年頭のご挨拶
あけましておめでとうございます。
平成が終わりナニヤラが始まるこの年、還暦を迎えるめでたい年女でございます。
生まれて初めて同学年の天皇を戴くことになり、これまでの天皇は全員おじいさんとかおじさんだったわけで、さていったいどうやって崇敬して行こうかと悩む今日この頃。
親にコツを聞いておくべきだった?墓に布団は着せられぬ。ちがうか。
何度も言うけど年女なわけで、これまでの60年に思いを馳せ、来し方行く末をあれこれ考え、半ばはとうに越えた人生の残量の過ごし方を思案せよと赤いちゃんちゃんこを贈られる年齢。
90過ぎたら次の計画を考えると豪語する上の世代の方々から、
「今の若い人たちは私たちと違って子供の頃からの栄養もいいし、医学も進歩しているから、きっともっと長生きできるわよ」と激励されたりする、悩める世代。
すみません、長生きしたくないんです。(私だけかもしれないけど)
「孫を育てる生き物は人間だけ」とやや乱暴にくくって先輩が言ってた。もっともだ。
それだって充分長生きなのに、ひ孫やその先まで見たくない。
「年金から孫の結婚式のご祝儀出してあげようかしらん」とか考えたくない。
早熟な子供の常で夭折に憧れていて、30を迎えた時には愕然としたものだった。(皆さんも覚えのある境地なのでは?)
それに80の声を聴く者が超レアな早死にの家系なので、70過ぎの人生を考えたことがなかった。
実際、両親は70代で病没し、短命一族の伝説を盛り上げている。
心臓と血管をメンテしてサイボーグになったこともあり、もしかして私は80代まで生きるかも?とぼんやりと考えるようになってきた。
年金崩壊。貯金しなくっちゃ。
重度障害者の娘とハーフニートの息子は全然あてにしたこともない。
ああ、なんて縁起の悪い年頭の辞。
年末に遊びすぎて持病の鬱をこじらせ、断薬したはずの睡眠薬に再び頼り、「やっぱりこのぼんやりは心地いい〜、また抗不安薬ももらおうかしらん〜」とか考えながらうとうとしてる。
自殺した友人が真面目な顔で手招きする年明け。
1週間お休みをいただいて、新年からの日記は来週更新します。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
19年1月1日
謹賀新年。
今年は年始の挨拶も初詣もすっ飛ばしたので、平和裏に9時頃に1日が始まった。
前の晩は「紅白歌合戦」が終わると同時に禁断の「日清ラ王」を半分こした年越しハーフラーメンを作り、名刹の除夜の鐘中継を聞きながら新年を迎えるとそのまま「生さだ」に移行、という年またぎだった。
いやあ、DA PUMPの「USA」、いいなぁ!
30日のレコ大から、何回片足上げて踊り狂ったかわからない。
大内くんが大掃除でワックスかけてピカピカにしてくれたフローリングが滑るもんだから、もうちょっとで、「USA踊っててすっ転び、年末の救急車に乗った全国13人の急患(想像)」の1人になるところだった。
サザンとユーミンが巻き起こす歌の渦の中で終わった紅白のラストも良かった!
北島三郎はノリが悪いなぁ、桑田圭祐が「いま何時?」ってマイク突きつけてんだから、「そうね、だ〜いた〜いね〜!」って返さなきゃダメじゃん。
「胸騒ぎの〜腰つき〜」ってにじり寄られて腰をスゥイングさせるユーミンはさすがだ。
桑田が小さくつぶやいた「恋人がサンタクロース」は聞き取れたかな、1986年と87年にやってた「Merry X'mas
Show」を観る幸運に恵まれた、全国800万人(推定←ウソ)の音楽ファンの皆さん。
昼に年始に来るはずの息子から10時ごろ電話が入った。
「おばちゃんとこにはもう行った?オレも今から行こうと思うんだけど」
我々が毎年お年始に行っているおうちに、子供の頃から世話になっている彼も行く気になったらしい。
いいことだ。
「母さんたちは年末にもう行ったから、あなただけでも行っとくといいよ。カノジョも一緒?」
「うん」
あいかわらず能天気なヤツだ。
彼女ができるとすぐにあちこちに紹介したがる、ある意味フランクっつーか、大らかな人だ。
私も中学の頃からそうだったなぁ。
けっこう親からはひんしゅくを買ったのに、それに気付かないぐらい能天気だった。息子以上かもしれない。
そんなわけで約束通り13時に2人がやって来たので、今年はなんだか幸先がいい。
お雑煮を食べ、タンドリーチキンやローストビーフ、おでんなどの無国籍料理でもてなした。
もっとも、息子はおばちゃんちでたっぷりご馳走をいただいてきたらしくてあまり食べず、カノジョの方もご馳走攻めにあったのだろうに、果敢にお雑煮のお餅を「2つお願いします」とリクエストしていた。
その意気や良し。
おばちゃんが持たせてくれた黒豆も食卓に並べて、楽しく過ごした。
息子は、1週間後にはアパートを引き払うそうで、てっきり彼女のアパートに転がり込むんだと思っていたら、向こうのお母さんから「待った」がかかったらしい。
そりゃそうだよねぇ、近々バイトすらやめる予定でふらついてるカレシが転がり込んできての同棲なんて、まともな母親だったら反対するだろう。
感心するのは、つきあうこと自体には何の口出しもないのだそうだ。
理性的なお母さんだなぁ。
息子はあいかわらず妙に威張っていて、
「オレはちゃんと論理的に話したんだけど、理解されないんだよねぇ」とうそぶく。
なまじ言葉遣いとかていねいで慇懃無礼なだけに、私が聞いてても腹が立つわ。
「ご心配でしょうけれども、きっときちんと生活を立て、協力して誠実な暮らしをします」と一生懸命に頭を下げる場面だろに、まだ何も形にしてないコント論をぶってもねぇ・・・
まあ、並んでお雑煮を食べている2人は互いを大事に思っているカワイイカップルだったよ。
我々には態度の良くない息子も、彼女に何かを説明する時には優しい声で穏やかに話す。
「この人(息子)はけっこう高飛車で横暴でしょう」とカノジョに聞いたら、少しきょとんとして、
「えー、高飛車ですかぁ・・・?全然そんなことはないですよ・・・」と困惑していた。
うん、カノジョに優しくしてあげてればいいよ。
アパートを引き払ってしまうので、当面住むところがないらしい。
「家に戻って来るとか、言うなよ!!?」と身構えていたら、先輩が仕事場に使っているアトリエの隅に間借りするらしい。
それもまた青春だ。
もう1週間もすれば引っ越しなのに、「住所はどこになるの?」との問いに帰ってきた答えは、「さあ。知らない」。
若者は、面白いなぁ。
今、息子は「インプロ」と呼ばれる即興的なコントに夢中になっている。
サンフランシスコとニューヨークの両方で学校に通ったのだそうで、もともと目指していた「演劇性の強いコント」に通じるものがあるのだそうだ。
日本にもすでにワークショップがあったり吉本が手掛けたりはしているが、まだまだ新しいジャンルなので、面白いことができるかもしれない。
仲間を集めて練習会を開いたりして啓蒙活動をしているところだって。
カノジョを指差して、
「この人にもちょっとエチュードをやってみない?って勧めるんだけど、恥ずかしがっちゃって。簡単にできるゲーム的なものもあるんだけどね」と言うので、
「はいはいはいっ、母さん、それやりたい!教えて!」と手を上げたら、息子は苦笑いしてカノジョに、
「ほらね、オレの母さんって、ホントにオレに似てるんだよ。好奇心が旺盛でね」と言いながら、やり方を教えてくれた。
2人で交互に「1、2.3」とカウントして行くだけなんだが、「3」は言っちゃいけない。
私が「1」と言ったら息子が「2」と返し、そしたら私は「3」と言わずに無言。
そのまま次は息子が「1」と言って・・・の繰り返し。
これはまあそれほど難しくないけど、次に、「1」の時は数字を言う代わりに指を鳴らす。「パチン」
「2」はこれまでどおり数字を言って、「3」では無言。少し難しくなってきた。
「赤上げて、白下げて、赤上げないで、白上げて」みたいな感じだね。
「もっとみんなでやる面白いのもあるんだけど」と言われて、もちろん私は大乗り気。
大内くんも「面白そうだね、やろうやろう」と喜ぶので、息子はますますおかしそうに笑って、
「ホントにオレの両親だよねー」と言っていた。
それって、親としては勲章だよ。
「親にだけは似たくない」って言われないで済むのは、ここまでの人生の勝者だからね。
リレーストーリーを作るゲームで、英語だとワンワードでつなぐらしいけど、日本語だから一文でいいって。
大内くんが話をぶちこわす傾向があるのを指して、息子が「オヤジは、ヘタ。人と協力して話を作るって作業ができない。異常な方へ持ってけばいいと思ってるでしょ!」と喝破する一幕もあり、まことに人格も性格も出る恐るべきゲームだと思った。
合コンで、王様ゲームなんかやるよりもこれやった方が、どの人をお持ち帰りすべきかが一目瞭然になると感じ入ったよ。
とても楽しい話をたくさんして、息子はアメリカに行く前とは人変わったようにほがらかで愛想が良く、私にもとても優しかった。
帰りがけに玄関先で「今日はハグはないの?」と両手を広げたら、カノジョがいるから恥ずかしかったのか、
「また今度ね」といったんはドアの向こうに消えたのに、次の瞬間ドアをバタンと開いて、「ウソだよ〜ん!」とビッグハグをしてくれた。
「握手でいいよ」と腰が引けてた大内くんにも、ついでに「はぐはぐ」
口々にお礼を言って2人が帰ったあとは寂しかった。
この寂しさこそが、手元に置いて育ててきた子供を手放す儀式にもれなくついてくる感傷なんだろう。
健康に育て、人の愛を教え、他人に心が震えることを知る日まで面倒みた。
ここらで終わろう。
あとは、ある時期に深くかかわった者として、彼らの幸福を祈ろう。
19年1月2日
友人女性2人を招いて、毎年恒例「小さな新年会」。
KちゃんとMちゃんは同じ高校出身で、中学時代から成績優秀だったのにマンガの方向へひゅーっと飛んでいった変わり種だ。
1人はマンガ家になり、もう1人はデザイン関係の仕事をしたり翻訳をしたり工業デザインの仕事をしたり、まあそれぞれ。
ほぼ毎年我が家のリビングで「小さな新年会」を楽しんでくれる。
大内くんが料理を作ってホスト役に徹するので、やや落ち着かないかな。
いつも、親しい方のKちゃんを時間差で先に呼ぶ。
2、3時間おしゃべりをしていると、Mちゃんもやってきて、10時ぐらいまで飲んで食べて憂さを忘れるという正統派の忘年会。
大内くんもいるので完全女子会とは行かないが、私があまり女子会に向いたウェットな性格でないところに、大内くんは実は女子力の高いニュータイプなので、当面うまく行ってる。
しかし、元々遅刻魔のKちゃんは、いかん。
私としては早くからおしゃべりを楽しみたかったので「1時に来てよ。Mちゃんには4時に来るようお願いしておいたから」と頼むと、
「えー、1時はちょっと早すぎるわ―」との答え。
じゃあってんで、2時ならどう?と聞いたら、2時ならなんとかだそうで。
例年の如く、彼女が来たのは2時半をまわった頃だった。
2時に「今、駅に着いた。これから歩いて行きます」とメッセージが来て、うちまでは徒歩30分以上かかるので、こういう場合はバスか、人によってはタクシーに飛び乗るんじゃあるまいか。
現れた本人にも聞いてみたよ、「なんでタクシーとか乗らなかったの?」と。答えは、
「ここに来る時は、ゆっくり散歩するって決めてるから。気持ちいい道なんだもん」。
だったら、もう30分早く出てくれ〜!
