新型コロナだし暑いし首相は交替するし、余力のない状態を認めて、明日も生きていたら上出来ぐらいに思っていよう。

息子からも、
「お母さん、今日の病院はどうだった?」とわざわざ聞いてきた。
先生に言われたことを伝えたら、「そうだね」って。
「今日も気にかけてくれてありがとう」と返すと、
「いや、心無い対応を悔やんでのこと」だそうだ。
充分だよ。自分の生活でいっぱいだろうに、ひと声かけてくれるだけで。
ちょっと心が温かくなった。

20年9月16日

診療内科のドクターと話をしに行く朝、突然SNSで姉の書き込みを見た。
「知り合いですか?」ってくるじゃん、あれを、つい開いちゃうんだよね。
せいうちくんからは「悪趣味。見たくないものは自分の精神衛生のために見ないように」と言われてるのに。

7年前、遺産のもめごとからほぼ絶縁状態の姉にとって、「深く関わった人間」は息子と亡き母のみであるらしい。
姉もやはり母によって拘束され、深く傷ついていたのだとうかがい知れる一文だった。
しかし、物心ついたころから「うさちゃんが一番」「うさちゃんの幸せを何より願っている」とほとんど熱に浮かされるように言っていた姉の世界に、私は一片も存在しないのか。
相続放棄の判を私につかせたあの時に、姉の「うさちゃん」はいなくなってしまったのか。

姉もまた、自分の内面を探る旅をしている。
多くの人と関わり、セミナーを受けたり主催したりして、教員時代のスキルを最大活用しているようだ。
薬のサポートなしには難しく医師に頼り、本を読んだり少数の人と話し込む私のスタイルとはずいぶん違う。

ドクターにはやはり、母親の分断政策を指摘された。
きょうだいが互いに話し合えないようにそれぞれを支配するのだ。
今となっては、姉と私が生まれつき分かり合えない性格、趣味の合わない共通の話題のない他人であったのか、母による工作の結果なのか、もうわからない。
よく見るそういった親は、自分亡き日が来た時に次の世代をどうするつもりなんだろうか。
共に手をたずさえて人生に向かうなんてできないじゃないか。
「我が亡きあとに洪水よ来たれ」って気分なのかな。

「ひどい家庭だね。むちゃくちゃだよ。オレの親も、兄貴に財産渡すために生きてるうちからいろいろ動かしてたよ。あんなの、国が取り締まらなきゃだめだよね。それでいて口では『きょうだいは平等』『私は公平』って言うんだから、あきれちゃうよ」とまたドクターの自分語りが始まったが、大変参考になる内容なので傾聴する。

ドクターはクライアントの私を守る立場なので、
「あなたはひどい目に遭ってる。遺留分の訴訟を起こせばよかったのに」と言うが、当時の私は何もかもどうでもよかった。
ただただ、実家と縁が切れるのが嬉しかった。
母の生命保険の分だけをもらい、「それ以外は全部姉と甥に相続させる」と姉の税理士が書いた書類に同意した。

これまた小さな頃から、「遺産のことはお姉ちゃんがちゃんとしてくれる。必ず半分こにしてくれる。お姉ちゃんがあなたに悪いことするわけがないでしょう」と呪いのように刷り込まれた私は、50数年分の感謝の前払いを支払わされただけで終わった。
唯一の抵抗、私なりの筋の通し方として、姉の目を見つめ、
「これが、お姉ちゃんの『ちゃんと』なんだね?」と聞いた。
「そうよ」と答えた姉の目は、昔同様何も見ていない空洞だった。

姉にも最近「パートナー宣言」をした相手がいるらしい。
それぞれの大切な人と、これからの人生を満足できるようにデザインして生きていくしかない。
ただ、その道筋で姉と再び会うことはないのだと、あらためて思い知らされた日だった。

ドクターに、
「今日1日を過ごす自信がありません。一時的に、強いお薬を出してください」と言ったら、最強の抗不安薬を1日分出しておきます、と胸をたたいた。
確かによく効いて、出社日だったせいうちくんが戻るまで穏当に眠って過ごせた。
敗北主義的だが、ダメな時はダメ、やり過ごすしかない日もある。

そうそう、調剤薬局でいつもの担当さんに、
「ドラマの『アンサング・シンデレラ』見てます?」と聞いたら嬉しそうに、
「はい!やっぱりこの仕事してますとね。あちらは病院調剤師でずいぶん仕事は違うんですけど」と言っていた。
「私も毎週見てます。疑義照会って意外と多いんだなぁってびっくりしてます」と言うと、いたずらっぽい顔で笑って、
「これが、けっこうあるんですよー」とのこと。
どの道も、お仕事は大変だ。 

