3「キラキラ星園」までの日々
病院で紹介された「療育施設」に行く日がきた。
「療育」という言葉は広辞苑にもない。
療養と保育の合成語だと思う。パンフレットには「心身に障害のある方々への医療と療育……」と書かれていた。
妻と唯生と私と3人で2階建ての建物の1階に入っていくと、待合室になっていた。
そこで妻と私は「障害児」を見ることになった。
手足が緊張して、車椅子の上から一点を見つめている子や、親が制止しても奇声を発しながら歩き回る子がいた。
車椅子の上の足や手は、はっとするほど細く、透けるように白かった。
私は目をそらすのは何かいけないと感じたが、どこをどう見ていたらいいのか判らなかった。
診察では、唯生に障害が残るかどうかの話にはならなかった。
腹這いの姿勢をとらせて、首を上げ、前にあるものを触る練習をするとよいといわれた。
その練習をすると何によいのか聞かなかった。
唯生はだんだん障害児に分類されていっているようだった。
妻は帰りの車の中で、「唯生はあんなにひどくはならないよね」とだけ言った。
私もそう思った。
唯生は体つきもふっくらしていて、手足に緊張もなかった。
私は唯生がミルクを吸うときにふっくらした頬がモグモグ動くのをななめ後ろから見るのが好きだった。
そのあと2回、診察等を受けて、週に1回ずつ理学療法(Physical
Tharapy:PT)の先生に訓練を受けることになった。
PTの先生は、50分ほどの時間をかけて唯生の手足の屈伸運動をしてくれた。
いつも「唯生ちゃん、ちょっと体を触らせてもらいたいんだな」と言って、大事なものを扱うように唯生の手足を触ってくれた。
うれしかったが、それがかえって物足りなくもあった。
妻は私が毎週休みをとるのは無理だろうと気遣い、訓練には妻と唯生の2人で通うと言った。
私も、年20日の有給休暇は大事に使ったほうがよいと思い、頼むことにした。
妻は黙々と訓練に通い、私が勤めから帰ってくると、先生に教わった体操をしていることもあった。
「先生に、どれくらい訓練するのが理想的かって聞いたら、週に1度では少ないのだけれども、時間の都合でこれ以上はできないって言われたの」
「何か家でやれる訓練はないでしょうかって聞いたんだけど、訓練は私たちがやりますからって言われた。
でも、気が向いたらやってみてくださいって、これだけ教えてくれたの」
私に体操を教えながら、妻はこんなことを言っていた。
訓練に通う一方、図書館から障害児療育に関する本をたくさん借りてきては読んでいたようだった。
唯生の状態は、私たちが期待しているのとは逆に、次第に悪くなっていった。
生後5ヵ月頃、めっきり寝つきが悪くなった。
退院した頃は、夜9時ごろには寝ついて、朝8時ぐらいまで、おっぱいを飲むとき以外はよく眠っていた。
しかし、次第に夜泣きが激しくなり、明け方泣きじゃくる唯生の相手を妻から代わることもしばしばあった。
生後1ヵ月で退院するときに、主治医のA先生に私たちが言い渡されたのは、唯生は「身の回りのことを何とか自分でできるぐらいで、知能は養護学校についていくのがやっとという程度だろう」という見通しだった。
とても本当とは思えず、少しでもそれよりよくなることを願った。
私と妻は、唯生が立ったり歩いたりすることができないかもしれないとは考えたことがなかった。
しかし、唯生の体は次第にこわばってきて、目も首も右ばかり向くようになった。うつ伏せで首を上げられなくなった。
療育施設の先生たちは、はっきりとは言わないものの、唯生が立ち上がれるとは期待していないのだな、と感じられた。
1992年の元旦、唯生は退院後初めて(今のところ最後の)けいれんの発作があった。
ミルクをいっぱい飲んでよく寝ていたが、夜中の2時ごろ急に戻した。
慌ててだっこして背中をさすっていると、目玉が規則的に震えるように上下した。
唯生が元に戻るまでの時間は10分ほどにも感じられたが、おそらく30秒ほどだったのだろう。
