21年4月1日

今の暮らしはサイコーだ。
家の間取りも気に入ってて、小さな1LDKでせいうちくんと顔を突き合わせてすごすのがとても楽しい。
最低限しか持ってこなかった食器ですべてまかなえており、それでもなお使わないものがあるぐらいだ。
外食やテイクアウト、総菜パンなどに頼っているせいもあるけど、これまでの自分たちがいかに「いらないもの」に囲まれていたかとしみじみする。
「倉庫に預けてあるものって、そのまま捨てちゃってもかまわないんじゃないだろうか」とよく冗談に言ってしまう。

娘や息子の思い出グッズ(アルバムや賞状)などはもちろん取っておきたいが、何を預けたか思い出せないような有象無象なものは本当にそのままなくなってしまってもかまわないのかも。
これがミニマリストの心かしらん。

地縁も知り合いもない、1年と決めたからこその誰ともあまり深い関係を持たない暮らし。
私の生活に不可欠な医者とのつきあいすら、
「この1年でできることをしてください。あとは次の病院に引き継げる形にしてください」とお願いし、向こうも了承してくれている。
ある意味、人との関係ってのは基本こういうものなのかもしれない。
私が多くを望みすぎるから、他人とうまくいかないだけで。
その意味でも、ここでの暮らしはいい訓練になっている。
自分の楽しみを大事にし、人に敬意は払うが多くを要求せず、互いの人生でただすれちがう相手としてその瞬間の関係だけを大切にする。
来世まで持って行けない縁なら、今だけを大事にすればいいんじゃないだろうか。
せいうちくんとすら、次の世でも必ず結ばれるなんてわけじゃないんだから。

仮住まい、ってところがいい。
所詮、今生はすべて借り物に過ぎない。
この人生での自分を楽しませるために、生きている。
それ以外のすべては無駄とまでは言わないが、重くて邪魔になっている自分に気がついただけでも仮住まいは大成功だった。
1人で楽しむのが苦手な私のために多くの友を、特にせいうちくんを与えてくれた神様に感謝している。
塵になって消えてしまったあとでも、私が楽しい人生を送ったという思い出を作りたい。
誰のためでもなく、自分自身のために。

あまりに気分がいい。
今夜は薬をのまずに寝てみよう。
ただの躁状態?

21年4月2日

せいうちくんのテレワークのお昼休みに昼ごはんを買いに出る。
谷中ぎんざの入り口にある路上にわっと広げられたお弁当屋さんがとても安くておいしそう。
思わず日替わり弁当と餃子を買う。
ごはんのところが空になっておかずだけ入っているやつは、中のレジに持って行くと温かいごはんをよそってもらえるようだ。もちろん大盛りもアリ。

日替わり弁当は残念ながらすでにごはんが詰まった状態で売られているので、よそってもらえなさそう。
どうせ温めて食べるからいいんだけど、「大盛りにする?」と聞かれたから、もし「はい」と言っていたら温かいごはんに変えてもらえたのだろうか。
それとも冷たいごはんの上に温かいごはんがちょっと乗る?
いろんなとこにいろんな流儀があるから、日替わりでも勇気をもって「ごはん温かいのにしてくれないかなぁ」と言ってみたらよかったかしらん。

せいうちくんは糖質を避けているので、ごはんじゃなくて肉を食べるつもりだ、と言って小さなスーパーに入った。
なんと!
そこのお弁当の方が、種類こそ少ないけどおいしそうだし何といっても安い!
間違った選択をしてしまったのか?
くやしいのでさっきの日替わり弁当は夜に回し、昼は軽く済ませようと小さな「菜の花とタケノコの炊き込みご飯」を買った。
すごくおいしかった。弁当屋さんの餃子も一緒に食べたらおいしかったけどね。

「この道をずっと行くと古本屋があるはずなんだ」とせいうちくんの散歩は続く。
途中では屋上にほぼ等身大のラクダと、それと同じぐらいのサイズのガンダム像が置いてある建物があった。
「どういうオタクが住んでるの?」と思ってまじまじと見てたら、黒い服を着た小柄な若い男性がじっとこっちを見ている。
建物の中に入ったり出たりを繰り返しながら。

どうやら何かのギャラリーらしく、10メートル×6メートルぐらいの空っぽの部屋の壁の各面には、模造紙をつなげて大きくしたものに描いた、あまり上手とは言えない絵が6枚ほど貼ってあった。
「もしかしてギャラリーですか?お描きになった方ですか?」と男性に尋ねると、恥ずかしそうに、でも嬉しそうにうなずいた。
「この方向から見ると、人体の全体に見えるよう表現しているつもりなんです」
あまりそうも見えない。
真正面の壁にはまつ毛の長い女の子の顔が大きく描かれ、横の壁には細長い裸体らしきものが描いてある。

「写真を撮らせていただいていいですか?」と聞くと、にこにこして、
「どうぞどうぞ!」
最後に、会場(?)の入り口に置いてある小さな机の上の紙に、
「どうぞお名前だけでも」と言われたので、せいうちくんが署名してくれた。

入り口に佇んで我々を見送る彼の姿に、この世界でいかに多くの表現者が報われずに消えていくか、それでも彼らは何かを表現せずにはいられないのだ、と息子のことを考える。
男性の絵はうまいとは思えず、息子のコントや文章には才能を感じるが、それは単に我々が彼の親だからかもしれない。

せいうちくんの探していた古本屋さんはいわゆる「開店休業状態」で、閉まっていて、ガラス戸の向こうに本棚が見えていた。
張り紙によると、書籍は通信販売になっており、土曜日は中に入って書棚を見ることだけはできるようだ。
ほしい本があれば、そこで通販の申し込みをするのだろう。
せいうちくんはきっと今度の土曜に行ってしまうと思う。

大通り沿いには「日本で一番東大に大勢が行く中高一貫男子校」があった。
なんとなく写真に収めておく。

さて、家に帰ってひと休みし、夕方は道の向かいの病院で月に1度の心臓検診。
前回、血液サラサラ薬ワーファリンの量を変えたのがドンピシャで良かったらしく、「2.1」と見事に基準値内におさまっていた。
食生活との関係などで変化しやすいので注意深く見ていかなければならないが、当面この量で行けそうだ。

先月ひと晩借りた機器をつけておこなった「睡眠時無呼吸検査」の結果は、「グレーだが、治療対象には当たらない」。
1時間あたり、正常な場合は5回以下のところ、6.9回であったらしい。
特にやや長い無呼吸の時間があり、これが心臓に負担をかけている可能性はあるが、現在の状態ではもっと詳しく調べるとか治療のためのマウスピースを作るとかのレベルとは見なされないそうだ。
「もし夜中に呼吸が停まって『うっ』と苦しいようなことがあったら言ってください。僕の方で治療を受けられるようにします」とドクターは言うが、睡眠薬をのんでることとかどのように影響するのだろうか。
そういうことをゆっくり話し合う雰囲気ではない。
早口でせわしなく忙しそうなこのドクターとの話はここまでにして、来年引っ越したあとのドクターとまとめて相談しよう。

持病が多いので、全体を見てくれるドクターがいてくれないものかと切に思う。
今の医療は細分化されすぎていて、人体と人格を全体として診てくれるような「かかりつけ医」を持つのが難しい。
特に今は仮住まいだから仕方ないが、次に「老人ホームの前の終の棲家」に落ち着いたら、いい関係を持てるホームドクターを持ちたいものだ。

息子から、塾で教えるバイトを断ったと連絡があった。
月に2万と全体の収入に占める割合が少なく、しかも遠いので通勤に時間がとられるうえ授業の準備やテキストの用意などは自分の時間で行わなければならない。
つまりコスパが悪いのだ。
恩義のある塾長が差し伸べる救いの手を断る形にはなってしまうが、これからの彼の生活の組み立てを考えると、断るしかないと思う。
思い切ってお断りできたというのは、彼もまた一段大人の階段を登って生活を真剣に考えられるようになった証だと思いたい。

世の中が落ち着いて安定したバイトが見つかるまで、親の援助もアリだろう。
昨日話してきた「ゆりこ先生(仮名)」も、息子がアコムで借金したのを親に言えなかったのは、
「気持ちはわかります。言いにくかったんでしょう」と肯定的だったし、私の相手をしてもらってバイト代を払う援助はとても良いと言ってくれた。

特に、その中から来年の演劇学校の費用をこちらで積み立てておく計画を話したら、
「しっかりしたカノジョさんがついているようだから、カノジョさんにお預けしたらどうでしょう。もしお別れすることがあったら返してもらえばいいんだから」とのこと。
考えつかなかった。
さっそく息子と相談して、カノジョに管理してもらおう。
そして、もし2人が別れることがあったとしたら、息子は迷惑しかかけてないので積み立てた分はカノジョにそのまま差し上げたい。
家賃その他で多大な出費を息子のために引き受けてきてくれているはずだから。

そんな縁起の悪いことは考えたくないけどね。
2人の結婚式で中島みゆきの「糸」を彼らの名前に変えて歌ってもいいって、息子から許可もらってるんだ、私は。

21年4月3日

今日はやっと本格的な千駄木散歩を少し始めてみる。
こちらへ来て2か月、引っ越しの疲れもかなりとれて新しい生活にも慣れてきたので、そろそろ。

家の裏手の坂を上る途中で横道にそれると、「S藤公園」というものすごい高低差のある階段だらけの庭園風公園がある。
上の方に「S藤さん」って立派な邸宅があるから、きっとS藤さんはこのあたりの名士の子孫なんだろう。
昔はお屋敷があったところの美しい日本庭園造りの庭を、区に寄付したらしい。
池あり、橋あり、鳥居あり、神殿ありの見事なものだ。
子供たちが走り回っているのがほほえましい光景だった。

しばらく行くと「臨済宗 南禅寺」がある。
講談師「松林伯円」の墓と将軍家光・家綱に仕えた「老女岡野」の墓があるそうだ。
街歩きの絶好のターゲットとなる「町角の歴史的名所」だ。

図書館に寄る。
予約した本が入ると電話がかかってくるシステム、こっちはべつにかまわないけど、1件1件電話をかけ、私みたいにあんまり電話に気づかないユーザーには丁寧に留守電に入荷のお知らせを入れる。
これはずいぶん大変だ。いつも申し訳なく思っている。
ネットで検索・予約はできるのに、お知らせ受け取りの選択肢にメールがないのは惜しい。

落語が身近なせいか、おススメの棚に「愛川晶」の落語ミステリシリーズ、「昭和稲荷町らくご探偵 高座のホームズみたび」が置いてあったのを先週借りた。
読み始めたら面白そうだったので、ここはやはり「ひとたび、ふたたび」も読まなければ、とリクエストを入れる。

「神田紅梅亭寄席物帳」シリーズには「芝浜謎噺」「道具屋殺人事件」「『茶の湯』の密室」などがある。
落語にネタを得ているんだろう。面白そう。
住んでるあたりに敬意を表して「根津愛代理探偵事務所」もお願いし、ついでに少し遠いが「神楽坂謎ばなし」も。

その7冊がいっぺんにどかんと来たって留守電に入ってたので行かなくちゃ。
家の裏手から心臓破りの坂をえっちらおっちら登り、やっと平たくなった高台に広がる高級住宅街。
そのはずれに文京区図書館本郷分館がある。
私の返却と貸し出しはすぐに終わるが、せいうちくんは文京区どころか東京23区内すべての図書館から探してもらった本を返却するので、扱いが厳重(ものによっては古いのでジップロックに入れて保存してある)なため、とっても時間がかかる。
いったい何を読んでるんだろう。
たいがい「ナントカの歴史」とか「政治のなんちゃらかんちゃら」みたいな本。不思議な趣味だ。

しかもこれを、すぐに読むでもなく非破壊型のスキャナでデータ化する。
いつ読むつもりなのか。
あなたより4年老後に近いものとして、また1日中ヒマにしている者として言うが、引退後にそんなに気力が残っていて読書三昧できると思ったら大間違いだぞ。
1日が丸々自分の時間でも、起きてる間中本を読むなんて気力は20年ぐらい前に終わってるぞ。