通院の帰りにいつもの「クルン・サイアム」でパッ・タイ食べようと思っていたけど、なんだか気力がなくて早く帰りたくて仕方なくなった。
どうせ糖質制限解除の日だからなんかテイクアウトして糖質食べよう!と物色してたら、いつも前を通って「食べたいなぁ」と思っていた「パンの田島」。
小さな間口の店先に数人の行列ができている。
大好きな「やきそばパン」(糖質の塊)を買って、小窓から受け取って、家に帰って食べた。
禁断のランチ!思いのほか大きなコッペパンはほかほかふかふかしていて、しあわせな味だった。

あとは、生まれて初めてガチャポンやった。
欲しかったAEDのミニチュアが入ったやつを、見つけちゃったもので。
心臓が悪い私のためにAEDの講習を受け、外出先でも「あるかな?あるある」と本体を観察してる大内くんにプレゼント。
いざって時に使い方忘れないように、イメージトレーニングにいそしんでください(もちろん電気は流れないけど…)。
それにしても300円でこのクォリティ、癖になったら怖い…噂の新橋駅まで行ってしまいそう。

20年9月30日

通院日。
話を聞いてのドクターのお義母さんへの診立ては、
「人格障害。自分のことしか考えていない。子供のことを本当に考えていたら言えるはずのないことばっかり言ってる。迷惑だね。言ったことは片端から忘れてる、ヒステリー性の人格乖離だよ」とばっさり。

このところの義家族問題で眠れずかなり憔悴しているので、またしても強めの薬をもらう羽目になってしまった。
肝心の私自身の問題は今日のところは棚上げだ。

しかし、はっきり落ち込む問題があるってのも悪くないね。
生きてるのがイヤになる点は同じだが、自分のせいではないような気がする。
こんな事柄を目の当りにしたら誰だって人生が楽しくないだろう。
「楽しいはずの生活が楽しめない」のと違って、「困ったな、こりゃ」の方がマシだってことかも。

なので元気出して、家で仕事してるせいうちくんの分もテイクアウトのランチを買って帰る。
リクエストはカオマンガイ。私はいつものパッ・タイだ。
スープもミニ春巻きもちゃんとついてくる。
お店も頑張っているなぁ。

毎日いろいろ話し合っているが、今回の事件のおかげであらためて自分たちが人生に感謝することを知っている幸運な人間であること、これからも少なくとも自分自身の家族を守って行く決心を2人でとことん言葉にして、互いを見つめることができた。
「あなたたちは自分たちさえ幸せならいいんでしょう」と言われても、自分自身と配偶者さえ幸せにできないようでは誰のことも考えられない。
万能でない以上、優先順位というものがある。

20年10月14日

通院日。
不調が去らないのでまだ頓服として強い薬をもらうようだ。
最近薬の量が増えてきたので、せいうちくんから重々しく、
「すっかり昔の口と頭の回転に戻ったかと思われたキミだけど、最近ちょっとしゃべるのがゆっくりになった」と言われている。
人間として円熟してきたからではもちろんない。

ドクターに先日の息子との会話を話す。
「お母さんはつらい人生を送ってきたんだなぁ。そのことがよくわかったよ」
「オレはもう大人だから、ぶれずにお母さんとつきあっていけるよ」
「昔はお母さんが怖かった。いつも薬で不安定だったから。夕方家にいると、お母さんと2人の時間が怖かった。様子が変だったから。薬のせいで話し方がおかしかったりどろんとしてたんだね」

息子にそんなトラウマを植えつけてしまったのかと思うと申し訳なくて仕方ない、と語ると、ドクターは笑って言った。
「息子、ちゃんと全部わかってるじゃない。きちんと家を出てやりたいことをやれていれば、全然大丈夫だよ」
「彼の幸福は彼にしかわかりませんから、やりたいことをやればいいとは思っています。でもそこに躓きの石を置いたかと思うと怖いんです」
「理知的だね。本人の幸福を一番に考えてあげられてる時点で、あなたは良い親で良いお母さんだよ。心配いらない」

私が夜中に不安定になって「あなたに嫌われる」と泣き出したら、
「人間なんてそんなにきれいなもんじゃないって。オレなんか、さっきマスかいた。人間、感情がたまったら放出すればいいんだよ」と放言された話をしたら、膝を叩いて、
「息子、いいねぇ!そう、あなたも泣きたい時は泣いて、感情を解放してあげなさい」とのこと。
今のところ私の情動は問題アリでも、息子の人生には何の問題もないらしい。