翌日先生に診てもらった。
脳波の検査の結果、スパイク波という、けいれん性の波が強くなっていると言われ、けいれん止めの薬を飲み始めることになった。
薬を飲ませるのには抵抗があった。
薬を飲まないと暮らせない状態だということを認めるのが嫌だったのだ。
しかし、けいれんの発作は、発達に悪影響があるし、薬は副作用も弱いからという説明をされて、何となく納得した。
脳性マヒの場合、多くはけいれんの発作を伴う。
寝つきが悪いのも、けいれんのせいだ。ひどい発作が起こると、今まで獲得したものも失ってしまうことがある。
脳性マヒの子どもと接するのは、その子のけいれんと付き合っていくことである。
しかし、そのときの私は、どちらかといえばあきらめの気持ちでそのことを受け入れた。
体が固くなった唯生の足はまっすぐ伸びず、手は胸の前で握ったままで、体をひねることができないので、朝、起こそうと思って布団をよけると、カエルのような姿勢で仰向けに寝ていた。
私は、こんな唯生が可愛くてならなかった。
現実の唯生を可愛がる以外にないと思っていた。
しかし、妻は少し別のことを考えていた。
私も障害児に関する本を何冊か買ってきていたのだが、読んでそのまま忘れていた『障害児も治る 今日もまた新たな出発』という本に出てくる「キラキラ星園」に、どうしても通いたいと妻は言うのだった。
私は妻にうながされてもう一度その本を読んだ。
著者は、キラキラ星園の園長の本多正明先生で、キラキラ星園はドーマン法という訓練法を実施している日本でも数少ない施設であった。
ドーマン法は、アメリカのグレン・ドーマンという理学療法の先生が実施している非常に厳しい訓練法である。
以前は心に留まらなかったのだが、今度は心に入ってきた。
まずは本多先生が開設している医院で診察してもらうことにした。
唯生の症状や、生まれてからの経過は事前に手紙で伝えてあった。
先生は唯生を診察し、ドーマン法による訓練がきっと効果をあげると言った。
「少し、やってみましょうか」
先生は看護婦さんと一緒に、手足をもって唯生の体をブランコのように揺らした。
「ドーマン法による訓練によって、お子さんは必ずよくなります。
しかし、訓練はとてもたいへんです。
ご両親だけでもできますが、ボランティアの人に手伝ってもらったほうがよいでしょう」
「先生が園長をされているキラキラ星園でも同じ訓練ができますか」
「ええ。建物は古いが、いつも明るい声にあふれています。
しかし、キラキラ星園は、神奈川県の施設なので、通うためには、神奈川県民にならなくてはなりませんよ」
キラキラ星園に見学に行った。
これほど真剣に訓練に打ち込んでいる施設があるのかと驚いた。
初めてなのに、もうなつかしい感じがするほどなじめそうだった。私たちはこの親子たちに加わりたいと思った。
しかし、私が最後に決心したのは、帰ろうとする私を呼び止めて、チーフのY先生がこう言ったことからだった。
「私たちは、子どもたちをよくするために全力をあげています。
でも、子どもはそれぞれの発達のみちすじがあるのです。
どの子もみなうそのようにすっかり治ることはありません。
でも、かならずその子なりによくなります。
そのことをわかっていただけるのでしたら、是非来てください。
お待ちしています」
今振り返ってみると、「よくする」という言葉に、私は多少の逡巡を感じる。
今の唯生は「よくない」ことになるのだろうか、と思うからだ。
私は、体のこわばった唯生が本当に好きだったし、今の唯生が本当に好きだ。
それでも、「よくなってほしい」という気持ちは、私にとっても妻にとってもごく自然にわいてくるものである。
障害が残るかもしれない、という抽象的な不安に往きつ戻りつした生活が終わり、期待を変えなければならない現実を次々突きつけられる中で、唯生が「よくなる」という言葉は新鮮であり、驚きだった。
キラキラ星園に通うため、私たち3人は神奈川県へと引っ越した。