ともあれ、それぞれの本をしょって散歩を続ける。
ゆるゆるした別の長い坂を下って谷中ぎんざに入り、商店街の店先で気に入ったサンダルを買った。
そのお店は店主が元鍼灸師で、足にいい靴を考えて足底板なども作ってくれるそうだ。
ひざが悪いため左右の足の長さが多少違い、傾きも出ているため、足底板を入れられたらうれしい。
しかし、オーダーメイドのハンドメイドなため、最初に足型をとるところから1回目で2万5千円ほどかかる。
その後は取った型を使うのでもっと安く上がるんだろう。
まだもうちょっと、考えよう。
サンダルは軽くて歩きやすい。3300円。
最初に買ったお醤油さしに続く、千駄木記念品第二弾だ。

素晴らしく美味しい抹茶ソフトを買って、食べ終わる頃にだんだん坂手前にたどり着き、西日暮里方面に曲がってしばらく行くと、せいうちくんが「古本屋」でググって見つけて以来ずっと目をつけていた古書店がある。
童話に出てきそうな「土日しか開いていない古本店」にやっと行けた。
普段はネット販売のみで、土日だけ中に入って買うことができる。
しかしメルヘンなのはそこまでで、小さな店内は詩集や評論などの非常に専門的に偏った本ばかりが並び、私にはとても歯が立たない。
それでも三島由紀夫の対談集を見つけてせいうちくんに薦めたら、
「あんまり興味ないなぁ」だって。
「三島由紀夫、好きじゃん」
「対談集はなぁ」
「せめて目次を見て、誰と対談してるかぐらい見てよ」
「どれどれ…小林秀雄に阿部公房、大江健三郎に石原慎太郎…面白そうじゃない!」
「だから勧めたんだよ!」
というやり取りがあって、300円で買い入れ。かなり安い。

そのあたりからぐるっと回って、散歩の最終目的地は家の近所のサミット。
5分で行けるスーパーに1時間以上かかってたどり着くのが散歩の醍醐味だろう。
毎週末は2晩続けて「水餃子」を食べている関係で、カセットコンロのガスボンベはとっても大事。
かと言って家が狭いのでたくさんのストックは置けない。
3本セットを買って、まあいくら何でも水餃子2回で3本使いきるなんてことはあるまい。

帰ってばったり倒れた。
全部で5千歩近い散歩。
逆に、あれだけ歩いても5千か。1万歩ぐらい歩いた感覚だった。
達成感がイマイチだが、いい風景をいろいろ見た。
それで十分だろう。
しかもけっこう用事も様々にこなしている。
有益かつ千駄木情緒に満ちた散歩だった。

21年4月4日

先日初めて日暮里駅に行って知ったこと。「鉄オタの聖地」。
特に将来有望なちびっ子鉄オタに大人気だった。
跨線橋に人が群がっていて、多くが子供の手を引いているので、「ぱんだちゃん!」と連呼しているお子さんの横に立ってお母さんに質問したところ、線路がたくさんあっていろんな電車が見られるところから、鉄道マニアが集まるんだとか。
ちなみにそのお子さんは上野まで行く京成電車が大のお気に入りだそうで、勝手に「ぱんだちゃん」と名付けて大声で呼びかけていた。
三つ子の魂百まで届け!

ああ、おばさんは便利。
ほとんどの場合に不審者案件にならずにあらゆる層に質問ができる。ほっ。

昔、下北沢に住んでいた頃、よくせいうちくんと跨線橋の上に佇んだ。
上りと下りの2線路しかないので鉄オタには全然向かないスポットだったが、そのため常にひと気がなく、恋人たちの一時の逢瀬にはまことによき、であった。

今ではすっかり様相の変わった下北沢、あの跨線橋はどうなっているんだろう?

21年4月6日

緑内障の疑いがある(前の主治医は「もう始まっている」と言っていた)ため、朝晩の点眼薬と定期的な眼圧検査が欠かせない。
どうも私は眼圧が下がりにくいタイプらしく、主治医もずいぶん苦戦していた。
緑内障対策は一にも二にも眼圧を下げることなので。

こちらでも新しい主治医を見つけて通うよう言われた。
「目薬をたくさんもらっておいて、ただ点眼しているってのではダメですか?」
「それはお勧めしない!ちゃんと眼科医に行ってください」
キツめの美女医にそう言われて従わないのはインポッシブル。
こちらにきて2か月以上サボっていた作業だが、ついに眼科に行くこちにした。

ひたすら「家から一番近い」ところに行ってみたところ、建物は古いし医師は高齢男性なので美人医ほど楽しくないが、設備はたいそういいようだ。
視力検査、前の眼科では3メートルほど向こうの「例の視力検査表」を、さすがに看護師さんが棒で指す、ということはなく裏から光が当たって浮かび上がる「切れ目のある輪っか」の切れ目の方向を答えるシステムだったが、こちらでは椅子に座って50センチほど向こうのモニタを見ると、そこに大きさがだんだん小さくなる輪っかが映る。
やや進歩した感じ。

それに、撮影してすぐに見せてくれた写真にびっくり。
自分の眼球が赤く浮かび上がってる写真なんて見たことなかった。
元来眼球は白いもので、視神経を白く浮かび上がらせるために赤く着色してあるんだろうが、「私の頭蓋内には火星がある!」と思わず萩尾望都の「スター・レッド」みたいな気分になってしまった。
血管というカナル(運河)が走っている火星。

それ見て老医師曰く、
「きれいな視神経してるねぇ。うん、これは全く問題ないよ。緑内障になるとね、視神経の部分が変色したりへこんだりするんだよ」。
要するに、私は緑内障ではなく、高眼圧症じゃないか、と彼は言う。
なので、眼圧を下げる点眼薬は必要だが、緑内障の場合ほど厳重にすることはない、今、朝晩2種類使っている点眼薬を1種類にし、1日1回でかまわないと。

続いて撮ってくれた虹彩部分のアップ写真にはどんな意味があるかよくわからなかった。
とにかく、人体は精緻かつ綺麗な部品で構成されているものだ、とちょっと変態な気分に襲われる。

この2種類の写真を気前よくくれたので、すっかり信用する気になった私。
1か月ほど点眼薬を1種類にして、来月また眼圧を測りにくればいい、とのこと。
診察が終わって待合室に引っ込む時、病院でいつもするように「ありがとうございました」と挨拶すると、驚いたことに老医師からも、「いやいや、どうもありがとう」と返ってきた。
医者からお礼を言われるのは初めてだ。
たいがい、「お大事に」「様子を見てまた来てみてください」という定型しか返ってこないので、本当にびっくりした。
この老医師は只者ではないかもしれない。

21年4月7日

眼科で一方の目薬だけさすように言われて、しかし前の眼科で大量にもらっておいたどっちをさすんだったかわからなくなってしまった。

申し訳ないとは思いながら、病院に行くほどのことでもなかろうと電話をかける。
看護師さんと少し話したが、やはり医師でないとわからないようで、ドクターが電話に出てくれた。
第一声が、「やあやあ、電話をありがとう。どうしました?」

昨日に劣らず驚きながら目薬の件を聞くと、「ラタノプロストの方です。1日1回で十分です」と教えてくれた。
「お電話で聞いてしまってすみません」と失礼を詫びたら、
「いやいや、電話してくれてありがとう。じゃあ、また」。
また「ありがとう」って言われちゃったよ。
もしかして口癖なのかな。
でも、「ありがとう」が口癖になってる人ってキュートだよね。
まして他人から頭を下げられる立場なのに。

なんとなくいい気分になり、しかし足が猛烈に痛むので、整体院に行って45分のチケットのつづりを買っておいたのを使ってたっぷり揉んでもらった。
おかげで楽になった気がする。
足の筋肉や筋がどこもかしこもパンパンになっているのはなぜだろう。
そんなに大した運動はしていないのに。
いや、していないのがいけないのか。

「ぐにゃぐにゃになりました。眠いです」とお礼を言うと、整体師さんは笑って、
「家に帰ったらばったり寝てください」と言う。
実際ほとんど即座に眠りかけていたら、頭上にあるiPad Proのリマインダーがピンポンと鳴った。
どうやら30分後に歯医者の予約が入っているらしい。
危ない危ない、すっかり忘れて唐突に整体院の予約を入れてしまっていた。
ちょうど間に合う時間に帰ってこられたのは奇跡だ。
今日はほかに何の予定もないものだと油断していたよ。

徒歩1分の歯医者で、リマインダーは30分前に鳴ってくれるので、十分準備も心構えもできた。
でも、これほど近く出なかったら心がくじけてキャンセルしてしまったかもしれない。

先月作ってもらった「歯の食いしばり防止用マウスピース」の調子を見てもらい、簡単に歯のお掃除をする日だったのだ。
マウスピースは最初の数日、圧迫された横の方の歯の根元が痛んだことぐらいしか不具合はない。
むしろ、食いしばりが弱くなってよく眠れる気がするし頭痛も減った。
「じゃあ、効果がありそうですね。続けて使ってみてください」

歯科衛生士さんらしき女性に、どうしても黄ばんでしまうのはどうしましょう、と聞くと、
「それはもう、どうしようもないんです。ポリデントとか使う方もいますが、あんまり効果はありません。こちらで洗浄しても同じです。汚れがついてるわけではなく着色してるだけですから、気になさらないでください」だって。

前の歯医者さんでは半年に1回歯のお掃除を促すハガキが来ていて、歯槽膿漏で歯を失うのがとても怖い私はそこを4か月に1回でお願いしていた。
だが、今度の歯医者さんに「前はどのくらいの頻度でしたか?」と聞かれて「4か月おきです」と答え、ちょっと神経質かな、と思っていたら、
「うーん、もう少し頻繁にしてはどうですか。3か月に1回ぐらい」と言われた。
歯のケアは望むところなのでそれでお願いした。
マウスピースも定期的に見てもらわないといけないしね。

ああ、今日も医者好きの本領発揮だった。
死にたい死にたいと言いながら体のケアには熱心なんだ。
不完全な状態で生きていたくないからだよ。
今でさえ膝の軟骨がすっかりすり減って痛かったり、心臓の薬を毎日忘れずにのまなければならない。
これ以上の面倒が増えるのを避けるため、元気な部分は大事に使おう。

21年4月8日

息子が私のコンパニオンのバイトに来た。
1時間1万円の時給を払うんだ、しっかりやってくれ。

まずは四方山話を交わし、私の幼少時からのトラウマなどをいかにも理解したようにふんふんと聞いてくれる。
しかし、まず覚えちゃいまい。
続いての時間は、彼が未見だと言うクドカン脚本の「俺の家の話」最終話を観せてあげる。
「すごいわ~、これはすごい~」とうめきながら観ていて、終わったとたん、「家族、なんだねぇ」と私の首っ玉にしがみついてきた。

「こないだ、ひざ枕で寝転がってたじゃない。前に、『小さい頃、お母さんが怖かった。2人で過ごす夕方の時間が不安だった。おかしな言動をしていたけど、薬のせいだったんだね』って言ってたよね。今、普通にしゃべれるようになった母さんを見て、その頃を取り戻したいのかなと思った」と聞くと、
「違う違う違う!!!」とぶんぶん首を振りながらますますしがみついてくる。
「いいんだよ、そんなこと。何にも関係ないよ」
「でも、こっちは怖い思いさせて悪かったって思うんだよ」
「そこまで言うのは野暮だよ。大丈夫だから」
っつーことはやっぱり、今、安心したいんじゃないのかい?