彼女の遅刻を厳しくとがめたのは何年ぶりかで、今思うとすでにこっち側の不調がにじみ出ていたのかもしれん。
彼女は「決まったとおりのことをすると思うだけで気が重くなり、出来ればアドリブで楽しく切り抜けたいタイプ」、そして私は、決まった時間に決まったことが起こることが心の平安の大元なのだ。
運命の女神の呪いを受けた、不幸な出会いと言えよう。
そのあともう1人のゲストMちゃんが来ての新年会はとても楽しかった。
酔っ払った男どもが下ネタ炸裂させてるのもキライじゃないが、やはり楽しげに笑いさざめく同性ほど心和む眺めはない。
「私たち、もう40年ぐらい知り合いなのよね〜」「ほんとだ〜」と盛り上がっていた。
おひらきになり、酒を飲まずにいた私が車を出して2人を家まで送ろうと申し出たら、喜んでくれたが、遅刻友人Kちゃんの方は、
「え?送ってもらっていいの?てっきり居残りでお説教かと・・・」と笑み崩れていた。
カワイイじゃないか!
大内くんも手伝って慰留し始めたので、めでたくその夜は彼女が泊まって行って、ひと晩みっちりお説教したのでした。(ウソ。さらにワインを1本あけてらちもない話をしただけ。いやー、でも、楽しかったなー)
自分が、他の人とは距離感が大いに違う、と一番感じるのはこの友人と話している時だ。
お互い、「友達」とくくってもどこからも文句は出ないようなつきあいをよくも何十年も続けているなぁと時々不思議にはなるが、私から見ればこれほど変わった人が社会生活を営み、あまつさえフリーとは言え仕事もしていることを思うと、人間の潜在能力の果てしなさにひざまずきたいほどの畏敬を感じる。
きっと向こうも私のことを、「あれでよく生きてるなぁ」と首を振り振り眺めているに違いない。
人間って、千差万別ですね。みんなちがって、みんないい。
19年1月3日
お正月休みの最終日は、友人宅を訪問。
お子さんが4人も駆け回ってる関係で、にぎやかで勢いあふれた新年を味わうことができた。
糖質制限中の我々のために牛・豚・鶏すべてを調理して「肉にくパーティー」をひらいてくれて、ありがたい。
我々も、1人女王様のSちゃんには、おみやげに持って行ったクッキーのうち、宝石のようなジャムで飾られた美しくも美味しいクッキーの別箱を特別に献上する。
楽しい楽しいパーティーになるはずだったのに、大内くんったら、
「車を停めてきたところが心配だから、見てくる」と言って途中でで行ったきり、適宜連絡は寄こすものの、「結局、満足の行く場所に停めて戻ってきた」のは1時間以上たってから。
ホストたちは大内くんが戻るまでメインの料理も作れず、でも子供たちには先に食べさせたいしで、ちょっと困惑しながら大奮闘してた。
やっと戻ってきたので開口一番「どれだけ時間がかかったと思ってるの?!1時間だよ!」と叱りつけると、驚いた顔で、
「?もう1時間もたってた?30分ぐらいじゃない?」」とのたもうた。
「1時間だよ!みんな、心配するじゃない。もっと臨機応変にやらなきゃダメだよ。鼎の軽重をわきまえてよ。今日の主眼は楽しく訪問することで、車を停めることじゃないでしょう!TPOがなってない。自分は一生懸命やってるつもりでさわやかかもしれないけど、周りが胸を傷めるから、1人苦労ほどほどに!もうちょっと行くと、それは『スタンドプレー』ってやつだよ」と説教してしまった。
大内くんは、自分の犠牲で皆が楽しくやれるなら、と考える滅私奉公の美しい心を持っている。それは確か。
ただ、「オレがやらなきゃ、誰がやる!」とにわかに殉教者の衣をまとってうっとりする傾向も否めない。
大学時代、伊豆の民宿にみんなで泊まりに行った。
夜も更けて、酒も入り、男女入り乱れてなんだかとっても楽しくなってたところへ、隣の部屋の酔っ払いのおっさんが乱入してきた。
かなり酔っていて呂律も回らず、何が言いたいのかがすでに判別不可能。しきりに一升瓶を勧めながらわけのわからない議論を吹っかけてくる様子。目は坐っているし、暴力をふるいそうな気配もある。
宿の人に知らせに行ったが、あいにく留守だった。
女性たちもいたことだし、ここはひとつ、避難も兼ねて皆で海辺に散歩しに行くことにして、酔っ払いおじさんを宿に残して行こう、とひそかに話がまとまった。
みんなでサンダルを履いて民宿の外へ出たら、1人足りない。
「どうせ、あの野郎だ〜!」と怒りに燃えて補足に走ったら、果せるかな大内くんだけは、おじさんの部屋で酒を酌み交わし始めている。
怒りを抑えて、「大内くんも、海を見に行こうよ。綺麗だよ」と声をかけたが、彼は酒に酔っているのと、誰も相手をしてあげない気の毒なおじさんと酒を酌み交わして魂の会話をする、というロマンに完全にダブルで酔っているようだった。
「何かあぶないことがあったら宿の人の責任にもなるし、あなたに万が一のことがあったら、あなたを残して逃げ出してしまった他の人たちにも辛い思いをさせるでしょう。こうしている間にも、あなたのことを心配して、遊ぶに遊べない状態なんだよ。一緒に、みんなのところに戻ろう」と手を取って連れ出そうとしたが、
「いや、僕は僕のしてることはわかってる。話を聞いてあげさえしたら暴れたりしないでおだやかに話せる人だよ。落ち着いたらみんなのとこに戻るから」と聞かない。
結局誰もけがやいやな思いをこうむったわけではないが、自分1人が犠牲になって他の人を助ける、という英雄的行為に酔ってる大内くんが、その時の私にはとても嫌だった。
誰かが残らなければならない状況なら別だろうが、全員で海辺へ出て花火もして、おじさんが酔いつぶれるなり宿の人が何とかしてくれるのを待てば、それで良かったはず。
なんでわざわざ人身御供になるのかねぇ。
とまあ、長くなったけど今回のこともそれに似ている。
「こんなに頑張ったオレに逆ギレするなんて、ひどくない?」とさらに逆ギレするのもいや。
心配したあげくに逆ギレされるのって、不幸だよ〜
いつものように帰りの車の中は修羅場になった。
いろんな解決案が出た(もちろんほとんどは私からである)中で、「息子に相談してみよう」が大内くん的にもヒットしたらしい。
大「もしもし、父さんだけど、また母さんとケンカしちゃったんだよ。かくかくしかじかでね」
息子「あー、それはオヤジが悪いわ。誠心誠意、謝るしかないんじゃない?」
大「もう謝ってるんだけど、許してもらえないんだ」
息子「そうは言っても、謝り続けるしかないでしょう。どう考えてもオヤジが悪いんだから」
大「なんか、手伝ってもらえない?」
息子「んー、じゃあ、あとで母さんあてに何か書いて送っとくわ」
大「お願い。いつもいつもすまないねぇ」
息子にも大内くんが悪い!と喝破されたことで少し溜飲が下がって家へ帰ったら(そうです、それまで、帰り道の路肩に車を停めて車内痴話ゲンカしてたのです)、息子からメッセージが。長文だ。