何とか薬をやめたいです、とも言ってみたが、もともと薬を使わない方針のドクターにおいてもこの新型コロナ下の急激な生活の変化とストレスは甘く見ていいものではないと思われるらしく、
「ここしばらくはゆっくりするつもりで薬もうまく使って暮らしていきましょう」とのことだった。

20年11月25日

通院日。
最近は眠れないのが大きな悩み。
ワンショット2時間しか眠れない。
日中にうとうとしたりしているのだとは思うが、どんなに眠くても2時間するとぱきっと目が覚めてしまう。
ぼんやりと起きるのではなく、熟睡した後のようなはっきりした目覚め。
そしてそのあとはほとんど眠れない。

コロナの閉塞感に加えて引越しのストレスがあるからどうしてもそうなるだろうと言われ、睡眠薬を増やしたくはない主義のドクターなので、種類を少し変えて全体の量は同じにしておく、とのこと。
薬が変わったと思えばそれだけで気分の問題で眠れるようになるかもしれない。

主治医は実に親切に、私が仮住まいする予定の近辺の精神科・心療内科の表をコピーしてくれた。
親しくしてるドクターはあいにくいないので、電話するとか自分で調べてみてよさそうなところに行ってみてくれ、とのこと。
1年間だけなので、基本的に紹介状をもらって今と同じような処方を受け、あまり変わらない生活を心がけるようにって。

「根津・千駄木かぁ。いいねぇ!素晴らしいよ。江戸文化の神髄にいろいろ触れられるね。気晴らしと思っていろんなところに行ってみて。うらやましいなぁ。ダンナさんの会社も近くなるんでしょ?」
「ええ、すごく近くなります。もう戻りたくないというかもしれませんね。先日下見に行った時も感じのいい町を歩いて、おいしい朝ごはんと昼ごはんを食べました」
「実にいい!こんな時代だから、旅行するつもりで1年過ごすって考えはすごくいいよ。幸いダンナさんは引越しに前向きで片づけ魔になってるそうだから、あなたも罪悪感なんか感じないで全部ご主人にまかせておきなさい。とにかくのんびりすること」

「マンションは買えちゃうし、狭い愛の巣で楽しい仮暮らしは出来るし、何もかもうまく行き過ぎて幸せすぎて、罰が当たりそうです。『うまいことやって』って嫌味言われちゃいそう」
「何言ってんの。結果としてそうなっただけで、何がどう転ぶかわからなかったわけじゃないの。今の自分の人生は自分で手に入れたんだと胸を張って、堂々としてなさい」

それがなかなか難しいんだよね。
客観的にはこんなに幸せな無能主婦はなかなかいないと思うもんだから。
せいうちくんがむちゃくちゃ私を好きでいてくれるおかげなんだろうなぁ。
こっちもむちゃくちゃ好きだけど、形としてはこっちが彼を幸せにしてあげてる部分が小さすぎる気がするよ。
私がどんなに理性的で正直で誠実で、生活を豊かにするいいアイディアの泉だとしても、それはなかなか人の目には見えないものだからね。
せいうちくんが認めて、感謝してくれてる事実を大事にしよう。


20年12月9日

通院日。
せいうちくんも出社だから1人でゆっくりごはんを食べて帰ろうと思ってて、読む本も準備してたのに、薬局で薬を待ってる間になぜか気力が萎えてしまった。
早くおうちに帰りたい。
ベッドで横になりたい。
というわけで晩ごはんの水餃子の買い物をするついでにスーパーのおにぎり買って早々に帰ったのだった。

別に元気をなくすようなことは何もなかった。
ドクターはいつものように自民党嫌いで「アベノマスク」から「GO TOキャンペーン」までこきおろしていた。
私もたいそう同感なので傾聴していた。
「若い世代が大変で、息子の子とは直接助けてあげられるけど、それでも彼らの生き血を吸ってる気がする」と嘆く私に、
「僕だってそうだよ。上の世代はいい思いしてるんだよ」と共感してくれた。

せいうちくんのテレワークが幸いしてかこの頃落ち着いてきているので、コロナ中は治ろうとか良くなろうとか思わずに現状維持で、との方針は変わらないそうだ。
いつもと同じ薬をもらう。
自律神経失調症の薬だけはそろそろ少し減らしてみていいですか、と提案した。
寒くなって汗もかきにくくなってきたから。
漢方は残して錠剤をなくしてみるようだ。