ロバート・デニーロとロビン・ウィリアムスが出ている「レナードの朝」と、クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を観る。
候補として伝えた時、異論がなかったので未見かと思ったのだが、どちらも観たことあるらしい。
「じゃあ別のを観ようか」と提案したら、息子が「観たことあるけど、今こそ観るべきでしょ」と主張した。
これは「グラン・トリノ」が人種差別をテーマにしているからだそうだ。

「レナードの朝」を観ながら、
私「やっぱり元はアルジャーノンかねぇ」
息子「そうに決まってるじゃん。人間最大の恐怖だよね」
私「でもさ、人間はほぼ全員、生まれてからだんだん新しい知識を蓄えて賢くなって、そしてそれを忘れていくんじゃない?そう怖いことでもないよ」
息子「そう考えれば、そうだね」
などと話し合う。
レナードくんに30年遅れてきた反抗期の話とか、アメリカの人は医者にかかるんでも互いに名乗るし、軽いおしゃべりを拒まない、コミュニケーション力の高い人たちだねぇとか。

ま、社会的な習慣のたまものなだけだけどね、と言いながら続く「グラン・トリノ」はさらに社会的習慣が浮き彫りにされる。
中国人とひとくくりにしていけないのか、少なくともモン族の人たちのお礼はたいそう過剰。
「いくら何でも持ってきすぎじゃないの?」と息子がいぶかしがるので、
「こっちがお返しをしないから続くんじゃないの?」と半ば冗談で言って、笑い合う。

異国の習慣になじんでいく頑固じじいのクリント・イーストウッドがほほえましい。
愛情は、家族だから向けられるってものじゃないと全編通して訴えていた。
衝撃のラストでは、いつの間にか息子と抱き合って2人ともおいおい泣いていた。
命の使い時、というものをしみじみ考えた。
あらためて、誠実に真剣にまっすぐに生きたいと思った。

昼食のカレーのテイクアウトを食べるのをはさんでこれでだいたい7時間を使い切ったのち、息子は「礼儀として時間外に」お風呂に入って、次の用事に向かって出かけて行った。
「また来るよ~お父さんにもよろしくね~」とぎゅうぎゅうハグして、「撮影用だから」と、なぜかワインの瓶が4本入った段ボール箱を軽々と抱えて。

15日から演劇の学校が始まるらしく、準備に少し腹筋や筋トレをしてるそうで、顔も少しほっそり引き締まっていた。
こういう顔の時は、心身ともに調子がいいんだ。

バイト料のうち5万円を別の口座に振り込み、プールして来年の学費に充ててほしい(本人は奨学金を狙っているけど、そううまくいくもんでもないから)、ついては少々だらしない息子に代わってしっかり者のカノジョに管理してもらいたい、と話したら、
「それはいいアイディアだね。いろいろ考えてくれてありがとう」と、カノジョと話し合ってみるそうだ。

次に会えるのはいつかなぁ。
「連休はいつなの?」の質問に「???」って顔になってたのは、単に忘れていたのか、連休なんか関係ない労働環境なのか。
「父さんを見てるとさぁ、つくづくお金を稼ぐってのは大変だと思うよ」と言ったら、
「本当にそうだよねー」としみじみ答えていた。
彼も、生活のために稼ぐことの大変さがだんだん身に染みてきているらしい。
頑張れ、若者よ。

21年4月9日

竹橋の東京国立近代美術館で「あやしい絵展」を見てきた。
平日なのでそこそこすいていたが、それでもけっこう来場者は多かった。
かなり注目されている展示会なんだろう。

なぜかミュシャが入っていた。
あやしいとはあんまり思わないが、一番好きな画家の1人だ。
ビアズリーも好き。こちらは正当にあやしい感がある。
萩尾望都も大好きだろうと思える「ヨカナーンに口づけするサロメ」には悪魔的な魅力を感じる。

同じ建物でやっていたので、ついでと言っては失礼だがMOMATの展示も見た。
写真はさっぱり門外漢で分からないんだが、ポップアート的なものは面白かった。

1万歩ぐらい歩いたくたびれ具合でよれよれになり、足を引きずりながら帰ってきたのに、計測結果を見たら1500歩程度。
美術館の中って、実際の歩行距離より疲れる気がする。
ちょっと歩いてはは立ち止まる動作がひざに負担をかけるんだろうか。
まだ昼なのにばったり倒れて寝てしまった。

目覚ましで起きて、これあるを予測してせいうちくんの休日にもかかわらず入れておいた整体院へ。
(基本、せいうちくんがいる時は外出しないのだ)
「左のひざがが痛いんですぅ」とほとんどびっこをひいて現れた私に整体師さんは驚いたようだが、施術の最中に、
「軟骨がすり減ってるのもあるでしょうが、うさこさんは足の筋肉が全体に弱すぎます。もうちょっと筋力をつけてください」と叱られた。
わかっちゃいるのよ、わかっちゃ。
でも歩くのも外出も運動も、基本的にキライなのよ…

21年4月10日

昨夜はいつもの如くまんがくらぶの面々とZOOM飲み会。
これまたいつもの如く、細かいことを言い出したら止まらないSくんとHくんが「十干五行」でなぜ還暦になるかの話を始めてノンストップ。
さっぱりわからなそうに首をかしげているせいうちくんに、
「要するに陰陽師の話だよ」と言ったのをSくんが聞きとがめ、
「おや、うさこさんはこれが陰陽道だってわかるんですか」
「わかるよ。野村萬斎の『陰陽師』だって観たし」。
でも、私がしたいのはその話じゃないんだよぅ。

せいうちくんの製鉄の話に対してGくんの出した釜石の地図に「甲子川」ってのが流れてて、読み方が気になって調べたら「かつしがわ」。
「なーんだ、『きねがわ』かと思った。ほら、藤村甲子園が『甲子国(きねくに)』って名前にされそうだったじゃん」と話し始めた途端に「甲子(きのえね)」あたりから「十干五行」の話が始まってしまった。
ちがう、そういう方向じゃない。
この年になって初めて思いついたが、「甲子園」そのままで「きねその」と読ませるって手はなかったのか、甲子園のお父さん、って言いたいんだ。

まあそんな話を延々としてる間にまたまた例の如く眠くなったせいうちくんが2時頃に退出し、カノジョの話をしたくてしょうがないんだがあまり具体的に問い詰められると逃げるHくんがその次のセッションに現れず、Sくんは3時半に「そろそろ眠い」と去り、残るのはいつもの「明日なき下世話な無職3人組」、長老、Gくん、私だった。

ここにはとても書けない下品な実話が飛び交い、明け方5時近くにやっと終わった。
Gくんは免許取りたての甥御さんにレンタカーで初ドライブ指南をしてやろうと思っており、ついでに久々の1週間ほど車中生活をしてくるつもりなんだって。
夜は運転しない主義なのでこれから1週間で朝型の生活に持って行くそうだ。
飲み始めるととめどないGくんに、そんな芸当ができるんだろうか。

5時に寝た私が起きたのは7時。
睡眠薬をのんでいても2時間ぐらいで起きてしまうことが多い。
私が去ったあと2人での無限ZOOMに突入した中年男性2人がカメラの前で寝落ちしてる姿を見てやろうと思ったのだが、Gくんの部屋には誰もいなかった。
きちんとあのセッションで終わったものとみえる。

二度寝してまた9時頃に起きて、休みの日のせいうちくんは寝かせておいてあげたいが、12時ぐらいが限界だ。
起こして、朝食を食べ、テレビをだらだら見る。

結局そんな風に休日は終わってしまった。
というより、土曜の夜に会議入れるのやめてくれ、せいうちくん。
おまけに日曜に人に会いに外出する計画が盛り上がっている。(もちろん仕事)
この人は結局人と一緒に青春してるのが好きなんだよなぁ。万年青年。
こっちも歳だけ食った万年少女だからあまり文句も言えないか。

21年4月11日

朝の9時から14時まで、いろいろ秘密の行動をしているせいうちくん。
家庭も大事にしてくれよ、と思うんだが、夜はその会合の結果でまた盛り上がるテレ会議。
誰かこの「中年探偵団」みたいなやんちゃな集団を止めてくれ。

合間合間にうとうとしながら、ついに島耕作シリーズを読み切った。
「会長」「相談役」のあたりではほとんど神様のような人格になってる島耕作だが、学生時代とか新入社員、主任、係長時代などは血気盛んなところもある。
サラリーマンの仕事がいかに周囲の人間関係に振り回されるものか、勉強になった。

そんな修羅場の雰囲気を一切家に持ち込まなかったせいうちくんは立派だが、最近テレワークのせいもあって仕事の中身が私にだだ洩れ。
そして私は知る。偉い人がみんな人格者なわけじゃない。
ただのおっさんたちがそれなりに偉くなっていくのだ。
せいうちくんの昇進を「あなたは天才だから」「非凡だから」とほめちぎるお義母さんに教えてあげたい。
会社ってもっとどうしようもないところで動いてるんですよ、と。

21年4月12日

島耕作シリーズを全部読み終わった。
「課長・島耕作」が始まりだと思っていたので、そこから「相談役・島耕作」(既刊3巻)まで読み、あとから書かれた「学生・島耕作」や「就活・島耕作」、入社後の「ヤング・島耕作」などを読んでいった。

新入社員時代に社員旅行の幹事をやらされた島耕作の話を読んでいると、次長の希望で大宴会場での「お座敷ストリップ」を呼ばされたりしている。
女子社員もいる宴会でお座敷ストリップ!
なんという時代だったことだろう。
彼が課長になったころでも、まだ「女子社員研修」なんて用語が出てくるもんなぁ。

読みながら、自分の会社人生をいろいろふり返ってみた。
新卒でソニーに入り、海外関係の部署のカタマリに配属され、プロジェクト課の一員となった。
なんでも課長がICU卒の人で、ぜひICU卒の課員を欲しいと思ったらしい。
ちなみにICUは卒業人数が少ないため、学生側から見ると昨年2人入っている会社はもう「ここはわりとICUからたくさん取る」という認識だった。

当時ブラジルに合弁会社を作るプロジェクトが進んでおり、私もその関連の仕事をした。
朝一番にテレックス(まだそういう時代。コピー機のある部屋に書類等を各部署に送るためのエアシューターがあったのが面白かった)を集め、課長や部長に配るのが仕事始め。
最初に大仕事だと思ったのは、当時の社長が急死したため、その連絡や様々な手配をした時。
新人の仕事としてはエキサイティングだった。

しかし、「おまえを一人前のプロジェクト屋に仕込んでやる」と言ってくれた課長の厚情は私に届かず、
「4、5年かかるプロジェクトを完遂する仕事は好きではありません。私はもっと、日々結果の出るような、スパンの短い仕事をしたいと思います」と断ってしまった。
今思うと、目をかけてくれている上司からのビッグチャンスな誘いによくこんなことが言えたものだ。

何かと相談に乗ってくれた部長秘書のお姉さまに「他の部署に替わりたい、ないしは退職も考えている」と打ち明けると、とても困っていた。
「そう性急に考えないで、もうしばらく今の仕事をしてみたら?」と言われ、そんなもんかと思っていたら、実は水面下で私を隣の部署に移す計画が進んでいたらしい。
海外のカスタマーを相手にする部署への異動の辞令をもらった時、秘書のお姉さんは、
「実はその話は聞いていたのだけど、その時点であなたに言うわけにもいかず、困っていた」と初めて打ち明けてくれた。
立場のある人にうかつに相談事をするものではないな、心労をかけたな、と反省した。

セクハラやパワハラなどという言葉のない頃(もちろん行為としてはガッツリある)だが、ソニーはおおむね紳士的なので、あまりその手の問題はなかったように思う。
1度、私が英文ワープロの前で腕組みして文面を考えていたら、男性係長から、「女のくせに腕組みなんかするな!」と叱られたことがあり、非常に理不尽に思ったなぁ。
今思い出してもちょっと腹が立つ。