「お父さんは僕と似て自分勝手なところが多々あると思います。自分の世界というか、閉鎖空間に生きてきた時間が長いので、他人を慮るという機能が半ば抜け落ちた、ロボット以上、人間未満、のような愛すべき人です。(中略)人間はどこまでいっても人間同士で支え合う必要があり、その上で「相手の気持ちを想定する」というのは必須の機能のようです。僕はそう感じています。(中略)まあ、お父さんは現在、今日の自分の非道なレスポンスを反省しているようですので、許してくれると嬉しいです。ただ、この文章はあくまで助力ですので、お父さんの口からこの件に関しての総括をしっかりと聞いたうえで、「許す」「許さない」はお母さんがジャッジを下してください。それではまたお会いしましょう」
あまりの名文に感動したので、つい、「父さんは逆ギレするからイヤだ」と愚痴をこぼしたところ、
「どんなに自立できてなくても、逆ギレはしなくなったかもなぁ、僕は」という返事が来た。
「自立していないこと」を巧みに既成事実化した腕前を読んで2人して大笑いしてしまい、ケンカはなしくずしに仲直りした状態になった。
そこまでを見越しての捨て身の作戦なら、大したものだ。
しかし、大笑いしたからと言って、長年積もり積もった「何度言ってもわかってもらえない」ストレスは消えなかった。
この晩から、1年半薬なしで元気に過ごしてきた反動が一気に吹き出し、ある意味、前以上に重いうつの症状が出てしまい、正月明けでもやっている病院を探して急遽薬をもらいに行く羽目になった。
そしてもらった薬は強く、眠気と多幸感にうとうとしながら新年を過ごしている。
19年1月4日
遊びすぎたか何かのストレスが決壊したか、この1年半抑え込んできた持病のうつが再発した。
夜中に突然、「もう生きていられない」と号泣し始めたのに驚いた大内くんは、三が日が明けたばかりだというのにやっているクリニックを探し出して来てくれた。
その結果、今、抗不安薬をのんでじっと丸まっている。
派手な断薬をして袂を分かった元の医者は敷居が高く、そうでなくても5分だけ話をして毎回増えていく一方の薬に疑問を持っていたので、今回は別のクリニックを選んだ。
20年前とはずいぶん様変わりし、気軽に訪ねられそうな洒落た医院が増えていた。
心療内科のドアを出てくると駅前の雑踏、というのはなんとなくいただけない。
恥じるわけではないが、何かと心がナイーヴになってる時なんだから。
マンションの1室のような、しかしまったく閉鎖的でない明るい雰囲気の部屋で会ったドクターは、私の訴えを聞いて、
「死んじゃったら、大変だからね、人間、生きてなくっちゃしょうがない」と親切に言ってくれた。
滂沱と泣きながら
「いや、死ぬのは全然かまわないんですけど、やっぱり自殺は少し怖くて。主人や子供も驚くでしょうし、なるべく回避したいところです」と説明する患者は、いったいどう見えただろうか。
幻覚や妄想、深刻な肉体的不調を伴う離脱症状に悩まされながらやっとの思いで断薬したのに、結局戻ってしまった。
この1年半、つらくてももうあの生活には戻るまいと歯をくいしばって耐えてきたのは何のためだったのか。
かなりの挫折感に襲われている。
でも、ゾンビの群れに襲われて、人間最後の砦を死守してきたつもりが、ついに襲撃に屈してゾンビ化してみたら、
「な〜んだ、ゾンビってあんがい楽じゃん。あんなに抵抗しないでもっと早くゾンビ化すればよかったかなぁ」とあっけにとられているような感覚もアリ。
10年ほど前に主治医の引退に伴って転院した時に、20年の歩みを記録した紹介状を書いてくれた。
ところが、古風な精神科医である主治医の書いたそれは、手書きの字が読みにくくて、ずっと話し合ってきて内容を十分承知している私ですら「え?なんて書いてあるの?」と首をかしげるような書類であった。
果せるかな、紹介状を受け取った次の先生は「えー・・・うーん・・・」と絶句し、
「大内さんは、この内容をご承知なんですか?」と聞いてくるので、
「はい、だいたい把握しています」と答えたところ、
「すみませんが、ワープロで起こしてもらえませんか?」と依頼された・・・自分の半生が綴られた診断書を読むのみならず書き起こす女・・・
はい、自分についての理解がいっそう進みました。
今回、8年ぶりぐらいにその書類を読んでみて、なんだか吹き出してしまった。
「現夫(前夫も大学時代の「マンガ研」の仲間。入院中、毎日のように見舞っていた)のプロポーズにためらいながら応じて再婚。夫に著しい愛着欲求。長年、育児全面的に依存。ブログにミステリ評を書き込む、仲間とのパーティーを主催する顕示。批判されたり、親しい仲間が当日不参加となると、見捨てられ抑うつで怒り、顕示の企てのすべてを断念し、抑うつ状態で好褥」
明らかに先生が勘違いしてるのは「ブログにミステリ評」のくだりね。
ホームページとブログの違いを言い立ててもさすがに意味はないけど、私が描いてるのは単なる日記で、ミステリ評書くほど読んでませんってば。(ミステリの好きな先生だったので、勘違いされたのだろう)
あと、「好褥」ってのは布団にもぐってぐずぐずしてることを指す精神医学用語ですかね、初めて聞いた時は、「いい言葉があるなぁ!」って心強く思いました。人間、レッテルを貼られると安心するもんです。
いずれにせよ、家事育児を大内くんに丸投げして、日記を発表したり宴会を開いては「私ってスゴイでしょ?」と自己顕示していたわけ。
それで参加者に遅刻やドタキャンをされると、
「嫌われている。私との約束はあの人にとって何の意味もない」と「見捨てられたとの思いから落ち込む『見捨てられ抑うつ』」に陥り、1人で怒りまくってふて寝してた。
オソロシイことに、たった今起こってることもほぼ同じ。
「なぜあの人は約束した時間に来てくれないのか。なぜ大内くんは私が何度も言ってることをわかってくれないのだろうか。彼らにとっての私は、取るに足りない、踏みつけにしても気づきもしない存在なのか?!」との絶望的な怒りに身も世もない。
何十年経っても人は変わらないもんだなぁ。
身体をこわすほどの大量の投薬療法や苦しい認知療法はいったい何の役に立ったというのか、とうちひしがれて、何もかもイヤになってる←今ココ。
いろんなことが積もったこの1年半だったけど、ラストストロー(最後の一撃)は、友人の遅刻。
私「ゆっくり話したいから、1時に来てほしいなぁ」
友「私にとって1時は早すぎる。ギリギリ、2時」
私「わかった。じゃあ2時に待ってる」
というやり取りがあったにもかかわらず、当日の朝に「段取りが順に押してまして・・・2時はまわりそうです。ごめんなさい。3時までにはうかがいます」と言ってきた。
午前11時の時点で2時に遅れる予告をしてくるってのは、仕事人としては有能かもしれないが、「あなたの順番は繰り下がりました。重要な順に片づけて、終わり次第伺いますので、待っててね」ってことだよね。
早起きして2時にはお迎えできるように掃除してお料理作って、会えたら何を話そうかと段取りする、そのすべてがノックアウトされた気分。
それでも泣き顔のスタンプを送ったら、「ごめんなさい!がんばります!」と返ってきたので、
「ああ、やっぱり私を悲しませないように急いでくれるんだなぁ」と胸を熱くしていたら、2時(本来、我が家の玄関についてるはずの時間)にメッセンジャーで、「ただいま吉祥寺から歩いてます。今しばらくお待ちください」との連絡。
なんでそこで歩くの?!!うちまで、たっぷり30分かかるんだよ!?