薬局のおねーさんと「コロナのおかげで風邪だけは減ってますね」と話したのは唯一の明るい話題か。
手洗いとうがいでここまで風邪もインフルエンザも防げるんだとあらためてびっくり。
「マスクの習慣は残るかもしれませんね」とおねーさんは言うが、コロナが明けたとたんみんな、もう二度とマスクの顔は見たくないと思うんじゃないだろうか。

バスで帰りながら、うまくいけば来年早々にも仮住まいを始め、そのあとはずっとバスとは無縁の生活になるんだな、と想像してみる。
私は外出が少ないからあまり気にならなかったが、毎朝バス通勤していたせいうちくんや高校・大学と駅に駐輪場を借りて通学していた息子は大変じゃなかっただろうか。
2人ともそういうところは全然骨惜しみしないタイプなのか、苦情や不満を聞いたことはないのが幸いだ。

仮住まいになったらせいうちくんは会社が近くなって喜ぶかしらん。
今や、たまに出社の日があると気が重くてしょうがないらしいからなぁ。
通勤って無心の境地でこそできるもので、いったん「1時間以上かけて会社に行く、そしてその同じ距離を帰る」とか意識してしまうとすごくしんどそう。
テレワークの習慣よ、コロナ後も残れ。残ってくれ!

20年12月21日

せいうちくんが出社したので朝から1人。
ぽつねんと部屋の真ん中で、いろんなことを考える。

母が亡くなって7年が過ぎた。
思い出すことがとても少なくなった気がする。
それでも心の奥底に刻まれた孤独と寂しさは消えない。
母は私の何が気に入らなかったのか。どうだったらもっと喜んでもらえたのか。
「成績は良くないけど頭がいい」「よく本を読むね」ぐらいしか喜んでもらえた覚えがないので、いまだにそこにのみしがみついている。

あと、姉と比べて唯一褒められたのが「あなたはガスの元栓とかしっかり閉めるから安心。お姉ちゃんはそこが信用できなくて、おちおち先に寝られない」だった。
そういうところは張り切って生真面目にやってきたつもりが最近トイレの電気をつけっぱなしで出てくるのは、良い変化だろうか。

大人になるにつれ、母の生い立ちや事情がいろいろわかってきた。
こういう人になり、愛情が姉に片寄るのも仕方なかったんだろう、って理解はできるようになった。
それが実は愛情でもなかったとか、姉にとっても重かったんだろうなぁとも今はわかる。
でも、頭で理解できることと感情が納得するのは別の話だ。
主治医に言わせるとそもそも私に言語ができあがる前に刻まれた傷がメインだから、理性で無理やり納得して生きてきた私には絶対に克服できないだろうともいわれた。
(「この歳までその性格でやってきたんだし、こられたんだから、もう自分はそういう人間だって思って過ごしなさいよ」ってことらしい)

せいうちくんも私も、人が怖い。
最も信頼すべき母親が、決して子供の人格を認めず、突然狂暴になり、理解できない行動をとってきたからなんだろう。
今でもお互いにけっこうお互いが怖いかもしれない。
私はせいうちくんがいつ私を嫌いになるかとおびえているし、せいうちくんは私が「話せば必ずわかる」人間であると知っていながらもついついごまかしたり嘘をついてその場を逃れようとする。
30数年しがみつき合って慰め合って話し合ってきてもまだこうなんだから、育ちってのは怖いもんだ。

あとどのくらい寿命が残っているかわからないけど、安心したいなぁ。
心からゆるんで、だらしなくなって、それでも「いいよいいよ」って言われるんだと信じたいなぁ。
願いは本当はもうかなっているのに、なかなかそこに気づけない。
水にとり囲まれていながら渇き死にしそうになってるような状態だ。

それでも少しずつ、少しずつ何かがよくなっているに違いない。
話し合うことのできない娘はともかく、大人として別の人格を持った息子が私を「大好きだし、尊敬している。自分と他人が違う正義を持っていることを知っていて、それ由来で優しいところを」と言ってくれて、嬉しい。
息子ほど口のうまくないせいうちくんは、「まっすぐで、正しいところ」が好きだと言ってくれる。
自分のなりたい姿を言い表してくれる2人が大好きなのは、もうどうしようもないじゃないか。
あとは娘から「まま」と言われてみたかったけど、これはどだい無理な相談。