カスタマー課の仕事は面白かった。
各国から来るクレームや要望、故障の相談などは、たいがい「その国のソニー支部に連絡してください」というフォームレターで事足りたが、支部や代理店がない国の場合はカスタマーが電器屋で必要だと言われた部品をマイクロフィルムのリストを見て探し出し、取り寄せて送る。
一番印象に残っているのは、難しい故障だったため何度も手紙で連絡を取り合い、最後にはカスタマーを満足させる結果を出せた時に、
「I’m happy to have good business communication with you.」と手紙に書いてきてくれたことだった。
あと、インドのカスタマーはなぜか必ず「Please send me some stamps」と書いてくるのが面白かった。

課長以外は全員女性の課で、10人ほどの構成員の中で大卒は私ともう1人しかいなかった。
女性ならではの細かいつきあいがあり、私はよく、15時の10分休みに誰かの誕生会をやろう、といったイベントを忘れてどこかに行ってしまっていた。
「あなたならそんなことだろうと思ったわ」とリーダーのお姉さんにタメイキつかせるほど溶け込めておらず、もっと悪いことに私自身がまったく気にしていなかった。
よく務まったものだ。
ただ、女性ばかりなうえ結婚してる人も多いせいか、就業時間になると皆さっさと帰ってしまう、今でも言うらしい「ベルサッサ」だったので、そこは大いに楽だった。

やがて五反田の本社から品川の賃貸ビルに海外関連の事業部が引っ越し、私も海外向けビデオカメラの営業部に異動になった。
あいにくなことにその頃、生活が荒れ、仕事がちっとも好きになれなかった私はうつ病を発症し、自殺未遂をして3か月の入院中に休職状態になった。
気がつけばいつの間にか離婚もしており、誰が離婚届けを出してくれたのか、住んでいたアパートを片づけ、荷物を名古屋に搬送してくれたのかさっぱり覚えていない。
多分に母の力を借りていたんだろう。
しばらく名古屋で静養したが、徳川家康文庫版全26巻を読み切ったあたりで人生を変えたくなった。

まったく無茶としか言いようがないのだが、長期休養を言い渡されているのをいいことに、アメリカに行って英語の勉強をしてこようと思った。
東京に出てきて直属の部長にお伺いを立てたところ、
「いいじゃないか、行きなさい行きなさい。なんなら高名な精神学者に会うために渡米の必要あり、と私が一筆書いてあげよう」とまで言ってくれた。

とりあえず1か月、西海岸の日本人が経営する英語学校のホームステイつきプランを申し込んで、スチューデントビザを取った。
1人暮らしの老婦人と1か月楽しく暮らしながら真面目に英語学校に通った。

老婦人は親切で、近所の日本人の家庭を訪問し、「She is a student from your country, Japan」と私を紹介してまわってくれた。
あまり打ち解けてくれない日本人家庭が多かったので、
「They must be more kind to you!」と怒っていた。
大食いの私なのに友人に電話で、
「She eats so little!Just like a little bird!」と話しているのを聞いた時は、スーパーで牛乳のガロンボトルを見た時同様、アメリカ人の胃袋感覚に驚いた。

彼女は夕食のあとソファに寝転がって「my medicine」とか「my poison」と呼ぶオンザロックを飲んでいた。
私はポーチで飼いネコと飼い犬に向かって中島みゆきの歌を歌っていた。
特に猫は「朝焼け」が好きだったらしく、何度も「NAOOoo」と催促された。

クリスマス前には家族が集まるパーティがあり、私も交えて歓迎された。
FBIを退職して警察官になっている長男、日本で言う防衛医大に行って外科医になった長女、戦闘機のメカニックをやっている次女などが来た。
長男や長女にはハイティーンの子供たちがおり、親の目の前でキスしたりいちゃついたりする世代を見てちょっと仰天した。
同じ年頃のメカニック次女とは話が合い、日本から持って行った同人誌を見せたら、「Wao!What are they doing?!In Japan, it’s OK?」と驚かれた。
いや、そんなすごいものは描いてないんですが。後背位がいかんかった?
「I like you very much!May I hug you?」とハグしてくれて、日本の話をいろいろして楽しんだ。

日本のことを聞かれてキモになるのは「東京―大阪間はどのくらいの距離なのか」と、「天皇の生活費はだれが払っているのか」だとわかった。
特に天皇のことは細かく知っておいて英語で説明できると好評である。

1か月の学校が終わり自信がついたので、今度は東海岸の大学がやっている英語教育のプログラムに参加することにした。
大学の寮に住めるし、トップのクラスに入れれば大学の授業も聴講できる。

1人でケネディ空港に降り立ったのはクリスマスの夜だった。
早朝に寮からのバスが迎えに来るまでは行くところがない。
空港の黒人女性警備員が、「You can’t stay here at night」と追い出しに来たので、
「I’m waiting early bus, and nowhere I can go till morning.」と訴えたら、
「OK, you’re not here. I’ll bring you a blanket.」と見て見ぬふりをしてくれた。
クリスマスツリーの下のソファでひと晩過ごしたのは忘れられない思い出だ。

大学のプログラムにはいろんな国の若者が参加していた。
韓国、ポルトガル、スペイン、アフリカ、あれこれと。
あいにく休暇で事務室も閉まってしまい、日本からの手紙は全部事務所に留め置かれて配達されなくなった。
正規の大学生たちがニューイヤー休暇を終えて戻ってきたらにぎやかになったのかもしれないが、来てからずっと2人部屋を1人で使っている。
留学生同士で交流していればよかったのに、気持ちは日本にばかり向いていた。
せいうちくんがたまにKDDに何千円か握って行ってかけてくる電話以外はほとんど情報遮断状態になり、またうつ状態に火がついた。
ひどいホームシックに陥り、大学側に、
「My mother gets heavy sick. I have to return to Japan」と言ったら、
「It’s so sorry」となって、残りの学費と寮費は返してくれた。
今思っても良心的だった。
(ちなみに嘘が大嫌いだと公言している私は、こういうのを嘘とは呼ばず、言い訳と定義している)

というわけで長ければ半年ほど、と思っていた私のアメリカ修業はたった2か月で終わってしまった。
日本に帰って下北沢にアパートを借り、名古屋から必要な荷物を持ってきて、新生活が始まった。

会社にも復職願を出し、数字を管理する部署に配属された。
新人の男の子たちが必ず半年ほど研修をしていくところなので、自分もいつかはここから出ていけるんだと思っていた。
数字を打ち込んだり計算したりする仕事は意外と性にあっており、2年以上ゆっくり過ごした。
女性はパート社員がほとんどで、私ともう1人、短大卒の正社員がいた。

異動願をそれなりに出していたのが効いたのか、やがて本社のわりと花形部署の部長秘書をすることになった。
しかし部長が交代し、新しい部長に「秘書の仕事は向きません」と直訴したところ、
「確かに君は秘書に向いていない。スタッフの方がいいだろう」と通常の業務を与えられるようになった。
お茶出しの作法も知らないような秘書なんか、向こうも困ったんだろう。

ある意味順風満帆だったのだが、英語力が足りなくて電話の応対ができないことから落ち込みが始まり、翻訳者としてなら評価されていたものの、居心地悪く感じるようになった。
欠勤や遅刻が増え、やがて会社に行けなくなった。
またしても休業に入り、3か月ぐらいののち、リハビリ的な、英語の資料を読んで整理するだけのおじさまだらけの部署に配属された。
初日から、「英語は無理です!」と泣き叫んで人事部に飛び込んで、
「今度勤まらない場合はやめてもらうと約束しましたね。録音もあります」と言われ、退職となる。
せめてもの幸いは、せいうちくんとの結婚が決まっていたので「寿退社」扱いになり退職金が余分にもらえたのと、いちおう花束をもらって格好のついた退社になったことだった。

私ほど無茶苦茶なケースはあまりないだろうが、「男女雇用機会均等法前」の入社だったため女性の出世はほぼ望めず、その頃にはめぼしい大卒女子はほとんど新天地を求めて退社していった。
「派遣社員」が今のようなブラックなイメージでなく、女性でも能力を生かして高給を得られる時代だった。

長い長い話になったが、これが私のたった7年間の会社生活だった。
どこかで全部書いてすっきりさせておきたかったので満足だ。
以来、うつ病を患ったまませいうちくんの扶養家族として30年以上生活している。
「せいうちくんに愛され、尊敬されている」ことだけが私の市場価値だ。
この資質を大切にして、ある種の「内助の功」で生きてきたらしい。
家事をしたり育児をしたりだけが主婦の仕事ではない。
「せいうち家」をプロデュースし、せいうちくんの心の慰めになることにも大きな意味があったように思う。
今、2人で始めた家庭は再び2人に戻り、寄り添い合う高齢者になりつつある。
そういう人生もあるのだ。

あと、使わない能力は失われる。
多少は英語で考えることすらできたはずの英語力は30年の間にすっかり消えた。
今や「飛ぶ」が「fly」だったか「fry」だったかはGoogle辞書で確認してからでないと怖くて書けない。(どちらかは「ハエ」のはずだ)
それに音感が悪いせいかヒアリングと発音は最後までまったく向上しなかった。
一生の生き甲斐とさえ思ったことのある英語も、その程度の才能しかなかったらしい。
今では意味不明の原書を取り出し、「これが読めた時代もあるんだなぁ」と遠い昔を思い返している。

そう言えば島耕作はESS出身で、英語はかなり流暢な設定だった。
やはり英語はサラリーマンの必須能力か。
なんとか話が最初に戻って、おしまい。

21年4月14日

せいうちくんは休日にまでテレ会議が続き、あんまり忙しくて私がしくしくしてるもんだから、「のんびりしよう」とお休みを取ってくれた。
何にもしないつもりだけど、お互い体のメンテナンスを、とせいうちくんは歯科医に、私は整体院に同じ正午の予約を入れておく。

「もう今日は絶対仕事しないからね」と休む気満々のせいうちくんと
まずは定食屋さんで昼ごはんでも、と思ったら遅く起きた朝はあいにくの雨。
ごく近くの用事以外出かけるのもバカバカしいと、適当にご飯をすませ、正午に家を出てせいうちくんは左に折れて20秒の歯医者へ、私は右に折れて10秒の整体院へ。
家で再度集合したのは1時過ぎ。
せいうちくんは歯槽膿漏がひどくなっており、何度か通うように言われてとりあえず次回の予約を入れてきたそうだ。

「いやー、近いっていいね!それにきれいでいい歯医者さんだね」と感動していた。
私もそこで面倒見てもらってる。
こないだは食いしばり対策のマウスピースを作ってもらったばかり。
「歯が抜ける」のを恐れて3、4か月に1度歯のお掃除に行っている私に比べ、せいうちくんは全然ケアしてない。
もう60歳近いんだから、口内ケアはちゃんとしよう。口腔フレイルは怖いぞ。

そのあとはゆっくりごろごろ映画でも見るつもりが、ホットカーペットに毛布賭けて横たわったせいうちくんは、
「あー、あったかい…僕、なんか気分が重いんだよね。風邪かなぁ。風邪ひくとうつっぽい気分になるっていうじゃない。なんだか身体も重くて、こうしてあったかくしてると少し気分がいいんだよね」と言う。

それは風邪のひき始めかもしれないし、そもそも忙しすぎるんだから、ゆっくりすると気分が落ち着くんだったらとにかく寝なさい、と一緒にベッドにもぐりこむ。
寒気のする人には私のひざ痛用の電気あんかを貸してあげよう。
あっという間に寝入ったせいうちくん。

私も寝ようと思ったら、せいうちくんのスマホにメッセージ着信音。
画面表示を眺めると、今夜、急ぎの会議が催される様子。
もうネグっちゃえ、本人寝てるんだし、と一瞬思うが、こういうのはかえってすっぱりやり切った方が気分がいいだろうと、揺り起こしてスマホを渡す。
「え、会議…うーん、これはやったほうがいいやつだ」とメッセージを何度か交換して、はい、夜に会議1件入りました。

数時間寝て夜遊ぼうね、と言っていたせいうちくんは私に平謝りだが、しょうがないよ、仕事だもんね、と島耕作を全編読み切った私の気分は半ばサラリーマン。
夫が相談役やら会長やらになるとは全く思ってないが、職分を果たさないと気分よく眠れない人だ、仕事させてあげよう。