オトナならタクシーですっ飛んでくるし、せめてバス。
そして、2時40分にやってきた彼女にそう文句を言ったら、驚きのひと言。
「で、待ち合わせは何時だったんだっけ?」
足も腰も力が抜けてへなへなと崩れ落ちそうだった。
「2時と言った記憶がないなぁ。そもそも、時間決めてたっけ?」
「何にせよ、こっちは待ってるって泣き顔スタンプまで送ってるんだから、バスに乗ればいいじゃん!」
「いやぁ、ここに来る時は、ちょうどいい散歩道なんでのんびり歩いてくるのがデフォルトなんだよね〜」
では、2時に着けるように早く出て、いくらでものんびり歩いてきたらよいではないか、との答えを飲みこんで、1年半ぶりの重いうつ状態に返り咲いた、というわけ。
彼女には私の要求が過剰に想えたのだろう、苦慮したあげくに放ったのは、
「あんまり私のテリトリーに入ってこられると、静かに遠ざかるしかないね」というセリフで、何でも話し合いで解決しようとする私にとっては最後通牒の脅迫だ。
「人間が違うんだから、キミが期待してるような結論には決してならないよ。僕はこれ以上キミが傷つくのは見たくない」との大内くんの意見ももっともだが、わかり合えない同士にとっての最後のよりどころが「合意できた約束」だと信じてきたので、「約束?そんな昔のことは覚えてない」という洒脱な生き方について行けない無粋な人間なんですすみません、と倒れている。
すべての人に好かれることはできない。
すべての人を好きになることもできない。
目の届く小さな庵を建てて、何も期待しないで過ごそう。
裏に林があって、理不尽な目に合わせやがって、との想い断ち難い相手には夜な夜な五寸釘を打つのも、ひとつの生き方かもしれない。
友人の遅刻も決してほめられたものではないが、私にはいささかコトを大きくしてしまうトラウマがある。
小さい頃からわりとパンクチュアルだったため、母と姉が「デパートに行くわよ〜」とか言い始めると、
「何時に、どこにいればいい?」と必死で聞いていた。
「午後3時に玄関に集合ね」と言われれば、3時5分前からお出かけの格好に身を包んで完全にスタンバイし、あとは靴を履くだけ、って状態で待ってた。
その時、母と姉が何をしているかと言うと、口紅をつけたりあーでもないこーでもないと服をとっかえひっかえしたりの「お出かけの支度」をしている。
もちろん玄関に集合したりはしない。
「もう3時だよう」と地団太を踏むと、2人は大仰に吹き出し、
「本気で玄関で待ってるなんて、バカじゃないの?!出かける用意ができたら出かけるわよ。そのぐらい、わかるでしょう!」と朗らかに笑い物にしてくれた。
「予定は未定で、確定じゃないんだから!」という迷セリフもこのころ覚えたんだろうなぁ。
なにしろ、実際のお出かけの時間は4時をまわるんだから。
そんなわけで、私は時間を守れない人、守らない人を見ると、私の人生に大きく影を落としたこの2人の女性を思い出さずにはいられない。
反動で異常に時間厳守の人となり、中・高時代のあだ名は「定刻5分前の大内さん(旧姓)」だった。
人間だからもちろん遅刻もするが、そんな時の罪悪感と冷や汗の流れ方は尋常じゃない。
家族の行動を把握しておくのが好きな母は、出かけようとしているとよく車で送ってあげる、と申し出た。
バス便の多い名古屋では、自家用車の方が確かに便利だ。
しかし、私は可能な限りその申し出を断り続けた。
遅刻しないで目的地に着くために1時間から30分のゆとりをみる私からすると、時間ぎりぎりになっても「まだ大丈夫大丈夫」と言い続けてなかなか出発せず、いざ遅刻しそうになると、
「しょうがないじゃない、道路が混んでるんだから!あんたは細かくてうるさい!」と不機嫌になって怒鳴る母の車に乗るなんて、竜の咢に飛び込むようなものだ。
遅刻魔Kちゃんに「怒りすぎて、ごめんね」と言いたい気持ちはやまやまあれど、それぞれのトラウマってのは越えがたいんだよ。
彼女は、異常に拘束を嫌う。
「何時に、どこかへ行って何かをしなければならない」と考えただけで、なんとかしてそのくびきを出し抜き、回避し、はるか彼方へ逃げ去りたくなるのだろうと想像する。
一方の私は、約束を守ることに生きがいを感じ、期待されるその時その場所に存在する、そのために生きているといっても過言ではない。
誰かに必要とされ、そのニーズを満たすために自らの身を捧げて5分かそこら「誰かを待つ」行為が大好きなのだ。
こんな2人が待ち合わせをする・・・大概の場合立会人兼傍観者である大内くんの胃がキリキリと痛むのも無理からぬ話だ。
それでも、この世で一番好きな女性の1人に間違いなくカウントされる相手なのだから、人間っつーのは思い通りにはいかないものだ・・・
ドクターとは、軽い薬をのんで日常生活を落ち着かせてからいろいろ考えましょう、という合意に達した。
「カウンセリング、なんてのも人によっては有効ですけどね。あなたももういい年だし、いろんな経験をしてきているから、自分より経験豊かな人の言うことでないと聞く気にならないでしょうから、むずかしいですよね。話し相手がいるだけでもいい、って方もいらっしゃいますが、あなたの場合、ご主人がよく話し相手になってくれるようだし、夫婦で話し合って行かれてはどうですか?どんな人間でも、2人いれば小さな社会ですからね。夫婦が依存し合うことは全然いけなくないですよ。よくね、共依存だなんて悪口を言う人もいますけど、夫婦が助け合うのはこれはもう当然のことですから。もちろんうまく行ってる夫婦の話ではあるんですが」
というわけで、過度の宴会を開くことを禁じられ、休息中心のおだやかな生活を送ることを大内くんに約束させられ、しばらくはぼんやりと過ごすことになりそうだ。
でも、この1年半、自分の人生を自分の手に取り戻したような気分になって過ごしたのは悪くなかった。
「それが、もっと無理なくできる日が来るんだよ。誰を見返す必要もない、自分が心からしたいことだけをおだやかにして行ける日が来るんだから、その日のために、もっと身体を大事にして楽しい生活にそなえようね」と言ってくれる大内くんは、いったい前世にどんな徳を積んでいるんだろう?ちょっと、そこらのおっさんが言えるような内容じゃない気がする。本気で布教とか托鉢とか始めたら、ついていっちゃいそうだ。
19年1月6日
息子が遊びにきた。
先日ケンカの仲裁に入ってもらったので立場が弱く、彼の大好きなかぶの味噌汁と、新作の「ミルフィーユ鍋」でもてなした。
「オヤジはさぁ、そこそこ経済的にも豊かだし、幸せに生きてると思うのに、どうしてああいう時に意地を張るって言うか、素直に流せないのかねぇ。やっぱり、何かのヘンなトラウマがあるのかねぇ。ま、母さんも苦労をかけるし、あらためた方がいいよ」と正月から息子にエラそうに説教をされ、しかも一言も返せない大内くんであった。
「誰も、お年玉くれないんだよなぁ」とのつぶやきを聞いてないふりしたのだけが、家長としての最後のプライドかもしれない。
バイトも替わり、引っ越しもするつもりらしい。
そのすべてのディテールをまったく教えてもらえないのが、今の彼と我々の関係だ。
まあ、新しい女ができるとすぐに紹介しに来る程度の距離感なので、新しい仕事や家も遠からず知らせてくると思う。
ちなみに今度の彼女はもう1年半もつきあっている上、売れないコント師の彼を仰ぎ見て支えていく気満々の得難い賢女である。
私としても、かなうかぎり大切に遇したいと思う。
いい子なんだよ〜。
息子の女の子の趣味がいいのは、まったくもって七不思議としか言いようがない。
結局、家庭環境がいいのよね♪
「母さん、また具合悪くなっちゃった」とぽつりと言ったら、
「しんどいの?無理しないでね。いろんな時期があるよ。きっとまたよくなるから、ゆっくり休んで」とだけ言って、温かいハグをして帰って行った。
いろいろ難しい道を歩んでる彼だが、人間としての道は大きくは踏み外していない気がする。
そこが一番大事なとこだ。
19年1月8日
今まで、自分の病気のことはあまりはっきり書かないで来た。
大内くんの仕事に障るかとも思ったし、子供が小さいうちは正直言ってママ友達の目も怖かった。
なにより、主治医によれば小学校高学年で既に発症していたとされる「人格障害」は、当時まだまわりの理解も少なく、「異常性格」「反社会的人格」と取られかねない時代だったと思う。
私自身、「アダルト・チルドレン」という言葉は聞いたことがなかった。
23歳での自殺未遂をきっかけに主治医になってくれた大きな病院の部長先生は、当時には珍しく保険診療の中で可能な限りのカウンセリング的な時間を取ってくれる人だった。
「大内さんは、まず本を読むところから入った方がいいかもしれません」と渡されたマスターソンの「境界例」は心理学用語に満ちていて難しかったが、逸話よりも理論から物事を読み取る傾向が強かったので、先生の見立ては正しかったのだと思う。
幼少期に適切な愛情の補給を受けられなかったため、世界が自分にとって安心できる場所でないこと、他人は取引をするべき相手であり、条件付きでない愛情は存在しないのだ、といった世界観が身についていた。
とは言え、私の家庭はごく平凡な中流家庭で、父親は相応の学歴と職歴を持ち、姉は優等生で、変わった子だと眉を顰められていた私でさえ、素行が多少怪しいことを除けば「頭のいい児童」の一群だった。
早熟で本ばかり読んでいたことと死について考えることが多すぎる点をのぞけば、ごく普通の家庭の子女だったろう。
ただ、私の子供時代に決定的に足りなかったのは、「自分は、どんな人間であろうとも価値のある人間だ」いう人生の基本的な指針だった。
良いことをすればほめられ、悪いことをすれば叱られる、そんな簡単なルールすら存在せず、私のすることはいつも「どうしてそんなことをするかわからない。何が面白くて」とため息をつかれ、しまいには、「あなたはこんなこと、好きじゃないでしょう?こういうことが好きでしょう?」と好みを既定された。
「お姉ちゃんはいい子なのに」としじゅうため息をつかれ、その「よい子」の姉からは年の近い姉妹というよりは「第二の母」のようにふるまわれた。
実際、私は思春期に至るまで、彼女のことを内心では「チイママ」と呼んでいた。