私の中になぜか確固としてある、「人にはみんな善性がある」という考えを大切にしていこう。
ちょっと自分に酔っている。1人でいるとそんな時もあるよ。

20年12月23日

今日は2週に1度の通院日。
朝からすごく具合が悪い。
パニック症候群まではいかないが、外に出るのが怖くて汗がだらだら出て呼吸も苦しく、要するにビビりまくっているんだ。
外出慣れしてないからなんだろう、って頑張って出かけたら、バスの中の人間関係にいろいろ悩む。

2人掛けの席の後から座ってしまった時に隣の人のコートをお尻の下に挟んでしまいがちだとか、奥に座る人が私より先に降りたい場合、さてどういうサインがくるものだろうか。
イヤホンなんか聴いてては反応が遅くなるかもしれない。音量下げとこっと。

この不調を、ドクターは「新しいことを始める前の武者震いだと思って」となだめる。
「引っ越しは大変だけどさぁ、ダンナは何でもやってくれて、あなたをいたわってくれるんでしょ。彼はそういうのが好きなんだから、うまく使うというか…うーんと…」
「甘えておく?」
「そうそう。どーんと甘えて、まかせちゃいなさい」
この先生の、こういう大雑把な意見はとっても腹落ちするから助かるなぁ。

デパ地下で息子の大好きなトップスのチョコレートケーキを買って、無料でチョコレートのクリスマスプレートをもらって初めて気づいた。
明日はもうクリスマス・イブ。息子はクリスマスに来るのかぁ。
カノジョと過ごさなくていいのかな。そういうのはイブか。

21年1月20日

病院お別れシリーズのラストは3年ばかり通った心療内科。
とても信頼が置けて、20代の頃から診てもらって老齢で引退した前の前の主治医とはまた違う安心感を覚える。
1年経ってもよい変化がなければ、いやどうなっていても、またここに戻ってこよう。
理想は「もう来ませんが、ご挨拶に」ってパタンかな。

引っ越しとせいうちくんの忙しさでテンパってる私を、にこやかな口調で、
「1年間の仮住まい、いいねぇ。江戸文化の中心に行くんじゃないの。引っ越して落ち着いたらすぐ楽しくなるかもよ」って励ましてくれた。

あいかわらず、
「日本は子供が自立しにくいんだよね。僕らの親より上の年代の母親はほとんど毒親だよ。ダンナさんもちょっとそのへん危なそうだから、母親の顔色なんか見るなって言っといて。あなたたちは息子をしっかり育てて外に送り出してる。充分立派な親だよ」と持論の毒親問題を披露し始める。
せいうちくも私も毒親に支配されてちょっと息苦しいタイプだからだろう。

「昨日も息子とメッセージ交わしてて、『子供の幸福はどうしても親の基準値になるからね。でも、幸福、だよ。成功、じゃないよ』と言っときました」
「それが言えるお母さんなら充分だよ。もう健全な家庭を築いたんだから、上の世代のことは気にしないで」とのこと。

「次に行く病院のあてもありませんから」って泣きついて、睡眠薬をはじめとする薬を多めにもらっておいた。
ひと月は猶予がありそうだ。
その間に紹介状にある投薬だけ続けてくれる、深入りしない病院を探そう。


21年3月4日

そろそろ前の心療内科で多めにもらっておいた睡眠薬等の手持ちが怪しくなってきたので、この地での心療内科を探し始める。
徒歩5分ぐらいのところに「ゆりこ(仮名)心療内科」というような、女性の名前を冠した「アットホームな雰囲気」「来たくない時や急に来たくなった時を尊重するため、予約制をとらない」を売りにしているらしいクリニックを発見。
1年の仮住まいのあとは元の病院に戻るつもりだから、とりあえず最低月1回通って薬さえゲットできればそれでいいので、あまりいろいろ考えずにそこを尋ねてみる。

ところが、15時半の整体が終わってから向かい、たどり着いたら、もう終わっていた。
9時から11時と、13時から15時までしかやっていないらしい。
初歩的な確認を怠っていた。
しょうがないからもうひとつ目をつけていた徒歩10分ほどの心療内科に向かってみる。
こちらは予約制、しかも予約料を取るらしいが、月に1回300円で待たずにすむならその方がいいかもしれない。

ところが、途中で急にとってもトイレに行きたくなってしまった。
コロナの昨今、こういう時の助けになるはずのコンビニは軒並みトイレを貸さなくなっている。
困って考えついたのが、先日来行きつけになっている整形外科。
明日またMRIを撮りに来るのに今日行くのも変だが、かかりつけの病院ならトイレぐらい貸してくれるのではあるまいか。