というわけで3時間半眠ったあと晩ごはん食べて、そこからテレ会議。
おかしいな、私のためにお休み取ってくれたはずなのに、私との時間ってどこに行っちゃったんだろう?
その手の期待はもう、GWまで封印しておいた方がいいかもしれない。

21年4月15日

最近よく「マウンティング」「マウントを取る」という表現を聞くが、実はあれがよくわからない。
人が「ああ、マウント取ってるなぁ」と思うことはあるので全然わからないってことではなく、自分の発言がマウントに当たるかどうかがわからないって場合が多い。
もちろん余計なことを何も言わなければ発生しない悩みだが、なにしろ「自分語り」が好きで、自分のことをしゃべりたいのだ。
マウント黄色信号だろう。

人に聞くと、マウントとは「他人に対して優位性を示す」ことらしい。
しかしそこではたと困るのは、「優位性を示そうとしたとたんに、『やなヤツ』になってしまって、得られたかもしれない高評価が得られない、失敗だ、つまんないじゃないか」って点。
私の「自分語り」は基本的に自分の話を聞いてもらいたいだけで、ウケれば嬉しいが「あ、そうですか」となってもあまりかまわない。
優位性を取りたいとは別に思ってない。
ひたすらうるさくはあろうが。

「そのへん(結果的に優位性が取れなくてつまなんないじゃん)がわかってる人はあまりいないです。うさこさんはマウント取るタイプではないです」と言ってくれる友人がいると思えば、別の友人は、
「相手が知らないことをいっぱい知ってるんだよアピールがマウント取りになるので、うさこさんの広範な知識による自分語りも一種のマウントなのかもしれない」と手厳しい。

まあ、広い範囲にマウント取って人が離れていくほどの立場でもなし、いくばくかの友人がまわりに残ってガマンして自分語りを聞いてくれているということは、「やたらにマウント取ってくるヤツ」ってレッテルはまだ貼られてないんだろう。(しかしやっぱりイエローカード)

自分のマウント取りも心配だが、世の中的になんとなく「マウント狩り」が行われてる気もして、おっかない。
誰かとの会話の結果なんとなく不愉快になる現象に「あ、そうか。マウンティングされたんだ」って名前がつくようになったのはわかりやすくてけっこうなんだけど、今度は何でもかんでも「はい、マウンティング。アウト」って言われちゃうみたいで。

もとからある行動や現象に名前がつく、それ自体は本当にいいことで、難しかったりもやもやしたりした気持ちをあっさりひと言で表現して気がすんだり、他人に「マウント取られちゃった」とか相手本人に「そういうの、マウンティングって言うんだよ」って言えるのは便利。
流行語のひとつで、じきにあんまり言い立てるのもダサくなるのかな。
はやらなくなる頃にはついでに「マウンティング」って行為もなんとなく気をつけよう慎もうって雰囲気になるのかも。
そういう時代の箒みたいなものなら、それはそれで役に立つ名前づけ。

実は、マウントを取られたと感じた時に発してみたい言葉がある。
「君ぃ、失敬じゃないか!」
今のところ笑って言うシチュエーションしか思いつかないが、できれば大真面目に言って、自己批判をうながしたい。
問題は、マウント取るような人にはこのセリフの洒脱な感じが全然伝わらないだろうことだ。残念なことよのう。

21年4月16日

こちらに仮住まいするようになってから、ありがたいことにすぐ近所(隣の隣のビル。マンション出て徒歩10秒)に保険診療でやってくれる整体院がある。
ひざが痛んで歩きづらいほどの最近は、ほぼ毎日お世話になってる。

足湯であっためて、電気を全身の8カ所に流して、マッサージの施術うけて、各々10分ずつ。
このうち、ただうつぶせに横たわって電極つきで放置されてる時間が案外面白い。
カーテンで仕切られたほかのベッドから聞こえる整体師さんと患者さんの会話についつい聞き耳を立ててしまうのだ。

「食いしばりが原因で頭痛がするんです」と言ってる人がいると、
「それは歯医者でマウスピースを作ってもらいましょう!劇的に改善されますよ!」と乱入したくなったり、
「テレワークで座りっぱなしだから腰が痛くってねぇ」と言ってるのを聞くと「うちの主人もそうなんです。お疲れ様です!」と握手しに行きたくなったり、電流のせいばかりではなく1人でぴくぴくしてる。
(特に前者に関しては、整体師さんにこっそりマウスピース情報を伝えようかとぐずぐず思案している、聞いて以来の2週間。筋金入りのお節介だ)

今日面白かったのは、隣のベッドで中年男性が語る「こんなに大阪でコロナ患者が増えてきちゃって、当然東京にもすぐにやってくる。オリンピックは無理だ」って話。
「あなたも同意見ですか!」ってカーテン越しに声かけたくなった。
しかし担当の整体師さん、実は高倍率をくぐり抜けてバレーボールのチケットをゲットしている
非常に歯切れが悪い。
今回は1人笑いでぴくぴくしてた。電気がプラスされてるので、とってもぴくぴくしやすい。

整体院ってのもけっこう面白い場なんだよ。
「浮世床」や「浮世風呂」と大きく違うのは、情報が一方通行で、おしゃべりし合うんじゃなくて他人の会話を聞くだけなところ。
え?普通そんなものは聞かないようにする?はあ、そうですか。
人としゃべるとついつい自分の話ばかりしてしまう「聞き下手」な私にとっては、絶対口が出せない場面での情報収集は貴重な機会なんだが。

21年4月17日

恒例ZOOM飲み会明けの朝。
とは言っても最近すっかり飲酒の習慣がなくなったので、ずっとアイスティーかコーヒーでおしゃべりしている私。
夜中頃になると寝落ちする人が出たり日の高いうちは到底口にできないようなことをしゃべったりするこの会で、翌朝記憶がないほどの酔っ払いたちと同じテンションでまったくの素面でありながら盛り上がれる自分ってちょっとすごいって思う。
おかげで翌週しれっと「な~んにも覚えてない。酔っ払いだから」と言う人に詳細にゆくたてを話してあげられる。

昨夜は事前に「エロ話ネタ」の準備をしてあった。
パジャマの胸元(別に普通に見える範囲)の三角ゾーンに、赤い斑点をこさえていたのだ。
「ねえねえ、これってキスマークだと思うでしょ」と問いかけると、全然予想と違う反応。
「いや、カラータイマーだろ」。
披露する場を間違った。ヲタクの集団に、無駄な仕込みをしてしまった。

とは言っても無理に作ったわけじゃない。
おとといの夜中に小腹がすいて、冷凍焼きおにぎりの袋から1コ出してレンジで温めた。
これが意外と熱くて、ベッドでホルダーに支えられたiPad Proでマンガを読みながら「ほっ、ほっ」と両手で持ち替えながら食べていたら、ぽろっと崩れて熱い焼きおにぎりの一部が胸元に落ちたのだ。

「あちい~っ!」
つきたての餅とか炊きたてのコメは危ない。
適度に水分と粘りがあり、冷めにくく、落ちたところにはりついてすぐには取れないのだ。
「あついあついあつい~!」と思いながら米粒を全部胸の上から回収したあとには、見事に直径1センチほどの赤いやけどの跡ができていた。

せっかくやけどまでしたんだからとウケを狙ったのに、見事にカラータイマーですべらされて、バカバカしいという表情の苦笑しか取れなかった。
それなのに今日には全体が薄い水膨れになっている悲惨さ。
寝ころんで食べる焼きおにぎりにはつくづく気をつけなければならい。

夜中過ぎまでZOOMしていたせいで、今日も活動は昼からとなってしまった。
買い物してテレビ見てごろごろしたら終わった。
めずらしくせいうちくんの仕事が全然入らない週末。
のんびりだらだら。
休日はこうありたい。

21年4月18日

本当に久々にせいうちくんの仕事が全く入らなかった週末。
昼寝と図書館と整体院で終わったが、実にのんびりした。
人間に休日は絶対必要。

息子からメッセージがきた。
昨日ちょっと出演させてもらったライブでインプロコントがとてもうまくいったらしい。
「早くも学校の成果が出てきてるかも」と嬉しそうだった。
こういう知らせはこちらもたいそう嬉しい。

松元裕二脚本・松たか子主演のドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」がすごくコントっぽくって面白い、と知らせたら「ほう」と興味を持っていた。
東京03の角田さんも出ている。
最近、お笑いの中でもコントが人気出てきてる気がする。
息子、先見の明があったか。

GW中に遊びに来てくれる(バイトではなく)そうなので、
「もう初回は終わっちゃったけど、2回目からでも見てみて。面白かったらうちで一緒に初回観よう」と送ったら、「そうしよう!」と元気な返事。
調子よさそうで、いいね。

21年4月19日

7年前にツアーでイタリアに行った。
1週間でミラノ、フィレンツェ、ベネツィア、カプリ島、ナポリ、ローマを回るハードなものだった。
日本で言えば本州の端から端までの名所を6カ所いっぺんに訪ねるような移動距離だから、大変なのは当たり前だ。
毎朝6時ごろに部屋の前にトランクを出しておき、午前から観光して昼ごはんを食べ、午後はずっとバスで移動し、夜は次の町について夕食を食べるようなスケジュールだった。
トランクは我々と一緒に移動してホテルにちゃんと収まっていた。

最後のローマで我々は延泊を2日つけ、他の方々とはそこでお別れだった。
この時のローマが大変楽しかったので、いつかまた2人で1週間ぐらい滞在したいね、毎日街のトラットリアで夕食を食べよう、とせいうちくんと話し合った。
(ツアーの詳細はHP中の「胃弱夫と足弱妻のイタリア旅行」をどうぞ)

ツアー中ずっと一緒に行動していたので、同じグループの何人かの方々と仲良くなった。
その中の1人に群馬からいらしたおばさまがいて、ご長男と一緒にあちこち旅行してらっしゃると言っていた。
当時からひざが痛かった私をいたわってくださり、ご自分も腰痛があると言って痛み止めをたくさん持っていらしたので、お別れの日には余分の痛み止めを分けてくださった。
息子さんの撮った我々の写真を送ってくださるということでアドレスを交換し、互いに「楽しかったわね!」と言い合った。

帰ってからも、写真の交換に始まり時々メールをしたり手作りのオレンジピールをいただいたりお返しのお菓子を送ったりのお付き合いがとぎれとぎれに続いていた。
ここ数年は忙しさにまぎれてご無沙汰していたが、年賀状の交換だけは続いており、昨日はメッセージをいただいた。
(たぶんこちらのメインアドレスが変わってしまったせいだろう)

「ご無沙汰してます。オレンジピールを送りたいのですが、何時ごろ着くのが都合がいいですか?」というショートメール。
気がつかなかったがお電話もいただいていたようなので、あわててこちらからお電話して、前の家を引っ越すこと、現在は仮住まい中であることを伝え、今の住まいの住所をお伝えした。
こうして今日、4袋もの手作りオレンジピールをゲットしたのだった。
(大きな畑を持つ地主さんらしく、立派なねぎをたくさんいただいたこともあった。オレンジピールもご自分のところでとれるもので作るそうだ)

さっそくひと袋食べてしまった。
甘くて苦いオレンジピールはあとを引き、コーヒーと一緒に食べるといくらでも入ってしまう。
本当においしいものだ。

さっそくお礼にウエストのクッキーを送り、メールを書いて最近のことなどを伝える。
我々が次のローマ旅行に行きそびれてクルーズに走るまでの間に、おばさまはフィンランドやニュージーランド、さまざまなクルーズに行っていると折々のメールで聞いていた。
コロナ時代で旅行ができずお退屈でしょう、と聞くと、
「コロナが落ち着いたら、ギリシャの島めぐりクルーズ、カナダ側のナイアガラの滝、ノルウェーのフィンランディアを作曲したシベリウスの家を見に行きたい。ケネディ宇宙センターで打ち上げを見てきたのはたまたまで運がよかった」といったお返事をいただいた。
世界中を駆け回る勢いの、精力的なお金持ちのおばさまなのである。