めずらしく同年輩の気安さから打ち明け話をすると、翌日にはその「秘密」は母にご注進されていた。
もっと悪いことに、私は姉を好きでも嫌いでもなかった。
趣味も考え方も何もかも違っていて、ひとつも共感できるところがなかった。
もしもなにかの拍子に同じクラスになったとしたら、1年間、最低限の挨拶はしても彼女の内面には全く興味を持たず、何のつきあいも生じないまま別れて行って一生思い出さないような、そんな人だった。
そんな相手が、ことあるごとに、
「誰よりもあなたのためを思っているの」「あなたは私の大切な妹だから、何をおいても守ってあげたい」「あなたの気持ちは、本当によくわかるの」と話しかけてくる。
同じ本を読んで語り合うこともなく、同じ冗談に笑うことすらない(何しろ彼女は冗談が一切通じない人なのだ)、思春期の嵐の中でそんな相手と何を共有すればいいのか。
長じるにしたがって、こういうことが起こってきた原因がわかってきた。
母は、肉親の愛に薄い人で、両親をそれぞれ病気で若い頃に亡くし、特に愛してやまなかった母親とは自分自身若い身空で重い病に倒れて入院していた時、同じ病院に入院していたにもかかわらず死に目に会えなかったという悲劇に見舞われている。
その後も姉妹たちと引き離されて、親切ではあっても気兼ねの多い親戚の家を転々とする思春期を過ごし、奇跡のように父と出会い恋に落ちた時には、彼は白馬の王子様に見えたことだろう。
病気がちで、成績は良かったのに学校を断念せざるを得ず、両親もなく財産もない母に、帝大出の地方の名家の長男が熱烈な恋をしたのだ。
帰省の列車で隣り合って坐ったというだけで手紙攻勢を通じてプロポーズしてきた父が、どれほど素晴らしく見えたかは想像に難くない。私だって、くらっときただろう。
ただ、カケオチ同然で結婚してみると、父はやはりただの昭和の男だった。
誰も知った人のいない名古屋に連れてこられて最初に言われたのは、
「じゃあ、アパートを決めておいて。オレは友達のところに行って来るから」のひと言。
新天地での生活では、父は会社に行って給料を運んでくるだけで、それ以外のすべては、母の双肩にのしかかってきたのだ。
熱烈に請われて結婚したはずなのに、この扱いはどうだろう。
「サラリーマンの妻」の役割に押し込められて、気がつけば夫とは日常会話もない。
肉親の縁に薄かった母が最初の子供を産んだ時も、夫は産院にすら来なかった。(一説によれば雀荘でマージャンをしていたらしい)
母にとって、この小さな赤ん坊は、彼女が失くした家族のすべて、有り余る幸せを受けるべくこの世に降り立った「自分自身」だったのだろう。
以来、よくある話のように、母の生活は長女を中心に回って行った。
熱を出したからと言って心配そうな顔すらしない夫はもはや当てにせず、おんぶひもで背中にしょって病院に走る。
離乳食も、当時出始めていた「科学的な育児法」にしたがって大匙いっぱいの味噌汁の上澄みを飲ませるところから始めた。
ちなみに、私が自分の子供を産んだ頃に「離乳食って、どうしてた?」と聞いたところ、母の答えは、
「さあ、あなたの時は、気がついたらちゃぶ台に坐ってオトナとおんなじものを食べてたわねぇ」であった。
これほど、第一子とそれ以降は差がつくのである。
一度は愛した夫よりも、何度もおなかを痛めて産んだ子供よりも、自分の生まれ変わりとも言うべき最初の子ほど可愛く崇高なものはこの世に存在しないのだ。
それほどに、母親たちは顧みられていない。
自らをを投影してこの世のすべてと思いこんだ存在を、誰もが羨む素晴らしい存在に育て上げることこそが、多くの子供をただ死なせないように目を配る代わりに、現代の母親という崇高な職業婦人に課せられた神聖なる使命なのである。
話は少しずれるが、最後に、私が姉を完全に見限ったエピソードを記そう。
驚くべきは、それがまだ小学校に上がる前の記憶だという点だ。
当時、近所に我々姉妹を可愛がってくれている老婦人が住んでいた。
私は誕生日が近づいていたので、自分の大事にしているお人形さんに新しい服をたくさん作ってもらう約束をしていた。
当日の午後、人形を持っていさんで老婦人を訪ねた私が言われた言葉は今も忘れられない。
「あら、午前中に、お姉ちゃんが人形を持ってきてこれはあこちゃんの人形だから、洋服を作ってあげてって言ってきたのよ。たくさん作ったから、もう余ってる布はないの。作ってあげられないわ」
青ざめて家に取って返して姉を詰問すると、彼女はまったく悪びれないしれっとした顔で言ってのけた。
「2人の人形だから、どっちの服でもいいじゃない?あなたの人形は服もないことだし、召使いってことにしたらどうかしら」
5歳にして、人間なんてやつはもう誰も信じないぞ、と心に固く誓った瞬間であった。
以来、私は家の鬼っ子であり続け、成績が良かったことを盾に東京の大学へ行くことを主張した。
母も、深夜徘徊や自殺企図を繰り返す娘にはほとほと手を焼いていたのだろう、「世間体の悪くない合法的な家出」としての上京は歓迎された。
「家から通える国立大学しか許さない」と言われて律儀に守った姉としては、「なんであこちゃんだけ」と茫然としていたが、ずっと家に置きたい良い子の娘と早く出て行ってもらいたい不良娘の違いはいかんともしがたかったわけで。
大学を出て、郷里に帰ろうなどとは微塵も思わずに早い結婚をした私は、いろんなことに気づいた。
私の中にはいつも母がいて、あれをしてはいけない、これをしなければいけない、と耳を聾さんばかりの声で指図をする。
その頃主治医となった先生の処方箋は、とても変わっていた。
「母と連絡を取らないこと。荷物も受け取らないで、出来ればご主人に頼んで送り返してもらうこと」ぐらいは、「ああ、母の影響を脱するために荒療治をするんだな」と納得がいったが(納得できることと従えることはまた別であった)、奇妙すぎてバカバカしく、従う気にならなかったのは、「タオルを、乱雑に畳むこと」であった。
先生によれば、母は異常なほどタオルをきちんとたたむ。
私もその影響下にあり、タオルをきちんとたたまないと仏罰が下るとかそんな類の恐怖を抱いている。
タオルはタオルに過ぎず、ほったらかしてたたまないでおいても何も恐ろしいことは起こらないから、それを体験してほしい、とのことだった。
子供が生まれたばかりの私には、畳むべきタオルは山ほどあった。
母がしていたように、ホテル仕様のようにきちんと方向をそろえてたたみ、同じ向きに整然と並んだタオルの山は見るからに美しい眺めだった。
「綺麗に畳んだ方が気持ちいいじゃない?ちょっとの手間なのに、先生はつまんないことを言うなぁ」と整然としたタオルの山を量産していたら、思わぬ伏兵が現れた。
夫である。
「タオルに目がある?畳むべき方向がある?そんなことしてるヒマがあったら、畳んでない山をこさえて、洗ってあるタオルをそこから掴んでタオルの用を成すんだ!子供のいる家に、悠長にタオル畳んでるヒマなんかない!」
以来、我が家では床に積んである洗濯物の山から必要なものを拾い出すことを「栗拾い」、部屋の中の物干し紐にかかっている乾いた服を取ってきて着せることを「梨もぎ」と呼んだ。
なるほど、必要は発明の母で、生活ははるかに円滑に回るようになった。
母を本格的に「出禁」にしたのは、息子が2歳ぐらいの時である。
盛大にこぼしながら離乳食を食べる息子の横に陣取った母は、一口食べるごと「ほらほら、こぼしてる」と手に持った布巾で息子の口を拭うのだ。
次のひと口を食べればまた口のまわりはべたべたになるのに、である。
そんな母の過干渉にさらされた息子が、母が滞在した日に限って激しい夜泣きをし、あげくに止まりかけていたおねしょが復活するのを見て、夫婦して、「これは、来てもらわない方がいいね」と決めた。
ちなみに、夫も母親の過干渉が激しくて小学校いっぱいおねしょが治らず、いまだに母親から嬉しそうにその当時の苦労を語られるという不幸に見舞われている人生なので、息子の受難は他人事ではなかったのだろう。
今の世の中には、「殴られた」「親が給食費を持ち逃げしてパチンコしていた」といったわかりやすい虐待よりも、じわじわと増えているのが、「大事に育てられて、何不自由があるわけではない。なので、『自分は幸せであり、親に文句を言うなんて、親不孝だ』と自分を責める子供たちが増えているような気がする。
より悲惨な子供時代を送った人々から「甘すぎる」「しょせん幸せな子供の不平不満」と言われるのも承知で、だんだんとこういう話を書いていきたいと思う。
まあいいじゃん、しょせんみんな「自分語り」なんだから。
19年1月12日
我が家で、恒例のまんがくらぶの新年会をやった。
ここ数年でいつもの顔ぶれが2人も彼岸へ渡り、寂しい気持ちだ。
しかし新しい顔も加わり、中でも現役の学外部員である娘さんを連れてきてくれた男性に拍手が集まった。
彼女は嬉しそうに紙とペンを取りだし、あっという間にリレーマンガを2作、おじさんたちに描かせてしまう凄腕女子。
現役部員の間では、リレーマンガが流行中らしい。
食べ物は各人に持ち寄りをお願いしたが、大内家としては低温調理器ANOVAを活用して豚の角煮風と鶏ハムを作り、凝り性の大内くんはおでんとハヤシライスも作った。
あとは定番のタンドリーチキンで、お客さんたちももういいかげん飽きたんじゃないかと思うんだが、1人暮らしで料理の苦手な長老から毎度毎度リクエストされる、ありがたいメニューである。
野菜も食べようね〜ということで、ブロッコリ入りのグリーンサラダと。大根と明太子のサラダを作った。
お客さんの持ち寄りもあって、新年会にふさわしい豪華なつまみが並んだよ。
私は直前までずいぶん具合が悪く、薬で精神の不調を抑え込んで接客していたところ、鋭い洞察力とそれに輪をかけて鋭い舌鋒の持ち主Gくんから、
「ここんとこ調子が良くて昔のマシンガントークが戻ってきたと思ってたが、薬のんでると口調が全然違うな」と喝破された。
少量しか飲んでないんだし、気付かれずにすむかも、と気を張っていただけに、がっくりと落ち込まざるを得なかった。
しかし、同様の精神の不調で服薬しているメンバーがいたので、しばし「薬あるある」で盛り上がった。