2階の受付に行って、
「あのー、明日MRIを撮りに来る予定の者なんですが、通りがかってちょっとトイレをお借りしたくて…」と情けない頼みごとをする。
看護師さんは少し笑って、
「本当はちょっと…なんですけどね、どうぞ」と快く使わせてくれた。

出てきて気づいたが、待合室はものすごくすいている。1人しか待っていない。
こないだ腱鞘炎で指が痛いと言ったら「様子を見ましょう」と言われたっきり。
「まだ痛みが続いています」って診察してもらっちゃおう。
うまくいけば17時までの心療内科に間に合うだろう。
初診は予約いらないって書いてあったから、大丈夫かも。

診察券を出して、すぐに診察室に呼ばれた。
こないだとは違うドクターだ。
やや若いが、ものすごくやる気なさそうで無口。
「あー、これは『ばね指』ですね。注射で治るんだけど…(こないだのカルテを見て)ワーファリンのんでるから注射はやめておいたのかな」
「いえ、ちょっとした注射ぐらい大丈夫です」(そもそもしょっちゅう採血されてるんだ)
「じゃあ、注射しちゃおうか」
で、あっさり小型のCT持ってきて、人差し指の付け根あたりを見ながら逆手に持った細い針の注射器で薬液を注入してくれた。
ああ、これこれ、この人差し指が中から膨れてくるような感じ、この注射打つと腱鞘炎はすぐ治るんだよ。

「ありがとうございました。じゃあ、明日MRI撮りに来ますので」って病院出たのが17時5分。
もうダメかな、と思いながら、一応心療内科に電話してみる。
「うちは予約してもらうんです。予約料がかかります」って、初診は予約なしでもいいって書いてあったのに。
間に合わないこともあり、その頃にはすでに明日まで待って「ゆりこ(仮名)心療内科」に行こうという気分になっていた。

整形外科の隣の薬局で、前回、気に入ってるメーカーのがないから取り寄せるの待ってて、と言われた湿布と鎮痛消炎ジェルをもらって帰る。
トイレに行きたくなったことも含めて、とっても大冒険の感がある。くたびれた。

21年3月5日

昨日閉まってた「ゆりこ(仮名)心療内科」へ13時前に行ってみた。
患者さんが2人、もうドアの前で待ってた。
受付の人が開けてくれて、中に入ると謳ってる通り「アットホーム」。
広めの1LDKみたいな造りで、LDK部分が待合室。ソファと椅子が置いてある。
隅っこに小さなカウンタの受付があって、前の病院からもらってきた紹介状を渡す。

わりとすぐに案内されて「ゆりこ(仮名)先生」と面談に入る。
60過ぎぐらいの「おばちゃん」的な親しみやすい先生だった。
今回はとりあえず薬をもらうことが主眼なので、詳しい話はまた次回、ということで。
いつ来てもいいそうで、
「来週とかにまた来てもいいですか?」と聞いたら、
「もちろんいいですよ」って。

病院と同じようにアットホームな感じの薬局で必要な薬をもらい、家まで戻って道を渡ったとこにあるアップルパイ屋さんで今夜のおやつを買う。
もう今日の分は焼き終わっちゃって、最後の2つが残ってたんだって。
その2つを買った私は大変ラッキーだ、とお店のおねーさんが喜んでくれた。
私も嬉しい。

道を渡って帰ろうとしたら、会社帰りのせいうちくんに後ろから声をかけられた。
道でばったり会うのは、ここに住んでたった1か月の間に2回目だ。
なかなか運命の私たちだなぁ。

さて、今夜もZOOM飲み会だ。
今夜こそ早めに寝て、明日は健全な休日を過ごそう。

21年3月10日

15時に歯科医に行き、先日型取りしてもらった「食いしばり防止のマウスピース」を受け取る。
上の歯列にかぶせる半透明なもの。素材は何だろう。
お湯で洗うなと言っていたから、シリコンじゃないってことか。
歯ぎしりのひどい人だとだんだん穴が開いてきたりするらしく、消耗品だ。
保険が効かなくて5500円。
次のを作る時、型取りしなくてすむ分安くなるかと思って聞いてみたら、やっぱり5500円だって。
1年ぐらいはもつものらしいし、私はあんまり歯ぎしりはないから大丈夫だと思う。
高いものだ。大事に扱おう。

歯科衛生士さんが装着してくれて合ってることを確かめ、少しバリを取ってたみたい。
洗い方や保管の仕方を教わる。
濡れティッシュで包んで乾燥しないようにし、流水で洗って軽く歯ブラシかけ、汚れが気になるようなら週1回ぐらい「入れ歯洗浄剤」(ポリデントとか)を1錠では多すぎるから半カケ使うといいって。