7年も前の旅行で知り合った方とまだ縁が続いているのはとても嬉しく、なつかしいものだ。
もう1人、新婚旅行で来ていた女の子(と言いたいぐらい若くて可愛かった!)ともメアドを交換したが、1年後に「恥ずかしながら離婚しちゃいました」とメールが来て、その後アドレスやケー番を変えたのか、連絡がつかなくなってしまった。
たいへん残念。

今年の頭には、10年以上も前に亡くなってしまった高校時代の友人の、お母様から電話がかかってきたなぁ。
お花やお菓子、手紙のやりとりはしていたが直接のお電話は初めてだったので驚いた。
年賀状を見て、我々も飛鳥Ⅱに乗ったと知り、大の飛鳥ファンのお母様はいてもたってもいられなくなり話がしたくなったそうだ。

クルーズや旅行が大好きな人々が、1年以上に及ぶ禁足令にもう飽き飽きしているんだろうなぁ。
引きこもりの私だってコロナ鬱になりそうだもの。
また平和でどこへでも行ける時代が来たら、こういう方々とどこかの船でお会いするかもしれない。
我々の予算は限られているのでどのへんで使うかは慎重に決めなければならないが、おばさまたちと洋上のデッキでお茶を飲み、思い出話をする日が来たら素敵だな、と夢をみてしまう。
本当にコロナが明けるのは3年後ぐらいになるだろうとも言われている昨今、その夢は実現するのだろうか。

21年4月20日

夢をみた。
コロナが明けて、昔のように皆出勤するようになった。
せいうちくんも接待で遅くなると言い残して出社したきり、夜中近くなっても帰ってこない。
「これぐらいならコロナ中の方がよかったな」などと不謹慎なことを考えているうちに、寂しくて机に突っ伏してたまま泣きながら眠ってしまった。

夢の中の眠りから覚めてなんとなく家の中を1周して戻ってくると、さいぜんまで座っていたのの横の椅子にせいうちくんが座っていた。
「どうしたの。心配したんだよ」と問うと、
「可哀そうだけど、とても恐ろしい知らせがある」と言ったきり口を開かない。
直前まで古いダイヤル式の電話をどこかにかけて受話器を外したまま泣いて眠ってしまっていたので、電話料金がすごいことになったのか!?と一瞬焦る。

「なんでも大丈夫だよ、まずは言ってみて」と散々なだめたりすかしたりして聞き出した内容は、
「本当に恐ろしいことだよ。さらに出世した」。
「いやあああぁぁぁっ!!!」と絶叫して目が覚めた、ってオチだった。
泣き叫んでうなされて飛び起き、せいうちくんまで起こしてしまった。
せいうちくんにいつもそばにいてほしいこと、心底彼の出世を望んでいないと証明された出来事だった。

私は世間で言うステイタスにあまり興味がないし、自分についてのプライドが高いので、夫や子供の幸せこそ望むものの彼らの学歴や地位はさほど意味がないのだ。
「それなりの学歴や職歴をちらつかせておいて、それこそマウントだ」と言われるのかもしれないが、本当だからしょうがない。
息子がハーフニートなのも、困るは困るが「世間体が悪い」と思ったことは一度もない。

自分が自分に満足すること、自分が大切に思っている人たちが決して「私の望む通り」の幸せでなく、彼ら本人の幸せを感じていることが何よりだと思う。
人の幸せは本人しか決められないし、本当に幸せを味わえるのも本人のみ、周りは幸せそうなその人を見て満足するだけなんだから。

21年4月21日

ずっと整体院でごまかしてきたが、左ひざの痛みがあまりに強く、杖をつかずには歩けなくなったので、湿布と塗り薬もらうついでに整形外科に行ってみることにした。

「前にレントゲン撮ったのが2か月前か…症状は刻一刻変わるから」と院長先生の命でまたレントゲン。
あいかわらず骨がゴリゴリぶつかってささくれてる状態。
少し水も溜まってるらしいけど、豪快な院長先生は「抜くほどのことはない」と言ってヒアルロン酸と麻酔薬の注射で終わり。
確かに少し楽になった。

しかしそこで看護師さんにがっちりつかまってしまった。
「うさこさん、最近リハビリにはいらしてますか?」
「いえ…先日の予約の時に具合が悪くてキャンセルさせていただいてから、ずっと足が痛かったものですから予約取りそびれて…」
「じゃあ、丁度いいから今日やっていきましょう。はい、この書類持って3階のリハビリ室に行ってください」
ううう、リハビリ嫌いだからずっと避けてきたのに…いつもの「まぶしいおにーさん」がいなくて他の人が担当してくれるらしいのだけが救いだ。

ところが待ち受けていたのは、「明るくまぶしいおにーさん」よりさらに「前向きできびしいおねーさん」だった。
痛むひざをマッサージとかで和らげてくれるかと思ったら、
「今は熱を持ってますから、さわるのはやめておきましょう。代わりに、体操のおさらいをしましょうね!」
普段さぼりまくってる足の筋肉をつける体操をしっかり形からおさらいさせられた。
ああ、本当にリハビリって嫌い…

杖の有効な使い方も教えてもらった。
左足が痛い場合は右手に持って、杖を右少し前方に出して、同時に左足を前に出す。
そして右足をあとから出すんだけど、この時、右足は杖より前に出てはいけない。
杖が後ろに滑って転倒の原因になるんだそうだ。

「でも、これじゃちょっとずつしか歩けませんよね」と聞くと、
「そうです。ペンギンみたいに、ちょこちょこ歩くんです。急いじゃいけませんよ」
ううっ、性格に合わない歩き方になる。
足が痛い時だろが杖を突いていようが大股でガンガン歩いてしまう生き方をしてきたというのに。
「早く歩こうと思っちゃいけません。確実に少しずつ前進です」
人生とは重き荷を負って行くが如し、だなぁ。

今日は痛さのあまりに飛び込みで来てしまったので、連休直前に入れた本来の予約は残っている。
「じゃあ、その時にリハビリも入れておきましょうね。熱も引いているでしょうから、左足の体操もきちんと見せてもらいます」
リハビリ地獄につかまってしまった。
毎晩地味に体操を繰り返すなんて、まったく性格に向いていない。
でもやらないと、きびしいおねーさんかまぶしいおにーさんにバレて怒られそうなんで、やるしかない。
とか言って、2、3日やるともう忘れてしまうんだけどね。

とりあえず今日の痛みが取れればそれでいい、そんな能天気な患者なんだ。

21年4月22日

先週、「あやしい絵展」を見に行った時、背中全体に大蜘蛛の刺青を入れられてる女性の絵にぐっときた。
現代日本ではタトゥーはヤクザやヤンキーなイメージが強くて温泉にも入れないきつい縛りだが、海外のスポーツ選手なんか割とカジュアルにあちこちタトゥーを入れてて、カッコいい。
でも単色(ただの黒や青)が多く、深い色合いに沈む日本の刺青文化の美しさにはうっとりするようなものがある。

もうこんな歳だし、見えないとこだったらあんまり不便なこともないだろうとせいうちくんに「タトゥー入れてみたい」と相談してみた。
太ももの内側に「せいうち命」とかだったら反対されないかと思ったんだけど、絶対ダメだって。
「痛いんだよ。血も出るし、ワーファリンのんでる人がやっていいことじゃないでしょう。そもそも人工血管や機械弁を入れてる人は感染に人一倍気を使わなきゃいけないんだよ!」

そう言われて現実に立ち返ってみると、私だって刺青師に太ももさらして痛い思いをするほどの覚悟はないかも。
そこで、気分だけでも味わってみようとAmazonさんでシールタトゥーを検索してみる。
出るわ出るわ、花柄のファンシーなものから背中一面の般若まで、みんなこんなの買うのか。

一番刺青っぽい基本の青で、龍のシールタトゥーを買ってみた。
20センチ×30センチで600円ぐらい。
届いたその日にさっそく喜んで貼ろうとしたが、え、これってどうなってんの?
薄いシールを台紙からはがしてぺたっと貼るってイメージしかなかったけど、全然台紙からはがれる雰囲気がしない。
一緒についてきた経文みたいな刺青が逆字になってるところを見ると、何らかの方法で転写するのか?

例によって中国製なのか、なんの説明書もついてなかった。
「肌に乗せて、裏からアイロンかけるんじゃない?」とせいうちくん。
ずいぶん乱暴な意見だなぁ。

困った時はGoogleさんに聞く。
「シールタトゥー 貼り方」であっさり出た。
台紙から刺青模様の部分を切り抜いて皮膚に乗せ、上から濡れティッシュで湿らせる。
そしてゆっくり台紙をずらすと、おお、肌に転写されてる、というか、見えないほど薄いシールがちゃんと身体の方に移ってきてる!

龍を腰のあたりに、経文的なものはふとももの内側につけてみた。気分気分。
シールと思えない鮮やかさで、暗い青の龍が中年の山あり谷ありしわありの肌にきちんとうねりを持って乗っているのは本物としか思えない。

服を着てしまえば見えないが、刺青を持っているって気分は案外スゴイ。
違う自分になったようだ。
しかもこのシールタトゥー、お風呂に入ってもはがれない。
てっきり薄いビニール膜がふよふよと剥がれて湯船を漂うかと思われたのに。
ボディブラシにボディーソープを泡立ててこすっても、少し薄くなる部分があるだけで、基本水泳にも温泉にも耐えそうだ。(施設側が入れてくれないだろうが)

何の役にも立たないタトゥーをしょって暮らしていて、困るのはふとももの経文だけは位置が悪く、整体院で短パンに着替えて整体師さんに電極付けてもらう時ちらっと見えてしまう心配。
思いのほか長持ちするのでいつか見えてしまうと思い、経文だけはさっさとはがした。
これもGoogleさんに教えてもらったことで、セロテープを貼って剥がすと簡単に取れるのだった。

まだ龍をつけている私だが、面白いので次はバラの花模様を買ってみた。
そのうち胸の上の方にでもつけよう。
背中一面の大きな奴をつけてみたい気もするんだが、はたと思い至る。
つけるにしても剥がすにしても、人手を要するじゃないか。
しかも背中一面となると2千円は下らない。
小物遊びとは言えないお値段になってくる。

こういう遊びを一緒にできる相手がいてよかったなぁ、としみじみ幸運をかみしめる。
女友達とキャッキャ言って貼り合って、内風呂のある温泉旅館で「姐さんごっこをする」ってのもいいなぁ。

一番悲しかったこと。
腹肉の段になったあたりに龍の一部がかかって、汗と肌の重なりでそこだけ取れてきてしまった。
段腹の悲哀を十分に味わってしまった。
やっぱり次はまったいらなとこに貼ろう。

21年4月23日

娘の暮らす施設から、制限付きでの面会が可能になったと連絡が来ていた。
人数は2人まで、時間は15分、マスクとフェイスシールドをつけての面会になると。
5月の初旬に30歳の誕生日を迎える彼女なので、連休の終わりごろに面会をお願いし、その特別な日をお祝いしようと思っていた。
20歳まで生きられたのも奇跡だと思っていた娘が、なんと30歳になるのだ!
フェイスシールドやプレゼントを買って、楽しみにしていた。
しかし、緊急事態宣言が出たのでまた面会は禁止になってしまった。
がっくりとうなだれている。

生まれた時に仮死状態で、重度の障害を持つだろうと予測されていた彼女は、やはり首が座ることも起き上がることもしゃべることもなく成長した。
現在は身長120センチほど、体重20数キロ、背骨の湾曲で身体はゆがみ、手足は拘縮して曲がったまま伸びない。
喜怒哀楽の表情と時折の「うー」「あうー」といった発語で周りを和ませてくれる。
重度の身体障碍児であったこと、私の具合も悪かったことから専門の施設に預かってもらうことになった。
途中で腸閉塞を起こして入院したりしながらも、なんとか元気に暮らしていた。
その後も、第二子の息子が生まれた際にせいうちくんが1年間の介護休暇を取ってくれて娘の訓練施設に通った時期などは一緒に暮らしたが、だんだん医療的処置も増えてきて、施設から障碍児学級に通うようになった。
車で1時間ぐらいかかる施設に毎週迎えに行き、週末は外泊をして、日曜夜にまた施設にお願いするという日々が続いた。