「まっすぐ歩いているつもりなのに横にずれて行き、ドアにぶつかる」
「同じ要領で、道の端の溝に落ちる」
「会話がワンテンポずれて、次の瞬間、自分の言ったことが思い出せない」
笑ってしまうが、これはけっこう深刻な話。
私の場合は涙があふれて止まらなくなり、けっこうホラーな眺めになることも含まれる。
「うちの包丁は切れないから」とつぶやきながら、ロープをかける場所を探して夜中に部屋の中をさまよっている光景は、寝起きの悪い大内くんにはあまり心地良いものではあるまい。
それも含めて健康談議として笑って聞く皆さんの精神の強靭さに救われながら、たいへん楽しい新年会だった。
しかしなんだね、昔は不健康自慢つっても、飲み過ぎだとかマンガの読み過ぎで3日間寝てないとかまともな食事を1週間してないとか、そういう「男おいどん」的な話ばかりだったのに、今や50をまわった人々は、高血圧だのガンマグロブリンだの尿酸値だの坐骨神経痛だの痔だの緑内障だのについて、語る語る。
唯一一番健康そうな男性は、このほど生まれて初めての人間ドックを受け、深刻な病気が見つかったらどうしようと恐々としていたところ、「肥満以外には問題ありません!」と太鼓判を押され、それすらも病気自慢の話に紛れ込ませている巧みな話術であった。
めずらしく正体をなくして泊まる人も出ずに終バスの10時半には解散した健全な飲み会だったが、終われば終わったで寂しいもので、私はまた片づけ物もせずに部屋の真ん中に座り込んで号泣するのだった。
大内くんも大変だ、こりゃ。
そうそう、本日のハイライトは、長老がややためらいながら言ったこと。
「最近、言おうかどうしようか迷ってたんだが、おまえの髪型はけっこう可愛くなってきたなぁ」
もちろん速攻で、「では、大内くんが死んだら私と結婚しますか?!」と問い詰めたところ、
「絶対、ことわる!」のだそうだ。
「こんなに細かくてうるさい人間が2人で暮らしたら大変なことになるのは目に見えている。おまえは大内くんで満足しておけ。そもそも彼は丈夫で長持ちしそうだ。大事にしろ」とのことであった。
淡き老いらくの恋の夢消えぬ。
19年1月13日
1年ちょっと住んでたアパートの家賃が高くて払いきれないから引っ越したいとは聞いていた。
カノジョのアパートに転がり込む予定なんだろうと思っていたら、意外と強力な伏兵は先方のお母さんの反対。
ただ、立派なお母さんらしく、
「つきあうのは反対しない。彼がまたアメリカに修行に行くなら,それを終えて帰ってきてからでもいいんじゃないの?」と理路整然と若い恋人たちを論破したらしい。
実に立派だ。
私が母親の立場でもそう言うかもしれない。
というわけで、手回しよくアパートの解約だけしてしまった息子は住むところがなくなってしまった。
かろうじて見つけてきた先は、先輩が仕事で使っているアトリエの片隅とのこと。
床の上に寝袋で寝て居場所を確保するという現代残酷物語。
まあ、いい修行だろう。
車を借りに来て、家具つきのアパートだったためわずかな身の回りのモノを運ぶだけの引っ越しをカノジョと2人で行うらしい。
それにしてもカノジョ連れて来るなら前もって言ってくれよ。
息子に車のカギを渡すだけでいいと思ってた休日の私たちは、パジャマ姿でカノジョに対面しちゃったよ。
軽くごはんを食べさせたら、なんだか文句のオンパレードだった。
息子「あんまりおなかすいてないって言ってるのに、どうしてそんなに盛るのかね?」
大内くん「親は、子供に物をたくさん食べさせたいっていう謎の本能があるんだよ」
息子「もう別の世帯に住んでいて、独立してるのに、そういうとこだけ昔の名残りが残ってるってのはどうなんだろうねぇ」
独立したやつが車借りに来て、飯食って、あまつさえ、文句だけは一人前以上に言うなよ。
別世帯の礼儀があるなら、食べ物ぐらい「いやあ、食べ切れなかったよ、ごめん」って残せばいいだけじゃん。
こっちもいちいち怒ったりしないけどね。
大内くんとこっそり、
「今日の彼の目は細くて三白眼になってる。甚だしく機嫌が悪い兆候。たぶん、風邪ひいてるのに引っ越ししなきゃならないストレスに直撃されてるんだよ」と、「ほれ、これ飲んどきな」と漢方の風邪薬を渡すのみ。
私が買って大喜びしてたiPad
Proを、「いいでしょ!これでマンガが大きな画面で読めるんだよ!」とはしゃいで見せたら、「ふーん、いくら?」ときた。
「15万ぐらいかな」
「使いたいだけ使えるね。いい身分だ」
おいおい、そりゃあ私はキミよりはお金があまってるかもしれないよ。
でも、電子化したマンガを綺麗で大きな画面で読みたいと思って何年も研究し、ついにこれだと思うものが出たから買ったんだよ。
有り余ってるカネで手当たり次第買ってるわけじゃない。
そんなこと言うなら、キミがパチンコに使ってるカネの方がよっぽどいい御身分だと思うよ。
そんなことで議論しても仕方ないので、Kindleで買ったバンドデシネの「MATSUMOTO」って作品を見せてやった。
芸術性には定評のあるバンドデシネで、日本のオウム真理教事件がどのように描かれているか、オールカラーで見て少しは度肝を抜かれるがいい。
実際、読んだら「綺麗だなぁ。このぐらいの画面だったらiPad Proで読む価値もあるよなぁ」とつぶやいていた。
私はこれから吉田秋生の「海街diary」読むんだ。ほっといてくれ。
しかし、夜に1人で車を返しに来た彼の顔はますます赤い。
とっつかまえて熱を測ったら、37・5度。
「インフルかもしれない。明日休日診療所に連れて行くから、今日はとにかくこの家に泊まりなさい。アパートにはもう布団も何もないんでしょ?」
「うん。いいなら、泊めて」
こうして、久々に息子の部屋は正当な持ち主の寝息を聴く幸福に見舞われた。
しっかり風呂にも入り、大内くんの新しいパンツとパジャマを着こんで、なかなかラグジュアリーな生活である。
おまけに「ちょっと腹が空いた」と言ったとたんに、「日清ラ王」に宴会料理の残りの「煮豚、味つけ卵、ほうれん草」の「全部のせラーメン」が出現するという・・・実家って、いいとこだよなぁ。
「たまには泊まれて、嬉しい?」と聞いてしまうのが私の悪いところだが、ラーメンが効いているせいか、
「うん、嬉しいね」と素直な答えが帰ってきた。
いつもこうなら、月に1度ぐらいは帰ってきてもいいのになぁ、と胸が熱くなったよ。
ただ、インフルでない時にお願いしたいなぁ。
19年1月14日
朝カらトヨタレンタカーにバン借りに行って本棚を運ぶはずの息子の予定は、まず、前日までに押さえておかなかったので借りたい車種がなく、翌朝一番に電話して聞いてみる、と言っていた本人がレンタカー開店時間に起きないうえ、どこからどう見ても立派なインフルエンザ患者で、引っ越しどころのさわぎじゃない。
渋る本人を休日診療所に連行して行ったら、見事なインフル患者であったらしい。
恐ろしいのは、その診療所には朝一番から65人もの(息子の番号札が65番であった)病人が押し寄せ、ほとんどの人がインフルエンザの診断を受けて特効薬をもらって帰ったという現象であった。
車で息子を待っていた大内くんは、問題な特効薬が途中でなくなってしまい、「オレの息子は3才なんだ、ワクチンをくれ!」と銃が持ち出されるような「11人いる!」的なパニックが起こる妄想を起こして、1人で苦しんでいたらしい。
何時間も待たされた息子は大変不機嫌そうであったが、さすがはインフルの特効薬、「リレンザ」だっか「タミフル」だったか「イナビル」だったか、毎年変わるのでついぞ覚えていられないんだが、実によく効く。
あっという間に食欲が出てきて、「父さんの作ったお粥が食べたい」と言って2杯も平らげ、昏々と眠り、夜にはコンビニに出かけて「鍋焼きうどん」を買ってきて食べていたくらいだ。
翌朝にはすっかり良くなり、トヨタレンタカーに行ってバンを借り、本棚を運ぶんだと言って揚々と出かけて行った。
このまま家に行着いたらどうしよう、と少し心配していたのだが、若者というものはそれほどきゃしゃにはできてないらしい。
「世話になったね。ありがとう」と両親をかわるがわるハグし、自分の生活に帰って行った。
人間、若くて健康ならたいがいの可能性が開けている。頭も性格も、人並みには育てた。
後は自分のやる気だけだ。
縁あって親子に生まれたんだから、これぐらいのサポートはするよ。
困ったら、少し休みにおいで。
19年1月16日
その日は朝から具合が悪かった。
病院で余分にもらった薬をほどんど飲みつくしてしまって、追加をもらわなければどうしようもない。
そもそも私は予約とかに律義で、「お約束の時間」があると、急な発熱でもしないかぎり出かけてしまう。
薬が必要だから行く、というより、そこに予約があるから何としても出かけて行くのだ、という勢いで、予約は3時半からなのに、12時にはもう街に着いていた。
お店を冷やかすというような特技があればいいんだが、あいにく不調法なもので、とりあえず食事をしに行く。
具合が悪くなってから大内くんからも「無理なガマンはやめなさい。糖質制限はある程度ゆるめて、楽しいと思える食事をすること」とのおすみつきをもらっているので、昔、井之頭五郎さんが行ったことで大人気になった喫茶店兼呑み屋みたいな謎の店に行く。
ここの「ナポリタン」は、私が自分で作るよりも大量のケチャップを投入した大盛りで、喫茶店のナポリタン好きにはたまらないんだ。
サイドメニューのポークジンジャーとアイスコーヒーを飲んだら妙に元気になって、とんでもない計画を立て始めた。
私はもう20年近くauを使っているのだが、こないだ新スマホを買った時に、何だかよくわからない契約を結ばされた。
日曜には女性週刊誌が2誌タダで読めるとか、水曜に王将の餃子を食べに行くとサービスでもうひと皿もらえるとか、嬉しいような嬉しくないような特典がいろいろついてくる。
女性週刊誌だけは日曜のうちにむさぼり読んで最近の皇室事情や将来もらえる年金、NISAやiDECOについて「お勉強」しているが、他の特典はおよそ利用したことがない。
ところが、火曜の今日、あちこちのカラオケ屋が1200円までタダというキャンペーンをやっているのだ!
