2「脳性マヒ」と口に出してみる 

仮死で生まれた唯生が1ヵ月の入院を終え、 退院することになった。
病院で過ごす間に、新生児のふやけたような肌は、きめの細かい餅肌になっていた。

当日は会社の先輩の結婚式に出席し、その足で迎えにいったので、礼服に白いネクタイ姿で唯生を抱いている写真が残っている。
式場で着替えをすることもできたわけだから、今から考えれば、ことさら賑やかに迎えに行きたい気持ちだったのだろう。

初めて親子で過ごす晩は、とても穏やかだった。
唯生はおっぱいを飲むとすぐに寝ついた。
障害児との暮らしが始まった。

しかし障害児との暮らしとは、どんな暮らしなのだろう。
私の通った小学校に、梅組という障害児のための特殊学級があった。
その教室をのぞいたことがあったが、教室の中にトランポリンがあって、先生と一緒に遊んでいるようだった。
自分たちは真面目に勉強しなけりゃならないのに、なんて気楽なクラスなのだろうと思う一方で、生徒たちの表情の中に自分たちと違う記号を感じて怖くなった。
私たちの間では、「梅組」というのは蔑称であり、喧嘩でよほどひどいことを言ってやろうというときに使われていた。
唯生は「梅組」なのだろうか。
妻を挟んで反対側に寝ている娘に聞いてもわからないことであった。
私と唯生はまだ出会ってから1ヵ月しかたっていなかった。
お互いを知っていくのはこれからである。
妻は寝返りをうっていたが、何を考えているのか聞かないうちに私が先に寝てしまった。



翌日、妻は「唯生ちゃん、退院おめでとう」とチョコレートで書いたショートケーキを作った。

学生時代の先輩と友人がお祝いに来てくれた。
唯生はぬいぐるみやかすみ草の花束に埋まりそうになりながら、少し当惑したような顔をしていた。
友人の中に、アフリカの太鼓をたたいてくれた人がいた。
病気が治って家に帰ってこられたお祝いのためだった。

しかし私と妻は、宮沢賢治の童話『セロ弾きのゴーシュ』の中で、野ネズミの子どもが主人公のゴーシュの弾くセロの中に入って病気の治療をしたことを思い出して、「この太鼓がもう少し大きければ、唯生が入れるのにね」などと言っていた。
この友人はその後も折りに触れ、唯生に関わってくれることになるが、唯生に障害が残るだろうと診断されていることはまだ話せなかった。

退院後初めての診察があり、私は会社を休んで、家族3人で唯生の生まれた病院を1ヵ月ぶりに訪れた。
風邪のようにすでに経験のある病気で病院に行くとき、医師に求めるものは病気の治し方だが、未知の大きな病気で病院に行くときは、それ以上のものを求めている。

私と妻は1ヵ月間、自分たちはどう生活すればいいか考えていた。
その日は、私たちはどうすればいいかを聞きにきたのだ。
主治医は入院のときのA先生から外来担当のK先生にかわっていた。
その先生は手慣れた手つきで唯生をベッドに寝かせると、見事な技術で舌を鳴らして大きな音を出した。
音でしばらくあやしたあと、おもちゃを取り出して唯生の目の前で右に左に振ってみせた。
それまで笑ったことのない唯生がにっこり笑ったように見えた。
先生がゆったり私達のほうに向き直ったので、一番聞きたいことを聞いた。
「A先生は重い障害が残るとおっしゃいましたが、先生はどうお考えですか」
K先生の答えは予想と違っていた。
「私はそうは思いません」
私は驚いて聞き返した。
「CT(超音波断層撮影……この場合脳の断層撮影)や脳波をご覧になった上でおっしゃっているのですか」
「そうです。A君とも話しましたが、私は別の意見です。正常に発育する可能性があると思います」
私は診察後、待合室で唯生を抱き締めて、唯生が生まれたあと初めて泣いた。
今でなければいつ泣くのかと思ってことさら泣いた。

A先生より偉いであろうK先生の言うことは確からしく、また私と妻は先生の鳴らす舌の音が立派なのですっかり感心してしまったのだった。

月に一度の診察の度に先生は、身長、体重、頭囲を計り、カルテに赤鉛筆で折れ線グラフを作った。
「頭囲が伸びて来ませんね。脳が発育していないのです」
「どうすればよいでしょうか」
「ミルクを飲ませてください」

妻は次の診察までの一ヵ月間、唯生になんとかおっぱいを飲ませようとした。
夜中起きると、青い顔をした妻が唯生におっぱいを含ませていたこともしばしばあった。

哺乳量を計るために、日に何度も体重を計って記録した。
次の診察で、また同じことを言われた。
「ミルクを飲ませてください」

私達は、この言葉を指針に次の一ヵ月間「どう生活するか」考えた。

妻は助産婦さんの開いている、母乳育児の相談所に通い、おっぱいのマッサージや母乳の与え方の指導を受けた。
直接おっぱいからよりも哺乳瓶からのほうがよいかと、色々な形の乳首を買ってきたり、唯生が入院中に使っていた乳首を病院からもらってきたりした。

私達は他にも何かやれることはないかと、考えられることをやみくもに試してみた。
いつの間にか、生後最初の数ヵ月にたくさん刺激を与えることが大事だということが共通の認識になっていた。
犬やパンダを描いたカードを見せたり、乳児は赤いものが認識しやすいと聞くと、目の前で赤い玩具を左右に振って見せた。
目で追うような仕種や何かに興味を引かれた表情を発見したといっては一喜一憂した。

4度目の診察のとき先生はいつもどおり折れ線グラフをつけた後、障害が残るだろうということ、療育施設を紹介することを告げた。
K先生に相談しながら希望をもって唯生を育てていこうと思っていた私と妻は、支えを突然失った思いだった。

K先生の顔は二度と見たくないと思ったことはもちろんだが、私達がそのことばかり考えている気にならなかったのは、とうとう唯生の障害と向き合わなければならない日がきたからだ。
その頃、私は誰に向かって言うでもなく「脳性マヒ」と口にしてみたことがある。
体の血が手足の先に集まっていくような悪寒がして、すぐにその言葉を頭の中から消し去った。

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