そのあと先生が出てきてチェックし、「はい、いいでしょう」。
1か月後に様子を見せてくださいって言われて予約を取る。

15時20分ぐらいでまだまだ元気が余ってたので、明日行くつもりだった心療内科に行ってみようと思い立つ。
家の前を通り過ぎて5分ぐらい歩いたところ。
16時20分に整体の予約が入ってるけど、すいててうまくお話ができるタイミングなら間に合うかも。
とにかく予約を取らないところでいつ来てもいいと言われているので、行ける時に様子見てみよう。

15時25分ぐらいに着くと、40代ぐらいのご夫婦がひと組待っているだけ。
これなら大丈夫かも、と診察券出したら、受付の怖めのおにーさんに、
「受付は15時までですので、これからは気をつけてください」と叱られた。
そういえば午後は13時から15時だった。あんまり短いんで頭に入ってなかった。
待合室に患者さんいるから断るわけにもいかなかったんだろう、と反省反省。

その後、すでに受付をすませて出かけて戻ってきたのか、2人ほど患者さんが増えて、夫婦者より先に呼ばれていく。
この時点で16時20分は無理だな、でもここまで来たんだからお話していきたいな、と待合室を出て整体院に電話をかける。
幸い、16時20分の予約を17時半にしても全然問題ないそうなので、それでお願いした。

夫婦者はどちらも難しい暗い顔をしているが、奥さんの方がよりぐんにゃりしてるのでそちらが患者さんで夫はせいうちくんみたいにつきそいなのかしらんと思っていたら、ダンナさんの名前で呼ばれて、2人で入っていく。奥さん付き添い?2人とも患者?家族療法?

ゆりこ先生(仮名)は1回あたりの時間がとても長いので、20分は待った。
私のあとから入ってきた中年男性も診察券を出さないので、きっと私より先に呼ばれる口だろう、と思っていたら、夫婦者が出て行った後に私が呼ばれた。システムがよくわからない。

小さなリビング風の部屋の真ん中にある小さな四角い机を挟んで、ちょっとゴーグル風の眼鏡とマスクをつけたゆりこ先生(仮名)と向き合って座る。間にビニールシート等はなし。

先日、紹介状に従って薬を1か月分出してもらったが、実は前の先生がちょっと間違えていて頓服の抗不安薬は2週間で10錠のところ、1か月で10錠になっていた。
2週間後にいただいてもいいんですが、先日のお薬の一部が薬局になくて今日受け取りに行くので、ついでに頓服薬もいただければ、とお願いすると、「はいはい」と軽く受けてくれて、「薬局に電話しておいて」って受付のおにーさんに先に処方箋を渡していた。
薬局もわりと早く閉まるらしい。というか、こちらの患者さんがはけたら閉める方針だろうか。
こことしか関わりのない小さな薬局っぽいから。

にこにこと私に向き合うゆりこ先生(仮名)に、
「ついでがあったので来てしまいました。何のお話をしましょうか」って聞いたら、
「なんでも、あなたの好きなことを話して」と。
詳細は省くが、マンガが好きでマンガサークルで夫に出会ったって話になったところで先生の目が輝いた。
「まあ、私もマンガが好きなの!中学の頃、友達と雑誌で『ベルばら』読んでてね。彼女の方が1日早く読むから、『アランが死んだ!』とか言われて『えーっ!』ってなったり」

いろいろツッコミたい。
ベルばらはアンドレです、それはポーの一族の話ではありませんか?
そしてどっちにしても2人が死ぬのはわりとあとの方だから、そこをリアタイで読んでる先生、私よりちょっと若い?
あと、先生、ネタバレ平気なタチなんですね。

「患者さんがマンガ貸してくれてね。面白いの」と出てきたのが麻生みことの「小路花唄」1、2巻。
「ああ、麻生みこと、大好きです。これは京都の靴屋さんの話ですよね。全4巻です。これの前に『路地恋花』っていう全4巻の前作があるんですよ」と言うと、
「持ってるの?」と目を輝かせた。
全部電子化してしまった、と自炊について説明し、このデータを人に渡すと私は「自炊代行業者」というちょっと違法な存在になってしまう、と言ったらがっかりしてた。
「持ってるなら続きを借りられるかと思ったのよ」
きっと、その患者さんが続きを貸してくれますよ。
全4巻の、1巻と2巻しかもってないってことはまずないでしょう。
しかしなぜ「路地恋花」から貸さないのか?
マンガについては人それぞれにけっこう謎が深い。