勿論ドリンク代は払わないといけないが、1200円以内のカラオケ使用料はタダ。
念のためカウンターでケータイ見せて聞いてみたら、2時間歌ってもタダで、ドリンク代が400円ぐらいかかるだけなのだそうだ。
病院の予約まであと2時間あるし、休んで行くにもちょうどいい。
こうして、生まれて初めて「ひとカラ=1人カラオケ」をやってしまいましたよ。
普段、観客がいる時には絶対受けない、誰も知らないアルフィーの「白い夏バレンシア」とか、超地味な曲「祈り」とか歌って、少しハジけようと「OッDORANAI!!」を歌い、もうどうでもよくなってきたので紅白を思い出して「レモン」と「U.S.A.」を歌い、そろそろ終わろうと十八番の戸川純「恋のコリーダ」を2回続けて熱唱。そして大好きな「メリッサ」で〆る。
うーん、確かにこれでアイスコーヒー代420円だけだったわ―。
病院は毎週火曜だから、また来ようかな。
で、30分前には病院へ行く律義さ。
待合室には、けだるい雰囲気の人とさめざめと泣いているひとがいる。
さっきまで「恋のコリーダ」を熱唱していた私は後者だ。
なぜこんなに落ち込むのか、なぜ死んでしまいたくなるのか、ナポリタン食べてカラオケ歌うぐらい恵まれた身分なのに、何がそんなに悲しいのか。
先生には薬をほとんど飲んでしまったことを告白し、「あなたね、そんなに飲んでたら死にますよ」と忠告された。
次回はそれほどは出せないし、観察が必要だからまた来週来てくれとのこと。
話は割とよく聞いてくれるし、なにより、もうこの年だから性格だと思ってあきらめて、うまくつきあっていくしかないという発想が好きかも。
私の人生のほとんどは、異常性格としか思えないこの人格との戦いに費やされて来たから。
結局、「フツーの人」なんてほとんどいなくて、みんな何かの方法で折り合いをつけてる気がする。
私の一番の問題は、「適当」に済ませることができない点なんだろうな。
ただねえ、あいにくなことに、自分ではその性格が結構気に入ってるんだよね。
先生に、「夜中に首を吊る場所を探して家の中をうろうろしてます。10年前に友人がドアの上部のストッパーに紐を掛けて首を吊ったので、主人は家じゅうのドアのストッパーを外して隠してしまいした」と語ったら。
「あなた、そんなに大事にしてくれているご主人が先に死んだら、いったいどうやって生きていくつもりですか?」と聞かれたので、いともあっさりと、
「もちろんすぐに後を追います。主人のいない人生は考えたことがありません」と即答した。
先生は、相当毒気を抜かれた顔をしていた。
まあ、合う薬が見つかるまでいろいろ試しながらやってみるから、気長に通ってくれ、とのこと。
また泣きながら会計を待っている間に、インフルを押して引っ越しを敢行した息子が心配になってきた。
「具合どう?引っ越し終った?」とメッセージを送ると、すぐに、「元気。今、車返した」と返事が。
「じゃあ、吉祥寺?母さん、今吉祥寺なんだけど、会えない?」
「どこ?すぐ行くよ」
「じゃあ、駅前のサンマルク」
思いもかけず、息子とのデートが成立してしまった。少し気分が上がったぞ。
サンマルクに行って3階まで上がってみたが、彼はまだ来ていない。
「テレビを売ってから行くので、少し待ってって」と言ってきた。
「君はタバコを吸うから、喫煙できる3階に席をとっておくよ」と返すと、「さんきゅー」と軽い返事が。
おばさんはね、こんなとこにも気を使うのよ。
やがてやって来た彼は、カウンターの並びの席にいた私に、
「こっちの方が話しやすいでしょ」と2人掛け体面テーブルの席が空いたのを見つけてすばやく飲み物を移動させてくれる。
私のカバンやコートまで持ってくれた。
こういうとこ、紳士だよなぁ。女の子にちょっとモテる秘訣かもしれない。
それから30分ほど、楽しくおしゃべりをした。
家でインフルエンザの看病をしてもらったのが、よほど嬉しかったようだ。
「家に帰りたくなった?」と聞いたら、
「いいや、全然。でも、ああいう時は本当にありがたいと思ったよ。これからもいい距離でいたいね」だそうである。
「しかしさぁ、オヤジって、かなり心配な人じゃない?」と突然聞かれてビックリ。
息子「いや、ほら、人の気持ちがわからないって言うか、自分の気持ちだけで突っ走っちゃうじゃない?」
私「食べたくないのに、皿に盛りすぎるとかいう点?」
息子「まあそれもあるけど、なんだか人の話を聞いてないんだよな。あれで、仕事はできてんのかね?」
私「それはまあ、30年も勤めてそれなりの地位でそれなりの給料もらってるんだから、それなりの評価をするべきじゃないの?会社ってとこは、無能な人に給料払うほどヒマじゃないよ」
息子「そこはわかってるつもりなんだけど」
私「多少突っ走る傾向があるとしても、仕事の上でみんなが『うーん、どうしましょうねぇ』って膠着した時に、『これでいきましょう!』って勢いで押す人も必要なんだよ。そういうとこに存在意義があって飼われてるんじゃないの?何十倍も給料もらってアンタを養ってきた人の仕事にあれこれ言うのは、何十年も早いよ」
息子「立派なとこのある人だってことはわかってるよ。ただ、あの人、オレのこと可愛がり過ぎてないかなぁ」
私「母親があんまり母親らしくないから、父親がその分頑張ってるんだよ。両親がバランスとれてるんだから、それでいいの。そう言えば、父さんは初恋の人と結婚した口だから、あなたの女性関係が多彩なのは理解できなくて心配してるようだよ」
息子「オレはクリエイターだからなぁ。いろんなことを知る必要があるんだよ。オヤジは、女一人で、世間が狭いよね」
私「ところがね、母さんは実はものすごく面白い人間なんだよ。1人で10人分ぐらい面白い。だから、父さんは充分経験を積んでるよ。あなたが心配してやるようなことじゃないよ」
息子「ま、そうなんだろうな。それは、見てればわかるよ。いい組み合わせだよな」
家族観とか我々がどういうつもりで彼を育てたかとか、実にいろんな話をした。
ずいぶん判ってもらったと思うし、彼は、基本的に「母さんを愛してる」んだそうだ。
母への渇望はあってもまっすぐに愛せなかった自分に、こんな素直な言葉をぶつけてくれる子供ができるとは考えたこともなかった。
本当に嬉しかった。
「吉祥寺を離れるから会いにくくなるけど、また会って飯でも食おう」という彼に店の前でハグしてもらって別れたあと、バスに乗って帰ったが、どうにも寂しくなってしまった。
薬をのんでも涙があとからあとからあふれてくる。
あいにく、会社の大内くんはつかまらない。
気がついたら、台所の床に座り込んで、家で一番切れる刺身包丁を取り出して、自分の腹部や腕を切りつけていた。
自傷である。
13歳の頃、私はリストカットの常習者で(当時、そんな言葉はなかったんだが)、切って開いた傷口の中をもう一度切った時は、自分がどこか別の世界の生き物のような気がしたものだ。
日頃砥いでないなまくらな包丁で脂肪の多い人体はそうすぱすぱと切れるものではなく、血の玉が浮かぶ筋が何本もできるだけ。
それでも20本以上の筋が体中を走る頃には上半身がぬるぬると血まみれになってきた。
なにかがもどかしくて、誰かに助けを求めたくて、息子にメッセージを打っていた。
「包丁が切れない。誰か助けて」
すぐに返事が来た。
息子「どゆことかな?大丈夫?」
私「死にたいのに、血が出るほど切れる刃物がないの」
息子「家行くよー」
私「来たら、泣いてる母さんの一代記を聞かされるだけだよ」
息子「でも死んじゃダメよー」
私「死にたいのと死ぬのはちがうから、心配しなくていいよ。あなたはあなたの生活をしなさい」
息子「わかったー。なんか欲しい言葉とかあったら、いつでも送るからね」
私「母さんがどうしても逃れられない深い悲しみが、あなたにはない事を祈るよ。それだけを考えて育ててきたつもりだよ。母さんとは関係なく、幸せになってね。母さんは母さんで、父さんと幸せにやるから」
息子「うい〜、お父さん早く帰ってくるといいね」
私「生きててもいいと思えない子供を育てるなんて、人間のやることじゃないよ。本当にひどい目に合ったもんだ。たぶん父さんがすっ飛んで帰ってきて慰めてくれるから。迷惑かけてごめんね。今日はちょっと限界を越えていた。薬をのんで寝るから、心配しないで。また今度ね」
息子「うん、また元気になるようなことを一緒にしよう。また家へごはん食べに行くよ」
こうして見るとずいぶん心配して優しくしてくれてるようなんだが、彼は自分のできる領域から一歩でも外れるとかなりの無関心になる。
写メ時代であるので、血まみれの腹と腕と首の写真を送ったら、
「母親が浅い傷を作って血だらけになってるだけだなぁ」と、あまりに的確な講評が返ってきた。
もちろん大内くんが帰ってきた時の方が大騒ぎで、こういう修羅場には慣れているはずの彼も動転し、「どうしたの、どうしたの」と繰り返すのみだった。