そんな生活が大きく変わったのは娘が障碍児のための高校を卒業して病棟内で穏やかに暮らすようになっていた20歳の頃だった。
その頃には家から車で30分ぐらいの成人用の施設に移っていて、外泊も時々はできていた。
突然の腸捻転を起こし(不謹慎だが、ギャグマンガ以外でこの病名を聞くとは思わなかった)、腸のねじれを取るための開腹手術をした。
その過程でどうしようもなくて、人工肛門を余儀なくされた。
続く不調で胃ろうを建設し、それでも内容物が逆流するので小腸の入り口に「腸ろう」を建設した。
小腸の入り口から栄養液を入れ、小腸の出口で人工肛門から出す。
人間にとって一番大切なのは実は小腸で、小腸さえ無事なら生存は可能。
だが小腸は免疫をつかさどる部分でもあり、もしそこが駄目になったら長くは生きられない、と説明された。
幸いその後大きな病変はなく、娘は続く10年間を無事に生き延びている。
しかし、身体中チューブだらけになって医療的なケアが欠かせなくなっていたので、外泊はもう無理になってしまった。

おととし、我々が年越しクルーズに行く時、娘にも早めの年始の挨拶をしに行った。
もちろん帰ってきたらまたすぐ会いに来るつもりだったが、あいにく病棟内でインフルエンザが流行し、外部からの出入りは禁止になってしまった。
冬時にはよくあることなので病棟閉鎖が解けたら会いに行こうね、と話していたところにコロナ騒ぎが始まった。
もちろん病棟は完全立ち入り禁止。
何か月かは会えないなぁと思っている間に、なんと1年半が経ってしまった。

その間も病棟とは密に連絡を取っていたし、タブレットやスマホを使ったZOOMなどで顔を見られないか、とお願いしてみたこともあったが、そうできない人もいるので特別にというわけにはいかないと優しく諭された。
せいうちくんは最後に会った時家族4人で撮った写真を会社のデスクの上に飾っている。
コロナ前に息子のカノジョが一緒に会いに来てくれたのも嬉しかった。
障碍者を家族に持つかもしれないことに、少しもためらいがないようだった。
別れ際、「お姉さん、お元気で」と小さくささやいてくれたカノジョに、とても感謝している。

この先、娘に会えるのがいつになるのかわからないが、彼女らは堅牢な城壁の中で安全に、心地良く守られている。
コロナと直接対決する医療部隊とはまた別に、高齢者用施設、障碍者施設などで地道でたゆみない努力が続けられている。
多くの人の努力と献身に感謝し、1日も早く医療従事者の方々にもゆっくり休んでいただきたい。

21年4月24日

恒例のZOOM飲み会。
昨夜は萩尾望都の書いた「一度きりの大泉の話」でもちきり。
とはいうものの、実際に読んだ人は7人中4人しかいない。
Gくんはネットの感想や噂はしこたま仕入れたが、だからなんだ?って雰囲気で、長老はそんな少女漫画界のややこしいスキャンダルを知りたがるようなタマではない。
「大泉と言えば山上たつひこ先生だ」ととりわけ下品なコマをあげてきたりする。

マンガを山ほど詰め込んだ別宅を同じマンション内に持っているSくんんは興味を持つかと思ったら、
「まわりで読んだ人が全員落ち込んだりうつになったりしててて倒れているので、読まない」との明確な返答。
いっそのこと、読んで感想が語りたい4人を別ルームに閉じ込めてもらいたいぐらいの温度差であった。
「少女マンガ研究家」のHくんは出るなりKindleで買って読んだそうだ。
さすがにいろんな事情に詳しい。
マンガとミステリの好きな会社員兼ソムリエのUくんはまだ読んでいないが興味はあるという。

もっとこの話題をいろんな人と話したいな。

21年4月25日

誰かわかり合える人とこの本の話をもっとしたくて、マンガ読みの友人に「少年の名はジルベール」と「一度きりの大泉の話」をAmazonから送りつけてしまった。
今年の分の誕プレとクリスマスを全部コミにしての贈りもの。
非常に喜んでもらえた。

彼女は萩尾望都のために悲しんで鬱になるというよりはなんだか事態(竹宮&増山?)に怒っており、このへんが20歳の年齢差なのかなと思う。
年を取ったファンたちは感情移入しすぎてしまって、あちこちで死屍累々と言った有様なので、若い彼女の「妬まれ、いじめられてしまったのですね」って感想がかえって新鮮。

結局、編集者山本さんの言った「一つ屋根の下に作家が2人いるなんて聞いたこともないよ。とんでもない話だ」という意見と、木原敏江が「あなたね、個性のある創作家が2人で同じ家に住むなんて、考えられない。そんなことは絶対だめよ」ときっぱり言ったのが当たっていたのか、すべてを見通していたのか。
そのうえ、表現者2人は芸術家タイプと政治家タイプだったわけで、うまくいくわけがない気がする。

20代の時から50年間、ずっと「離れていよう」と考え、行動してきた萩尾望都はすごすぎる。
しかも同業者、同じ業界内で、始終顔を合わせたり互いの話を聞いたりしただろうに。
その萩尾望都に窮余の反撃をさせた竹宮恵子、愚かなり。

偉大な表現者と美少年マンガの先駆者の確執という要素を取り除いて考えると、とっても普通に「女の子たちの諍い」なんだよね。
今でもコミケ界隈でよく起こってるんじゃないかなぁ、「〇〇くんが受けって、ありえないでしょ。そんなの描かないで。本質を分かってない人に描かれると嫌でざわざわする」とか。
もともとは萩尾望都と仲の良かった増山のりえを連れて2人で言いに行く竹宮恵子が小憎らしい。
自分が小学校の頃、大好きな女の子からそういう「味方を横に置いて自分の利益を主張される」目にあったせいか、トラウマが深い。

尋常でないのはその後の萩尾望都の孤独と強さ、そしてそれらの底流にある自己肯定感の低さなのだと思う。
なぜ今、少女漫画界の過去の黄金期を二分するような大告発をしてしまったのか、ちょっとわからない。
そうせざるを得なくなった理由(竹宮恵子が「少年の名はジルベール」を出してから、「大泉サロン」や「24年組」にスポットが当たり、対談やテレビ出演、果てはドラマ化の話まで来るようになったそうだ。周り中の人に「私は関係ありません」と宣言するには萩尾望都も本を出すしかなかった)はきちんと書いてあり、納得もできるんだが、本来萩尾望都なら墓場まで持って行きそうだ。
実際持って行きかけていたのに。

で、その寡黙な天才が最後には言葉で身を守ざるを得なくなったのが不条理に思える。
いかにも不器用で気の毒で。
私たちの年代の元・マンガ少女にとっては彼女はやはり「神」なので、現実的でちゃっかりした竹宮恵子などに乗せられないでほしかった。
竹宮・増山をはじめまわりの人たちを最大限気遣いながらも事実を言葉で説明する羽目に陥った萩尾望都は、「人間」に堕してしまった。
「神は死んだ」とうめきたくなる。

1977年に「十年目の鞠絵」を描いた時こそ、彼女がすべてを永久凍土に埋めて鎮魂歌をささげた瞬間ではないだろうか。
日本を舞台にして大人が登場するマンガは、これ以前にはほとんど見受けられない。
「3人組が怖くなって『妖精狩り』の先が書けなくなった」萩尾望都が、絵を描く3人の男女の三角関係を、「なぜあの頃のままでいられなかったのか」と嘆いている。
最後のページのまぶしい円環にとりまかれた3人の姿と、

「あらゆる可能性
 あらゆる奇跡
 手をにぎり合い
 完全な縁を構成していた
 そしてその円は
 外宇宙へ向かって
 無限に広がっていた」

というモノローグが美しすぎ、悲しすぎる。
これからも素晴らしい作品を書き続けてほしいと願うばかりだ。

21年4月26日

息子から企画の手伝いを頼まれた。
Twitterで毎週発表される広告宣伝とタイアップした記事を作るための企画に彼は時々参加しているのだ。
ノーギャラで、むしろ持ち出しが多いというこの仕事をせいうちくんは苦々しく思っているが、私はどんなことでも我々にわからない「その道」で名前や顔を売ってつながりを作ることになると、賛成している。

今回の企画では「道徳の質問に息子が答え、それを母親である私が採点・コメントするもの」だった。
頼まれた翌日には誰かが直接届けたのだろう、ポストに回答済み用紙の入った封筒が投入されていた。
「コメントの仕方など、相談させて。どういう体裁を求めているのかよくわからないから」とメッセージを送ると、
「明日、午前中に演劇学校の授業があって、午後はリモートの授業だからそっちの家に行って授業受けさせてもらっていいかな。そのあと、話しながら作業しよう」との提案に、OKを出しておく。
息子に会えるのはいつでも嬉しい。

約束通り一報入れてから14時前にやってきた彼は、あいさつのハグもそこそこにあわただしく寝室にノートPCをセットしてイヤホンで授業を聞き始める。
せいうちくんがリビング部分で仕事をしてるから仕方ない。
私はベッドに寝ころんで本を読んでいた。
休憩をはさんで授業を終わると、「楽しいよ!すごく身になる!」と嬉しそう。
お金を払って通ったりリモート授業を受けたりするだけのことはありそうだ。

そして作業に入る。
「いい企画になりそうなんだ」と言って、「道徳の質問に対する彼の答え」8項目を3点から1点で採点し、赤でコメントを入れてくれと言う。
あらかじめコピーを取っておいたので、まずはそれに鉛筆で思うところを書き込む。
息子に見せたら「うん、うん、これでいいよ」とのことなので、本原稿に赤ボールペンで同じことを記入。

たとえば「かぞくのために どんなことができるか まとめましょう」との設問には息子があまり上手くない字で、「例えば家族で食卓を囲み、食事が終わる時、率先して食器を流しに運ぶ」とあるので、
「そう言いながら、さっき飲んだコーヒーカップは下げてないし、こないだ食事した時も下げてくれませんでしたね。あと、ついでに洗ってくれるともっと助かります」とコメントする。
こういうのが8問。
中には「やさしいひとに なるには どうしたらいいか かんがえましょう」なんて難しいものもある。
どういう形で発表されるんだろう。
採点してるとことか答案の受け渡ししてるところか何枚か写真を撮られた。
Twitter界に顔晒し。大丈夫なんだろうか。ドキドキだけどワクワク。

晩ごはんを食べていくかと思ったが、お風呂だけ大急ぎで入ったと思うと、「この原稿を届けて作業しなきゃいけないから」と名残り惜しそうにすぐに帰って行った。
連休中にまた遊びに来るそうだ。
その時は泊りがけで来てくれるから、夕食にはせいうちくん作の水餃子をたくさん食べて、翌日の昼食は近所のうなぎ屋の座敷で食べよう。
緊急事態宣言中で酒類の提供ができないらしいが、うちは誰も飲まなくても平気でうな重食べられる人種なので、大丈夫。

新しい仕事も少しずつ始まり、来月は半月分の給料がもらえるから暮らせるし、その次の月は満額出るから全然大丈夫、心配いらない、と請け合ってくれた。
カノジョも元気に働いているって。

昨日出演した「NY帰りのパフォーマーたちの集まり」でもインプロコントは好評だったようで、なるほど、NYで修業しましたって看板はこういうところで使うのか、と妙に感心した。
「また勉強に行きたいなぁ。今度は観光ビザじゃなくて学生ビザ取って、バイトしながら少し長くいられたらいいんだけど」と未来の計画を語る。
コロナが明けないとかなわない夢だ。
本当に今、若い人たちは苦労をしていると思う。涙が出る。
せめて国内でできる勉強はして、準備をしておきたまえ。