ゆりこ先生(仮名)「ねえねえ、マンガのサークルにいたってことは、ちゃんと、あの、なんていうの、四角く」
私「コマ割りですか」
ゆ「そうそう、コマ作って描くの?」
私「描きましたね。私の場合、短いものばかりです。絵も、ベルばらみたいな華麗な絵じゃなくてもっとあっさりした単純な線のマンガしか描いたことないですが」
ゆ「じゃあ、そういうの趣味にしたらいいじゃないの。マンガ描いて、売り出してみるとか」
私「ブログっていうか、ホームページを20年以上続けてるんですよね。最初は子供が2歳半ぐらいの頃から。面白いこと言うようになったのを記録してるうちに、小中高大とだんだん大きくなって。大学受験の時なんか、どこ受けてどこ落ちたか、全部実況中継しちゃいました。もちろんその頃は息子にナイショでした。でも、大学生の頃、私のタブレット貸したら昔の日記が出ちゃったんですね。夫に、『オレの小さい頃のことが書いてあるんだよ。自分のことだから余計にそう思うのかもだけど、ちょうど俵万智の子育てエッセイ読んだとこでさ、母さんっておんなじぐらい文章うまいじゃん、って思ったよ』と話してたようです」
ゆ「まあ、そういうこともなさってるのね!」
私「息子は今、コントを作って自分でも演じるグループをやってます」
ゆ「芸術的なご一家なのね」
私「いえ、主人はずっとガチガチのサラリーマンですし、私も7年会社勤めした後はずっと主婦という名のプーです」

まあこんな世間話みたいなのをずっとしていた。
困ってることとしては、
「主人の母と妹さんに、『東大生と結婚したくて東大のサークルに入って、うまいことつかまえた人』って思われてるのがイヤですね」と話す。

ゆりこ先生(仮名)自身、東大のデッサンのサークルに入ってたことがあるそうで、
「家から一番近いからそこに行ってたの。でも、看護学校の女子がいて、その方は本当にデッサンが好きで入ってるもんだから、ほかの女の子たちは東大生狙いだ、って思いこんじゃって、1人ずつ電話までして文句言うの。今で言ういじめよね。それでほかの女子がみんなやめちゃって、その人だけになって、どうなったかしら、その後サークル自体つぶれちゃった、って聞いてるわね」と体験を語ってくれた。
「人がどう思うかなんて、気にすることないわよ」
はい、そのように心掛けたいですが、なかなか難しいです。

とても話が合ったのは、ゆりこ先生(仮名)もお父さんが東大卒だそうで、でもお母さんが「あんな人、たいしたことない」って言ってたから、子供のころからいわゆる「東大すごい!」ってのがなかった点。
うちも父親東大だけど、母親が「頭はいいかもしれないけど、社会人としては失格の、ものすごい変人。ダメ人間」と言ってた話をして、大いに意気投合した。

「あなた、とっても面白い方だから、またお話ししたいわ。今日は税理士さんを待たせてるから、これで」って言われてお開き。
待合室にいるあの人って、税理士さんなの?
受付の人が薬局に、「まだ○○さんとうさこさんが残ってるので、もうちょっとかかります」って電話してたから、患者さんだと思ってた。
税理士さんってのは方便だろうか、とかすぐにいろいろ深読みを初めてしまう。

月に1回、薬だけもらう病院として近いところを選んだけど、ちょっと面白いからまた行ってみよう。
私から話を聞いたせいうちくんが一番心配してるのは、そういうアットホームなところで私が対人関係の距離を取りそこなうことと、「あなたは病気じゃないわよ」って「はげまされて」それを信じて悩むこと。
「医者が病院で診て薬を出すってことはそれだけの病人だって点を絶対忘れないでね」と念を押された。

「患者さんに借りた本で、がんの患者さんについての本があってね」と言われ、余命宣告された人の死生観には大いに興味があってよくその手の本を読むので身を乗り出して聞いてたら、

「伊豆にゲルマニウム温泉や自然食の民間療法をする家(集落だったかも)を作った。それで、余命半年と言われたけど10年生きてる人」

の本らしい。
それは私の求めてる方向とは全然違います、とはいちおう話しておいた。
私が求めてるのは長生きする方法ではなく、とりあえず生きてて死ぬ時は潔く死ぬ方法なんだと思う。
確かに怪しい点のいろいろある観察対象「ゆりこ(仮名)心療内科」。
もちろん向こうがこちらを観察するのが心療内科ってものではあるんだが。
いろんな町にいろんなクリニックがあるもんだ。

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