やがて傷を洗ってワセリンを塗って、薬を少し多めに飲ませて添い寝してくれた時は、ああ、結婚しててよかったなぁ、と心から思った。
大内くんがどう思ったかは、あんまり考えたくない。
私は、今日、幸せになりすぎたのだろう。
昔から、幸せを感じている時にはいつも母に冷たく水をぶっかけられた。(もちろん架空の水だが)
「何をいい気になってるの。あんたが1人で幸せになるなんて、許さない。私抜きで幸せになる人には、ばちが当たるんだ」
「私の思い通りにならないあんたは、幸せになんかなれないのよ。みんなに好かれてほめられるおねえちゃんとちがうあんたは、ダメなの」
次第に私は空想の世界で遊ぶようになったが、そこにも母の言葉は追いかけてきた。
幸せを感じた後に自傷をしたり、自己嫌悪に陥ってすべてを台無しにしたりしてきたのは、母の呪いだ。
今でも、私がちょっとした幸福のあとに落ち込んでいると、大内くんが諭してくれる。
「お母さんが、『なに幸せにひたってんのよ。あんたなんか幸せになれるわけないじゃない』って言ってるんだね。もう、そんな声はしないよ。お母さんは、死んじゃったんだよ」
いずれにせよ、これほどの激しい自傷は35年ぶりぐらいなわけで、傷はすぐに治るだろうが、自分で自分の心のケアをしないといけない。
「私は悪くない。少なくとも、自分を罰するほどには悪くない」
「私は今、幸せだ。それは、自分で苦労して勝ち取った、私の勲章だ」
かつて、私の主治医は私を「サバイバー」と呼んだ。
「過酷な運命から、立ち直り、生き残った者」という意味らしい。
「正直言って、あなたほど早くから発症してずっと症状に苦しんでいた人が、一流の大学に進学してきちんと就職できたのが信じられないほどです。あなたは、そのあなたの能力と意志の強さを誇るべきです」
先生、あいにくなことに、私はまだ過去にとらわれています。
私の「誇り」は、まだ母の呪いに負けています。
夫の庇護さえ、母の攻撃から私を充分に守り切ることはできていません。
19年1月17日
なんと間がいいことがあるものだと言うべきか、はたまた息子は隠れた孝行息子であったのか、大内くんが見事なA型インフルエンザを発症して、早退してきた。
会社では、インフル患者は業務の進捗状況に関わらず、6日間の出勤停止を命じられるそうだ。
たとえ39度の熱があっても、大内くんが家にいてくれれば今の私にはとても心強い。
ひそかにインフルウィルスを置き土産にして行った息子に、感謝しかない。
肉体を病んだ大内くんと、心を病んだ私とで、この週末は閉じこもって美味しいものを作って食べ、萩尾望都の「残酷な神が支配する」のように2人で漂流しよう。
手に手を取って生還する週明けを目指して。
19年1月22日
大内くんのインフル休暇最後の日だったので、通院につきあってもらえた。
私1人では医者にびびってしまってなかなか思うことが言えないため、横から家族としての意見を言ってもらえて、大変参考になったと思う。
新しい先生もたいそう熱心な人で、保険診療内の短い質疑応答の中でありながら、私と母との関係、母自身の親子関係、母と父の関係、「お姉さんがいらっしゃるとのことですが、それだとお姉さんも鬱症状を発症していませんでしたか?」などと鋭い質問が飛んだ。
親子関係不全に端を発する問題をよく理解しているという印象を受けた。
概ね、母との関係からネガティブなフラッシュバックを起こし、自分の行動に自信を無くし、自傷的な行為に走ったり、人間関係をだいなしにしたりするのだという症状のようであった。
「まあ、60年も生きてるんですしね、いまさら性格は変えられませんよ。病気ととらえて全部治すというよりは、今のままで何とか自分の行動様式に慣れて、うまい対処法を見つけるのが一番です。そのために多少はお薬の力を借りて、辛い状態を乗り切っていきましょう」という中庸な提案になんとなく信頼がおける気がする。
睡眠薬をもらって夜眠れるようになったせいか、生活は安定した。
ただし、日中に強い薬を使っているため、ふらつきがひどく、もう何度丸太のように倒れたかわからない。
血液サラサラのワーファリンをのんでいるせいもあり、身体中アザだらけである。
大内くんは、「今、人にキミの身体を見られたら、僕はDV夫の汚名を免れない」と不安そうにしている。
診断書書いといてもらったほうがいいかしらん。
それでも今日はとても嬉しいことがあった。
昼に病院に行くと言ったら、息子がその時間に吉祥寺にいるそうで、一緒に食事をしようと言ってくれたのだ。
全員にとって思い出深いカレー喫茶で、一緒に懐かしいカレーを食べた。
大盛りのポークカレーを頼んだ息子が、運ばれてきたカレーが大盛りでなかったことを不審に思ったらしく伝票をめくって確認した上で、店員に穏やかに声をかけ、「大盛りを頼んだんですけど、伝票にもそのようには書いていないようです」と注意を促して、問題なく盛り付けの追加を出してもらうことができた。
こういうところは、特にしつけた覚えはないが、最近話題になっているコンビニや飲食店の店員さんに横柄な若者や老人に比べて、とても安心できる材料だ。
外で食事する際にも、いただきますもごちそうさまも、誰にともなくお箸を両手に挟んで唱えてから食事に手をつけるし、残すこともなく気持ちよく平らげる。
もしかしたら食育だけは成功してるかも。
アニメやマンガの話などを中心にとても楽しく話が弾んだ。
幼い頃からこういうサブカルを与え続けたことに関して、彼は他のどんなことよりも親に感謝しているようなのだ。
柔道を途切れることなく続けさせたことや、大学教育まで受けさせたことよりもよっぽど感謝しているらしいのを目の当たりにするのは、親としていささか忸怩たるものがあるが、嬉しいのもまた事実。
オタクの血はこうして伝承される。
島本和彦の「アオイホノオ」の愛読者だという彼に、昔は呼び出し電話で人と話をしたこととか、ビデオがなかったので、見たい番組の時間にはまさにテレビの前に正座して待つしかなかったし、セル画の1枚1枚を目に焼き付ける勢いで見るしかなかったことをどう思うか、と聞いてみたら、「いやー、そういう熱意が今のアニメを作っているんだと思うよ。心は今も同じだよ」と語っていた。
つい息子の同意を求めて私の親の愚痴などを言っていたら、
「しかしアンタらは愚痴が多いね。僕とカノジョなんかは全然愚痴は言わないよ。もっと楽しい会話をする」と冷笑されてしまった。
そりゃ仲の良いカノジョと愚痴なんかこぼし合わないだろうよ。
私と大内くんだって、互いの仲については楽しい話をする。
愚痴、それは困った親戚がいる時などについ口に出る家族の話題である。
まだ君らには早すぎる。
この後もまだ1、2時間なら時間があるから、もう少し一緒にどうと言われ、思わず私の目は輝いた。
今日も、1200円までカラオケがタダになるクーポンを持っているのであった。
息子にそう告げると、「母さんはカラオケが好きだね」と笑いながら付き合ってくれるようだった。
狭いカラオケルームでタバコを吸うことだけは閉口したが、「あまりカラオケは好きじゃないんだよね」と言いながらも我々に合わせたのか、サザンの「C調言葉にご用心」とか小林明子の「恋におちて」などを歌う。(これはめぞん一刻の挿入歌だったのだそうだ)
私が歌う「メリッサ」や「アゲハ蝶」には「お、ポルノグラフィティーだ」と嬉しそうに唱和してくれた。
保育園の卒園式で会場にあったマイクを囲んで、園児たちが大きな声のものすごい早口で歌っていたのが「アゲハ蝶」であった。
昔の子供はなんと難しい歌を歌ったのであろうか。
大内くんにはいつもの「Lemon」をお願いし、私は戸川純の「恋のコリーダ」を歌ったのだが風邪で声がガラガラだったので大失敗。
意外なのは息子がものすごく歌がうまいこと。音程がしっかりしていてリズム感も良く、声がよく伸びる。
恥ずかしげもなくノリよく歌うところは芸人風か。
こんなところも私に似ているんだなぁと胸が熱くなった。
1時間半ばかりのカラオケではあったが、とても楽しかった。
今度喉の調子が良い時にもっと一緒に歌おうねと息子も言ってくれた。
家を離れて1年余り、間に3ヶ月アメリカに行ったこともあり、今の彼はとても落ち着いて穏やかな優しい息子になってくれている。
これで生活力さえつけば何の文句もない。
カノジョと2人で食べてくれと、トマト煮込みハンバーグと豚の煮込みと煮卵をタッパーに入れて渡したら、「助かるよ、ありがとう。一緒に食べるね」とニコニコしていた。
「じゃっ!」と手を振って雑踏で別れた息子。
こういう距離でなら、また付き合いがいもあると言うものだ。
その日は病院での診療がうまくいったこともあり、夫婦2人でなんだかニコニコとずっと過ごせた良い1日だった。
明日からはまた会社だ。
私も、不調ながらも少しずつペースを戻していこう。