21年4月27日

ここ半年ぐらいせいうちくんが苦労していた案件がやっと終わった。
仕事としての忙しさから言えば、会社員生活30年余の中で3本の指に入るほどのものだった。
6年ほど前、一番忙しかった時は週に何度も出張し、帰るとほぼ徹夜で報告書類をまとめていた。
あまりに作業がたいへんなのでBGMに「宇宙戦艦ヤマト」をかけていたが、それだけでは足りなくなり、PCの画面の片隅でアニメ版をずっと流していた。
3周りぐらい見ただろうか。
「ガンダムも見てみたが、やはり燃えるのはヤマト」なのだそうだった。

今回はそこまでひどくはないが、単純作業というよりせいうちくんが苦手とする人間関係の調整が多かったので、消耗はひどかったように思う。
平日の21時や22時に会議がばんばん入る。
決起集会のようなノリになったり、大のおっさんたちが少年のように「悪の秘密結社と戦う」、浦沢直樹の「21世紀少年」で草原の秘密基地で「よげんのしょ」を一生懸命作っているような様相を呈していた。
日本の会社って今でもこういう文化なんだろうか。

ぐったりしたせいうちくんは、
「少なくともGWはなんにもしない。ごろごろする。身体と精神が疲れて気持ちが悪い」と肩で息をしていた。
私もテレワークで横にいるせいか緊張が激しく、またせいうちくんが普段と顔つきも挙措も変わるほどテンパっていたので、居心地悪いことこの上なかった。
終わって2人、まず1時間ぐらい深い深い何も考えない眠りに落ちたぐらいだ。

まだそのテンションと緊張は続いているが、あと1日働けばGWがやってくる。
緊急事態宣言下で何もできない連休だが、たまった録画を消化するとか過去の名作を見るとか、気になっていた長編マンガをガーっと読むとか、やりたいことはいろいろある。
楽しみだ。
きっとほとんどぐだぐだに寝ているだろうが。

21年4月28日

ここのところコンパニオンのバイトや企画の頼み事で出入りの多かった息子だが、GWには落ち着いて遊びに来るそうだ。
ただ、全日リモート授業になってしまったので、自宅でやって終わってから夕方向かうのと、それとも朝からこちらに来てリモート授業受けるのと、どちらが都合いい?と問い合わせがあった。
一も二もなく我が家でリモート授業受けてくれ派を表明するせいうちくんと私。
あいにく息子が来てしばらくしたら2人とも歯医者に行かねばならないし、晩ごはんの水餃子の材料も買ってこなくてはならない。
2時間ぐらい留守をするが、まあ息子は勝手にリモート授業受けてるだろう。

9時半には来るそうだから(最近、感心なことにパンクチュアルなのだ)朝ごはんに残り物のビーフシチューを温めてバゲットを焼いてあげよう、昼ごはんは予定になかったけどいつものカレー屋のテイクアウトにしよう、夜はせいうちくんが腕を振るった水餃子たくさん、そして明日の昼にはうなぎ屋の2階の座敷が予約してある。
うーん、我々って息子にずいぶん親切だなぁ。

最近は続けてコントライブに出演し、演劇学校に行き始めた成果かインプロコントがスムーズにできるようになってきたらしい。
よかった。
何より本人が満足して楽しげなのがいい。
彼はすごく顔に出るので、表情が輝いて目が明るい時はたいてい大丈夫なんだ。

Twitterに息子が参加している企画が載っていた。
先日採点を頼まれたやつだ。
小学校1年生の「道徳Ⅰ」と小学校6年生の「道徳Ⅱ」を比較する、というものだった。
答案を受け取る私や採点する私の写真も出てしまった。Twitterに顔を晒しちゃったよ。

「道徳的な考え方や価値観において、絶対的な評価基準はもちろん存在しない。人の数だけ正解はあり、その多様な正解と向き合って理解し合うことも、また一つの道徳なのだろう。しかし、そんな中でも評定を下すとしたら、その役割は誰がおこなえるのか。彼の道徳心が育まれるうえでの地盤となった人。大人になった彼の考えを、今になっても諫められる人」として母親の私が採点を行う。
わかってるくせに「採点者はお母さんです」と言われ、「え、オカン!」?」とびっくりした息子の写真を載せるところがあざとい。
「まじで採点してもらったんだな。母親からの採点結果って、変な緊張感あるぞこれ」って、キミが持って帰ったんじゃないか。
これが制作というものか。

たとえば「がいこくの ひとと なかよくするために たいせつな ことを まとめましょう」という小学校1年向けの「道徳Ⅰ」の問題に、
「相手の目をしっかりと見る。厳しいお国柄、裕福な国。世界にはたくさんの国があり、彼ら外国人はそれぞれ異なったアイデンティティを持っていることを理解したうえで、相手の目からそれを感じる努力を惜しまない」って、回答が堅苦しすぎる気がする。

採点 [2点] 恋におちないていどにしっかり見ましょう。

と書いたら、息子から「オカンの悪いところ出てるわ。調子乗りのオカンの部分出てるって。『恋に落ちない程度にね☆』じゃないんだよ」とブーイング。

「どんな ひとの こころがうつくしいと おもいますか。かんがえて まとめましょう」との設問には、
「僕は生まれて間もない子供こそが最も心の美しい人だと考えている。どんなアクションに対しても心の赴くままに反応する。対して大人は何かアクションを受け取る際、勝手に作り上げたフィルターを通して、ひねくれた反応を返すことが多いように感じる。皆、童心を取り戻すべきだ」との回答には、

採点 [2点] 生まれたてが無垢で美しいのは当然です。そこからさらに磨きをかけて美しい心を作りましょう。

とコメントした。すると、
息子「これは…なるほどなぁ。赤ん坊が一番美しいって答えたけど、人の成長とか可能性を無意識に放棄してたよ。振り返ると確かにあんま良い回答じゃないな」
企画主「お母様が一枚上手でしたね」
息子「人一人育て上げた度量を感じるわ。さすがです」
お、今度はおほめいただいた。

こんな調子で息子と楽しい回答と採点のやり取りをした。
最後には、
「…やっぱり、これまで金銭的にもすごく迷惑かけてきたけど。定職にもつかないで、野垂れ死ぬ可能性の方が高いんだけどさ、こんな歳になっても、好き勝手やってる俺のことを親は応援してくれてるんだよな」
いやいや、キミ、これは企画だから。
もちろん応援してるけど、もっと頑張ってもらいたいよ、本当に。

ちなみに息子の小学校1年向け「道徳Ⅰ」の点数は24点満点中19点、小学校6年向け「道徳Ⅱ」が24点満点中22点。
オトナに近づくにつれて点数が上がっているのか?
採点したのに、まったく自信がない。
回答した息子はもっと自信がないだろう。
それでも我々は自らの道徳性を上げるために、日々努力しなければならないのだ。
面白い企画に参加させてくれてありがとう。

21年4月29日

うんと朝寝しようと張り切っていたせいうちくん、10時半に起きちゃうなんていつもの週末より早いじゃないか。
たっぷり時間があると思うと鷹揚になってさほどがつがつ寝ないものなのかな。
でも小雨も降っててすることないから、ブランチ食べてもう1度寝てみる。

今度は15時頃起きた。
「もっと寝たら?」と言ってみたが、
「さすがにこれ以上寝るとお休みが溶けてしまう。テレビでも見よう」とたまった録画の山に向かう。
2人とも大好きな中村倫也が主演だから録っといたけどあんまり期待してなかった「珈琲いかがでしょう?」が、思いのほか面白かった。
ますますファンになる。
まだ読んでない原作のマンガも読んでみよう。
「凪のお暇」の方が有名なんじゃないかと思うコナリミサト。
絵柄はそう好きじゃないが、あの妙な毒は捨て難い。

録画してあった4本を見る間にせいうちくんのお母さんから電話がかかってきて、行きがかり上、妹さんに電話しなくちゃならなくなり、なんだか盛大にもめていた。
仲の悪い家族だなぁと感心する一方、あんなに非難し合えても家族なんだ、と不思議な気分。
我が家はもっと風通しが悪く、母や姉とケンカなどしようものなら1週間はじと~っとした空気が漂っていた。
私自身、母として息子ともめた日は気が重く、反抗期に怒鳴られたりしようものなら夜中にしくしく泣いていた。
「家族は良くも悪くも離れられない」という現実がまったくしみ込んでいない気がする。
そう考えると、あれはあれで実は仲がいいのか、せいうち家?

21年4月30日

息子が来るのが嬉しくて、3時に寝たのに6時に起きてしまった。
彼が来るのは9時半過ぎだというのに。

昨夜、奥歯の詰め物が取れるというアクシデントが起こり、朝一番で歯医者に電話して9時半の枠をゲットする。
せいうちくんも実は朝から歯医者。彼の予約は10時。
家から徒歩30秒ほどの歯科医に行くと、すぐに診てもらえた。
確かに詰め物が取れているが、連休に入るので今日型を取ることはできないそうだ。
仮詰をしてもらい、ガムやキャラメル、飴などのねばねばしたものを食べないように注意される。取れちゃうから。
虫歯も少し進んでいるので、連休が終わったら少し削ってきちんと型を取り、かぶせ物を作りましょうとのこと。
ちなみに「とれたかぶせ物は?」と聞かれたが、どっか行っちゃったんだよねぇ。
たぶん、おせんべと一緒に胃袋の中に消えた。

15分で治療を終わり、帰ってきたら息子がもう来ており、せいうちくんが朝ごはんのビーフシチューとバゲットを出してくれていた。
10時から演劇学校のリモート授業が始まるらしい。
今日はせいうちくんも仕事する予定はないので、PC前を明け渡し、息子はそこに持参のノートPCを開いて授業を受け始めた。
昼休みを1時間はさんで、17時過ぎまで続くらしい。
我々は寝室で昼寝でもしていよう。

せいうちくんも歯医者に出かけ、30分ほどで帰ってきた。
やはり少し虫歯になっているところがあるのと、全体に歯槽膿漏が進んでいるのでその治療を続けていきましょうって言われたみたい。
なんといっても近いのがいいね。

リモート授業を受けている息子を残して買い物に行き、夜の水餃子の材料を買ってくる。
そのあとせいうちくんは注文してあったテイクアウトのカレーを引き取りに行き、息子の昼休みを待って一緒にごはん。
あれっ、さっきやってもらったばかりの歯の詰め物が取れてしまった!
「ごはんぐらいでは取れない」と言っていたのに、食べてたの、カレーライスだぞ。
すぐに電話を入れ、午後の予約をまた入れる。

4時半に行ってみると、歯医者さんはひどく恐縮しながらもういっぺん詰め物をしてくれた。
こんどは虫歯の治療に使うレジンかなんかを入れてみたらしい。
「これで取れないと思います」
そう願いたい。これからGWに突入するんだ。

帰ったら息子はまだ授業中。
朝の10時から昼休みをはさんで8時間以上受け続けている。
英語の授業もあるので、時々、
「Do it!You can do it!Why not?!Just do it!」などと叫んでいるのは軍事教練か、はたまたあやしい宗教か。
また授業は続いているが、終わったら一緒に映画でも観よう。
今日の候補は「星の王子ニューヨークへ行く」とNetflix特製のその続編だ。

息子がふとつぶやく。
「こないだ初めて気がついたんだけど、オレがコメディやりたいって思ったの、小さい頃から母さんが具合が悪くて寝てたでしょ。人を元気づけたい、って思ったのが始まりかもしれない」
重荷を負わせてしまったのなら気の毒だが、人生にはいろんなきっかけや動機がある。
今、コントやってて幸せなら、それでいいよ。
早く授業終わんないなかぁ。
おまけに22時からはコントグループの配信だって。
意外と遊ぶ時間ないじゃん、ぶーぶー。

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